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  • from: 坪井さん

    2011年12月03日 18時54分56秒

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    坪井を歩く


    <font size="3"> 11月27日(日)船橋地名研究会の坪井を見る会の案内人を地元の岩佐さんと務めた。歴史散策で地元の人が語ってくれる企画は貴重。岩佐さんに大いに語っていただいた。
     スタートは船橋東警察署前の永久保塁跡。203高地で多くの犠牲を出した明治陸軍が、ロシアの要塞学の権威ロマンコンドラチェンコが築いた旅順の永久保塁を模して築いた。戦後、この地を買収した公団は、市の永久堡塁保存要請を拒否したが、頑丈で壊せずにそのまま埋めたという。小説坂の上の雲の世界が埋まっている地である。
     永久堡塁があった場所には、今、習志野台第二保育園が建てられているが、その隣地の公園に古いコンクリート塊がある。これが永久保塁であろうか。日大理工学部の佐藤助手に聞いた。
     日本は明治5年からコンクリートを作り始め、丸ビルなどを建築した。コンクリートは水とセメントと砂と砂利を混ぜ合わせ、化学反応で硬化させる。セメントは粘土と石灰石と鉄を1300度で熱して粉砕し製造される。
     材料の変遷から見ると、以前は川の砂利を使用したが、採取禁止となり、今は山の砕石を使うため砂利が丸くない。明治時代のコンクリートはセメントの化学反応が不十分だが、素人には判別困難だそうな。
     毒ガス研究で有名な習志野学校の建物と見比べてみたい。

    <font size="2">*この地を掘り返して見ればわかりますね。記念館にしたら、たくさん観光客が来るでしょうね。当時、朝鮮の皇太子も見に来て「よくできている」と言ったと坪井聞き語り集にあります。



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コメント: 全11件

from: 坪井さん

2012年03月25日 22時49分53秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:坪井を歩く」

<font size="3"> 道祖神に会いに酒々井に行く。七社神社前には享和と昭和の道祖神。どちらも2体の像が支え合っている姿で、向って右の像が杖を持ち左の像の肩につかまっており、相手の肩にはつかまる右手が、背中には小袖が彫られている。つま先は3つ。昭和のものは享和のものを模して掘られたものらしい。
 ところが、享和のものには後ろにかかとが彫られ、右足は後ろに下げているだけだが、昭和のものにはかかとは彫られておらず、右足がなくなっている。
 さらに、享和のものは、左の像が右の像が持つ杖を左手で逆手で持ち支えているが、昭和のものは杖はどちらも右の像が持っている。左の像の肩に手を回しているとすると手は3つになってしまう。これらは、模した段階で相手の肩を借りて背中に回した腕と袖を、帯と解釈して彫ったものか。とすると、左が女性なのであろう。八咫烏説はちょっと考えすぎのようである。


享和               
                        ↑右足のかかと ↑逆手

昭和
                        ↑肩に回した小袖が四角く彫られている


国道137号線から谷津田に降りると梅林に囲まれた大仏頂寺があり、その下の小道に道祖神が。つま先は指まで彫られている。やはり3つであった。

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from: 坪井さん

2012年03月25日 06時17分26秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:坪井を歩く」

<font size="3">道祖神
 昨日の千葉大歴史学会は道祖神がテーマ。坪井の道祖神を考えた。坪井のガイドでいつも案内する公民館の裏にある石祠が道祖神である。道祖神は、境の神様であり、ここが坪井村の入口となる。また、旅の神様として、足の神様になった。村はずれの恋仲の男女の待ち待ち合わせの場所になり、子授けの神として三又大根が供えられる。
 道祖神はドウロクジンともいう。八千代市高津の伝承。ドウロクジンは足が悪く、弁天様はきれいでとてもいい女だったので、ドウロクジンが好きになって遊びに来た。ところが、弁天様はドウロクジンが嫌いで、池の中に逃げ込み一本橋をかけた。ドウロクジンは足が三本だから一本橋を渡ってこられなかったそうな。
 この伝承は富津、佐倉、印西にもあるという。八千代の道祖神に奉納するサンダルは3つ。酒々井の道祖神は、男女の双体像で二人で足のつま先が三つしか彫られていない。日本神話で、神武東征の際に、神武天皇を熊野国から大和国への道案内をした三本足の八咫烏(ヤタガラス)。高句麗の旗印も三足カラスである。この神話を双体像として彫ったものではないかと思った。
 坪井でも坪井の大造成の前は、道祖神のある場所の前は谷になっていて、その下に弁天様が祀られていた。木原講師のお話では、北向き道祖神は怖いという。坪井公民館裏の道祖神は北向きである。





