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続 哲学〜真理〜探求について

続 哲学〜真理〜探求について>掲示板

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2015年04月20日 19時12分48秒

    icon

    二人の祖母



    父母の 両方の祖父母は、随分前に他界してから久しいけど、祖母に関しては、思いが強い。
    しかも、父の祖父母と母の祖母<祖父はわたしが生まれる前に他界>が住む町は、千葉の柏で、
    両方の家を 歩いて行き来出来る・・・・という事が、6,7歳の子供の私にはとても、ワクワク出来る遊びだったのだ。
    なんで?そんな事が楽しいのか?
    分からないけど、知らない土地を、一人で知らない道を歩きながら、こっち行くと、迷子になるかなぁぁ...ドキドキ・・・
    このドキドキが楽しい・・・・
    来た道を覚えきれなくて・・・知らない道を歩く・・・こっちらへんだったよね?とか、太陽あっちにあるから、こっちかな?とか・・・適当に歩いていると、
    あぁぁ・・・ここに出るのかぁぁ・・・この場所知ってるもん!・・・前に お菓子を買いに、叔母に連れられて来た事あるもんね!・・・・
    とか、とにかく、自分の知らない場所に行くと、真っ先に、外に出て、迷子になるぎりぎり境界線を彷徨う ドキドキ感がとても楽しかった。
    変なの子だった・・・

    週末車で父母に連れられていくと、柏の庭のある祖父母の家で遊ぶのが嬉しくて、
    東京の社宅に住む私達家族は、週末時間を狭い社宅で過ごすの、うんざりしていたんだと思う。

    小さい時から、父の母と母の母の二人の存在が随分同じ祖母でも、極端に違うなぁぁ・・・・と不思議に思っていた。

    父の父母が住む家は、戦後新潟から叔父の大学の仕事に合わせて柏に家を建てて引っ越してきたのだと思う。

    母の母、祖母が何故?父の祖父母の家と歩いてすぐの距離にあるのか?当時よくわからなかった・・・

    でも、父と母は、父の務めていた水戸にある会社の人の紹介で知り合ったはずなので、父母の両親が歩いて数分の距離に会った事には、あまり不思議には思えず・・・田舎<千葉の柏は当時田舎だった>に行くと、必ず父母の実家と叔母の家を一度に訪ねて東京の社宅から日帰り出来る距離に祖父母の家はありました。
    ところで、父の祖父母の住む家には、長兄家族と同居であり、次男の父が訪ねると、わたしは、祖父母にとっては、最初の女の子の孫だったので、大変歓迎された。。最初の女の子の孫が来ると、いつも、「可愛い。。女の子はいい」・・ばかりしか言わない。この祖母に何故か?愛情は全くもって感じなかった。よく言う、お姫様扱いだったのだ。
    わたしは、早く父の実家から去って、母のつまりもう一つの、祖母のいる家に行きたくてしょうがなかった。早くその家を出て、母の祖母がいる家に行きたくて、何度も父に催促した。

    父の兄、つまりわたしの叔父、叔母夫婦には、男の子3人の子供<わたしの従兄達>がいた。年齢はわたしと一回り以上も離れていたので、男の子というより年齢差のある従妹の女の子が来ても一緒に遊ぶという事はまずなかったし、第一、日曜日に家に育ちざかりの男の子がいる訳がないらしく・・・いつも、3人の従兄達はご飯も食べに帰らず、遊びに夢中だった、
    そんな訳できっと、祖父母は、家の庭先で遊ぶ孫の女の子の遊ぶ様子に、すごく愛着を感じたらしい。
    祖母は、朝から、鉄砲玉のように、外に遊びに行って帰らない元気一杯の男たちの孫を褒める事は一度もなく・・・義理の嫁もその言葉には何も反応しない。
    わたしは、その 空間に いながら・・・どうして、一度くらい子供を褒める・・・事をしてあげようとしないのか?
    自分の子供なのだから、他者が来た時に、文句や愚痴ばかり 言ってて訪ねた私達の心は、なんとなく、嫌な感情が沸いてくる。子供ながらに 居心地が良くない家には、いくらごちそうが出ても、何も感じない・・・早く、帰ろう・・・と、両親の腕を引っ張るわたしがいた。そのうち、父は残して、一人で歩いてもう一人の祖母がいる家を歩いて行ったのがはじまりだった。多分、5歳になるかならないか?だと思う。
    それに、この父の母が嫌いだったのだ。理由は、わたしが行くと、「女の子はいいなぁぁ・・女の子はいいなぁぁ」
    しか言わず、 わたしの3人の年上の従兄達はそれを聞いても、なんとも言わないけど、自分自身、非常に居心地の悪い祖父母の家だった。わたしが、小さい頃、いつも、一挙一動わたしの行動に 「いいねぇぇ・・」とか「可愛いねぇぇ・・」と、言葉を放つ。とにかく、煩い祖母だと思っていた。

