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  • from: orimasaさん

    2009/02/18 10:52:41

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    日本周遊紀行(150)錦江湾 「薩英戦争」



    幕末の1863年、錦港湾で薩摩と英国の互角の海戦があった・・、

    当時のイギリスは世界の海に覇権を樹立してゆく「大英帝国」と呼ばれ、特にアジアへの進出は顕著であった。 インドを始め東南アジアの諸国諸島、そして、中国(清王朝)へと覇権を延ばし、これ以降、中国は欧米諸国の半植民地に転落していく。そして、遂にイギリスは日本へも、その食指が向けられるのである。
    イギリスが日本への進出を目指した他の理由として、当時イギリスは帝政ロシアと対立状態にあり、イギリスの帝国支配に脅威を与えるロシアの南下政策を牽制する目的もあった。
    安政5年(1858年)、イギリスは主に対日通商が目的であったろうが、その真意、背後には中国同様の植民地支配の思惑もあり、その為に日本にやって来たのである。
    来日した外交公使のオールコックは、母国イギリスの軍事力、軍艦を背景に大言壮語、虚勢を張りながら、幕府代表を脅しにかかる。 弱腰の幕府は遂にイギリスと「日英通商条約」を結び、翌年からイギリス公使は東禅寺(東京・品川)を常宿として使用し始めた。

    この頃の日本は、ぺリーやハリスの来日で開国が進むが一方、攘夷論(外国を廃す)も沸き上がり多くの事件も発生している。 オールコックの強引な外交に業を煮やした攘夷志士(主に水戸浪士)たちが、オールコックとその公使館を襲撃する(東禅寺事件)。 
    中でも1862年、江戸から京都に向かう途中であった薩摩藩主・島津久光一行の行列が生麦村(現、横浜市鶴見区)に差し掛かった所、前方を横浜在住のイギリス人4人が乗馬のまま行列を横切った。これに怒った一部薩摩藩士が斬りかかり、イギリス商人・リチャードソン1人が死亡、他の2人が負傷した、所謂、「生麦事件」である。
    この頃、薩摩藩では久光の兄・斉彬の時代から既に西洋列強に対抗するための軍備近代化 (「集成館事業」と呼ばれる) が進められ、斉彬の死後、頓挫していたその事業を積極的に復活・推進させたのが次期藩主となった久光であった。
    この事件でイギリスは、さも当然の如く薩摩藩に関係者の処罰と賠償を要求するが、薩摩藩はこれをガンとして拒否する。 新しく赴任してきたイギリス公使代理のジョン・ニールは、既に幕府から生麦事件の賠償金として10万ポンドを受け取っており更に、イギリス艦隊を引き連れて鹿児島湾(錦江湾)沖に到着、生麦事件犯人の逮捕と処罰、および生麦事件の遺族への賠償金2万5000ポンド(現在の3億円程度)を要求している。
    しかし、藩主・久光は「生麦の一件は、武門のしきたりに従ったまでのこと」と薩摩藩はこれを断固拒否する。 結果として「薩英戦争」が勃発するのである。

    生麦事件後の薩摩藩はイギリスの要求には一切応じず、攘夷実行の準備を着々と進めていた。 実弾射撃演習などの訓練に励み,鹿児島湾内で模擬実戦をも行っている。
    この頃、イギリス東洋艦隊七隻が出動して鹿児島・錦江湾に侵入してきた。 久光は「粉骨砕身し、夷賊を誅伐せよ」の号令とともに、湾岸に配した大砲が一斉に激射を開始するに至る。英国艦隊も応戦し、激しい砲戦が展開された。 英国艦隊の艦砲射撃で鹿児島城下北部は焼かれ、薩摩藩の諸砲台が壊滅的損害を受けた。しかし、イギリス側も旗艦の艦長と副長が戦死、60余人が死傷するという大損害を出している。 艦砲の射程はイギリス軍艦の方が上回るも、薩摩藩は先刻前に射撃演習したばかりの標的近くに敵旗艦が進入してきたために、正確に狙い撃ちができた。 乱戦の中、イギリス艦隊は桜島を砲撃しながら撤収、損傷艦を応急修理しながら鹿児島湾を脱出していった。
    無論、薩摩は英国の近代的な兵器に驚き、藩士はイギリスの砲弾を見て、生まれてこの方一度も見たことのない砲弾だったと驚かない者は誰もいなかったという。 結果として、横浜で両者の和議が成立することになる。
    戦乱の結果として、藩主・久光は諸外国の近代化された軍備に驚き、「もはや無謀の攘夷は不可である」と悟ることになる。その後、薩摩藩は軍備近代化の必要性を痛感、生麦事件の賠償金の支払いと犯人捜査を約束し、又、イギリスも薩摩藩の実力を再評価して和解することになる。
    これ以後,両者の関係は親密化し、イギリスは幕府支持から薩摩藩など西南雄藩支持へと傾き、薩摩主導の明治維新へと進んでいくことになる。 更には、明治期の最大の大戦「日露戦争」でイギリスの補佐、協力を得て、日本は歴史的勝利を得るのである・・!。

    次回は、佐多岬


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