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  • from: 庵主さん

    2011年01月07日 11時58分01秒

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    戦国武将と茶の湯「松永久秀」第四回

    大名物「つくも茄子」を所持したことで有名な戦国きっての数奇者、松永久秀。武野紹鴎をはじめ、北向道陳、今井宗久、津田宗達等、堺の有力茶人たちと多くの茶会を開き、親交を深めていました。久秀の茶とは、一体どのようなものであったのでしょうか。


    ■松永久秀と茶の湯

    永禄年間における久秀の人的交流に目を向けると、奈良や堺の一流茶人との交際が目立つ。久秀は当代一流の数奇者としても知られており、『天王寺屋会記』『松屋会記』などの茶会記に記録が残っている。

    茶の湯は、堺一の茶匠、武野紹鴎に師事したといわれる。久秀が茶の湯の席に初めて確かな記録に名を記すのは、まだ久秀が長慶とともに摂津芥川城にいた天文二十三年正月のこと。亭主は堺茶道の祖として知られる武野紹鴎、客は久秀と堺の豪商今井宗久である。宗久は紹鴎の女婿で後に信長・秀吉の茶頭を務めたほどの人物で、久秀は早い時期からこういった堺の有力者たちと交流があったことがわかる。
     当時、一流茶人として認められるためには、名物茶器を所持していることが必須条件であった。むろん久秀も数々の名器を所持していたが、中でも秘蔵中の秘蔵として特に大切にしていたのが、「つくも茄子」と呼ばれる茶入れと「平蜘蛛」茶釜である。つくも茄子は現存するが、平蜘蛛釜は久秀が信貴山城に滅んだとき自らの手で砕いたと伝えられる。

    大和侵入前の永禄元年九月、久秀は千利休の師である北向道陳や山上宗二・今井宗久といった堺の豪商で高名な茶人たちとの茶会を催しており、その際に「つくも茄子」を披露している。これは久秀が一千貫もの大金を投じて購入したと伝えられる名物茶入れで、彼の経済力が既に大名家の家老クラスをはるかにしのぐものであったことが推察される。

     大和に腰を据えた後も、数々の茶会記により、今井宗久、津田宗達、若狭屋宗可、千利休等、当代の数奇者と交流を深めていたことが読み取れる。

    ・永禄年間 久秀茶会

    永禄三年(1560)二月十六日
    堺での昼会 津田宗達
    床 牧渓「船子和尚の絵」 文琳茶入を四方盆に飾る 
    台子 平蜘蛛の釜、桶の水指、合子の水翻、柄杓立
    台天目茶碗で濃茶を点てる。後に台子の上の棚に。

    永禄六年(1563)十一月五日
    多聞城内六畳敷 朝会
    津田宗達、今井宗久、若狭屋宗可
    床 牧渓「遠寺晩鐘」 円座茄子茶入を漢東の袋に入れ四方盆に
    台子 平蜘蛛の釜、餌ふごの水指、合子の水翻、筩の柄杓立
    墨塗の台に只天目茶碗 火屋の蓋置
    濃茶のみで薄茶点てず。引き出物 吉野紙百束

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