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  • from: 坪井さん

    2010年05月28日 23時50分49秒

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    御所トンネル


    <font size="3"> 皇居の回りは地下鉄が囲むようにたくさん走っているが、決して皇居の地下は走っていない。が、JRに御所トンネルというものがある。
     明治26年甲武鉄道は都区内に乗り入れ、御所、四谷、四番町、三番町と外堀の麹町側にトンネルを作った。四ツ谷駅から総武線に乗り新宿駅に向かうと、すぐレンガ造りのトンネルに入る。赤坂離宮の迎賓館、学習院初等科の地下に潜るトンネルは、JR四ツ谷駅の上にある地下鉄丸の内線四ツ谷駅のホーム南端からよく見える。
     御所トンネルの出口は、学習院初等科に隣接したみなみもと町公園付近である。みなみもと町公園は、四谷の谷底にあり、明治時代には鮫河橋貧民窟、夜鷹の巣と言われ、100平米1370のバラックに5千人もの貧民が住んでいた地である。
     「客は大半子供だった。汽車がトンネルにはいると「ワーッ」という叫びを揚げる。真っ暗な場所にくると、闇の中で息をひそめる。出口の光がほのかにさし込むと歓声は再び揚がる。・・」
     四谷は、夢破れた大人と夢いっぱいの子供が交差する地であった。

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    坪井

  • from: 坪井さん

    2010年05月19日 22時17分02秒

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    続・石の旅 鎖塚と網走石


    <font size="3"> 明治政府は、ロシアの南下に備え、明治24年、網走から札幌までの軍用道路建設に着手した。囚人道路とも呼ばれ、網走刑務所と空知監獄の受刑者の使役により建設されたが、劣悪な環境と深夜に及ぶ過酷な労働で212名が死亡した。死んだ囚人に土をかぶせただけの土まんじゅうからは、死ぬ時に付けられていた鎖が出土することから鎖塚とよばれ、かつては国道39号線に多くあったという。
     看守も食糧難から多くの犠牲者を出した。墓標の多くは20代、戊辰戦争で賊軍であった士族の子弟には、不浄役人とさげすまれる公職しかなく、食事は囚人以下、柿色の囚人服も黒の看守服も無念さは同じであった。網走監獄には囚人の合葬碑と職員の粗末な墓標がある。
     市内の永専寺住職は、網走刑務所で法話を続け、出所しても帰る家のない囚人を預かる慈恵院を作った。明治40年から昭和3年までその数1,307人。周りの理解はなかった。
     永専寺のおばあちゃんに聞いた。前は囚人が死んでも、身内の恥と遺体を引き取りにこないことが多く、そのまま裏山に埋めることが多かったそうな。墓石は、地元の網走石を使ったという。網走には安山岩も多い。資料には墓石は軟石とだけあり、網走市役所に聞いた。「網走軟石というのは文献がないが、札幌軟石というのはあります。」と親切に調べてくれた。北海道では凝灰岩を軟石と呼んだようである。
     凍てつく大地で墓穴は誰が掘ったのか。墓石の石工に払う金や弔いの金を払う家族はあったのか。住職の苦労は流氷のように私の心に押し寄せた。
     
    <font size="2"> *実家が網走の友人がいた。聞けば、家の近くにある寺の住職は網走刑務所で法話をしているとのこと。実家は永専寺の檀家で、友人はおばあちゃんと親しく話をしていた。この話はそこから始まり、北海道の墓石につながった。いつか網走軟石をこの目で見たいと思った。

