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  • from: ぽっぽさん

    2021年06月27日 10時55分05秒

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    出口なき戦場

    皆さん、こんにちは!
    BGMはネットラジオで「クラシックギター」を。。。

    お耳は今朝、最悪でございましたァ!
    午前2時25分前に「ピチッ!」と1発! 
    さらに、立て続けに10分間に「ピチピチ!」「ピチピチピチ!」そして「ピチッ!」が数発の合計6度ほど連続発生しました(/Д`)

    その後、午前3時までの30分間に「ピチッ!」と単発が10度ほど波状的に発生しましたので、2時25分から3時までの合計は「16~7発」だったでしょうか o(TヘTo

    「台風5号」は小笠原の東コースへそれたのでウレピーと思いましたが、「梅雨前線」が北上しましたので、その影響なんでしょうかねぇ!?
    (まぁ、「連続花火」にならなかっただけ、マシかなぁ?と思うことにします!)

    【沖縄戦 出口なき戦場】 NHK番組(2020年の再放送)
    昨夜、「録画:沖縄戦 出口なき戦場」を見始めたのですが、途中で眠ってしまいましたので今朝、見終えました。
    (ふーたんは夜中、私が上記のピチッで悩まされています頃に見ていました)

    6月23日の「沖縄慰霊の日」と、「沖縄での集団自決に関する大江ノート訴訟」もトピックに書かせていただきました。
    この「出口なき戦場」のアップに皆さんは「またか! くどい!」と思われますが、私は決して先の戦争(太平洋戦争)におけます「日本軍の蛮行!」を決して許すわけには参りませんので、くどいと言われましても今後も書かせていただきます!。

    ネットから番組を・・・長い紹介ですので、ピックアップします。
    『= 今から75年前、日本軍とアメリカ軍が激しい地上戦を繰り広げた「沖縄戦」。
    1945年3月末に戦闘が始まり、5月末には日本軍の司令部があった首里が陥落。
    ここで事実上の勝敗は決していたにも関わらず、その後およそ1か月にわたって組織的な戦闘が継続され、多くの住民が苛烈な攻撃に巻き込まれた。
    首里の陥落から組織的戦闘が終結するまでの1か月、戦場では何が起きていたのか?
    今なお空白が残る沖縄戦・最後の1か月に、アメリカ軍の新資料や人びとの証言から迫る。 =

    首里の陥落 敗北か、戦闘の継続か
    太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)3月末、アメリカ軍は54万の兵力で、沖縄に押し寄せた。
    対する日本は沖縄に10万の兵力を集め、これを迎え撃つことにした。

    とりわけ、日本軍が司令部を置いた首里をめぐる戦いは、激しい攻防となった。
    この時点で日本軍は兵力の半数を失い、敗北は決定的に。
    このまま首里で玉砕するか、それとも南部に撤退して戦闘を継続するか、幹部たちの間で意見が分かれていた。

    5月22日、司令官の牛島満(うしじま みつる)中将は、八原大佐の考えを採用し南部撤退を決断した。
    本土決戦のために時間を稼ぐというのは、天皇直属の統帥機関・大本営の考えにも合致するものだった。

    住民たちの行動を証言集から分析
    沖縄戦における県民の犠牲者は全体で12万人
    そのうち亡くなった時期や場所が確認できている住民は8万2千人
    その半数以上が、首里陥落後の1か月に亡くなっていた
    そこで、この1か月の住民の行動を自治体がまとめた証言集などから分析。

    1945年5月22日~6月23日までの住民の動き
    日本軍が南部撤退を決めた5月22日
    この頃から南部に多くの住民が集まるようになった。
    そこは日本軍が防衛ラインを設定した南側の地域だった。
    多くの人たちは住み慣れた場所を離れ、日本軍と行動をともにしていたのだ。

    深刻な兵力不足を補うため、日本軍は学生や女性まで動員していた。
    日本軍は住民たちに、捕虜になることなく最後まで軍に協力することを求めていたのだ。

    緻密なアメリカ軍の攻撃
    南部へと撤退し、戦闘継続の意思を示した日本軍。
    対するアメリカ軍は、艦砲射撃によるせん滅作戦を仕掛けた。
    NHKの取材チームは今回、アメリカ軍が残した5000ページに及ぶ作戦報告書を入手。そこには、アメリカ軍が沖縄の地理を正確に把握し、高い精度で艦砲弾による攻撃を行っていたことが記録されていた。

