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  • from: 坪井さん

    2012年09月29日 14時16分04秒

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    「Re:Re:Re:Re:Re:吉橋大師講八十八箇所巡り」

    <font size="3"> 七番札所西光院
     船橋市大穴の西光院。札所のお堂には三体の石造が安置されている。その裏には唐破風笠の巨大な墓石。船橋市指定文化財「齋藤その女」の墓である。この墓石は、神楽坂光照寺にある出羽松山藩酒井家の殿様の大名墓より大きい。
     「江戸の墓には身分がある。武士は台石を積み上に笠石、僧侶は卵塔、町人は小さな笠石もしくは舟形光背の一石墓で、吉原で豪遊した大商人とて、死なば一石墓であった。」 と、読んだ文献の話を覆すほどの衝撃の墓石であった。
     俳人として活躍した「齋藤その女(め)」。その父安兵衛は、大穴村が105石の時代に一軒で150石を有する大地主であり、その財力は大穴の牧士、齋藤五郎兵衛をもしのぐものであったという。 
     安兵衛の屋敷跡近くのお宅でお話を聞いた。江戸時代、安兵衛家はこの地域の名主総代を努め、広大な屋敷は領主松平家の宿になり、殿様が乗る籠も2つあったそうな。
     見せてくれたのは、銀塩の乳剤をガラス板に塗布して写した写真乾板。明治初期のものか。安兵衛一族で判事となった齋藤敬輔夫妻の写真とのこと。広い屋敷跡は、今、造成工事中である。古い屋敷跡だからお宝が出るかもしれないと、かなり掘ったが、古い茶碗が出ただけであったという。


    西光院                       その女の墓


    ガラス板の写真                造成中の屋敷跡

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  • from: 坪井さん

    2012年09月22日 06時01分50秒

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    船橋を歩く


    <font size="3"> 九月「ふなばしの大神宮展」が本町の市民ギャラリーで行われた。意富比(おおひ)神社の通称で、景行天皇40年創始。日本武尊が東征の際、船橋湊郷に上陸し、この地に祭場を設けたのが創建の縁起という。朝廷の御崇敬も篤く、意富比神社の位階は従四位下である。正一位の香取神宮、正三位の安房坐神社と后神天比理乃〓命神社、正四位上の玉前神社に次ぐものであり、下総国国司の従五位上より上位であった◆展示物は、船橋大神宮が所有する二幅の「徳川家康肖像画」や徳川家康の「寄進状」、徳川将軍からの「朱印状」、市が所有する錦絵や写真など。家茂まで歴代将軍からの朱印状は、秀忠以降は印章だが家康は花押。今川義元風の花押という◆戊辰の戦。船橋市川戦争で市街戦に手を焼いた官軍は村に火を放つ。旧幕府軍の陣地となった船橋大神宮。砲弾の嵐と戦火の中を、生死を顧みず、この資料を守り続けた先人の御労苦に感謝。船橋大神宮境内の灯明台とともに、船橋市民の心の灯火である。

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  • from: 坪井さん

    2012年09月14日 06時31分57秒

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    「Re:Re:Re:Re:吉橋大師講八十八箇所巡り」

    <font size="3"> 吉橋に行く。高木氏の吉橋城二の丸に建つ貞福寺。本尊は血流れ地蔵である。北条方により吉橋城が落城。殿様が討ち取られたと家臣たちが城に行くと、頭から血を流して倒れている地蔵菩薩があった。寺では殿様の身代わりとなった地蔵菩薩を、守り本尊とした。墓地の奥に吉橋城本丸跡があり、きれいに掃除された広場に吉橋城址の石碑があった。「夏の古城は蛇に気を付けなさい。」という滝口さんの助言により延期していた吉橋についに来た。
     貞福寺は二十番札所であり、一番札所は、城の北東、鬼門の方角にあった。札所は神社やお寺の境内の片隅に小さくあるものであるが、この一番札所は資料にある吉祥院の建物がなく、現在は札所だけの地になっている。いや、この建物が吉祥院だったのかもしれない。建物は古いが敷地は整備されており、村が大事にしていることが伝わってくる。



