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from: ぽっぽさん
2025/10/05 14:10:18
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◆ 戦後80年その3 ◆
◆ 戦後80年その3 ◆ 「戦後80年その3」も記事の月日の順に書きますネ!
【社説:終戦の日と首相 ー 平和国家 未来像語る時ー】 8月16日の記事です。
・戦後80年の節目に「首相談話」を見送ったことは、歴史の教訓を世代を超えて継承する責務にもとるものだ。 <もとる:「反する」の意味>
・80年目に「終戦の日」となったきのう、首相は全国戦没者追悼式の式辞で、戦争を知らない世代が大多数になった、として「あの戦争の反省と教訓を今改めて深く胸に刻まねばならない」と述べた。
・首相式辞は長らく踏襲されてきたが、第2時政権下の安倍首相が<20>13年に言及をやめ、その後は使われなくなった。
「反省」が13年ぶりに復活したが、アジア諸国への加害積年には触れておらず、何を反省し、教訓とするのかは明確でない。 短い式辞で意は尽くせない。
戦後50年の村山談話、戦後60年の小泉談話、戦後70年の安倍談話と同様、首相談話を出すべきだった。
・昨日は石破内閣の閣僚である加藤勝信財務相、小泉新次郎農林水産相のほか、自民の高市早苗、小林鷹之、萩生田光一氏らが「靖国神社に参拝」した。
参院選で躍進した参政党は、国と地方の議員が大挙して参拝した。
・戦前の軍国主義を支えた「国家神道」の中心的施設に、政治指導者が参拝することは、戦争への反省を忘れ、過去を正当化しようとしていると見られても仕方あるまい。
・多大な犠牲の上に築かれた戦後の歩みを顧みることなく、不都合な事実から目を背けていては、同じ過ちが繰り返されかねない。
首相はきのう「分断を排して寛容を鼓(こ)し、よりよい未来を切り拓(ひら)く」と述べた。
そのための具体的構想を、自らの言葉で語る必要がある。
・・・とあります。
【忘れられた日ソ戦争】 8月中旬の記事。 麻田雅文(まさふみ)氏(歴史学者)
= 9月も続いた侵攻 演出したのは米国 「神話」に埋もれた =
▲戦争は8月15日以降も続いたのか?▼
・日ソ両軍で兵士200万人超が関わった戦いが9月に入るまで続いた。
ソ連が日本に宣戦布告したのは、1945年8月8日深夜で、翌日以降「満州(現中国東北部)」や「南樺太(サハリン南部)」に侵攻した。
・18日には千島列島の最北端で開戦していて、南樺太の中心都市への空襲は22日だ。
ソ連は今の「北方四島」まで進軍し、日本軍の武装解除は9月7日だった。
▲なぜソ連は戦争をやめなかったか?▼
もともと「日ソ戦争」を演出したのは米国で、日本を無条件降伏させるため、ソ連の対日参戦を熱望していた。
ソ連は米英と同じ連合国陣営だったが、<19>41年に日本と「中立条約」を結んでいたためだ。
・ソ連は対独戦の最中で二面作戦を炊けるため腰が重たかったが、<19>45年2月の「ヤルタ会談」では、ソ連が参戦すれば満州での利権、さらに南樺太や千島列島も得られるという「報酬」が密約された。 <へ~! そんなことがあったのですか!>
・<1945年>5月にドイツが降伏するとソ連は7月のポツダム会談で、8月15日に参戦すると米国に伝えた。
ところが8月6日に思いがけず米国が原爆を投下したので、ソ連は日本が降伏する前に「報酬」を手にしようと、予定を繰り上げて参戦したと考えられる。
・日本のポツダム宣言受諾後もソ連は日本軍に正式な停戦命令が出ていないなどとして、すぐに停戦には応じなかった。
「最高総司令官スターリン」が満州での戦闘停止を命じたのは18日だ。
その後も停戦の徹底に時間を要したこともあり、ソ連は「報酬」の確保に向けて進軍を続けた。
▲犠牲者は?▼
・ソ連側の死者・行方不明者は1万2千人とされていて、日本側より甚大だったがよくわかっていない。
ソ連側には日本軍の戦死者数として7万7千992人という数が残っているが、誇張している可能性がある