    ところが、母の母<祖母>は、私達孫がいっても、立ちもしなければ、動かない・・・
    ソワソワ、お茶を出す訳でもなく、ずーと今までいた場所を動かず座っている。嬉しくもなければ、どうって事はない・・・風で、わたしは、この祖母が大好きだったのだ。

    多分、自分の 好きにさせてくれる・・その空間が居心地よかったのだと思う。
    父の 祖父母のいる家は、何から、何まで、こちらの存在に 彼らの意識の中にお客様として、扱われるのだった。
    一番ショックな思い出は、わたしが、8歳くらいだろうか?
    ご飯の時に、トマトのサラダが出た。祖母は、子供は、トマトやピーマンが嫌いだから、お砂糖をかければ食べる・・という信じがたい行為をした。わたしの目の前で、トマトにスプーン一杯の砂糖を、本人の私にも聞かず、ドヴァっとかける・・・・
    この行為はトラウマとなって、二度と、この家には来ない・・・と 思ったものだった。

    押し付けの強い、自己判断の強い祖母だと思っていたけど,甘いもんが子供が好きに決まっているという思い込みを持つのは、仕方がないとしても、子供のわたしに一言、聞いてもいいんじゃないか?
    それくらい、孫に 聞いて見るというワンクッションのコミュニケートの時間をもてないのか?
    といつも思っていた。

    とにかく、そのような母の姿を平気でいるのは、うちの父だけであったと思う。多分昔から変わらないのでしょう。

    母の母<祖母>の家には、叔父夫婦と息子が同居であったにもっ変わらず、私達をお客様扱いをしない・・・という祖母は、普段と変わらない...孫の世話など頼まれてもしないという感じだけど、それは彼女のスタンスなんだろうと思う。義理の娘が同居しているのだから、何も自分が、バタバタ動いて世話などすると、義理の娘の邪魔になるだけだと思っていたに違いない・・・・又、来客が来たからといって、お寿司を取ったりしない・・・そこが 好きだったのだ・・・・

    何故か?良くわからないけど・・・普段の通り全く変わらない祖母が好きだった。
    ところが、父の母<祖母>が亡くなってしばらくして、祖母は、父の養母であり、血が繋がっていないのを知った。多分中学生だと思う。その時初めて、祖母に悪いと思ったのだった・・・・
    何故?
    悪かったと感じたのか?
    それは、多分、父の母は、血縁で結ばれていない・・・・血縁で結ばれていなかったら?血縁で結ばれている以上にあれやこれやと、世話を やきたくなるのではないか?
    父が小さい頃、4人の子供を育てる為に祖父は急遽困って探したお嫁さんだったらしい。
    父が、何度も、祖母の事を「 苦労かけた'、よく育ててくれた・・教育ママだった・・・勉強しないといけない・・と大学に行くように勧めた」・・と、自分の母の事を、亡くなった後も、よく言う父だっのを、「 なんで?そんなに自分の母親を褒めるのか?」と、理解に 苦しむ私がいたけど、その祖母と、わたしは、血が繋がっていないし、父とも繋がっていない・・・とわかり、亡くなってから、なんであんなに、うるさく、わたしの世話を焼くのか?と思っていた事に、悪い事をしたと、思ったのだった。

    反対に、わたしが遊びに行っても、その場から全然動かない母の母、・・わたしの祖母は、いつも畳の上に背骨を伸ばし長時間座っても、崩れない・・すわり姿が美しい祖母だった。
    母から軍人の娘だからだ・・・と言われなるほど・・・あまり家庭的ではないけど、何も家庭の事を一切しないという事ではなく、必要最低限だけする・・あとは趣味に高じる・・という祖母だった

    その祖母が、短歌を創りはじめた・・・・・・祖母は、わたしが結婚する時、短歌を創って、色紙に筆で書いてプレゼントしてくれた。その 短歌は額装にし、今でも玄関に飾ってある。