    吉橋城址石碑              一番札所

     吉橋城の大手門は、貞福寺を南に500m下った処にある八幡神社と聞き、更に旅を続けた。
     八幡神社の拝殿にたくさんの人がいた。社を出てきた人に聞くと、獅子舞のカシラアゲをしているという。かつては獅子舞をしていたが、今は、こうやって花輪、寺台、尾崎、高本の四地区で獅子頭を奉納するだけになったそうな。神殿の獅子頭を見せていただいた。3匹獅子舞の頭である。写真を撮りやすいようにと取り出してくれた。真新しい朱塗りの三匹の獅子の頭には、青黒く光る軍鶏の尾が。思わぬところで、念願の獅子舞行事に出会えた一日であった。


    カシラアゲ

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  • from: 坪井さん

    2012年09月09日 02時49分48秒

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    「Re:Re:Re:吉橋大師講八十八箇所巡り」

    <font size="3"> 八千代文化伝承館の木原先生を訪ねた。伝承館は飯綱神社にあり、30番札所があった。船橋信用金庫が作った吉橋大師講八十八箇所カレンダーなど札所に関する資料を見せていただく。中でも吉橋大師年度別遍路一覧は、昭和46年から回った札所や宿泊所、料金などを整理した表である。
    昭和46年春
    初日 田喜野井⇒久々田⇒七林(宿泊高津)
    二日目飯山満⇒海老ヶ作⇒大穴
    三日目坪井⇒八木ヶ谷⇒高本
    四日目寺台⇒萱田権現⇒萱田町
    五日目大和田⇒薬円台
     春と夏に5日間で14箇所を回り、一年では計28箇所を回る。昼食代は昭和四46年では100円、56年には300円になった。宿泊代は昭和49年に男500円、女400円が昭和51年には千円になっている。昭和初期までは3日間、その後5日間で行われるようになった。昭和46年から平成6年までの24年間のうち、坪井には20回来ている。
     先生が吉橋大師講に付いて回った時のことを話してくれた。50以上ある村から一村5人以上来るのだから200人以上になる。その行列が成田街道を延々と歩く。服装は普通の服装だったが、四国へ行った人は白装束だった。「行人二人」といって、お遍路は、弘法大師と一緒に巡礼するのであり、「善根」といって、「施すのも功徳、施されるのも功徳。」として、札所では餅、菓子、お茶などの接待を受けた。村上の梨など土地の名物も出て、大きな土産袋がいっぱいになったという。
     「今も歩く会が盛んだけど、地元とのこんな触れ合いがあるといいですね。札所巡りが復活すれば人気になるでしょうね。」と聞くと、実は札所巡りをしていると言って、主催する吉橋大師八十八箇所ウォークの資料を出してきた。二年間かけて、札所巡りをする。明日は勝田の獅子舞を回るそうな。今後の参加をお願いして伝承館を辞した。


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  • from: 坪井さん

    2012年09月08日 02時28分47秒

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    「Re:Re:吉橋大師講八十八箇所巡り」
     コメントありがとうございます。この話はまだ続くのですが、吉橋大師講のお遍路は年2回、1回に3箇所を回ります。坪井がコースに選ばれることが多かったようです。昭和46年から平成6年までの間に20回。1箇所に2つの札所があったからだけではないようです。古和釜も東光寺に2つの札所がありますが、この間にコースとなったのは2回。
     コースどりとして、いい地であったのでしょう。お遍路の方々へのご接待がよかったからか、たくさんの人々が通るので交通安全の面もあったのでしょうね。旧道でお遍路コースを回るとその理由がわかるかもしれません。今度、やってみます。
     現代風に言うと「お泊り・お食事・お土産付きの歩く会」でしょうか。
     *ホームページ楽しく読ませていただきました。
     *岩佐さんに尋ねたところ、坪井がコースになることが多いのは、坪井の参加者が多かったからではないかという意見でした。

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  • from: Greenさん

    2012年09月08日 00時16分19秒

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    「Re:吉橋大師講八十八箇所巡り」
    お話に登場した吉橋大師講八十八箇所巡りの札所は坪井地区にもありました。
    西光寺がそうです。

