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  • from: ぽっぽさん

    2021年07月29日 05時44分13秒

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    徳山村その4!

    皆さん、おはようございます\(^_^)/
    今朝も早く目が覚めてしまいました。

    >次回は増山さんや徳山ダムのことを・・・と思っております。
    と書きましたので・・・

    【増山さんのこと】 偶然にお宅へお邪魔しまして何度もお世話になりました!
    増山さんとの出会いは私にとりましては「大切な宝物」でございます!

    「その1!」の「=なぜ徳山村?=」に・・・
    >・「徳山村」のことは「カメラのおばあちゃん」としてTVでも度々出ていましたのでそれとなしに知っていました。
    >さすがに「お腹がペコタン」ですので、「民宿」を営んでいます「増山さん(カメラのおばあちゃん)宅」へいきなり飛び込みまして「ソーメン」を。。。
    と言うことで、TVでは拝見したことがあります「カメラのおばあちゃん」宅へいきなり飛び込んで昼食をさせて頂きましたのが増山さんとの出会いでした。
    その後、2回目~4回目と連続3回「一泊」でお邪魔いたしました。

    さて、その増山さんについて書かせていただきますネ!
    まずはネットでは・・・ちょっと長いですが・・・
    増山 たづ子(ますやま たづこ、1917年(大正6年)4月15日 - 2006年(平成18年)3月7日)は、岐阜県揖斐郡徳山村(現・揖斐川町)出身のアマチュア写真家である。
    愛称はカメラばあちゃん。  甥に映画『ふるさと』原作者の平方浩介がいる。

    昭和30年代、徳山ダムの建設が計画され、徳山村は全村が水没することを知る。
    個人的にはダム建設に反対であったというが、「国がやろうと思うことは戦争もダムも必ずやるから、反対するのは大河に蟻がさからうようなもの」としてこの事実を受け止めた。

    その後は徳山村の記録を残したいという思いから、当初はテープレコーダーで村の行事や生活音を録音し始め、1977年(昭和52年)10月10日の徳山村運動会から写真を撮り始め、消え行く村の人々の表情、四季、自然、家、建物、風景、祭り、風習、民俗など、ありとあらゆるものを撮り続けた。

    写真を撮り始めた理由は、「もし夫が帰ってきた時に村が無くなっていたら説明のしようがない」と考えたことからで、写真集にも同じ趣旨の記述が見られる。

    村が廃村となった後も、最晩年まで転居先の岐阜市内から徳山村へ通い続けた
    徳山村を舞台にした映画『ふるさと』(神山征二郎監督、1983年)にも出演している。

    生涯に撮影した写真は8万枚に及び、没後には10万カットに及ぶネガと600冊ものアルバムが残された。
    写真集『故郷-私の徳山村写真日記』(じゃこめてい出版、1983年、絶版)『ありがとう徳山村』(影書房、1987年、絶版)『増山たづ子 徳山村写真全記録』(影書房、1997年 )等を出版し、全国各地で写真の展覧会を開いた。

    1984年エイボン女性年度賞の『エイボン女性功績賞』を受賞した。死後の2014年、第30回東川賞飛弾野数右衛門賞を受賞。』
    とあります。

    = 増山さんの本とはがきお手紙 =
    我が家には、ネットにも紹介されています「ありがとう徳山村」と「泣いて笑ってシャッターをきる」「ふるさとの転居通知」の3冊があります。

    著書の中に・・・
    「昭和三十年代にはいると、<中略>大手企業が進出してきて村の原生林をきりたおし、はこびだしたのも、この時期からである」
    「この戸入にもは、安気(気楽)に泊まれるやどが一件くらいあってもいいと思うが。
    どうが、たぁ<増山さんのこと>、やってみんか。」
    当時の村長のこの一言が、旅館「増山屋」の誕生となった。
    <私共がお邪魔した頃は「民宿」になっていました>

    増山さんはご丁寧な方で毎年、年賀状を頂きましたし、増山宅へお邪魔した後にもはがきを頂いています。
    (下が頂きました「はがき」と「手紙」です)

    本のサインと手紙の一部をご紹介しますね。
    手紙には「千の倉より子は宝」、サインには「ふるさとに さまる ふるさとは なし」とあります。
    両方とも含蓄のある言葉だと思います。

    そして、写真集の中にある写真を「写真展のはがき(下の写真)」に載せた「雪とひまわり」を写真集には、
    「おばあちゃんがきっと来てくれると思って、僕、頑張ったよ」ーー胸がいたくなった。
    とありますが、増山さんの優しい言葉に「胸が痛く」なりました。

    増山さんが撮られましたどの写真も素晴らしいです。
    ある写真家が「増山さんしか撮れない」旨のことをおっしゃっていましたが、写真を拝見していますとその通りだと思います。

