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  • from: 坪井さん

    2010年02月03日 01時28分20秒

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    石の旅 小松石


    <font size="3"> 小松石の石切場を見たいと思い、真鶴へ向かう。途中に根府川の駅がある。根府川石は、小松石と色などほとんど同じであるが、板状節理が発達しており石碑に向いている。平塚の不動院、光明寺や鋸山の日本寺にもあった。JR四谷駅前の石碑は明治33年に桜を植えたとき建立された記念碑。「たれもみなこのこころにてここかしこけしきをそへてさかえさせ」とある。この石が根府川石であり、私の鑑定第1号になった。
     真鶴には石切場が多い。駅前の石屋さんでお話を聞く。明治時代は、戦死者の墓石は一人づつ造られたという。遺体が返ってこないので、せめてと墓石を作ったのか、武士の板碑の風習が兵士にも続くのか。ともかく、石屋は忙しかったという。
     この地は海岸からいきなり断崖絶壁である。古い石切場は海岸に面しており、船で江戸に運ぶには好都合な立地であった。
     掘削している壁面を見る。赤ボサといわれる穴だらけの火山岩、濃鼠色や茶褐色の岩が斑になっており、粘板岩状になっている塊も見える。溶岩の冷却された条件の違いにより、一つの石切場でも性質の異なる岩がはっきりと見える。採掘され、野積みにされた岩は、それらが混在しており、色が異なっても小松石であった。
     坪井の庚申塔を再度観る。石の断面には、赤い礫岩はなく、安山岩系の特徴である白い長石が点在していた。江戸中期の庚申塔は、笠付であり猿など彫りも凝ったものが多いため、加工しやすい石材として赤ボサに近い部分を使い、江戸後期になると庚申塔も単純な文字塔になることから硬い小松石を石材とするようになったのであろう。
     日本人は桜が好きである。はかない変化に美しさを感じるのである。その美意識からすれば不動永遠な石仏は美の対象外となる。
     しかし、石仏もまた無常であり、多くの人の営み、歴史が秘められている。私の石の旅は始まったばかりである。青い空の下の野仏や荒涼たる石切場が私を待っている。

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