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  • from: ぽっぽさん

    2025/10/04 08:16:44

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    ◆ 戦後80年その2 ◆

    ◆ 戦後80年その2 ◆
    【ヒロシマ 伝えたい】 7月下旬の記事です。  浜井順三氏(「原爆市長」の長男)
    ▲父・信三氏は戦後の<19>47年に初めて公選で選ばれた広島市長で、後に「原爆市長」と呼ばれましたが?▼
    ・父は奇跡的に生き残ったからこそ、広島のために自らの人生を捧げようとの気持ちが強かった。
    ・父は「こんなことは地球上で二度と起こしてはならない」「何としても広島をよみがえらせる」とのつぶやきが忘れられない。
    ・私は当時の父と広島の先人たちの願いや思いや志が、ずっと気にかかっていて、いつも父に背負われてものを見てきた気がする。
    ・「広島の平和とは何か」「先人たちが志した広島の復興とは」その理念を検証していくと<19>47年8月6日の「第1回平和祭」における「平和宣言」に原点があった。

    ▲この宣言は、信三氏が市長として世界に向けて初めて呼びかけましたね?▼
    ・<宣言は>父をはじめ、生き残った人たちの心からの叫びが集約されている。
    その中では、核兵器が「恒久平和の必然性と真実性を確認せしめる”思想革命”を招来せしめた」とし、絶対平和の創造をうたっている。
    ・つまり、核兵器と核使用に至らしめる戦争、その両方を否定している。
    でも今、「平和」という概念は非常に「多様化」していて、あまりにもあいまいで広くなっている。

    ▲あまりにも広いとは?▼
    ・昨年の「ノーベル平和賞」は「核のタブー」と表現したが、それは核は使用してはならないという概念に思われる。
    「核廃絶」を求めるべきなのに「使われてはいけない」ということになってきている。
    ・一番の例が2023年の「G7広島サミット」で、「核なき世界を目指すことで首脳たちが一致した」と評価されたが、結局は合意文書「広島ビジョン」で「核抑止を正当化」した。

    ▲厳しい安全保障環境では、核廃絶は理想論だという意見もあるが?▼
    ・専門家はアプローチの方法は二つあるという。
    一つは「核抑止を掲げながら段階的に核を削減」していく方法で、もう一つは「核自体を全面否定して核のない世界をつくる」考え方だ。   <私は後者に「賛成」です!>
    ・国家主義に立てば「敵がいるから防衛し、それに勝つ態勢で対抗する」という議論になるかもしれない。
    しかし「広島はそれではいけない、広島だからこそ国を越えて訴えなければいけない」<という>もう一つの道筋がある。

    ▲ロシアが核で威嚇し、北朝鮮や中国が核を増強し、フランスも核の傘を強調する、だからこそ広島は原点に返りべりだと?▼
    ・「核兵器は人類と共存できない」こと、「核廃絶こそが人類を救う道」だということまでを伝え理解させることが重要だ。
    ・私は五つの原則に行きついた。
    核は人類と共存できないと証言し警告すること」「国を越えた世界平和を希求すること」「核は人類と共存不可との原則に立つ”思想革命”を世界に広げて行くこと」「<広島が>平和の理想を地上に建設するリーダー都市となること」「<広島が>復興の希望のシンボル都市となること」だ。
    ・いまこそ広島の世界平和への真の願いを世界化していかなければならず、その重点項目は「国を越えたヒロシマの”思想革命”を世界市民に訴え、広げ、世界世論を構築して行くこと」「被爆者や当時を知る人がいなくなる今、次の世代にどう継承していくか」単に継承だけではなく、ヒロシマの平和の理念と使命までしっかりと継承していかなければならない。

    【戦後80年と日本 ー歴史を見過ごさないためにー】   8月15日の社説です。
    ・80年前に日本の敗北で終わった戦争で思い浮かぶものは「真珠湾攻撃」「ミッドウェー海戦」「硫黄島の戦い」「東京大空襲」「沖縄戦」「広島長崎への原爆投下」、これらはいずれも「対米戦」だ。
    ・戦いが終わった時点で中国に100万人を超す日本の将兵がいたこと、日本と戦う連合国に中国が含まれていたことが忘れがちだ。

    = 対米戦だけでなく =
    日中戦争は1937年7月に始まり、12月には日本軍が中国の「南京(当時の首都)」を占領、多くに市民を殺害する「南京事件」を起こした。
    ・中国の国民党政権は首都を「重慶」に移し抵抗を続ける。
    高校の歴史教科書の説明はここまでか<19>40年頃で終わるのが多いが、実際はその後も大陸各地で泥沼の戦いが続いた。
    主な相手は国民党政権であり、ほかに共産軍がいて、また日本に協力する傀儡(傀儡)政権もあって情勢は複雑だった。
    ・「広中一成准教授(愛知学院大学)」は日中戦争は特に後半については歴史学界でも研究が手薄だったと指摘する。
    広中氏は、日本の戦争責任を明らかにすべく、中国侵略の始まり方に関心が集まったことが理由の一つではないかと考える。

    = 大義なき日中戦争 =
    ・<日中>戦争当時、中国から目をそらせたい動機がすでにあり、国民にとって「何のための戦争か」よく分からなかったが、その状況は<19>41年12月の「対米英開戦」が一変させた。  <←太平洋戦争の始まり!
    日中戦争を含めて政府が「大東亜戦争」と名づけたとき、日本の自衛とアジアの欧米支配からの解放という目標が掲げられた。
    ・<昭和>天皇による「終戦の勅書」は、もっぱら「対米戦」を語り、中国はポツダム宣言受諾の相手国としてわずかに1文字、登場するのみだ。
    ・「戦後80年の節目」を待ち構えていたのが中国で、「抗日戦勝記念日」の9月3日は北京で大規模な軍事パレードを実施する。
    中国共産党にとって対日戦史は政権の正統性の大事な柱で、記憶は風化するどころか増幅される。

    = すれ違う歴史認識 =
    対中国戦を忘れがちな日本と、抗日戦を強調する中国、このすれ違いが日中間の歴史問題の根底にあったのではないか。
    中国側による歴史の政治利用は事実の誇張や無視を伴いがちで、距離を置くべきであるとしても、史実に無関心であることは避けたい。
    戦争をめぐる歴史を直視することは決して隣国対策ではない。
    他国に武器を用いず、国際協調主義を歩んできた戦後日本の大事な原点だ。
    ・中国から太平洋へと戦線を広げた歴史は、まだ掘り起こしを待つ事実があるだろう。
    シンガポール、フィリピンを含む東南アジアにも日本軍の爪痕が残る。
    過ちを含む史実を伝えることは後の世代の務めだ。
    見過ごしてきたことはないか、不断の問い直しを続けたい。

    ・・・と難しい内容でしたが、上記の記事の中で「まだ掘り起こしを待つ事実があるだろう」「見過ごしてきたことはないか」とありますが、南北に引き裂かれてしまった「お隣の国(韓国・北朝鮮)」のことがぬけているのでは?と思います。
    特に「慰安婦問題」は今でも続いています!
    この「戦後80年その2」も長くなりましたので、以降は次回に・・・!

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