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    坪井

  • from: 坪井さん

    2010年05月11日 21時09分04秒

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    続・石の旅 遠野物語


     <font size="3">柳田國男遠野物語100年祭、NHK朝ドラ「ゲゲゲの女房」の水木しげるで話題の遠野へいく。巨大な「続き石」は、弁慶が積んだ石と言われる。最初、近くの巨石に笠石を乗せたが、その石が「一生、笠石の下とは情けない」と泣いたので積み直したそうな。
     巨大な岩石、人為的な岩の割れ目、この斜面は、千葉県の石切場「石射太郎」にも似ている。墓石ほどの大きさの石を切り出した残り石もある。この地に立った時、ここは古い石切り場だと思った。石は黒雲母花岡岩、御影石である。近隣の南部曲り家千葉家の庭の大岩も黒雲母花岡岩であった。
     花岡岩は堅牢がゆえに切り出しや加工に高度な技術と道具が必要であり、大陸系の石工がいた関西では、墓石や石仏の石材に瀬戸内の花岡岩が使われた。江戸では伊豆の安山岩が使われた。
     笠石は武家の墓石や庚申塔に乗せた飾り石。その下が情けないとはどういうことか。この伝説は、武家支配に対する庶民感情が秘められているのであろう。
     南部の山々のど真ん中にあり、海産物と農産物が行き交う交通の要所であった遠野。「中野」と地名を付けたいところだが、名前を付けた支配者の地からは「遠い野」であったのか。
     どこまでも続く「への字」の山並。その谷間に堆積した多くの昔話は、怖い話が多い。河童伝説は、飢饉の時に間引きされた子供の霊の話という。言い伝えは、村の秩序を保つための掟でもあったようだ。(写真:続き石,千葉家庭石,その接写,カッパ淵)

    *カッパ淵の側に、安部貞任の屋敷跡があった。平安時代に東北地方を半独立的に支配していた安部頼時の2子。前九年の役で源頼義・義家軍を撃破、雪深い北国の戦いは京の武士だけでは勝てぬと見た国府側は、隣地である出羽の清原氏に加勢を要請、小安峡から大軍で攻め込まれた安部貞任はついに敗れたが、その勇猛な戦いぶりと敵地の美少女との恋物語で名を残した。

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    坪井

  • from: 坪井さん

    2010年05月07日 02時14分56秒

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    続・石の旅 小安峡&稲庭うどん


    <font size="3"> 秋田県の小安峡に行く。ブナ林の中を深い川底に下りる。対岸の岩壁はスレート化した泥岩が苔むした岩肌を見せる。その幅100mほど。小さな段差を一面に水が流れ落ち、その景色は壮観である。足元からは熱湯が噴出。遊歩道を乗り越える濁流に阻まれ、上流に登れずに引き返す。湯治場の露天風呂の岩は凝灰岩。この山間の成立ちに思いを廻らす。
     小安峡の道は、前九年の役には、源頼義の依頼を受けた清原武則の一万の軍勢が通り、後三年の役では、金沢の柵へ向かう八幡太郎源義家が通った街道である。
     この道の途中に稲庭という地名があった。日本三大うどんの稲庭うどん発祥の地である。「稲庭古今事蹟誌」によると、寛文年間以前に秋田藩稲庭村小沢集落(現:秋田県湯沢市稲庭町字小沢)の佐藤市兵衛によって地元の小麦を使って始まると伝えられている。銀座にも店があるという佐藤養助商店の本店に入る。
     なぜ、秋田でうどんなのかと由来を聞くと従業員が集まってきて歴史談義で盛り上がる。製法は五島列島のそれに似ており、山伏が伝えたともいわれているそうな。稲庭うどんは捏ねるのに足を使わず手だけである。なのに出来上がりは腰があってのびない。営業時間を延ばしてまで親切に説明していただいた。

    *この小安峡の川の水には温泉水が流れ込むため中和しないと稲作ができない。江戸時代は稲作ができなかったため、小麦作り、小麦製品作りが盛んに行われたのではないだろうか。

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    坪井

  • from: 坪井さん

    2010年05月01日 23時38分32秒

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    斉藤家のルーツ


     <font size="3">坪井の斉藤姓の家の家紋は、橘(タチバナ)や片喰(カタバミ)の家が多いが、その齋藤家で一軒だけ家紋が剣片喰の家がある。屋号は久兵衛。正しくは齋藤と書く。大正4年からの千葉郡豊富村の村長は、飯島、吉橋、齋藤、田口、齋藤、田口、藤代と豊富の旧家が続く。齋藤九助氏は、区長、村会議員、村長を歴任した。
     坪井から豊富村村長への2回の当選は、その人望の厚さを後世に残した。
     樺太で殉職した子息のために建立した巨大な稲井石の石碑は、子供への愛を残した。
     片喰の家紋を遡ると酒井氏など徳川一門から新田一族にまでたどり着く。先祖は南北朝時代、御醍醐天皇側の武士。落ち武者伝説の家系である。所有林の坪井市民の森には古墳があるというから伝承のスケールもBIG。
     片喰は根付きのよさから、家が絶えないと家紋にされた。今年も春の寒さに負けず、元気な花を咲かせる。

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    坪井