    その祖母が亡くなった時、通っていた、短歌教室に 出品された短歌が載っている小雑誌を頂いた。
    祖母はほとんど、私語や愚痴や不満を一切話さない・・・という人柄で、いつも、ニコニコ回りを観ているという祖母なので、祖母がいったい何を考えて、何を感じているのか、子供ながら殆ど分からなかった。ただ、その祖母が大好きだったのだ。ただ、その短歌を読んでいるうちに、あの何も文句も愚痴も言わない祖母の心の内をのぞいたような感じがした。
    それは軍人の父をもった明治生まれの 父に育てられた・・・そして、戦後を生き抜き、伴侶を失って、半世紀以上も息子夫妻と同居していた祖母の心は、戦争回避への思い・・とくに憲法9条を守るという強い思いが、日露戦争後に生まれた祖母の 心の支えになっていた・・・・戦後生まれのわたしが、日露戦争、太平洋戦争を経験してきた祖母の 心の内を垣間見た瞬間だったのだ。

    わたしが、生まれて初めて しかも予定にない、高野山に行ったのは、数年前の事
    空海さんは、即身成仏し永眠する・・・・その神域に初めて 訪ねた・・・・

    わたしを 高野山に導いたのは、密教僧のT氏。T氏は、何故か当時はヨーロッパに奥さんと子供さんがお住まいだった。
    そのT氏と、高野山を訪ねた時、一人の老婆が近づいてきて・・・「どこからいらしたのですか?」と聞かれ・・
    躊躇し、「ヨーロッパ、フランスからです」と答えると、その老婆は、大変驚いて・・・「 夢を見るんです、ヨットでフランスに着く夢を見るんです」・・と話してきた、
    「お体、大丈夫ですか?」と聞くと、
    「 死にそうです」と答える。

    その老婆の夢の話は嘘でないであろう・・・と思う、

    彼女の胸に、十字架のクロスと、高野山の奥の院にある空海さんのメダイユを首からぶら下げていたからだ・

    この時・・・もしかしたら? 空海さんは密教真言宗と、西洋宗教キリスト教と 一緒になるようにでも・・・考えているんだろうか?まさかねぇぇ?
    そして
    宗教の普遍性・・・・を考える。

    後で、よくよく考えたら、この高野山に行った日は、パリの不思議のメダイユ教会の 聖母マリア出現と遭遇した聖人カトリーヌを修道女になるように導いた、夢に出てきた、聖ヴァンサンポールの 日であり、同日、この母の母・・・祖母の命日
    だったのに、気がつかされた。

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2015年04月20日 19時11分39秒

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    二人の祖母

    久しぶりに祖母と高野山の関係について・・・不思議な出来事を書いて見ます。



    父母の 両方の祖父母は、随分前に他界してから久しいけど、祖母に関しては、思いが強い。
    しかも、父の祖父母と母の祖母<祖父はわたしが生まれる前に他界>が住む町は、千葉の柏で、
    両方の家を 歩いて行き来出来る・・・・という事が、6,7歳の子供の私にはとても、ワクワク出来る遊びだったのだ。
    なんで?そんな事が楽しいのか?
    分からないけど、知らない土地を、一人で知らない道を歩きながら、こっち行くと、迷子になるかなぁぁ...ドキドキ・・・
    このドキドキが楽しい・・・・
    来た道を覚えきれなくて・・・知らない道を歩く・・・こっちらへんだったよね?とか、太陽あっちにあるから、こっちかな?とか・・・適当に歩いていると、
    あぁぁ・・・ここに出るのかぁぁ・・・この場所知ってるもん!・・・前に お菓子を買いに、叔母に連れられて来た事あるもんね!・・・・
    とか、とにかく、自分の知らない場所に行くと、真っ先に、外に出て、迷子になるぎりぎり境界線を彷徨う ドキドキ感がとても楽しかった。
    変なの子だった・・・

    週末車で父母に連れられていくと、柏の庭のある祖父母の家で遊ぶのが嬉しくて、
    東京の社宅に住む私達家族は、週末時間を狭い社宅で過ごすの、うんざりしていたんだと思う。