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from: 坪井さん

2012年02月20日 22時57分26秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:坪井を歩く」

<font size="3"> 古和釜の八王子神社から県道を南に下ると西の崖に隠れるかのように家々が連なる。辺(へた)という地で、坪井村の発祥の地である。辺の南端の旧道に丸い石が一つ。なにも彫りがないが、藁の屋根が架かっているところを見ると、なにか信仰の対象らしいといつも岩佐さんと話していた。「坪井を見る会」で、その場所を通った時に滝口さんに聞いた。滝口さんはニヤリと笑った。
 「この石は村の入口を守る道祖神。ここは、古くは八王子神社に向かう道から村に入る分かれ道だった場所でしょう。」
 目から鱗であった。江戸時代、村の境には道祖神を置き、悪霊が村に入るのを防いだ。境を守る神を賽の神という。「賽の河原」も死の世界との境である。道祖神を丸い石とする所は山梨県に多いが、千葉では珍しい。彫りがないことから、石塔の資料になく、気づかずに棄てられたものも多いのであろう。この石をじっくりと見ると河原で拾った砂岩ではなく、庚申塔の石材である伊豆の安山岩。村が石工から買ったものであろう。
 路傍の石の訳を知る。またいつか、千葉のどこかで丸石の賽の神に会いたいものである。

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from: 坪井さん

2012年01月12日 01時39分13秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:坪井を歩く」

初ばやし
<font size="3"> 1月7日子供神輿が坪井本村の家々を回る。子供達が持つ神輿は「ワー」という声とともに屋敷に入り、玄関先で「オラオラワッショショ」ともむ。参加者は中学二年生から小学校一年生までの子供達で相当身長差があり、神輿は担がずに持って移動し、もむ時は神輿を下げてもむ。
 朝10時から始めて、本村全部回ると夜の七時くらいまでになる。小さい子も女の子もいて、早く帰さないと家の人が心配するからと世話人はつぶやく。以前は子安神社の掃除を子供達みんなでしたので、その付き合いでなかよしになったが、今はやはり小学校の同級生中心の付き合いになったとのこと。
 坪井にあんばさまを祀る家がある。子供達は、社の前に神輿を置くと、よく手入れされた広い竹林に一斉に散らばって遊び始め、世話人は集めるのにひと苦労。この家だけは、玄関前のほか、この社の前でももむ。初ばやしの行事はかつてはここを中心とした祭りだったのであろう。
 こんなに長丁場でも子供達は真剣に続ける。もんだ後は子供一人一人におひねりが渡される。終わりは夜の7時くらいになるが、子供の収入は二万円を超えるので、疲れと戦いながらも一生懸命である。
 ご神体は今は二宮神社だが、本来は霞ケ浦の大杉神社。かつては、「アンバ大杉大明神 悪魔を祓ってヨーイヤサ」と唱えた。霞ヶ浦に立つ大杉は、航海の目印として信仰を集め、大杉神社の境内にある安穏寺の住職は、天海以来上野寛永寺や日光輪王寺と兼帯した格が高い神社であった。信仰は漁師により全国に広まった。「ほうそう」に効くとして江戸時代に爆発的に流行り、幕府から禁止令がでたほどであったという。
 この行事は金掘、楠が山、坪井では初ばやしと呼び、高根では、「あんばさま」、吉橋では「大杉さま」という。吉橋では肩より上でもむが、地区の境で神輿を隣に引渡すときは、腰より下でもんだ。坪井も地面すれすれに神輿を下げてもむ。そのため、小さい子でも大きな子といっしょに、もむことができる。「地ずり」という銚子など沿岸で行われるもみ方に似ており、この祭りのルーツが沿岸地方にあったという説もある。
 いまだに正月行事として行われている所は千葉県でもほとんどないであろう。この貴重な行事が伝承されることを祈る。