    そうそう、4回目の徳山村へは家族で増山宅へ一泊させた頂きましたが、その時は「報道関係者」だけが増山宅にお見えでした。
    報道陣のお一人が「この方たちは?」と増山さんに尋ねられた時、増山さんは「いいの、こちら(我々家族)は親戚の者」とおっしゃってくださいました。
    (なんとも「ありがたいお言葉!」でございましたヨ\(^_^)/)

    なお、増山さんの写真展示会へは、
    ・1986年(昭和61年)11月14~19日 「増山たづ子写真日記 ありがとう徳山村」 (フォトシティ・ワキタギャラリー) 
    ・1987年(昭和62年)7月21日:増山たづ子 はげます会 (岐阜県美術館)
    の2度行っています。
    ワキタギャラリー」は当時の勤務先と同じ名古屋市中区ですので、休憩時間にお邪魔いたしました。

    【徳山ダム】 2009年(平成21年)5月23日
    「冠山登山」後、徳山ダムへ行ってみました。
    徳山ダムをネットでは・・・
    『徳山ダム(とくやまダム)は、岐阜県揖斐郡揖斐川町、一級河川・木曽川水系揖斐川最上流部に建設された独立行政法人水資源機構が管理するロックフィルダムである。
    本最大級のダムであり、総貯水容量6億6,000万m3は日本一を誇る。

    水害常襲地帯である揖斐川の治水および東海3県の水がめとして建設された。
    ダム建設に伴い徳山村全村が水没し、その後はダムの必要性について全国的な論争が起きるなど話題も多いダムである。
    ダムによって形成された人造湖は、旧徳山村村民からの意見により旧村名から徳山湖(とくやまこ)と命名された。

    ダムの型式は中央土質遮水壁型ロックフィルダムで、堤高は161mである。
    ダムの高さとしては黒部ダム(黒部川)の186m、高瀬ダム(高瀬川)の176mに次いで日本第3位でありロックフィルダムとしては高瀬ダムに次いで第2位、多目的ダムとしては日本一の高さである。』

    『徳山ダムの歴史
    1957年 電源開発促進法に基づく調査区域に指定
      71年 用地補償の地元説明会が開かれる
      73年 徳山ダムを含む基本計画が閣議決定
      87年 徳山村が廃村となり、藤橋村に吸収
      89年 旧村民466世帯すべての移転契約が完了
    2000年 ダム本体工事に着手
      05年 藤橋村など6町村が合併して揖斐川町に
      06年 ダム本体工事の完成を受けて貯水開始
      08年 ダムが満水、試験放流を経て運用開始
      09年 ダムの水を使う木曽川水系連絡導水路事業が国の検証対象に』
    などとあります。

    増山さんがお亡くなりになられたのが2006年(平成18年)、ダム本体が完成したのも2006年(平成18年)。。。
    何か「運命的」なものを感じてしまいます(/Д`)

    このダムによる「ダム湖」に徳山村のほとんどが沈んでしまいました。

    【ありがとう増山さん、ありがとう徳山村】
    徳山村シリーズの最後としまして・・・
    いきなりお邪魔いたしましてから3度も泊まらせていただきました増山さんには大変お世話になりました。

    増山さんにお会いできたのがきっかけで、徳山村へは都合「8回」お邪魔いたしました。
    私には「ふるさと」がありませんので、推測するのみではありますが「故郷が水没する」・・・
    私でさえ、胸がつぶれる思いが致します。

    8回お邪魔いたしまた徳山村では、私もあちらこちらで写真を撮らせていただきました。
    その一つ一つの風景が全て水没してしまった・・・
    無機質なコンクリートの徳山ダムを見て、「あ~!、もうここへは来たくない!」と思いました。
    (そのダムなんですが、計画時とは事情が違ってきたようで、当初目的通りには運用されていないようです。
    徳山村の人々が嘆きますヨ!)

    はじめて増山さん宅へお邪魔しました時に・・・

    上記の写真のコメントにあります「フヨウ(芙蓉の花のこと)の話」とありますが、増山さんはどのような事をおっしゃったのか、当時は記録性がありませんでしたので・・・残念です(T-T )

    なお、「芙蓉の花ことば」は・・・
    『しとやかな美人、繊細な美、妖艶、幸せの再来、熱い思い、富貴』などとあります。

    写真の娘も息子も今は大人になりまして、それぞれ「人の親」となりました。
    (特に娘は徳山ダムのことや我が家のすぐ隣の丘の開発などが影響したのでしょうか?
    自然環境などに関連する学部へ進みました)

    増山さんと出会えました事は私の「宝物」でございます。
    増山さん、徳山村、大変お世話になりました。  ありがとうございました。

       ーーー 徳山村シリーズは「ここまで」とします ーーー
      (このシリーズをWORDで編集しまして記録として残します)

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