    小さい時から、父の母と母の母の二人の存在が随分同じ祖母でも、極端に違うなぁぁ・・・・と不思議に思っていた。

    父の父母が住む家は、戦後新潟から叔父の大学の仕事に合わせて柏に家を建てて引っ越してきたのだと思う。

    母の母、祖母が何故?父の祖父母の家と歩いてすぐの距離にあるのか?当時よくわからなかった・・・

    でも、父と母は、父の務めていた水戸にある会社の人の紹介で知り合ったはずなので、父母の両親が歩いて数分の距離に会った事には、あまり不思議には思えず・・・田舎<千葉の柏は当時田舎だった>に行くと、必ず父母の実家と叔母の家を一度に訪ねて東京の社宅から日帰り出来る距離に祖父母の家はありました。
    ところで、父の祖父母の住む家には、長兄家族と同居であり、次男の父が訪ねると、わたしは、祖父母にとっては、最初の女の子の孫だったので、大変歓迎された。。最初の女の子の孫が来ると、いつも、「可愛い。。女の子はいい」・・ばかりしか言わない。この祖母に何故か?愛情は全くもって感じなかった。よく言う、お姫様扱いだったのだ。
    わたしは、早く父の実家から去って、母のつまりもう一つの、祖母のいる家に行きたくてしょうがなかった。早くその家を出て、母の祖母がいる家に行きたくて、何度も父に催促した。

    父の兄、つまりわたしの叔父、叔母夫婦には、男の子3人の子供<わたしの従兄達>がいた。年齢はわたしと一回り以上も離れていたので、男の子というより年齢差のある従妹の女の子が来ても一緒に遊ぶという事はまずなかったし、第一、日曜日に家に育ちざかりの男の子がいる訳がないらしく・・・いつも、3人の従兄達はご飯も食べに帰らず、遊びに夢中だった、
    そんな訳できっと、祖父母は、家の庭先で遊ぶ孫の女の子の遊ぶ様子に、すごく愛着を感じたらしい。
    祖母は、朝から、鉄砲玉のように、外に遊びに行って帰らない元気一杯の男たちの孫を褒める事は一度もなく・・・義理の嫁もその言葉には何も反応しない。
    わたしは、その 空間に いながら・・・どうして、一度くらい子供を褒める・・・事をしてあげようとしないのか?
    自分の子供なのだから、他者が来た時に、文句や愚痴ばかり 言ってて訪ねた私達の心は、なんとなく、嫌な感情が沸いてくる。子供ながらに 居心地が良くない家には、いくらごちそうが出ても、何も感じない・・・早く、帰ろう・・・と、両親の腕を引っ張るわたしがいた。そのうち、父は残して、一人で歩いてもう一人の祖母がいる家を歩いて行ったのがはじまりだった。多分、5歳になるかならないか?だと思う。
    それに、この父の母が嫌いだったのだ。理由は、わたしが行くと、「女の子はいいなぁぁ・・女の子はいいなぁぁ」
    しか言わず、 わたしの3人の年上の従兄達はそれを聞いても、なんとも言わないけど、自分自身、非常に居心地の悪い祖父母の家だった。わたしが、小さい頃、いつも、一挙一動わたしの行動に 「いいねぇぇ・・」とか「可愛いねぇぇ・・」と、言葉を放つ。とにかく、煩い祖母だと思っていた。

    ところが、母の母<祖母>は、私達孫がいっても、立ちもしなければ、動かない・・・
    ソワソワ、お茶を出す訳でもなく、ずーと今までいた場所を動かず座っている。嬉しくもなければ、どうって事はない・・・風で、わたしは、この祖母が大好きだったのだ。

    多分、自分の 好きにさせてくれる・・その空間が居心地よかったのだと思う。
    父の 祖父母のいる家は、何から、何まで、こちらの存在に 彼らの意識の中にお客様として、扱われるのだった。
    一番ショックな思い出は、わたしが、8歳くらいだろうか?
    ご飯の時に、トマトのサラダが出た。祖母は、子供は、トマトやピーマンが嫌いだから、お砂糖をかければ食べる・・という信じがたい行為をした。わたしの目の前で、トマトにスプーン一杯の砂糖を、本人の私にも聞かず、ドヴァっとかける・・・・
    この行為はトラウマとなって、二度と、この家には来ない・・・と 思ったものだった。

    押し付けの強い、自己判断の強い祖母だと思っていたけど,甘いもんが子供が好きに決まっているという思い込みを持つのは、仕方がないとしても、子供のわたしに一言、聞いてもいいんじゃないか?
    それくらい、孫に 聞いて見るというワンクッションのコミュニケートの時間をもてないのか?
    といつも思っていた。

    とにかく、そのような母の姿を平気でいるのは、うちの父だけであったと思う。多分昔から変わらないのでしょう。

    母の母<祖母>の家には、叔父夫婦と息子が同居であったにもっ変わらず、私達をお客様扱いをしない・・・という祖母は、普段と変わらない...孫の世話など頼まれてもしないという感じだけど、それは彼女のスタンスなんだろうと思う。義理の娘が同居しているのだから、何も自分が、バタバタ動いて世話などすると、義理の娘の邪魔になるだけだと思っていたに違いない・・・・又、来客が来たからといって、お寿司を取ったりしない・・・そこが 好きだったのだ・・・・