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from: 坪井さん

2011年12月31日 21時35分05秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:坪井を歩く」

 れきしさんぽをご覧いただきありがとうこざいます。
 今年は船橋地名研究会のみなさんに坪井を紹介できました。私と岩佐さんでコースの打ち合わせをした時に、二人の疑問を滝口さんに聞いてみようと決めました。何なのか分らなかった石について、滝口さんに現地で教えて頂き目から鱗。ありがとうござました。
 また、知人の勧めで参加した千葉大学の千葉歴史学会民族部会の獅子舞の話がとても興味深かったので調べ始めました。図書館で獅子舞の本はありますか?と聞くとクスッと笑われました。次の図書館でもそうでした。そんな人はいなかったんでしょうね。本が探せず、国学院大学の図書館に電話したところ、たまたま図書館にいた教授が電話に出てくれて、獅子舞の文献などご紹介いただきました。その時言われたのは、必ず先人が調べて書き残しているので、よく調べてみることという言葉でした。
 確かに三八銃の時も、石の話の時も、調べ始めの頃はいつも途方にくれているけれど、書き終わった頃に次々と文献と出会いました。
 先日、町会の方から父が残したと民俗学の本をたくさんもらいました。北総台地、騎馬民族、須恵器などの本でした。この本を集めた方は、獅子や狛犬を調べに高麗神社に行ったりしている私と同じ疑問を持っているのかもしれないと思いました。興味は次々に広がりますが、基本は地元坪井の歴史の聞き語りです。今年は坪井の初ばやしや北総の三匹獅子舞を見に行こうと思っています。
 では、今年は獅子舞の話でオシマイ。

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坪井

from: 宗吾台さん

2011年12月30日 10時38分58秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:坪井を歩く」
現在の高根台5丁目は習志野演習地に属していて、地元の抗議を受けて習志野開拓団が返却したという記録はありますが、不思議なことにこの分は坪井に返したというのです。村の範囲からすると古和釜に属しているのですが。このあたりが疑問の一つです。松が丘4丁目と5丁目は初めから古和釜の分で、坪井の分ではないと思います。もちろん坪井の人が畑を持っていたということはあり得ます。ですから坪井の人が坪井の分だったということはあり得ます。
東葉高速の路線のうち坪井の分は演習場には入りませんから、米軍から返還された分をお金で返したというのは分かりません。この辺をよく確かめないといけないと思います。時間的に相当経過していますからね。習志野原演習場の話は現在の坪井のご主人たちはまだ生まれていないかあるいは小学生以下であったはずで、話はお爺さんなどから聞いたものでしょう。ですから伝聞でしかないので、之を別の資料で確かめられるだけ確かめるのがよいです。あんば様の地主の方の話はよくわかります。自分の家のことがどのように書かれているかは関心のあるところで、、この種の原稿は関係者の方に見せてからのほうがよいのです。八千代でも同じことがあって、会長が謝罪に行ったり、そのことが原因して会員が退会したということもあります。今回の場合はそれほどではないでしょうが、事前にその方に見せて了解を得るというのは郷土史を展開する場合には大事なことです。また、あちこちで獅子舞の話をなさっているということですが、地主の方に了解は取っておられるのでしょうね。老婆心ながらお聞きするところです。58号は2冊送っておきますからよろしくお願いします。滝口昭二

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from: 坪井さん

2011年12月29日 18時52分20秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:坪井を歩く」
 滝口さんへ
 岩佐さんに聞きました。確かに習志野台の松が丘4丁目、5丁目は、昔は坪井だったそうです。古い地図にはそうなっていますが、返還地については、年寄りで覚えている人がいないのでわからないとのことでした。私の記述は不動産関係の友人から聞いた話です。坪井に東葉高速鉄道が通ると決まった時、大手不動産会社が坪井川の土手を買い占めた。その中には稲干場という村の共有地も。大手不動産屋の手足となって地上げした不動産屋は大儲けして羽振りがよかった。不動産屋の社長はその儲けで選挙に立候補したが落選。結局、選挙資金の形で地元に金を戻したことになったそうな。
 
 *地名研究会の会報を、次回発行するとき一部余分に送っていただけませんでしょうか。あんばさまの地主さんが読んでみたいそうです。私はその号で獅子舞について書きました。最近あちこちで獅子舞の話をしています。最後のセリフはもちろん「獅子舞の話はオシマイ」です。

