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  • from: 坪井さん

    2009年05月28日 19時34分41秒

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    トイレの絵葉書と肥舟


    写真は汲取り便所の写真の絵葉書である。葛飾区の博物館の受付パネルに張っていた。「売れますか?」「はい。」◆なんと2階の郷土資料館には、肥舟が展示してある。木肌も美しい1/2モデルで、もちろん未使用である。長船というこの船は、一艘130荷運べた。船には船頭が寝泊りする2畳くらいの部屋もあった。肥運びだけでなく、村の行事で潮潮干狩りに行く時にも使われている。肥桶も展示していた。肥桶を街中堂々と運ぶ馬車を見た進駐軍は、驚愕し、ハニーワゴンと呼んだ◆昭和になると、東京の人口増から汲取り量が増え、農家の買い取りでは追いつかず、黄金列車、黄金艦隊を編成するようになる。東京都は昭和12年、屎尿投棄船を造り、剣崎沖などを指定して投棄させた。しかし、業者は沖までいかず、途中の東京湾内で垂れ流しをしていた。博物館職員の手記があった。「小学生の頃、金沢八景で潮干狩りをしたとき、波打ち際に打ち上げられるたくさんのイチジク浣腸を見て、どうしてみんな海で浣腸するのかなあと考えた。今回の展示会を見て、人糞の海洋投棄で流れ着いたものだと分かった。」◆「私も子供の頃、よく浅虫海岸で拾って、水鉄砲遊びをしたよ。」青森出身の同僚が話した。全国的に魚が豊漁だったころの話である。

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    坪井

  • from: 坪井さん

    2009年05月21日 21時12分45秒

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    矢切の肥舟

    写真集「目で見る松戸の100年」に昭和7年の肥船の写真があった。肥船を4連結し松戸の平潟まで蒸気船で引いている。これなら船頭は臭いを浴びない。その船は船頭の名前から宇田川船と呼ばれた。江戸川区の酒屋には宇田川姓が多い◆矢切の村は東京市と契約して肥料を共同購入し、野菜の栽培に使用していた。畑1反部には30荷から50荷必要であり、肥舟は1杯で50荷くらい運んだ。写真の宇田川船はもっと大きいようだ。人が担ぐ量は、肥槽(たんご)へ入れた下肥2杯であり、これを「1荷」と数える。リヤカーなら4荷、牛車は7荷乗せて運んだ。◆肥船は、江戸川下流から下肥を売って行き、減った分だけ川の水を汲み上げて水増しする舟もあり、上流で下肥の中に水草が混じっていて農家にばれ、騒動になったとか◆船橋では効き目がよくなるとして、河口で海水を汲み水増ししていた。糞尿は淡水より比重が重く、海水よりは軽い。河口付近は淡水、海水が混ざって比重が同じとなり、ばれにくかったのか。海水を混ぜて塩害はなかったのかと謎は尽きない◆海神のおばあちやんの話しでは、仕事帰りの若い衆の背中は蝿がビッシリ付いていたという。辛くても金になる仕事だったのか、松戸の平潟も、船橋の海神も遊郭が大いに栄えた。

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    坪井

  • from: 坪井さん

    2009年05月15日 20時37分08秒

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    「Re:滝口さんからのコメント2」
    > 大根澪は、八千代橋近くの澪は近くのOさんという人(確か釣舟屋さんだったと思います)が掘ったそうです。明治初めの地図にも載っています。(滝口)
    -その家は今のゼンリン地図に載っていますね。驚いたのは、昭和2年の天山の鳥瞰図に載っている店が今もあちこちに残っていて、皆さんが鳥瞰図のことを知っているということでした。空襲がない町には歴史が残っているんですね。ところで、大根澪は「おおねみお」と読むのか、「だいこんみお」と読むのか教えてください。(坪井)
    -「だいこんみお」と読むとのお返事がありました。