・一方、民間では停戦後も含めて満州と朝鮮半島北部で約20万人、南樺太では約4千人が犠牲になったといわれている。
成人男性の多くはソ連軍に連行されシベリア抑留を強いられ、女性にはソ連兵からの性暴力もあった。
集団自決や日本本土に帰れなくなった残留孤児・残留婦人も生じ、戦後は戦没者の遺骨収集もままならなかった。
▲日ソ戦争の詳しい分析から何がみえてきたか?▼
・日本軍のソ連情報の担当者は、ソ連が対日参戦する公算が大きいと警告していたが軽んじられた。
ソ連の歴史認識にも目が向けられていなかった。
日本が勝った「日ロ戦争」や「シベリア出兵」「ノモハン事件(満州国の国境紛争)」で、日ソは鋭く対立して多くの犠牲者が出ていたのに忘れていた。
▲一方のソ連は?▼
・すでに対独戦で2700万人が死亡し、国民は疲弊していた。
そこで対日参戦の士気向上に利用したのが「歴史」だ。
日露戦争の小説が大量に刷られ、シベリア出兵中の日本軍に殺された革命家の肖像画切手になり、「復習」とういプロパガンダを広めた。
▲北方領土は今もロシアが支配したままだか?▼
・最初に千島列島に上陸したがったのは米軍だが、侵攻すると犠牲が大きいと考え代わりにソ連の進軍を支援しソ連兵の訓練まで請け負った。
それでも米国は<千島列島の>中部・南部は自ら占領するつもりで、最北端の「占守島(シュムシュとう)」など2島と周辺の小島だけがソ連の担当だった。
・ところがソ連のスターリンは8月16日、千島列島と北海道の半分を米国に要求した。
当時のトルーマン米大統領は北海道は譲らないとした一方、千島列島は同意したが「どの島」まではが示されなかったことが命運を分けた。
・戦後、米国は沖縄・奄美・小笠原諸島を支配したが日本に返還している。
一方、ソ連は北方四島を早々に自国領とするが、「<千島列島の>喪失」の責任は米国にもあり、今も米国が北方領土問題に消極的なのはこうした過去のためだろう。
= 意識や文化は今もたたき合わずに「北」に視界広げて =
▲日ソ戦争からどんな歴史的教訓が得られるか?▼
・結局のところ、大日本帝国は終わりに際してあまり国民を守る戦いをしなかった。
むしろ国民を巻き込む戦いをした。
・今は台湾と中国に多くの人が目を向けているが、当時も日本は「南方」だけを考えていた。
日本の地政学的な条件は変わっていない、「北」も忘れてはいけない。
▲それなのに日ソ戦争は多くの人が「忘れて」いると?▼
・二つの「神話」に埋もれた面がある。
一つは米国の原爆投下が戦争を終わらせたという「神話」で、二つ目は8月15日の「神話」だ。
・<8月15日を>戦後は「終戦の日」と呼ばれ、15日以降も続いた日ソ戦争は視界の外に飛んでしまった。
▲今のロシアで日ソ戦争はどう見られているか?▼
・ロシアは今も歴史を政治的に利用している、一昨年から9月3日を「対日戦勝記念日」に位置づけたのは愛国心を高めて中国との連帯を示し、日本を牽制(けんせい)する狙いからだ。
・ただそこで語られている「歴史」は必ずしも正確ではない。
ロシアの歴史教科書にはソ連が北海道を占領することについて「米国と合意が成立していた」というフィクションも盛り込まれている。
▲そんなロシアと今後どう向き合うべきか?▼
・日本側まで歴史を使って相手<ロシア>をたたくのは建設的ではない。
日本とロシアは距離が近いので、事故や災害時は協力し合うべき位置関係にある。
また、シベリア抑留の時、日本人によくしてくれたソ連兵の中には、過去に家族が日本人に友好的に接してもらった経験がある人もいた。
「草の根の交流」は万が一の場合も何らかの交流が戻るきっかけになるかもしれない。
日ソ戦争はその事も教えてくれていると思う。
・・・とこれまた結構難しい内容でした。
つくづく「日本は馬鹿・無謀な戦争をしかけたものだ」と思ってしまいます!
このトピック「戦後80年その3」も長くなりましたので、以降は次回へ・・・!-
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