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from: 宗吾台さん

2011年12月28日 13時50分34秒

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「Re:Re:Re:Re:坪井を歩く」
庚申塔は60日に1回の庚申講の際におそらく少しずつのお金を持ち寄って貯めておき、10ねんたったら石塔立ててきたもので、村の信仰活動の成果です。私たち新住民や研究会の人たちが文化財としてみるのとは異なります。どちらが本来の形は当然のことながら村の人たちの気持ちです。庚申塔が近年建てられなくなったのは庚申信仰が現代の生活にそぐわなくなったからでしょう。ましてやよそから入ってきた人たちにはただの文化財としか見られないのは仕方がありません。ただ、村の姿を知ろうとするとき、庚申塔を建てるために苦労した人たちの心情もまた大事にしていく必要があります。坪井に帰ってきた習志野原の一部はその後手放して高値第5丁目になったと聞きましたが、そのような話は伝わっていませんか。

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from: 坪井さん

2011年12月28日 01時43分32秒

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「Re:Re:Re:坪井を歩く」

<font size="3">庚申塔
 坪井の庚申塔を案内する。坪井には七つの庚申塔が並ぶ。享保14年、文化8年、天保9年などの建立。干支の庚申の夜、人が眠ると三尺(さんし)という虫が体から抜け出し天帝に悪事を報告、天帝がその軽重で寿命を削った。そこで、三尺が体から出ぬよう、その夜は眠らず徹夜で庚申待の行事をした。平安貴族が始め、武士に広まり、源頼朝や織田信長も行った。江戸時代には庶民に普及したという。
「江戸時代は、百姓は文字が読めなかったから、石に絵を掘って、村人の戒めとしたそうです。」岩佐さんは、江戸末期は文字だけの庚申塔になったということは、百姓も文字が読めるようになったということではないかという。
「庚申塔は年代により青や赤の色がありますが、いずれも伊豆の小松石と呼ばれる安山岩です。」と私も少しだけ解説をした。
 千葉県の石仏の石材は、白い長石が含まれているものが安山岩で、黒い雲母が含まれているのが下総式板碑などに使われている御影石、花崗岩である。小石が含まれているのが凝灰岩で、君津の高宕石は対岸の丹沢から流れ着いて隆起したもので、神奈川県の七沢石と類似している。佐倉にあった宝篋印塔は犬吠埼の銚子砂岩である。
 火山灰堆積地である坪井は、開発中の崖なども一面の土で石は一つもない。石塔は江戸から運ばれた。そしてその石の産地は伊豆であった。江戸城や内堀、外堀の石垣を造るため、多くの石工集団が江戸に集められた。加藤清正など西の大名が競って伊豆に石丁場を作り、三千の石舟で江戸に石を運んだ。江戸城が完成した後も、外堀増築、修復のため石工集団は必要とされ、職業集団として江戸に留めるための仕事が必要であった。幸い、伊豆の余り石は十分にあった。石工は余り石で既製の墓石や石仏を量産し、関東一円に出荷販売した。
 地名の会の皆さんはさすがに多くの庚申塔を見て、聞いているらしく、本体の解説より、その台座の立派さに驚嘆の声を上げた。庚申行事を続けていないのに誰が金を出したのかと鋭い質問があった。
 陸軍に接収された習志野台は戦後、多くの入植者が入り、広い土地で大規模農業を目指した。近隣農家は、その土地は我々の土地であり、軍は返還を約束したと農地の返還運動を起こした。坪井にも一部が返還され、それがこの台座となったのかもしれない。庚申塔の正面には、かつての村の田畑、今は大規模開発地に建つ住宅群が広がっていた。
 お金持ちになったことを三尺の虫が言い付けませんように、見ざる言わざる聞かざるという意味で建てたのではない。庚申塔群は船橋でも多く見かけるが、住まいの隣にあって喜ぶのは地名研究会の人だけで、新住民はそうではないだろう。この坪井の御影石の台座は、村の古い歴史を新しい街に調和させる役目を果たしているのである。

