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  • from: orimasaさん

    2008年12月21日 11時48分22秒

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    日本周遊紀行(108)太宰府 「大宰府政庁」


    大宰府は、「天下之一都会也」と称された・・、

    福岡高速2号線をそのまま南下すると、間もなく九州道に合流する。ここは既に「大宰府市」である。市の西側に大野城市があり、南側には筑紫野市がある。 市内には、また水城や国分といった地名が残っていて、いずれも古代に名を連ねた地域名称である。 昨今、由緒ある史的名称が無くなりつつあって、さみしい気になっていただけに嬉しくなる思いである。
    大宰府市と云うと、すぐ「大宰府天満宮」を思い起こすが、どっこい、「大宰府」そのものが大いなる歴史の拠点であったことは先にも記した。  
    九州を縦断する主要国道3号線が走っているが、すぐ横の旧道を行くと「大宰府政庁跡」が左側に現れた。 今は草生した土面が広く空き地の様になっていて、天気の良い日曜日なんかは家族で野球したり、お昼寝したり、犬を遊ばせたりしている広々とした空間である。 所々に建物の礎石、基礎石らしいものがぽつぽつと並んでいる。入口正面には三柱の石碑が建ち、中央には「都督府古址」と記されて往時の面影を示している。 地元の人達は「都府楼跡」(とふろうあと)の呼び名で親しんでいるそうで、無論、一帯は最重要の保存地区である。

    古代の大宰府は政庁を中心に、その周辺には官衙域(官庁)、そして東側に学校院、観世音寺を配し、約2km四方にわたって方形のプランを呈する条坊制を敷いていたと考えられている。 条坊制とは、中国(唐)・朝鮮半島の王城都市に見られる都市形態で、南北中央に朱雀大路を配し、そして南北の大路を「条」と東西の大路を「坊」とし、碁盤の目状に組み合わせて左右対称による四方形に都市のプランを形成するものをいう。
    大宰府は、八世紀の「続日本紀」にも「天下之一都会也」と称されるほどの大都市であったと考えられ、古くより南北22条、東西24坊の規模が推定されている。 実際の発掘調査においても、条坊制を証明するような道路の遺構が太宰府市と筑紫野市にまたがって約20箇所以上で検出されているという。
    それらの発掘調査の結果、推定朱雀大路(政庁中軸線上に伸びる南北2kmのメインストリート)は、路面幅約35〜36m、それ以外の道路は路面幅約3mで、朱雀大路をはじめとする右方に位置するいくつかの南北の道路は八世紀頃に成立しているという。 大宰府の条坊制については未だ全容が確認されていないが、かなり大規模な遺跡であることには確かな様である。
    大宰府政庁としては、既に、七世紀後半頃から置かれたと想像されていて、奈良期から平安期の凡そ500年に亘って御殿が建っていたらしい。 詳細な全容については、今後の調査に委ねられている。(大宰府展示館や歴史資料館に復元模型あり)

