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  • from: orimasaさん

    2008年06月25日 10時28分45秒

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    日本周遊紀行(125) 君津市・・「久留里」

    地図を見て確かめると、成る程、君津市域の湾口部は、僅か3km程度しかないの近距離の幅である。 そして、湾口部にはあの「新日鉄君津」の事業所が大部分・・?、否、100%占めているのである。 その為でもあろう・・、現在の人口的市街地は、JR君津駅周辺とした湾岸部に集中している。
    だが、市全体の範囲は房総内陸の山間域が大部分をしめ、それらは鹿野山や亀山周辺の三島湖の行楽地、歴史の町である「久留里」辺りが市の主要部分と言ってもよさそうである。

    その君津市久留里地区は房総半島の中心に位置し、その一昔前までは太平洋岸の勝浦、小湊、鴨川地区と武蔵、江戸地区を結ぶ交通の要衝であった。
    そして既に、平安末期の頃から城が築かれ、房総の代表的な城下町で里見家、黒田家等の武将の居城として名を馳せた歴史ある地区で、今もその面影が色濃く残っている。 

    久留里の地名は戦国期から見られるという。
    16世紀半ば、戦国大名として名を馳せた里見氏は、ほぼ房総全域を拠点としていた。 
    戦国期、相模小田原の北条氏(後北条)の勢力が房総に及ぶと、里見氏は久留里城を最前線として北条氏と対峙する。 だが中央より勢力を伸ばしつつある豊臣秀吉の北条氏攻め(小田原の役)への参戦指令で遅参したため、上総全域および下総南部が里見氏から没収され徳川家康に与えられた。
    安房一国に縮小安堵された里見氏であるが、次に「久留里」は、徳川氏の最前線として、その里見氏と対峙することになる。
    慶長19年(1614年)、大久保忠隣失脚に連座した里見忠義が安房一国を没収されて伯耆倉吉に転封となったために、久留里城の「最前線」としての役目は失われた。
    江戸中期には、衰退していた久留里は黒田直純が上野沼田から入封して再び久留里藩が立藩され、次いで久留里城も再建された。
    以後久留里は、黒田氏の支配の下、明治4年(1871年)7月の廃藩置県まで存続していたが・・。


    「久留里城」は、「雨城」・「霧降城」という別名があり、水の豊富な城として知られていた。久留里城下は清澄山系に降る大量の雨を背景に豊富な地下水に恵まれ、江戸時代末期から明治初期にかけてこの地域で改良が加えられた井戸掘りの工法である「上総掘り」によって掘られた“掘り抜き井戸”が多く分布し、この水を利用した酒造業も盛んであった。
    近年はこの水を観光資源として、「名水の里」であることが宣伝されているとか・・。
    この掘り抜きの工法は、深さ数百メートルの井戸を掘る技術で、現在でも存在しているという。

    <font size="2" color="#0000FF">「上総掘り」について・・、

    千葉・房総に、その「上総掘り」の起源があるといわれる。
    房総の地域は、地形的に低山・丘陵地が広がり、古来より慢性的な水不足が生じ、灌漑用水の供給には難があったとされる。 このため農民の水田作りに対する強い願いは、地下からの自然湧水を得ることから始まり、この掘削技術の開発、普及に役立ったという。 
    「上総掘り」は明治時代にこの地域に伝わっていた井戸掘りの技術を、更に発展させてできた掘り方で、克って、新潟地方の油田掘削にはこの方法を用いたという・・。
    人力のみで500m以上の掘削が可能である事から開発途上国への技術指導が行われているという。

    工法は、径5〜15cmの鉄管が、深さ150〜500mの穴が地中に向かって掘られる。
    まず足場のやぐらを組み、上部に竹の「はねぎ」を取り付けて、そのはねぎの弾力を利用して長さ約7メートル、重さ約30キログラムの鉄管を上下させて鉄管の重量を地底に打ち付け、地層を砕き削りながら穴を掘り進む工法である。 
    現在でも人力による掘削法として使用されている・・。
    上総掘りの用具は重要有形民俗文化財に、上総掘りの技術は重要無形民俗文化財にそれぞれ指定されている。


    木更津・・、
    狭い湾岸の君津はあっという間に過ぎてしまう・・、そして、直ぐに「木更津」である。

    戦国期、徳川家康が戦乱を平定した1614年の大阪の陣に、木更津の水夫は水軍として参加し、大きな働きをしたという。 そして戦後、家康は江戸(東京)に都を移し、戦に功績の有った木更津衆を報奨として、東京湾での海上輸送の特権を与えたといわれる。
    木更津は江戸と潮来方面からくる船の関所として、大きな権力を持ち物資の集散地として大いに栄えた。
    江戸湾を往来する、木更津船を「五大力船」(ごだいりきぶね)と称していた。 江戸を中心に、関東周辺の海運に活躍した50〜500石積級の小廻(こまわ)しの廻船である。

    木更津については更に次回、チョット詳しく述べることにする。      

    「木更津甚句」 千葉県民謡
    アア木更津照るとも         船は千来る
    お江戸は曇れ            万来るなかで    
    かわいお方がヤッサイモッサイ    わしの待つ船
    ヤレコリャ ドッコイ        まだ見えぬ
    コリャ コーリャ          (囃子は繰返し)
    日にやけ

    と船乗衆が唄ったのであろう・・、「ヤッサイモッサイ」とは、「そこのけ そこのけ」という意味らしい・・。


    次回は、 「木更津、袖ヶ浦」 

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