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  • from: 坪井さん

    2009年11月22日 06時24分09秒

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    石の旅 遊女の墓


     <font size="3">江戸の墓には身分がある。大名は巨大な台石、笠付き大塔婆、あるいは五輪の塔や宝塔、一般武士は台石を積んだ上に竿石、僧侶は卵塔(無縫塔)であり、庶民、町民は小さな竿石もしくは舟形光背の一石墓で台石なしと定めがあった。遊郭を貸しきるほどの豪商も死なば一石墓とされた。
     寛文4年に定められた檀家制度により寺の宗門人別帳で信仰が管理され、旅行や転居も寺請証文が必要であった。庶民まで皆が仏教徒になり、法要を行い、墓を建てるようになった。墓はキリシタンでないことの証になったが、死してなお身分制度に縛られた。
     さて、宗門人別帳から除外された人々の墓はいかに。内藤新宿の飯盛女(遊女)の墓として、投げ込み寺と呼ばれる成覚寺の子供合埋碑がある。隣の旭地蔵に刻まれた戒名は「離念信女」。悲しい4文字の戒名は心中した遊女のものである。死んだら戒名を知らせてくれればいいと決まり文句が書かれた身売り証文により、この地に売られ、この地で生涯を終えた子供。この場合、「供(ども)」という字はかわいいという使い方ではなく、時代劇で「野郎供」などと使われる十把一絡の扱いであろう。子供も弔われ戒名はあった。
     旅範屋の肝いりである橋本屋藤兵衛が成覚寺の檀家であったことから、内藤新宿の旅罷屋の飯盛女が成覚寺に投げ込まれるようになった。その数二千三百人。着物を剥ぎ取られ裸で投げ込まれたという。が、「投げ込み」とは大きな穴を掘って死体を放り投げることをいうのではない。寺に金一分と銭二百文を投げ込んで葬祭供養いっさいを依頼することをいう。江戸の寺は、大寺院を除き、どの寺も投げ込みを受け入れた。寺院の境内を発掘すると、墓の下に整然と埋葬されている区域と、雑然と多くの遺骨が発見される墓標なき墓地の区域が見つかるという。
     親戚知人が名乗り出ない行き倒れは回向院下屋敷に運ばれたが、地方からの出稼人などは請人が死体を引き取り、自らの旦那寺に仮取置することに定められていた。遊女の葬儀もその定めに従ったものであろう。
    但し、それは定めの中での歴史であり、定めの外にも遊女はいた。この寺の近くに新宿歌舞伎町がある。この地は江戸時代には大きな沼地であり、これを埋め立てて歓楽街が作られた。今でも風林会館の交差点から南北、東を見るとみな上り坂であり、すり鉢状の底に立っていることがわかる。この地を埋め立てたとき沢山の蛇が出てきた。それを樽に詰めて埋め、弔いに弁天様を奉った。蛇はこの地に棄てられた遊女の化身と言われたそうな。
     近所のお茶屋のご主人が場所を教えてくれた。歌舞伎町一目にある王城の隣、あやしげな広告の中の小さな歌舞伎町公園の地で弁天様は今も奉られている。すり鉢の底のような歌舞伎町には今は、朝から荼髪のホストがたむろする。すり鉢ではなく蟻地獄の底かもしれない。(写真:子供合埋碑 ペットボトルが2つ。どんな人が手を合わせにきているのか)

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    坪井

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