    何故か?良くわからないけど・・・普段の通り全く変わらない祖母が好きだった。
    ところが、父の母<祖母>が亡くなってしばらくして、祖母は、父の養母であり、血が繋がっていないのを知った。多分中学生だと思う。その時初めて、祖母に悪いと思ったのだった・・・・
    何故?
    悪かったと感じたのか?
    それは、多分、父の母は、血縁で結ばれていない・・・・血縁で結ばれていなかったら?血縁で結ばれている以上にあれやこれやと、世話を やきたくなるのではないか?
    父が小さい頃、4人の子供を育てる為に祖父は急遽困って探したお嫁さんだったらしい。
    父が、何度も、祖母の事を「 苦労かけた'、よく育ててくれた・・教育ママだった・・・勉強しないといけない・・と大学に行くように勧めた」・・と、自分の母の事を、亡くなった後も、よく言う父だっのを、「 なんで?そんなに自分の母親を褒めるのか?」と、理解に 苦しむ私がいたけど、その祖母と、わたしは、血が繋がっていないし、父とも繋がっていない・・・とわかり、亡くなってから、なんであんなに、うるさく、わたしの世話を焼くのか?と思っていた事に、悪い事をしたと、思ったのだった。

    反対に、わたしが遊びに行っても、その場から全然動かない母の母、・・わたしの祖母は、いつも畳の上に背骨を伸ばし長時間座っても、崩れない・・すわり姿が美しい祖母だった。
    母から軍人の娘だからだ・・・と言われなるほど・・・あまり家庭的ではないけど、何も家庭の事を一切しないという事ではなく、必要最低限だけする・・あとは趣味に高じる・・という祖母だった

    その祖母が、短歌を創りはじめた・・・・・・祖母は、わたしが結婚する時、短歌を創って、色紙に筆で書いてプレゼントしてくれた。その 短歌は額装にし、今でも玄関に飾ってある。

    その祖母が亡くなった時、通っていた、短歌教室に 出品された短歌が載っている小雑誌を頂いた。
    祖母はほとんど、私語や愚痴や不満を一切話さない・・・という人柄で、いつも、ニコニコ回りを観ているという祖母なので、祖母がいったい何を考えて、何を感じているのか、子供ながら殆ど分からなかった。ただ、その祖母が大好きだったのだ。ただ、その短歌を読んでいるうちに、あの何も文句も愚痴も言わない祖母の心の内をのぞいたような感じがした。
    それは軍人の父をもった明治生まれの 父に育てられた・・・そして、戦後を生き抜き、伴侶を失って、半世紀以上も息子夫妻と同居していた祖母の心は、戦争回避への思い・・とくに憲法9条を守るという強い思いが、日露戦争後に生まれた祖母の 心の支えになっていた・・・・戦後生まれのわたしが、日露戦争、太平洋戦争を経験してきた祖母の 心の内を垣間見た瞬間だったのだ。

    わたしが、生まれて初めて しかも予定にない、高野山に行ったのは、数年前の事
    空海さんは、即身成仏し永眠する・・・・その神域に初めて 訪ねた・・・・

    わたしを 高野山に導いたのは、密教僧のT氏。T氏は、何故か当時はヨーロッパに奥さんと子供さんがお住まいだった。
    そのT氏と、高野山を訪ねた時、一人の老婆が近づいてきて・・・「どこからいらしたのですか?」と聞かれ・・
    躊躇し、「ヨーロッパ、フランスからです」と答えると、その老婆は、大変驚いて・・・「 夢を見るんです、ヨットでフランスに着く夢を見るんです」・・と話してきた、
    「お体、大丈夫ですか?」と聞くと、
    「 死にそうです」と答える。

    その老婆の夢の話は嘘でないであろう・・・と思う、

    彼女の胸に、十字架のクロスと、高野山の奥の院にある空海さんのメダイユを首からぶら下げていたからだ・

    この時・・・もしかしたら? 空海さんは密教真言宗と、西洋宗教キリスト教と 一緒になるようにでも・・・考えているんだろうか?まさかねぇぇ?
    そして
    宗教の普遍性・・・・を考える。

    後で、よくよく考えたら、この高野山に行った日は、パリの不思議のメダイユ教会の 聖母マリア出現と遭遇した聖人カトリーヌを修道女になるように導いた、夢に出てきた、聖ヴァンサンポールの 日であり、同日、この母の母・・・祖母の命日
    だったのに、気がつかされた。

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