    アメリカ軍が作成した沖縄のグリッド図
    当時、アメリカ軍は沖縄を縦横のマス目で細かく区切ったグリッド図で位置を特定。
    1つのグリッドは180メートル四方に相当する。

    地上の偵察部隊の報告を受けた観測機が飛び立ち、現場上空で情報を収集。
    その指示に基づき、一発で戦車を破壊できるほどの艦砲弾が、的確にグリッドに撃ち込まれるのだ。

    山川橋周辺を集中的に攻撃した砲弾
    このとき日本軍は、陥落した首里の司令部から幹線道路を通って南下。
    特に攻撃が集中していたのが、南部へと向かう要衝、「山川橋(やまがわばし)」の周辺。
    ここには、5時間で500発を超える砲弾が撃ち込まれていた。

    山川橋の悲劇
    日本軍の徹底せん滅をはかるアメリカ軍。
    しかし、その砲弾の下には住民たちもいた。

    なぜ攻撃はエスカレートしたのか?
    当初アメリカ軍は沖縄戦にあたって、民間人の被害を極力抑える方針だった。
    それがなぜ、住民を巻き込む苛烈な攻撃を行うにいたったのか。
    戦闘機パイロットとして沖縄戦に参加し、地上への機銃掃射などを行っていた、「アメリカ軍戦闘機パイロット フィリップ・ウィルモット元中尉」は、「仲間のパイロットが日本軍のゼロ戦に体当たりされたんだ。 それからは、日本人への哀れみなど一切なくなった。」

    アメリカ軍の攻撃がエスカレートしていった背景にあった、日本軍からこうむった多大な犠牲
    航空機による自爆攻撃・特攻で、およそ30隻の艦船が沈没
    地上戦も含めて、1万人を超える犠牲者を出し、アメリカ軍の中で日本軍への恐怖と憎悪が募っていた。

    さらに今回発見した資料から、アメリカ軍が新型兵器「VT信管」を使用していたことも明らかになった。
    元々、日本軍の特攻機を撃ち落とすために威力を発揮した、VT信管。
    電波を発し、ターゲットに近づくと自動的に砲弾は爆発。 
    その破片は広範囲に飛び散る。
    アメリカ軍は航空機を攻撃するための兵器を、対人攻撃に転用したのだ。

    軍民が混在 ガマの悲劇
    日本軍の首里撤退から2週間。
    アメリカ軍の地上部隊が南下
    日本軍は海岸沿いの摩文仁(まぶに)に司令部を置き抵抗を続けていた。

    沖縄本島南部に数多くあるガマと呼ばれる自然洞窟。
    兵士たちはこのガマに潜み、ゲリラ攻撃を命じられていた。

    日本軍は、最南部でおよそ90のガマや壕を、軍専用としたことが分かっている。
    住民用のガマもあったが、本隊からはぐれた日本兵なども加わり、日本兵と住民が混在。
    壕から人が溢れる場所が相次いだ。

    その1つ、「トドロキ壕」と呼ばれた巨大なガマ。
    入り口から入って左右に広がる2つの空間、その全長はおよそ140m。
    向かって右側の空間には、およそ50人の日本軍の兵士。
    負傷兵などを連れて、やってきたと言う。
    そしてここから、アメリカ軍への切り込み攻撃に出撃していたとみられる。

    800人以上とされる住民は、左側の空間を使用するように指示されていた。
    ガマの内部は、入り口付近まで住民が溢れるほどになっていた。

    こうしたガマに対し、アメリカ軍は火炎放射器などで焼き尽くす攻撃に出る。
    日本兵の切り込み攻撃、さらに住民の着物をまとい偽装する日本兵もいたため、疑心暗鬼から、攻撃は無差別的になっていったのだ。

    身動きができないほど人が密集し、暗く閉ざされたガマの中で息を潜めるしかなかった住民たち。
    中には、恐怖からアメリカ軍に投降したいと言う人も出始めた。
    しかし、情報が漏れることを恐れた日本兵は、住民の投降を許さなかった。
    やがて食糧も尽き、飢えが人びとの理性をも奪っていく。