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  • from: 坪井さん

    2009年05月15日 05時20分41秒

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    滝口さんからのコメント

    メールでコメントありましたので掲載します。
    「ごみ河岸は松井天山の絵図の中にある海老川河口の東側の材木が書かれているあたりです。八千代橋の下のみおは大根澪といって、宮本の釣り船の人たちの入り江です。ただ台風のときは漁師町の舟も溜まりに使ったようです。現在ある船橋橋の南側の舟たまり〈写真〉は昭和27年に南側の海面を埋め立てたときに作った入り江です。是はゴミ河岸のためではなく、漁師町の人たちが漁業補償地として浜町の一部をもらい、船と一緒に引っ越してくることになったからです。(滝口)」
    -八千代橋下の大根澪は、肥舟を入れて作業するには住宅地に近すぎます。船橋橋下の入り江にも漁船が多く、混在しないのではと思っていました。ゴミ河岸はどちらでもなく、鳥瞰図の製材所のあたりということでしょうか。船橋100年史には、海老川河口左川の岸壁に五大力船が係留されている写真がありました。おじいちゃんの話とも一致しますので、よく分かりました。ありがとうございます。滝口さん、またご指導よろしくお願いします。(坪井)

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    坪井

  • from: 坪井さん

    2009年05月14日 22時13分08秒

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    船橋橋のおじいちゃん

    船橋の海老川河口に船橋橋がある。ちなみに日本橋にある橋は日本橋だが、板橋には板橋橋があった。疲れ目かと思うような橋の名前である◆この海老川河口に澪があり、ゴミ河岸があった。船橋橋の下に入り江があり、船溜まりがある。川岸に錆びた波トタンの小屋が建ち並び、緑色の川底に沈む船着場の古材がゴミ河岸の面影を残すかの様◆昭和2年の天山の鳥瞰図には船橋橋はまだなく、その一つ上にある八千代橋が描かれている。その橋の下に入り江があり肥舟が描かれている。江戸から昭和初期まであったゴミ河岸は船橋橋下ではなく八千代橋下の入り江か◆近くの蛤屋に聞くと、八千代橋下の細長い公園が昔は澪だったという。この公園の電柱の表示板は36年、船橋橋下の入り江の護岸工事は35年、当時、八千代橋下の澪を埋め立て、船橋橋下に入り江を造成し、船着場を移転させたのか◆「こちらは鳥瞰図にある家ですか」「よく分かったね。本家がこの辺りで大きく肥料店をやっていて、ゴミ河岸に肥舟や五大力船が着いた。場所は船橋橋の下だ。でも泥面子ってのは知らないな。」



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    坪井

  • from: 坪井さん

    2009年05月09日 01時41分07秒

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    海神のおばあちゃん

    澪の歴史を訪ねて、海神念仏堂に車を止めた。無縁仏として墓地裏の土手に野積みにされた墓石があった。文化文政の年号の墓は伊豆の小松石である。江戸城修復で江戸に運搬され、修復終了後の残りの石を刻み、庚申塔として全国に販売したという小松石。この場所が船橋の庚申塔の石の上陸地点かもしれない◆海神の天道念仏は毎年3月上旬開催され、豊作を願う太陽信仰と、密教が習合した行事が由来とされる舞踊である。その踊り手というおばあちゃんの話を聞いた◆ご主人は海草を採る漁師だったが権利を買い海苔漁師になった。ゴミの運搬をしていた時期もあったという。踊り手が減り、子安講も解散したと寂しそう。子安講は子育てを伝える婦人会のような集まりで、坪井本村では今も行われている◆海神の漁師は、昭和50年頃、海岸の埋め立てで2千万円ほどの保証金を貰い、漁を止めた。競馬や船橋の新地へ通って金を使い果たし、秋津などへ転居していった者も多く、寂しい村になったという◆過疎化などで人口の50%が65歳以上の高齢者になり、冠婚葬祭など社会的共同生活の維持が困難になった集落のことを限界集落と呼ぶ。海神は保証金限界集落と呼ぶべきか。栄華を極めた新地は船橋郵便局前、海神と船橋本町の間にある。新地の面影を残すストリップ小屋の写真をとっていたら、ランドセルを背負った女の子が聞こえるように独り言。「どうして男はこういうのが好きなんだろう。」「・・・・」  

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    坪井