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  • from: 坪井さん

    2012年01月27日 23時32分37秒

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    「Re:古和釜の石塔」
    <font size="3">太子塔は、船橋市の資料にもありました。
    平成6年3月31日「庚申塔1」です。
    本に風景写真はあるのですが、太子塔は解説もありません。
    石の上部が斜めの石塔です。今は地震で石がかなり傾いています。
    *撮影 2012/1

    古和釜


    この本に掲載されていた庚申塔と現在を並べてみました。
    坪井は台座がきれいになりました。 *撮影 2012/1

    坪井町


    鈴身町はこれから建てる場所も用意されているところがすごい。
    1個増えています。 * 撮影2009/12

    鈴身町


    小野田町


    一番感動したのは車方です。
    草深い坂を登ると
    圧倒される田舎風景が広がって
    タイムスリップした感じがしました。 
    * 撮影2009/12


    車方

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  • from: 坪井さん

    2012年01月22日 21時39分35秒

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    川名登先生へ

    千葉歴史学会の会報千葉史学12月号を読んで、川名登先生が亡くなったことを知りました。昨年、船橋市郷土資料館での講演があったとき、最後の質問タイムで私は手を挙げました。「先生の名前は本名ですか?」「本名です。」と先生は笑って答えました。
    千葉県の遊郭を調べていた頃、県立図書館で先生の本と出会い、利根川研究をしているこの方の名は、なんと研究テーマと合っているのだろうと思っていたので、お会いできたとき、つい素直に質問してしまいました。ちょっとだけでもお話をしてみたかったというのが本当の理由です。
    千葉史学で訃報に接し、灯台を見失ったような気持ちでした。先生、お達者で。

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  • from: 坪井さん

    2012年01月20日 19時51分53秒

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    「Re:Re:皆さま、あけましておめでとうございます」
    さっそくのコメント・ご指摘ありがとうございます。漢字の誤りは修正しました。石の本はたくさん持っているのですが、太子塔というのは載っていませんでした。ネットで出会った時は感動しました。→http://park23.wakwak.com/~hotaru2/taisikou.html

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  • from: 宗吾台さん

    2012年01月20日 10時22分27秒

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    「Re:皆さま、あけましておめでとうございます」
    早速報告をしていただいてありがとうございます。午前中においでになったらしく、よく映っています。コメントのうち気のついたことを描くと、習志野台に行く道は「古和釜道」と呼んだほうがよいでしょう。市内の主要なり堂は名前があることーもちろん通商ですが地域を語るときには使ったほうが読みやすいです。また妙寺は麻衣がえないように慎重に確認してください知っている人が読んだときに、記述の問題を指摘されやすいです。夏美は夏見で、用名天皇は用明天皇です。金掘は金堀です。私も時々ありますので大きなことは言えませんがね。お互いに気をつけましょう。ところで、この石碑に名前がある家は現在も各地区にあるのでしょうが、現在何をなさっているのでしょうか、諸人組合の行う太子講の現状はどうなっているのでしょう。ぜひ探ってみてください滝口昭二

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  • from: 坪井さん

    2012年01月19日 18時43分04秒

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    古和釜の石塔


    <font size="3">坪井の北、古和釜に出かけた。船橋市長の住む古い村であり、石神と夏見の苗字が多い地区である。古和釜十字路から習志野台へ向う古和釜道に庚申塔群があり、その中に石碑がある。大正五年、職工組合が建立したもので、神保新田、金堀、坪井、古和釜の一人親方の名。仙台石に職人の神様、聖徳太子が彫られており、太子塔という。この石造物に刻まれている姿は、聖徳太子が16歳のとき、父用明天皇の病気平癒を祈った姿をあらわしていると云う、いわゆる孝養太子像。頭は、耳もとで丸く結った美豆良(みずら)と云われている結び方をし、両手に柄香炉。袍衣の上に袈裟をかけ、三宝に帰依している姿をあらわしている。
    大正5年といえば、陸軍騎兵学校が習志野に移転して来た年。地元の組合に活気があった年である。

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  • from: 坪井さん

    2012年01月16日 22時21分22秒

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    獅子舞

    今日「船橋の地名」58号が送られてきました。「カツシカ」という地名とその表記(滝口昭二)、「あんばさま(疱瘡神)の話」など、興味深い話題でした。私は坪井の三匹獅子舞について書きました。
     三匹獅子舞の話は、ブログは途中になっているので、今回、全文掲載します。