    当時の時代背景としては、漸く奈良に平城京を置き、国主が決まり、日本という国の形が出来上がりつつある時期であった。
    北部九州の地は日本と大陸の接点に位置し、国内はもとより東アジア全体の動向を敏感に反映し、歴史上重要な役割を担ってきた。又、中国の後漢の皇帝・光武帝より、「漢委奴(かんのわのな)国王」の金印が与えられた倭国の時代より、大和朝廷統一後も変りなく、中国、朝鮮半島の情勢を色濃く影響され、その重要さも増してきていた。
    その頃の大陸中国は、南北朝時代(5〜6世紀の宋、斉、梁など)、から隋、唐へと移り、朝鮮半島では百済、新羅、高句麗の時代であった。 建国された唐は、国内を統一すると更に領土拡大、覇権のために他民族の諸国を侵略し出した。朝鮮半島にも進出しようとし、唐は新羅と同盟し、その連合軍の攻撃によって「百済」は攻め滅ぼされた。
    七世紀の663年、百済は当時親交のあった倭国へ救済を求め、倭国・日本はこれに同意して朝鮮へ出兵上陸し、連合して戦ったが(日本では白村江・はくそんこうの戦いといい、慣行的に「はくすきのえ」と訓読みされることも多い。)、百済・日本連合軍は水上決戦で唐・新羅軍に大敗を喫し、半島からの完全な撤退を余儀なくされた。
    そして唐・新羅の本土侵攻に脅威を感じた日本は、対馬・壱岐及び筑紫に防人(さきもり:古代、筑紫・壱岐・対馬など北九州の防備に当たった兵士、初め諸国の兵士の中から三年交代で選ばれ、のちには東国の兵士が最も強いということで、東国出身者に限られるようになった)と烽(とぶひ・狼煙:古代、外敵襲来などの異変を知らせるために、火を燃やし、煙を立てた施設)を置き、筑紫には大堤を築いた「水城」を造る。 又、百済の亡命貴族と防衛の為、大野城、椽城(きじょう)などを築くのである。
    このような防衛施設の大土木工事が次々と着手される中、これらに守られた地、北部の沿岸より内陸に入ったこの地に「大宰府」が設置されたのであった。 大宰府は、九州総督府のようなものである。
    「大野城」(おおのき)は、白村江の戦いで日本が大敗した後、665年(天智4年)、天智天皇の命令により、現在の市域内にあたる大野山(現在の四王寺山)に百済人の設計による朝鮮式山城を築城し、大宰府防衛を図った。 因みに、市制施行前は「大野」という地名であったが、1972年の市制施行にあたり、すでに福井県に大野市存在していたため「大野市」とすることができず、この城の名にちなんだ「大野城市」という市名にしたという。
    「水城」も、現在の大野城市から太宰府市にかけて、大野城と同様の目的で古代の防御施設として造られた。博多湾から大宰府に攻め込まれるのを防ぐために築いたとされ、同様に朝鮮式山城が築かれたとされる。 用途について単なる城壁ではなく、名前の如く「いざという時に御笠川をせき止めて、外側に掘ってある空堀に敵兵が入ってきた所へ急激にせき止めておいた水を放流して、一気に敵兵を押し流すものであった」とする説がある。 国指定特別史跡で、いずれも実際に戦いの場となることはなかったが、現在どちらも地名として残っている。
    やがて戦禍が収まり、緊迫した中で置かれた大宰府も、日本が律令国家へと体制を整えるに従い、官の組織っも整備され、当初の対外防衛的色彩の濃いものから、外交そして九州全体を治める律令制下の最大の地方官衙(かんが・地方の主要政庁、役所)へと変っていく。
    大宰府は、平城京に倣い中心の建物は礎石を使い、瓦を葺いた大陸風の立派なものに変わる。そこに働く官人は、令に規定されている者だけでも50名に及び、その他雑務に携わる者などを入れるとその数は1000名を超えたといわれる。 歴史的には、七世紀初めの日本書記に「筑紫大宰府」の名で登場している。
    尚、百済と親交のあった時期は、仏教をはじめ様々な文化が百済を経由して日本に流入した。このような良好な関係から百済と古代日本(倭)は元々同種民族であったとする見方もある。 いずれにしても、百済滅亡によって百済王と王族、貴族を含む数万の「百済人」が倭国に亡命し、王族、貴族をはじめ技能を持った民達が大勢上陸し、それらの人々は多方面に登用され、朝廷にも仕えたという。
    日本は、後に仏教様式の文化が大きく華開くが、渡来人・百済の民の影響力が大きかったことは確かで、九州はその着地点であり発信地でもあった。
    政庁の南側には「榎社」(えのきしゃ)というのが在って、かの菅原道真(右大臣)が大宰権帥(だざいごんのそち・府政を総監する役で、納言以上の者が多く任ぜられる)として、大宰府へ任地されて(1種の左遷とされる・・、)から亡くなるまでの期間(901年〜903年)を過ごした「府の南館」跡である。

    ところで、“だざいふ”は「大宰府」と「太宰府」の両用の書き方がある、何故異なるのか・・?、
    この地には奈良時代の昔、「大宰ノ府」(おおいみこともち の つかさ)というのが置かれ、大宰とは、官職名として「大宰(おおみこともち)」、つまり天皇大君の命(みこと)を受けて任地に下り、地方の政務を司った官人のことをいう。府は役所のことで、朝廷の出先機関が置かれ、天皇の詔(みことのり:天皇の命令を直接伝える文書、詔書)で動く役所の意味であった。
    現在、太宰府市では史跡や当時の役所を意味する歴史的なものには「大宰府」、現在の地名など太宰府天満宮や固有名詞の時には、「太宰府」を使用しているようである。 ワープロで文字検索をすると、二文字が出てくる。

    次回は、お待たせ「太宰府天満宮」



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