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  • from: 坪井さん

    2009年12月25日 19時53分21秒

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    石の旅 銚子石

    <font size="3"> 銚子石を訪ねて、犬吠埼の石切場だった馬糞池へ行く。現存する岩壁は泥と砂が交互に堆積した縞模様の岩であり、落石のほとんどが泥岩である。犬吠崎の地名の由来とされる義経伝説の犬若の岩に向かう。落ち延びる義経に置き去りにされた愛犬の若丸が7日7晩ほえ続けたという。何度も海岸を往復し探した。外川の港の岩間から犬の耳を見つけ感動。波打ち際で出会ったのは大きな子犬、いや子犬の形をした大きな岩であった。

     戦国時代、銚子石で石仏が彫られるようになり、霞ヶ浦一帯に流通した。千葉の漁師の先祖は紀州人が多い。彼らと共に来た僧侶が、地蔵信仰や観音信仰を広め、その布教範囲に銚子石の石仏が広まった。
     霞ヶ浦の出島にある共同墓地に行く。坂本家墓地に一石五輪塔がある。銚子石の石仏との出会いであった。砂岩の中に点々とある白い粒は、引き潮の砂浜に残る白い貝のよう。波打ち際の石や貝は激しく波に打ち砕かれて丸くなり、やがて深い海底へと引きずりこまれ堆積する。砂の歴史が固まった岩である。

     江戸時代の利根川改修により霞ヶ浦、銚子が江戸文化圏と一つになると、利根川河岸は急激な発展を遂げ、霞ヶ浦の守護神である大杉神社の信仰は、漁師の活動とともに関東から千島列島にまで広まった。坪井川は印旛沼に流れ利根川へとつながる。八千代や豊富の村々は、利根川の海運、文化に接していた。
     初ばやしという正月行事が坪井にある。その行事は、金堀、楠ケ山、大穴、八木が谷、吉橋(大杉さま)にもあった。「いまでも船橋や八千代から来られます。」と大杉神社の神主さん。子供神輿が「あんば大杉大明神 悪魔はらってヨーイヤサ」と唱え、家々にお札を配る。厄除け、夢むすびの神様で、このご時勢、資金繰りの神様でもあるというのが面白い。霞ヶ浦、銚子からの利根川河岸文化と船橋からの江戸文化が交差する北総の地で、銚子石と再会する日が楽しみである。

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    坪井

  • from: 坪井さん

    2009年12月17日 23時07分18秒

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    石の旅 世界の埋葬


    <font size="3"> アメリカ国旗に包まれた棺おけが埋められる映画シーンを見た人は多いであろう。ゾンビは土葬の国の話であり、マイケルジャクソンの映画スリラーもフランケンシュタインの映画も火葬の国では成り立たない。
    ヒンズー教は火葬であるが、イスラム教は火葬禁止、カトリック教会はキリストが土葬であったことから火葬禁止であったが、1963年廃止した。2007年の各国の火葬割合は日本が100%、以下国土の狭い香港、スイスが続き、米国は約30%といまだ低い。
    ヒンズー教徒は火葬後にその骨をガンジス川に流すので、墓石は立てない。つまり墓地がない。「お墓の前で泣かないでください。私はそこにはいません。」という「千の風になって」のヒットで、墓石業者は危機を感じたとか!?

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    坪井

  • from: 坪井さん

    2009年12月11日 23時29分52秒

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    石の旅 土葬


     <font size="3">明治6年、火葬禁止が布告されたが2年で廃止された。廃仏毀釈を引き起こした神道派は、火葬は煙害があり残虐な行為として法制化したが、東京の墓地不足という現実を無視した施策であった。京都大阪の墓地は郊外であったが、江戸の墓地は狭い境内のみであった。
     新たな土葬のために前の墓石を倒し、まだ朽ちていない遺体を掘りあばき、そこにあたらな遺体を埋葬した。3年布施・附け届けがなければ断わりなく掘り棄てられた。死体を地上に放置すると夏場では1週間程度で白骨化するが、乾いた土中に埋めると7年 以上白骨化しない場合もある。数年での墓穴の掘り返しは地獄絵図となる。
     無縁の墓石も片付けられた。鬼平犯科帳の長谷川平蔵は、無縁となった多くの墓石を供出させ、失業対策として作った人足寄場の石垣にしたという。船橋の墓地には古い石仏がたくさんあるが、四谷の寺には古い石仏はほとんど残っていない。永代供養とは名ばかりである。
     海神の念仏堂でも墓石が片付けられていた。古い石仏がたくさんあり、土手に野積みにされている。海神は澪のあった場所である。船橋に船で運ばれた石仏はここから上陸したのかもしれない。

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    坪井

  • from: 坪井さん

    2009年12月05日 06時11分48秒

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    石の旅 火葬


     <font size="3">江戸では下谷・浅草の寺院がそれぞれ火屋を持ち火葬していた。釈迦が火葬されたように荼毘に付されることは、高額だが高貴な葬祭の方法であった。しかし、その臭気が寛永寺にかかることから、幕府は小塚原に焼き場を移転させた。明治19年の地図には千住火葬場とある。
    焼き場には松の真木がうず高く詰まれ、骨上げは次の日であった。焼き方には、輿焼き、龍焼き、釣り焼き、瓶焼き、別火屋焼き、惣火屋焼きがあり、値段は15両から1両2分まであった。播磨屋中井家永代帳には、第三代当主の葬儀で「御火葬二付キ別火屋入用 金3両3分」と計上されている。別火屋は1両3分なので、経費水増しが行われたか。
    幕府は華美な葬祭禁止の令を出し取締まった。しかし4度も禁止令を出したということは、定めにもかかわらず大商人の葬祭は武士より盛大であったということであろう。しかもこの禁止令は、いづれも大飢饉の時に出されている。飢饉の年こそ商人が米相場で大儲けしていたということか。(写真:明治19年東京市地図 南に吉原北に火葬場)

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    坪井