    <font size="3"> 坪井の獅子舞        

     坪井には獅子舞行事があった。大神保、金堀、楠が山、坪井で行われていた三匹獅子舞である。安養寺と西光寺が交代で最初に踊る年番寺とな り、子安神社、泰山堂、白山権現の順に舞い、最後にまた年番寺で終わる。当時踊り手だった人は今も健在。踊りの最後のセリフは「天下泰平」であった。 その獅子頭は、船橋郷土資料館に保管されている。吉橋の獅子はクーダレシシ(糞たれ獅子)、桑橋は海老獅子、平戸と島田は頭が竹籠状の籠獅子、麦丸はマナズジシ、坪井の獅子頭も籠獅子である。


      獅子頭につけた胴幕の中に二人以上が入って舞う二人立ち獅子舞は、大陸から伎楽として伝来したもので伎楽系(神楽系)と呼ばれ西日本に多い。関東や東北では、太鼓を打ちながら一人立ちで踊る風流(ふりゅう)系といわれる舞いが多く、坪井の獅子舞は後者である。風流とは、今の風流という言葉が持つ上品な趣という意味ではなく、人を驚かすような華美なものという意味である。仏具師により作られたという獅子の頭は、霊力を感じさせる大きな目と、人を吸い込むような大きな鼻の穴が特徴である。
     「房総の祭事記」によると、千葉県内106箇所で行われていた三匹獅子舞は、北総、上総はほとんどの場所で獅子舞と呼び、作祭(豊作祈願)、悪疫祓いのため踊られる。安房ではその太鼓から羯鼓(カッコ)舞いと呼び、厳しい気候からか全て雨乞い行事である。
     後北条氏が支配した北総は三匹獅子舞がほとんどであり、里見氏が支配した地域では、神楽系の獅子舞が多いというのも面白い。三匹獅子舞の奉納場所は、神社77、寺8と神社がほとんどであり、坪井のように神社・寺両方を回る地域も10箇所あった。


    別所の三匹獅子舞       長狭の神楽獅子舞

     古代オリエントの霊獣であった獅子は、西はエジプトに渡ってスフィンクスとなり、東はインドに渡り中国を経由して、文殊菩薩の乗り物として仏教によって日本に伝来した。
     日本における獅子舞行事の起源については、多くの村に巻物が残っているというが、千葉県に縁があるものとしては、埼玉県秩父郡浦上村昌安寺所蔵の「大日本獅子舞の由来」が興味深い。鎌倉時代、雷鳴とともに帝城の紫宸殿に三つのものが落ちた。石清水八幡宮の神託には「これは聖人出世のときにまれに出る獅子という猛獣の頭であり、これからのちの天下の祭礼はこの獅子舞いで天下泰平を祈るべし。」とあった。幕府は帝の勅を受け、下総国の角兵衛に獅子舞いを命じた。角兵衛は、弟角内、息子角助を連れ、三人で参内して踊り、のちに三人とも一流づつ舞い出し世に広めたそうな。

     獅子は高麗を経て狛犬となって渡来した。埼玉県日高市の高麗郡にある高麗神社へ行く。国が滅び帰国できなくなった高句麗の若光王が、大和朝廷より土地を与えられ、郡長となって渡来人1799人と開拓した地である。
     旅の目的は、高句麗人の村なら獅子舞は彼らが伝えた伎楽系の狛(高麗)犬型であろうということを確かめるためであった。確かにパンフレットで踊っている 獅子舞いの頭は伎楽系に多い狛犬型であった。しかし驚いたのは江戸時代に使われていたと伝えられる古獅子面は北総と同じ風流系であり、踊りはなんと三匹獅子舞であったことだ。
     この神社の三匹獅子舞も北条氏が行わせたものなのか。高麗神社や全国の多くの神社で三匹獅子舞が奉納されているのは、鎌倉時代、全国に領地を有していた北条一族によるものなのか。そう思えた旅であった。

      

     越後獅子というものがある。角兵衛獅子は、水害が多く生活が成り立たない越後の月潟村で、水戸浪士角兵衛が子供に獅子舞を教えて、農閑期に諸方勧進させたのが元祖といわれる。
     鶏毛をうえたる木獅子を被り、頭に羯鼓をかけ、笛を吹いて舞踊する越後獅子、上総獅子なんどと云えり(飛州志)。親方が太鼓を打ち、笛役一人、4,5歳から12,3歳の子獅子2,3人が一組となって諸国を渡り歩く。太鼓に合わせて「そっくり返り」「片手返り」「蟹の横ばい」などの一人芸や「淀の川瀬の水車」などの二人芸を演じた。十余組の角兵衛獅子が江戸の家々を門付けしていたという
     東北を回っていた渡辺寅之肋の話。稲刈り間近な頃に月潟村を出発し、弥彦神社を参拝して各組に分かれて村々を門付けして回る。越後を離れ、山形を回るころは冬となり、秋田あたりで正月を迎えた。 日暮れの前に村につけず、雪深い夜道をさまよう。 巡業で子供を連れ歩くには親方も若すぎた。辛い旅の果てに子供は皆無表情になったという。村に着くと部落長と話し、泊まる家が決められた。家々を一人芸で回った後、集まって組み芸をして見物料を取った。新春は稼ぎ時。青森、南部を経て仙台で稼ぎ、雪解けの頃に福島を抜けて会津に入り月潟に帰る。田植えを済ませて6月の地蔵尊の祭りを待った。 越後獅子は、次第に農家の副業から専業となり曲芸化していった。江戸でも他の大道芸、門付芸と同様に、越後獅子は庶民に親しまれた。



