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  • from: orimasaさん

    2009年03月10日 11時50分49秒

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    日本周遊紀行(166) 延岡 「可愛山陵」



    可愛岳は、天孫・ニニギノミコトが降臨した後の御陵墓が安置する山であった・・、

    日南海岸の青島より美々津に至る海岸は、約60kmにわたっては直線状をなした美しい砂浜海岸で特徴づけられる。 これは大淀川・一ツ瀬川・小丸川・耳川などの大きな河川によって運び込まれた大量の土砂が、 沿岸流と波浪の作用によって集積され、形成されたものであろう。 砂の堆積によって周辺は沖積平野を形成し、これらの河川の河口には発達した砂州が形成されている。
    対して、北部地域の海岸線は、美々津より北の佐賀関あたりまでは、九州山地が海まで迫り、岬や入江や島が多く、沈水海岸(海面の上昇または地盤の沈降にもとづいて形成された海岸、河川にし浸食された陸地の沈水で形成される)で形成されたリアス海岸の様相を呈している。 特に、延岡以北の海岸は屈曲の多いリアス海岸で、急崖が海に臨み、沖合には大小の島々が点在する。
    岩手の三陸リアス海岸もそうであったが、こんな地形の箇所はなかなか海岸へは近付くことが困難である。したがって、風雅な日南海岸を北上してきた主要国道10号線も、ここ延岡から北側は内陸の山地へ向かっている。 小生もこれに倣って国道10を行くようになる。

    マラソンで有名な宗兄弟の旭化成、その赤白縞模様の巨大煙突を左に見ながら北川を渡り、その川沿いを走る。 左側にそう高くはないが裾野を大きく広げる山容が見える、気が付くとこの山は「愛可山」(あいらさん)という。 標高727メートル、この可愛岳は、ニニギノミコトが降臨した御陵墓伝説が伝えられてる山である。
    先に、薩摩・川内の「新田の宮」でも記したが、古事記によると、天孫ニニギノミコトは高天ヶ原より「筑紫の日向の高千穂のくしふる峰」に降りてこられたと記され、日本書紀にはニニギノミコトが亡くなられた時「筑紫の日向の可愛の山陵に葬りまつる」と記されている。
    可愛岳の西方、県境の地に高千穂峡でも有名な高千穂町があり、神話の町としても知られている。 天上界を治めていたアマテラスは、地上の国が乱れている事を知り、孫にあたるニニギを地上に降ろした。ニニギは多くの神を従え地上、日向・くしふるの峰へ降り立つが、この時、ニニギは千の穂を持って降りたとされ、言い伝えにより、この地を「智穂(千穂)」となずけられ、そして高千穂と呼ばれるようになったという。
    町には、にはアマテラスが身を隠した天岩戸(洞窟)を祭る「天岩戸神社」があり、百万(やおよろず)の神々が集まって相談したと言われるところ「天安河原」がある。更に、古事記に「筑紫日向の久志布流多気・・、」と記されていて、ニニギが地上へ降り立った(降臨)の地とされている「くしふる神社」も存在する。 ニニギが降臨されたのが高千穂であり、その東方、大洋を見下ろし天上界のも近い「可愛岳」(727m)に御陵墓を鎮めたことは、説得力がある。
    「可愛山陵」は、江戸期より調査がされて人々の関心を呼び、明治維新後、時の政府や国学者や宮内庁の調査によって可愛岳山麓の古墳が「可愛山陵伝説地」として認定されたともいう。
    高く聳える可愛岳の頂上に「鉾山」といわれている所が御陵墓とされ、往時は、この山腹に社殿を営んでいたというが、人々の参詣に不便なため、さらに社殿をふもとの「江」(可愛)という里に移し、「可愛山陵大権現」として崇めて奉仕しているという。 寛政4(1792)年7月、高山彦九郎(1747-93年、江戸後期の尊皇思想家、寛政の三奇人の1人)は、可愛岳に登り、「筑紫日記」の中で記している・・、
    『可愛村に着く。北川でみそぎをする。石橋を渡り、鳥井を入る。壱丁余(約800メートル)登って行くと山間に可愛山陵大権現の社殿が南南東に向かって建っている。ニニギノミコトを祀る。西の山を可愛岳という。これを山陵と伝えている。可愛岳山上迄一里(4キロ)の登りである』と・・。
    この山は特徴的なのが、中腹より上部は巨石群に覆うわれ、更に、人工的なストーンサークルが存在するとされている。頂上に散見するこれら巨大石の石組は、原始石槨(せっかく:石でつくった、棺を入れる外箱。日本では古墳時代にみられる) とか弥生時代の立石(メンヒル)であるらしいと学者間でも言われている。
    大正3年、考古学者・鳥居龍蔵は可愛岳頂上のこれらの巨石群を調査し、拝み石、鉾石、盤鏡などを一緒にして巨石遺跡としている。
    可愛岳が、はるか昔から霊山として人々の祈りや儀式の場になっていたことが想像でき、初代・神武天皇の四代前の先祖というニニギノミコトは、日本が歴史を刻みはじめたとされる神話の世界の神である。 陵墓の存在は「伝説」の域を出ないものの、多くの巨石群と相まって御陵墓とされている所以であろう。 小さな可愛岳の陵墓は、大きなロマンをかきたててくれる。
    旧道、日豊本線沿線の可愛の地に「御陵伝説地」の御陵と碑があり、野口雨情の歌碑には

    『 こころして吹け  朝風夜風  ここは日向の 可愛山稜 』 とある。

    【追記】
    同じような伝説地とされる鹿児島県川内市の新田八幡宮にも、ニニギの御陵墓とされる「可愛山陵」があり、所謂、宮崎と鹿児島で御当地論争が起こっている地柄でもある。

    次回は、延岡の「西南の役」


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