    実は、西光寺は第17番札所ですが、敷地内の阿弥陀堂が第46番札所に当たります。
    一粒で二度おいしい霊場ということになりますが、資料によると、お寺としては廃寺とされています。

    おもしろいなぁと思うのは、大師講なので天台宗か真言宗のお寺さんが選ばれているのかと思っていたのですが、そうと限ってはいないようです。
    神社も含めて神仏混交という雰囲気で、庶民信仰なのだなぁと(笑)。

    いずれにしても比較的新しい時代に設定されたものなのですね。

    (参考) 西光寺 http://tuboi.yu-yake.com/infrastructure/saikoji.htm

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  • from: 坪井さん

    2012年09月07日 06時00分47秒

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    吉橋大師講八十八箇所巡り


    <font size="3"> 船橋地名研究会が作成する「船橋を歩く」の編集協力員として、海老ヶ作を歩く。地図を見ると確かに村は川海老の形である。海老の頭の部分は六差路の複雑な交差点。「錠場(ジョッパ)」と呼ばれる村の入り口である。尻尾の部分にある海老ヶ作自治会館前には新四国八十八箇所七十番札所があった。
     札所傍の斉藤家を訪ねた。昔から札所を管理しているとのこと。海老ヶ作の斉藤は大穴の斉藤の流れ。「大穴の旧家には古い道具がたくさんあった。子供の頃、殿様が乗るような籠に乗って遊んだよ。東映が撮影に使うといって借りに来たこともあった。」
     奥から曼荼羅の掛け軸を出して来た。「吉橋に一番札所があってね。大師講の時は、毎年、車で婆さんを送っていった。見合い話もそこで出るんだ。坪井は祭りでも婿に花笠持ちしかさせないが、海老ヶ作は婿を大事にするよ。」
     海老ヶ作や坪井など豊富の地は、吉橋城の高木氏が滅びた後にも、依然として吉橋を中心とした絆の中にあった。そこに吉橋大師講が作られた。そう思えたお話であった。

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  • from: 坪井さん

    2012年09月03日 03時51分02秒

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    「Re:Re:Re:東北の旅」

    <font size="3">◆三内丸山遺跡2◆縄文時遊館では縄文人の生活が紹介されている。ゴミ捨て場から、獣、魚の骨が多く発見され、植物ではクリとクルミが主食で縄文後期になってからヒエが作られているという。
     遺跡の中に墓地があった。道路の両端に土饅頭が並んでいる。人はほぼ伸びたままの姿勢で土が盛られたという図があった。網走の鎖塚も埋葬方法は同じか。
      http://www.c-player.com/ac92454/thread/1100094030641
     縄文人は沖縄やアイヌの人のような顔であったという。弥生人が大陸から稲を持ってきて、本島の稲作地にノッペリ顔の弥生人が定着し、稲作が伝わらなかった地域
    だけが縄文人の面影を残しているという説がある。
     見学者の一行に沖縄から来たという外国人いたので、「皆、眉毛がつながっていませんでした?」と話しかけたら、自分の眉毛に指をあて「どうして知っているの?」と大笑い。仲良しになりました。

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  • from: 坪井さん

    2012年09月01日 08時40分30秒

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    「Re:Re:東北の旅」

    <font size="3"> 三内丸山遺跡に行く。平成6年、県営野球場建設予定地で、直径1mのクリの巨木を使った大型掘立柱建物跡が発見され、縄文史跡として保存された。
     展示品のひすい、めのう、黒曜石などは、長野など遠い地よりこの地に運ばれてきたものという。かつては海に隣接し、この地に人が集まり、交易の場となった。
     村は集会もできる大きな家や倉庫など集団生活を営んでいたことを示す遺跡があった。人が集団生活をするのは、稲作が伝わった弥生時代からではなく、縄文時代からあったことを示す遺跡群である。
     霞ヶ浦の大杉が「あんばさま」として信仰を集めたように、この6本柱も漁師の目印となり信仰を集めたことであろう。6本柱は村の力の結晶であり象徴である。他国からは畏敬の念で眺められ、交易上の信用を得るものとなったであろう。スカイツリーブームに沸く日本。日本人は古代から高いものが好きである。





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