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from: わかさん
2009/06/29 05:09:00
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足利事件
東京新聞【社説】
足利事件 冤罪の責任は司法にも
2009年6月27日
司法は人権を守る最後の砦(とりで)である。「警察、検察にだまされた」ではすまない。冤罪(えんざい)をなくすため、足利事件の裁判を検証し、過ちから教訓を得て、司法関係者と国民が共有しなければならない。
刑事裁判の神髄は無辜(むこ)の発見である。十人の犯人を逃すことがあっても無実の人を一人でも罰してはならない、とされる。
だが、現実には足利事件で無実の菅家利和さんを十七年間も獄中に閉じこめた。古くは、特高警察の思想弾圧に司法が加担したかのような横浜事件の例もある。
「無罪を言い渡す時の方が有罪の時より心理的圧力が大きい」という裁判官がいる。「真犯人を逃すことにならないか」という不安からだという。司法内部にこのような雰囲気があっては、冤罪はなくならないだろう。
足利事件で最も重い責任を負うべきは警察、検察だ。捜査、公判活動を洗い直すのは当然だが、誤判の責任は司法にもある。
事件当時のDNA鑑定は信頼性が疑われていたのに、裁判所は安易に寄りかかって菅家さんを有罪にし、弁護側の再鑑定請求を退けた。今回、再審請求審で逆の再鑑定が出るまで、地裁、高裁、最高裁と過ちを繰り返した。
各段階の手続きや判断を第三者も交えて検証し、担当者が反省するとともに、得られた教訓を組織的に共有し公開もすべきだ。
率直に言って誤判をゼロにするのは困難かもしれない。だが、努力してゼロに近づけることはできる。その第一歩が過ちの検証とプロ過信からの脱却である。
裁判員に予断、偏見を抱かせないようにと事件報道の改革が進んでいる。それ自体は望ましいことだが、最高裁事務総局幹部をはじめ法律専門家たちの報道に対する注文には、「裁判官と違って素人の裁判員は間違えやすいから」という含意がある。
その誇り高いプロが大きな間違いを犯した。それどころか司法の歴史には、死刑確定者がやり直し裁判で無罪と分かった汚点が四件もある。この厳粛な事実を謙虚に受け止めてほしい。
裁判員制度の狙いは、法律のプロにお任せではなく、素人である市民の感覚も反映させて刑事裁判を変えることである。
裁判官は裁判員の意見を真摯(しんし)に聴き、裁判員は裁判官に頼りすぎずに、素人としての意見を胸を張って述べる。そこから刑事裁判の新局面が開けるだろう。
フォト:日赤建設予定地 とコレb(^o^)b
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