    掃討戦 追い詰められた住民は
    沖縄を焦土と化す勢いで降り注いだ艦砲射撃。
    記録では砲弾の数は16万発にのぼる。

    しかし6月20日を境に、その攻撃はぴたりと止んだ。
    アメリカ軍が南部をほぼ制圧したのだ。
    最後の掃討戦が始まり、もはや住民たちの逃げ場は海岸線しか残されていなかった。海を前に、追い込まれた人たちが自ら命をたつ、いわゆる「集団自決」が相次いでいた。

    集団自決」は沖縄戦の初期、慶良間(けらま)諸島や読谷村(よみたんそん)などで起きたことが知られている。

    今回の取材で、アメリカ軍の資料などから確認できた南部での集団自決とみられる事例は、少なくとも15件
    犠牲になった人は121人にのぼった。
    アメリカ軍カメラマンの遺品の中から、新たに見つかった1枚の写真
    南部での集団自決を捉えた可能性があると言う。
    撮影された日付は沖縄戦の最終盤、6月21日と記されていた。

    新たに発見された住民の最期を記録した写真
    実は、同じ現場を捉えた別の写真が、沖縄県平和祈念資料館に展示されている。
    写真に映る人々は、砲弾によって亡くなったという見方もあり、詳しい状況は明らかになっていなかった。
    そこで、異なる角度から撮られた2枚の写真を詳しく分析した。

    並べられた2枚の写真
    人びとが倒れていた場所は、高さ3mほどの斜面に囲まれた窪地。
    斜面に生えているのは、亜熱帯の植物アダン。
    海岸線に特徴的な植物だ。

    倒れていたのは17人。
    そのほとんどが、女性と子ども
    当時、男性の多くは軍に動員され、家族と離れていた。
    「大事にしている着物だと思いますよ。」(沖縄県立博物館・美術館 與那嶺一子学芸員)
    服飾の歴史を研究する、與那嶺一子(よなみね いちこ)さんは、女性の1人が着ている着物に注目。
    着物の柄は「敷瓦(しきがわら)」と呼ばれ、都市部でしか手に入らない高級な晴れ着だった。
    大切にしてきた着物を身につけ、息絶えた女性たち
    與那嶺さんは、そこに女性たちのある覚悟を感じると言う。

    さらに写真を詳細に見ると、日本軍の手りゅう弾が、ピンが抜けた状態で写り込んでいた。
    そこから、人々が手りゅう弾を爆発させようとしていたことが窺える。
    追い詰められた海岸線では、誰もが生死のはざまをさまよっていた。

    出口なき戦場の記憶は
    6月23日、第32軍の司令官・牛島満中将の自決を受けて、日本軍の組織的戦闘が終わったとされている。
    南部での戦闘継続を主張した、八原博通大佐。
    壕を抜け出し捕虜となり、生還していた。

    「3か月間持久したから、これで32軍の任務は十分とは言わんが、果たしたと思ったんですよ。僕はその精神だから。
    一緒に死ねばよかったと、思うことは度々あります。
    戦場というのは美しいばかりではいかん。
    人間の弱点がいろいろ出ますけどね。
    それは、私は申せません。」(第32軍高級参謀 八原博通大佐)  
    <なんも「身勝手な発言」としか・・・!?>

    本土決戦の時間を稼ぐため、膨大な犠牲をいとわなかった日本軍。
    軍民入り乱れる戦場で、攻撃をエスカレートさせたアメリカ軍。
    それぞれの軍隊の論理が優先された結果、住民の犠牲は膨らみ続けていった

    沖縄戦から75年。
    出口なき戦場の記憶は、ますます遠ざかりつつある。
    それでも、亜熱帯の森の奥には、人びとを襲った惨禍の爪痕が、今も深く刻まれている。』
    とあります。

    何とも痛ましい現実に言葉がありません。
    沖縄では「命どぅ宝( ぬちどぅたから)」という言葉があります。
    意味は「命こそ宝」。

    何よりも命を大切にしている沖縄の人々が沖縄戦線で犠牲になられたこと。
    ただただご冥福をお祈りするばかりでございます。

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