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from: 坪井さん

2011年12月18日 23時45分55秒

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「Re:Re:坪井を歩く」

<font size="3">酒山砦
 永久堡塁を後に酒山砦跡に行く。酒山砦の場所は、インターネットで検索すると習志野台団地の場所や永久堡塁跡などの説がある。案内人岩佐さんの説ではアリーナへ行く途中の土手の上、日大薬学部の薬草園の場所だという。小田原北条氏に属していた後藤左近丞源頼勝が城主で、国府台合戦に向かう里見方の武将・正木大膳時綱の軍に攻められ落城したと伝えられる。
 明治の地図では、陸軍が射撃訓練を繰り返した射的場の東側。ここは、西側は駒込川が城の堀の役目をする。北東も空堀のように低くなっており防御面ですぐれた地形である。
 城の適正規模とはどれくらいなのであろう。毎朝、通勤で飯田橋から四谷まで江戸城の外堀を見て歩きながら考える。江戸城はたくさんの兵がいたが、出城や砦などは守る兵や住民の人数以上に城が大きいと草刈りやメンテナンスが大変で、農作業ができなくなる。坪井は寛文検知帳で二八戸であるから、戦国時代はそれ以下の戸数であろう。また、習志野は一面の野原で住民はいない。大きな城など維持できる地ではない。坪井城は後年バクチ場と言われるくらい荒れ放題になってしまった。
 必要最小限の大きさとして、敵の矢を防ぎ、こちらの矢では狙える程度の距離と高低差が必要と考えた。大陸の弓は射程距離が長いが、日本の竹製の弓の射程距離はおおむね50mであり、これが防御ラインであったろう。江戸城の堀はなぜあれほど大きいのか。それは射程距離が100mの鉄砲の時代に作った城だからであろう。掘はおおむね100mの幅があり内側が高く、外堀の外からは鉄砲で直接狙えない距離である。
 酒山砦は、北東から攻められ落城したという。酒山砦は里見方に、吉橋城は北条方の太田道灌に攻められ落城したと伝えられるが、その間にあった坪井城には落城した記録がない。
 ただ、坪井城から放った矢が落ちたところという矢崎(先)という古い地名が残る。その地から50mのところに坪井城があったということであろうか。


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坪井

from: 坪井さん

2011年12月10日 22時22分56秒

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「Re:坪井を歩く」
<font size="3"> 明治のコンクリート
 永久堡塁跡にあるコンクリート塊は明治時代に造られた永久堡塁であろうか。 それを比較すべく明治時代のコンクリートを探した。千葉公園に行く。津田沼から移転した鉄道連隊は、大連から旅順まで28サンチ砲を運ぶ線路を構築したことで有名である。公園内のレストランで聞いたところ、あちこちにコンクリート塊があるという。白っぽいセメントは、大きく沢山の丸い砂利の隙間をやっとのことで埋めており、見た目にもデコボコしている。このセメントの白さが明治期の特徴とすれば、永久保塁跡のコンクリート塊は平でネズミ色であり、明治期に造られた千葉公園のコンクリートとは違いすぎる。



 千葉公園から船橋市三山にある陸軍習志野学校跡に向かう。なぜか、霊園に行くときによく感じる胸騒ぎ。毒ガス埋設地のためであろう立入禁止の表示板。広い敷地に点在する建物土台のコンクリートは塀越しでよく見えない。昭和8年の通用門と詰所はきめの細かいコンクリートであった。



 最後に習志野駐屯地裏にある習志野霊園に行った。捕虜となった日露戦争のロシア軍捕虜、第一次世界大戦のドイツ軍捕虜が、陸軍騎兵隊兵士とともに眠る地である。この墓や土台が明治期のコンクリートではないかといううわさを聞いた。騎兵隊兵士の墓は以前見た網走刑務所の刑務官の墓に似た均一な角柱の墓であったが、割れた面は庚申塔のそれと同じであり安山岩と思われる。



 再び永久堡塁跡に戻って、コンクリート塊の中の砂利を見る。なんと、砕石が入っている。砕石は、川砂利の採取が禁止されてから使われるようになったもので、昭和のものということになる。
 このコンクリート塊は、かなり分厚いもので道路に面するところが中途半端に破壊され、公園内に残されている。市の道路工事記録でも読むとわかるのだろうか。



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坪井