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  • from: 庵主さん

    2010年09月22日 19時50分50秒

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    戦国武将と茶の湯「信長」最終回

    「信長篇」今回最終回を迎え、さしあたり現存する、信長ゆかりの名物をご紹介しましょう。
    http://bit.ly/b6r2tO

    天正十年六月一日早暁、戦国一の栄華を誇った武将織田信長は本能寺にてあえなく散ります。またこの日、主とともにこれまた天下一、希代の名物道具の多くが灰燼と帰しました。

    本能寺の変の真相については諸説入り乱れ、時代小説家の格好の歴史ネタとなっています。しかし信長が本能寺に出向いた本当の理由は、茶会を催すためでした。安土城から運ばせた三十八種もの名物茶道具を披露する会。招かれたのは、関白藤原内基、太政大臣近衛前久以下、帝を除く堂上公卿数十人。まさに宮廷がこの日そっくりそのまま、本能寺に引っ越したかの様相です。
    果たしてその場で信長は何を企んでいたのか。それは、今となっては永遠に歴史の闇の中。


    ■本能寺の変と大茶会

    天正十年五月晦日、信長は近臣七十余名とともに上洛し、四条西洞院の本能寺に止宿する。
    『楠長諳覚書(仙茶集)』によると、この時安土城に秘蔵していた三十八種の茶道具を本能寺まで運ばせ、六月一日から本能寺で、名物拓きの大茶会を催す予定であったという。

    ◎本能寺茶会披露予定の茶道具
    作物茄子・珠光小茄子・円座肩衝・勢高肩衝・万歳大海・紹鴎白天目・犬山灰被天目・松本茶碗・宗無茶碗・珠光茶碗・高麗茶碗・数の台二つ・堆朱竜の台・趙昌筆菓子の絵・古木の絵・小玉澗の絵・牧渓筆くわいの絵・牧渓筆ぬれ烏・千鳥の香炉・二銘の茶杓・珠徳の浅茅茶杓・相良高麗火箸・同鉄火箸・開山五徳の蓋置・火屋香炉・宗及炭斗・貨狄の花入・蕪なしの花入・玉泉所蔵筒

    瓶青磁の花入・切桶水指・同かへり花・締切水指・柑子口柄杓立・天下一合子水翻・藍香合・立布袋香合・宮王釜・田口釜

     明けて一日、茶会が催されたことは山科家『言経(ときつね)卿記』にあるが、その詳細は伝わっていない。
     ともあれ翌早暁、明智光秀による本能寺の変が起こる。『宗湛由緒書』によると博多の富商神谷宗湛は島井宗室と同道し本能寺にて信長に謁見したが、変が勃発するや本能寺書院床の間の軸物をとっさに外して持ち出した、とある。宗湛は「遠浦帰帆の図」あるいは「古木の絵」、宗室は『島井家由緒書』によると弘法大師真蹟千字文の軸をそれぞれ抱え、命からがら脱出したという。
    また、前述『言経卿記』には、この日の本能寺への来客を以下のように記録している。

    関白    藤原内基
    太政大臣   近衛前久
    左大臣    藤原内基(兼)
    右大臣    近衛信基
    内大臣    近衛信基(兼)
    前関白    九条兼孝
    前内大臣   二条昭実

    鷹司信房、聖護院道澄、今出川晴季、徳大寺公維、飛鳥井雅教、庭田重保、四辻公遠、甘露寺経元、西園寺実益、三条西公国、久我季通、高倉永相、水無瀬兼成、持明院基孝、予(言経)、庭田黄門、勧修寺晴豊、正親町季秀、中山親綱、烏丸光宣、広橋兼勝、東坊城盛長、五辻為仲、竹内長治、花山院家雅、万里小路充房、冷泉為満、西洞院時通、四条隆昌、中山慶親、土御門久脩、六条有親、飛鳥井雅継、中御門宣光、唐橋在通

     上に加えて、博多の商人で茶人でもある島井宗室。
     すなわち、宮廷における皇族を除いた関白以下、前職まで一人残らず揃っている。その他にも五摂家(ごせっけ:摂政(せっしょう)・関白に任ぜられる家柄。近衛・九条・二条・一条・鷹司(たかつかさ)の五つの家)を筆頭にほぼ全員の堂上公卿(昇殿を許された四位以上の公卿)が訪ねているのだ。宮廷がそっくり本能寺に移動したようなものであり、これだけのメンバーが、ただ単に茶を喫して帰ったとはとうてい信じられるものではない。
     この日、信長と朝廷の間でのっぴきならない重大事由の討議がなされた、と考えるほうが自然である。『日々記』の作者、勧修寺晴豊も当然このメンバーに入っている。
     島井宗室が招かれているのは、信長の目がすでに九州進出に向いており、九州大名の大友宗麟と親しい関係であった宗室を味方にひきいれる下工作であったと推測される。
    ちなみにこの時、信長の茶頭役であった堺衆の津田宗及や千利休は、堺で徳川家康接待の茶席を催しており、この茶会には出ていない。

     信長と公家達との間に関係の変化が見られてくるのは、天正九年頃からのようである。誠仁(さねひと)親王への譲位問題と暦の制定が本能寺の変当時の信長と朝廷との懸案事項であった。
    朝廷を利用しながら武力を持って権力を誇示する信長に対して、公家達はかなりの危機感を抱いていたのは事実だ。信長を亡き者にしたいとの思いは公卿側には十分にあったであろう。しかし歴史の真実は本能寺、信長その人、幾多の名物道具とともに灰燼と帰した。本能寺の変後、七年目に成立した『山上宗二記』では、以下の道具が焼失したとある。

    ◎本能寺の変で焼失したとされる茶道具
    松嶋の壺・松本茶碗・引拙茶碗・菱実盆香合・趙昌筆菓子の絵双幅・古木の絵・岸の絵(玉澗筆)・小玉澗の絵・蕪なしの花入・貨狄の花入・勢高肩衝・万歳大海・作物茄子・珠光小茄子・平釜・柑子口柄杓立・相良高麗火箸



    ※日を改めて、「戦国武将と茶の湯」シリーズを秀吉他の武将にて引き続きご紹介していく予定です。

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