     獅子の子は、成長すると骨が硬くなり芸ができなくなるため、常に小さい子を探さなければならなかった。親方は巡業しながら親に捨てられた可哀そうな子を探した。地方より江戸の貧民街の方がよく見つかったという。可愛い子供の曲芸として諸外国へも紹介された越後獅子も、明治半ばになると子供は獅子の子といっていじめられ、児童虐待であるとして親方を見る世間の目が冷たくなった。義務教育の実施、禁止令の発布などで、越後獅子は急速に衰退し、明治末年に月潟村から完全に姿を消した。(逆立ちする子供たち 阿久根巖)

     三匹獅子舞いは越後獅子のように幼い子供に曲芸をさせて旅をするものではない。伊勢大神楽のように伊勢神宮の御札を持って回る全国組織を有するものでもない。古野清人著「獅子の民族」によると、三匹獅子舞は神社の祭礼のために獅子舞を出すのではなく、農家が農耕儀礼として村の鎮守さまに豊作を祈願するために行われる。村によって異なるが、「ちはやふる・・」という言葉で始まる口上が多いのは、神に捧げる踊りであることを示すものである。オヤジシ、ナカジシ、メジシの三匹による狂言にも似た長く激しい舞い。名誉ある踊り手には後継ぎの長男が選ばれた。次男三男は花笠持ちの役だけ、婿にも踊らせず、村から踊りの流出を防いだ。
     郷土資料館にある坪井の獅子は角が折れ、口が割れていて、修理には数百万円かかるという。小さな村で、高価な獅子頭を買い、踊りを習わせる負担は大きかった。門外不出の理由もそこにあるのだろう。祭りの時だけ旅芸人を呼ぶのではなく、村で獅子舞を維持するのは大変である。踊り、笛、太鼓などの練習。しかし、この多大な負担以上の価値を獅子舞に感じたからこそ全国に広まったのであろう。
     閉鎖的に伝承されたこの農耕儀礼は、戦争で若者が減り、長男が勤め人になり、時代とともに信仰から単なる民族芸能になった時、継承の力を失った。
     後継者が育たなかったのは、坪井では、若い世代にさせていた踊り手ではなく、年寄りが長くやっていた笛吹きであった。伝承の難しさを考えさせる出来事である。
     東京オリンピックの昭和39年、坪井は獅子舞を辞めた。
     

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  • from: 坪井さん

    2012年01月12日 01時39分13秒

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    「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:坪井を歩く」

    初ばやし
    <font size="3"> 1月7日子供神輿が坪井本村の家々を回る。子供達が持つ神輿は「ワー」という声とともに屋敷に入り、玄関先で「オラオラワッショショ」ともむ。参加者は中学二年生から小学校一年生までの子供達で相当身長差があり、神輿は担がずに持って移動し、もむ時は神輿を下げてもむ。
     朝10時から始めて、本村全部回ると夜の七時くらいまでになる。小さい子も女の子もいて、早く帰さないと家の人が心配するからと世話人はつぶやく。以前は子安神社の掃除を子供達みんなでしたので、その付き合いでなかよしになったが、今はやはり小学校の同級生中心の付き合いになったとのこと。
     坪井にあんばさまを祀る家がある。子供達は、社の前に神輿を置くと、よく手入れされた広い竹林に一斉に散らばって遊び始め、世話人は集めるのにひと苦労。この家だけは、玄関前のほか、この社の前でももむ。初ばやしの行事はかつてはここを中心とした祭りだったのであろう。
     こんなに長丁場でも子供達は真剣に続ける。もんだ後は子供一人一人におひねりが渡される。終わりは夜の7時くらいになるが、子供の収入は二万円を超えるので、疲れと戦いながらも一生懸命である。
     ご神体は今は二宮神社だが、本来は霞ケ浦の大杉神社。かつては、「アンバ大杉大明神 悪魔を祓ってヨーイヤサ」と唱えた。霞ヶ浦に立つ大杉は、航海の目印として信仰を集め、大杉神社の境内にある安穏寺の住職は、天海以来上野寛永寺や日光輪王寺と兼帯した格が高い神社であった。信仰は漁師により全国に広まった。「ほうそう」に効くとして江戸時代に爆発的に流行り、幕府から禁止令がでたほどであったという。
     この行事は金掘、楠が山、坪井では初ばやしと呼び、高根では、「あんばさま」、吉橋では「大杉さま」という。吉橋では肩より上でもむが、地区の境で神輿を隣に引渡すときは、腰より下でもんだ。坪井も地面すれすれに神輿を下げてもむ。そのため、小さい子でも大きな子といっしょに、もむことができる。「地ずり」という銚子など沿岸で行われるもみ方に似ており、この祭りのルーツが沿岸地方にあったという説もある。
     いまだに正月行事として行われている所は千葉県でもほとんどないであろう。この貴重な行事が伝承されることを祈る。

