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  • from: orimasaさん

    2008年07月07日 09時39分47秒

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    日本周遊紀行:温泉と観光編(34) 松島-Ⅲ「坂上田村麻呂」



      【田村麻呂の遺構】
    <font size="2" color="#0000FF">平成19年6月初、平安初期の武人で上級貴族だった「坂上田村麻呂」の墓が、過去の文献調査から特定されたという・・。 
    1919(大正8)年に京都市山科区で、既に発掘されていた「西野山古墓(こぼ)」は、田村麻呂の可能性が極めて高いという。

    田村麻呂が創建したという「清水寺」(京都市東山区)に残る平安後期編纂(へんさん)の「清水寺縁起」に墓の位置が既に記されていたが、現在まで誰の人物の墓かは特定していなかったらしい。 
    墓の場所は「縁起」にある弘仁2(811)年の朝廷の命令書「太政官符(だじょうかんぷ)」の表題に記されていた。 行政の最高機関が土地を管理する民部省に送った文書で、田村麻呂の墓地に「山城国宇治郡七条咋田西里栗栖村の水田、畑、山を与える」という文言があり、この場所は今の山科区西野山岩ケ谷町にあたり、西野山古墓の場所と一致するという。 

    「太政官符」はこれまでも研究されてきたが、表題の記述は注目されていなかったという。
    田村麻呂は、811年に死去しているが、埋葬されるときは天皇の命令で平安京を守ってほしいという願いをこめて、立ったまま甲冑姿で東に向けられ葬られたという・・。 
    平安初期のころは、まだまだ東国、特に蝦夷の勢力が強かった事が伺えるのである。 
    同様の事例として、征夷大将軍だった徳川家康が亡くなったときも、西の脅威を制するために亡骸は西に向けて葬れ・・、と言ったことに類似しているのが面白い・・。

    西野山古墓は、清水寺から南東約2キロの山科盆地西部、東海道(国道1号線)とJR東海道線を挿んだ所にある。
    8世紀後期から9世紀前期と見られ、田村麻呂の時代と一致している。 
    既に大正8年に墓穴が見つかり、内部から武人の墓にふさわしい純金の装飾を施した大刀や金銀の鏡、鉄の鏃(やじり)などの副葬品が出土している。   
    こうした研究から時代と位置と身分が一致し、「坂上田村麻呂」の墓と特定したという。

    又、古墓の南東約1.5キロには、既に地元では「坂上田村麻呂の墓」と伝えられる他の史跡もあり、現在は坂上田村麻呂公園にもなっている。
    この場所は平安京の東の玄関口でもあり、そこを守る所に田村麻呂が葬られていることから、死んでも平安京を守ってくれるという朝廷の願いもあったとされ、当時の武将の権威と田村麻呂の人柄が伺える。
    遺物は、1953年に「山科西野山古墳出土品」として国宝に指定され、現在、京都大総合博物館(京都市左京区)に所蔵されている。

    次回は、 松島-「瑞巌寺」

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