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  • from: 坪井さん

    2009年06月26日 20時58分41秒

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    千葉新地


    昭和2年の鳥瞰図を見ると登戸の千葉新地は遊郭が鍵型に並んでいて、「遊郭」と記載されている。明治12年原田楼に始まる千葉新地は大門を構え、黒塀、おはぐろどぶに囲まれた遊郭だった。昭和10年の電話帳にも原田楼には2本の電話◆吉原のように神社と性病検査の病院を併設し、病院の1階に千葉新地の、2階には船橋新地の患者が入院していた。昭和30年の地図ではその病院は保健所になっている。船橋の新地にも病院ができた。遊女が亡くなると遺体を捨てに行く吉原の淨閑寺のような投げ込み寺は、千葉新地ではどこなのか◆引手茶屋を通して遊ぶは江戸の吉原大見世。大正までは、張見世といい客のお見立てを待っていた。客は1階で格子を覗き遊女を選ぶ。張見世は警察に禁止され、写真で選ぶ写真見世に。基本料を払ってから2階に。気を引きたい遊女には寿司を取って食べさせ、隣で一杯。6畳間に赤い布団が敷いてあり、その脇の畳で飲む。泊まっても遊女は夜抜け出し、もう一仕事。好きな相手ならまた戻る。廊下トンビと呼んだとか◆客はかよいつめて身代をつぶし、悲しむ遊女と心中する。体を売るとき心を添える。お次は心を買いに来る。売れぬ心を売るぞぶり、心遊びの悲しさよ。

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    坪井

  • from: 坪井さん

    2009年06月19日 22時12分48秒

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    電話番号簿に見る吾妻屋の業種


    昭和10年の千葉県電話番号簿には船橋の遊郭「吾妻屋」は「貸座敷業」という業種で掲載されている◆明治6年「貸座敷渡世規則」が施行された。明治政府は、横浜に寄港中のペルー船に、乗っている中国人の奴隷を解放するよう申し渡したところ、日本も娼婦という奴隷を解放すべきと反論された。政府は、この規則を制定し、廓(くるわ)は鑑札を持つ女性に座敷を貸すだけと取り繕ったが、実態は以前と変わらなかった。ただし、15歳未満には鑑札を発行せず、幼女の身売りはできなくなった◆昭和31年5月売春防止法が公布され、33年完全施行された。電話番号簿は昭和31年から今のタウンページにあたる職業別のページができたが、職業としての「貸座敷業」が消え、遊郭は「料理飲食(料亭・割烹)」の中に含まれた。昭和32年には同じ分類にされた料亭・割烹の苦情があったのか、「特殊喫茶」に区分されている。吾妻屋は、昭和33年には「アパート」と登録されており、海神のおばあちゃんが言ったとおり、商売替えしていた。33年の千葉県電話番号簿「特殊喫茶」欄には、なお10軒が残る。認可された遊郭いわゆる赤線が廃止された後も、非合法な青線として商売を続けた店もあった。

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    坪井

  • from: 坪井さん

    2009年06月14日 14時10分58秒

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    吾妻屋

    ◆最後まで海神に残っていた遊郭吾妻屋は平成21年2月16日火災で焼失した。近所の酒屋のおぱあちゃんにお話を聞いた◆子供の頃、酒の配達でこのあたりの建物にはほとんど入ったそうな。新地の地図を見ながら、「ここは、吹き抜けでバンド演奏をしていたダンスホール。」 「ここはりっばな日本庭園に大きな池があった。」などと懐かしそうに話す◆吾妻屋はおおきな建物で、中は6畳間の小部屋が沢山あって、酒を注文した部屋に酒を届けた。赤線が廃止になった時はその間取りを活用し、1階と2階に一つづつ炊事場を作って、アパートにした。そこの空き地に1軒残っていたけど、昨年の火事で焼けちゃって、今は類焼した隣の家の取壊し中だよ。残念ね。もうちょっと早く来てたら、見れたのにね◆今も当時の建物は今も2軒残っている。しかし、遊郭の建物ではない。遊郭の中は、千と千尋の神隠しのアニメに出てきたような間取りだったのか。千尋のように、好奇心いっぱいで酒瓶をもって遊郭の中を歩くおばあちゃんを想像しながら話を聞いた。

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    坪井

  • from: 坪井さん

    2009年06月05日 22時14分56秒

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    海神町の遊郭

    ◆肥舟探しの旅の途中、行徳の船頭さんが江戸川の対岸を眺めながら話してくれた。昔は成田参詣の人はこの江戸川を船で渡った。夫婦で成田参詣すると別れるそうだと言って、男だけで行った。お目当ては、船橋にある飯盛旅籠。宿場女郎は通行人に「しべえ、しべえ」というので4十4で「八兵衛」と呼ばれたそうな◆船橋遊郭調査レポート(熊倉安雄)を読む。大正15年7月貸座敷引手茶屋営業取締規則により、千葉街道沿いに点在する貸座敷を本町と海神の間に移転させ、「新地」と呼ばれる遊郭が造られた。東京は三田の地主が大きな土地を持っていたため、地元の人には、三田浜と呼ばれた。昭和32年売春防止法施行当事、貸座敷は72軒あった。売春婦の出身地は戦前は東北、戦後は戦災の傷跡深い東京が多く親元へ送金している者が70%いた◆巻末の遊郭の地図を持って、京成海神駅の八百屋のおぱあちゃんに地図にある場所を尋ねた。「遊郭?海神じゃなくて本町だよ。船橋郵便局の前あたり。若い頃、三田浜がどんなところか見たくって連れてってもらった。男3人女2人で行ったら、身売りに来たと思われて迫いかけられ、必死で逃げたよ。」◆ストリップ劇場がなければ、今は何処にでもある、ありふれた飲食店街の風景の中に「三田浜町会掲示板」が立っていた。


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    坪井