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  • from: orimasaさん

    2008年06月23日 09時54分57秒

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    日本周遊紀行(123) 館山・・Ⅱ「里見氏の盛衰」

    里見氏の居城であった「館山城」(模擬天主)

    日本周遊紀行(123) 館山・・Ⅱ「里見氏の盛衰」

    <font size="2" color="#0000FF">国道410から分かれて、州崎へ向かう。
    温暖な気候に恵まれてる館山も、千倉同様「花の街」である。
    相浜からは再びフラワーラインがはじまり、両サイドを季節の花で飾られたほぼ直線の道が続く。 可憐に咲く色彩鮮やかな花々に思わず見とれるほどで、この平砂浦海岸通りの途中には「館山ファミリーパーク」「南房パラダイス」「白浜フラワーパーク」と、特殊な熱帯性の花も楽しむことが出来るスポットである。

    次には、果てしなく広がる大海原、岩礁に散る白い波、荒々しくも雄大な風景の中、間もなく洲崎へ到着した。  大きくカーブする細い道へ入ると洲崎灯台が立つ。 
    対岸にある三浦半島の剱崎灯台とともに東京湾の入り口を守る。 ここは、房総半島の先端で、三浦半島の剣崎とともに東京湾・浦賀水道の入口にあたるところである。 また、内房総、外房総の境目となっているところでもある。
    灯台には入れないが、敷地内からは天気が良ければ、対岸の三浦半島が手に取る様に見え、そして、相模灘越しに富士の秀麗な姿が見事に見渡せるはず・・。
    ここは初日の出と、初富士とを同時に見ることができる絶好のポイントでもある。 しかし、今日は小雨混じりのドンヨリとした日で、望むべきもない・・。 

    子供が幼少の頃何度か訪れたことのある、館山国民休暇村を横に見る・・、その向こうは濃い大洋の蒼が広がっている・・。この大洋を時折眺めながら、ゆったりと車を進める。 内房の東京湾を眺めると、いよいよこの旅も終焉に近づいていることを実感しながら・・。
    厳しい(いかめしい)海上自衛隊の基地を過ぎると、館山市街である、何故か、館山の西口駅前の海岸に出てしまった・・。 この海岸も何ともいえない風情が漂う・・。
    JR内房線「館山駅」より館山湾を望めるこの荒井、北条地区は、「白砂青松100選」「日本の道100選」にも選ばれている美景のポイントでもあった。

    一方、やや内陸部には小山のような丘の上に城山公園があり、戦国時代の武将、里見氏の居城・「館山城」(模擬天守)が新装なって聳え立っている。 
    古城は天正6(1578)年、里見義頼が重臣に築城を命じ、その子義康が天正16(1588)年に大規模な改修を行い、天正18(1590)年に完成している。
    晴れた日には市内と館山湾が一望できる絶好のビュースポットであり、公園内には、椿、梅、桜、ツツジ等の花木が小径をうずめ、四季折々の花が咲き、桜の名所としても知られている。
    「館山」は中世の頃には、戦国武将・里見氏がこの地を統治、滝沢馬琴作の「南総里見八犬伝」の舞台にもなったところで、今でも、里見氏の史跡の数々や八犬伝のロマンが香る史跡が残っている。

    平家が滅んだ後の鎌倉期、この「館山」は執権・北条氏一族の勢力も及んで、室町時代に入っても鎌倉が関東の中心で、安房とは強いつながりをもっていた。
    そのころ、鎌倉にいた足利氏(鎌倉公方)と上杉氏(関東管領)は対立しており、足利氏は、側近の里見義実に命じて、安房から上杉氏を追い出そうとした。 義実が、安房の上杉勢力の追い出しに成功すると、やがて里見氏が安房の武士たちを従えるようになり、その後、六代義堯(よしたか)が房総半島全域に勢力を広げて、房総最大の戦国大名に成長した。

    その頃、里見氏は、最大の敵だった小田原北条氏と敵対していた。 里見家八代目当主・里見義頼の時、北条氏の勢力が上総にまで及び、家督を継いだ九代目当主・里見義康はその意思を継いで館山城を築き本城としていた。 天正十八年(1590年)の秀吉の小田原攻めの後、里見氏は安房の地を安堵される。
    江戸初期、父の死により忠義が家督を相続するが、内粉、内乱で治世は困難を極め、縁あった大久保忠隣(ただちか:相模・小田原城主、忠義は忠隣の娘を妻に娶っている)の失脚事件(大久保長安事件)にも連座したとされて改易されてしまう。 
    忠義は更に、嗣子が無いとされて大名家としての里見氏は滅亡するのである。

    失意のうちに死んだ里見忠義公に殉死した八人、彼らが、時代設定は異なるが、かの有名な「南総里見八犬伝」のモデルになった。
    現在、模擬の館山城が市街南方に立つ、その城下の「慈恩院」の境内に、九代里見義康公の墓、忠臣の墓・「八遺臣の墓」がある。


    市街地の目抜き通りにて、海産品のお土産を購入して、先へ急ぐ・・。
    富浦の街の東方に大房岬(たいぶさ みさき)が突き出ている。 千葉県はこの大房岬を自然公園の拠点とし、ビジターセンター、園地、キャンプ場、宿舎等、各施設を造った。雄大な海と奇怪な海蝕景観にも恵まれ展望台も点在している。

    またこの地は江戸末期、黒船来襲によって幕府は江戸の防衛のために、お台場として東京湾に面した台地に10基の大筒が備えられた。 しかし実際に使用された記録はないという。
     昭和初期、帝国陸軍が東京湾防衛のため大房岬を買収し、要塞化する工事に着手した。 艦砲(口径20cm)2門の砲塔が2基備えられ、1筒大隊の兵士が東京湾の防衛にあたったが、やはり実戦には参加する機会もなく、終戦を迎えたという。

    富山町は東京湾に面してはいるが、内陸奥山へ長広に延びている山岳の地域である。
    町のほぼ中央に安房の名山といわれる「とみやま三山」(富山、伊予ヶ岳、御殿山)がある。 ここは滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」の舞台発祥の地とされている。


    次回は、内房・鋸山



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