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  • from: 坪井さん

    2012年01月04日 10時52分27秒

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    「Re:Re:Re:皆さま、あけましておめでとうございます」

     徳川霊廟がお正月に特別公開されると聞き、増上寺に行く。境内ではお正月らしく猿回しが雰囲気を盛り上げる。さる芸は奈良時代に中国から伝わり、馬の守護神として、悪魔払いや厄病除けの祈祷に行われ、室町以降は単なる大道芸となった。
     増上寺裏にある徳川霊廟の中は大きな宝塔が連なり、二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、一二代家慶、一四代家茂が祀られている。
     戦前は今の増上寺の南北に広がる広大な敷地に霊廟があり、北霊廟には、現在、東京プリンスホテルが建っている。東京大空襲で荒廃のままとなっていたものを昭和33年から学術調査し、現在地に改装された。
     増上寺や徳川霊廟は、満州で財を築いた堤財閥への敷地の売却資金などで再建されたのであろう。秀忠公は、現在お江の宝塔に祀られている。壮麗な秀忠の霊廟、宝塔は木造のため焼失したという。江戸の多くの史跡は戦災で焼失した。戦前の国宝リストには、徳川家の史跡が多く残っているのかもしれない。
     拝観を終え、大門を出ると沢山の人垣。箱根駅伝だ。道路の両側に何重にも並ぶ江戸っ子の興奮の列の中で写真を撮る自分の姿があった。
    *写真は増上寺前を走る東洋大学。


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  • from: 坪井さん

    2012年01月02日 20時10分33秒

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    「Re:Re:皆さま、あけましておめでとうございます」
    YOGOさんへ
     年賀ありがとうございます。名古屋で坪井の歴史を読んで頂けるとは、本当にうれしかったです。
     麹町では忙しい一年でしたね。麹町で勤務していた頃感じていたのですが、徳川家はここに300年もいたのに、江戸城のある麹町に全くその歴史を語るものがない。明治政府が菩提寺を除きその歴史を消し去ったのでしょうね。
     西欧は燃えない永久都市を石で造り上げた。都市は残ったが人口が増えるとペストが流行り、人は残らなかった。豪華な建物は各部屋ごとに分譲されたが下水設備がなく、おまるに溜めた糞尿を部屋の窓から棄てていた。大雨になると石畳の道はうんこの川となり、紳士が晴れでも傘を持つのは、上からの糞尿を避けるためだったという。
     江戸幕府は、上水道を整備し、芥・下肥に値段を付け、その回収を事業として畑でリサイクルさせ、農作物の生産性をあげた。江戸は西欧よりはるかに衛生的であった。
     また、江戸時代、内藤新宿や四谷で一番多い業種は炭屋。江戸城や江戸の6割を占める武家屋敷の厨房や暖房は、日本の森林資源を生かした木炭を使用し、その供給のため街道や宿場などの流通のインフラ整備を行った。林業は事業化され、よく手入れされた美しい森が作られた。
     そんなライフライン整備があればこそ、江戸は世界で唯一の百万都市となった。にもかかわらず、その幕府の苦労は誰にも褒めたたえられることなく、歴史の授業でも触れられない。
     そんなことに気がついた今日この頃。今年も身近な地元の生活史などを調べていきたいと思います。お元気で。





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  • from: 坪井さん

    2012年01月01日 07時45分37秒

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    「Re:皆さま、あけましておめでとうございます」
    こちらこそよろしくお願いします。ホームページも充実してきましたね。ホームページは体系的にまとめられるのがいいですね。
     私のブログは行き当たりばったりというところです。あくまでも「さんぽ」のようなものですから、これからもお気軽にお付き合いください。

    * ≪ 2012年1月 ≫ の ≪ をクリックすると前月が表示されます

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