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続 哲学〜真理〜探求について

続 哲学〜真理〜探求について>掲示板

公開 メンバー数:6人

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2014年02月28日 18時49分27秒

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    精神と心<魂> その②






    行動 という日本語の 捉え方には、目に見る物理的な 動作しか含んでいないと思われるのですね。

    ところが、哲学で、行動を理解すると、心理学を語る事が普通である・・・・という過程になる・・・・

    この地点が、すでに ズレがあるのではないか?と思う。

    どちらが 間違っている 正しいという意味ではなくね?

    同じ玄吾を媒体にし、話しても、なんとなく 理解のズレを感じてしまうのは、

    言葉がどのように 捉えられているのか?

    という理解が 他者理解に必要になってくる。つまりコミュニケートを自分以外の他者と する時に、言葉の 理解の仕方が微妙に、違う・・・・・・・

    まず、この地点に お互いが 立とうとしないと、コミュニケートは無理でしょう。

    行動は、アルファベット圏語 ラテン語は、 思考を含む行動と 捉えられている。

    つまり、目に見える動作以前の事を含むという意味が行動 ACTIONという単語で表現される。

    ACTION アクションは、行動ですが、動詞 の原型は、ACTIONNER

    アクショネー<身体、機械、刺激>を動かす・・・・という動詞の原型があります

    ラテン語の ACTION は、ラテン語の動詞AGERE<行動する>から派生します
    言葉がつくられる段階途上、必ず、言葉は、関係するあるいは、対立する単語の意味も含めた 言葉が 造られていきます。

    つまり、ラテン語の AGEREは、COGITARE<考える>をふくみ、又 蒙る 受ける PATIに対立し、 PASSIOは、人間が蒙るものを現します。

    情念、PASSIONという現在の意味から考えると、

    ACTIO<動かす、考える> とPASSIO<情念、情動感激>の対立は、意外におもいますが、
    しかし、この対立は、動詞を考えるにあたり、能動動詞 と受動動詞 を
    考えるべき・・・・・・という視点がわかります。

    つまり、 自我云々と 哲学で語られる時の自我の理解は、 受動的に 捉えやすい日本語環境だと、なんらかの 解放、自由自在とか自由奔放の 自我と解釈しているきらいがあると思う。

    つまり、大きなヅレは、言葉の 能動動詞と 受動動詞の ちがい・・・・

    例えば、 誰かを好きとする・・・・・

    好きと思わされてしまっている・・・・という 受動動詞としても 考える、、好きという行動<心理学>を、行動と呼ぶことなのでしょう。










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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2014年02月28日 05時44分47秒

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    精神と心<魂>





    哲学について、精神という言葉を話す度に、感じる事・・・・・

    精神と 心<魂>は、作用が似ているように感じるけど、

    ちがう・・・・という、手ごたえがなくて、話している人をよく みかけたり、感知できたりするのですよね。

    精神は、心模様ではなく、自我の 自立なくしては、自覚できないと思えます。

    心情は感情とか情動とか・・・思わされたり、感じされられたり・・・・という受動の様態にちかいでしょう。

    でも、精神の強さを感じる・・・という受動態にはなりにくい・・・

    むしろ、精神は能動態に付随していると思う。

    精神世界は、心情世界や情念世界と理解している人が多いのではないか?と思う。

    フランスの哲学の教科書の目次だけ見ても、

    精神を語るのは、哲学でも、 認識カテゴリーに 位置づけられている

    心理学で、認識を語ると、意識や理性的意識、また思考と言語を語る

    そして、心理や情動状態<快楽と苦痛、感動、情念、感情>は、 行動の心理学として、位置づけられている。

    つまり、哲学を 二つに分けて勉強する時、 行動と認識に大きく分けられる。

    精神と 心理<感情>は、同じ事ではなく、同じ意識ではないのですよね。

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  • from: yeshangさん

    2014年02月27日 23時01分23秒

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    最近は百貨店・デパートで買いものすることが多くなりました。

     スーパーマーケットでは買い物かごを出して、表示された合計額のお金を出すだけです。
     百貨店では、買い物の中身はちょっと違いますが、店員さんとの会話があります。

     筆記具売り場で、贈り物を買ったついでに、最近話題の万年筆を試し書きさせてもらって、パーカーのソネットはどうだとか、モンブランのスターウォーカーはどうだとか。
     店員さんとの会話は楽しいものです。

     本屋さんも以前の本屋さんと入れ替わってしまって、同じ大手ですが、スーパー・コンビニなみになってしまって、一言二言の会話を交わすことがなくなってしまいました。確かに、店内に長椅子があって、じっくり本を確かめられるのですが。

     こちらは老人なので、話すのもほんの一言二言にしていますが、それでも世間との繋がりを感じさせられるのは、なぜかホッとするのです。
     ちょっとした話題があって2,3分も話がはずめばなにか幸せな気持ちになるのです。

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  • from: yeshangさん

    2014年02月27日 21時37分37秒

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    今でも夢を見ます。

     命からがらの夢から、ああ楽しかった、今も続いていればよかったのにと思うものまで。思ってもいなかった昔の友達やかわいかったあの子が突然出てきたりして。

     人生も、そんなものかもしれません。
     終わってみて、ああ苦しかった、おもしろかった、楽しい時だった、不思議な経験だったなどなど。

     そして、人生と言う夢から覚めて、ああ苦しかった、楽しかったと思うのではないかと。 しかし、
     夢から (この世を去って)醒めても、ああよかったと思うような人生を過ごしたいものです。

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2014年02月24日 07時55分35秒

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    知性 は 知識ではない理由




    知性と、認識とは同義語ではありませんね。

    知性という語は、ある能力とか力を示しているのでしょう。

    ラテン語の知性は、INTELLIGERE
    日本語カタカナだと、インテリジェンスと 読みたくなりますね。

    本来の意味は、~の中から選択する legere inter

    ですので、何かの行為途上です。

    つまり、心の中で読む という訳し方にちかいでしょう。

    選択するというLEGEREは、理解する分かる、識別する・・・・という意味ですから、

    心の中で、分かる、読む、識別する

    という事を、知性と 呼ぶので、

    認識があるであるとか、知識が豊富という 時間経過の結果の量を述べているのではありませんね。

    テーヌの 「 知性論」では

    「 最も広い意味では、認識を対象とするすべての機能の総体


    感覚的印象、連合、記憶、想像、悟性、理性、意識>」

    と言っています。

    ここで述べたいのは、

    理論的知識と

    実践的知識の 混同は

    知識と 知性の混同と同じでしょう・・・という事ですね。

    ベーコンによれば、

    事実を説明することができないままになされる事実の認識に 帰着するというのは、ほとんど、知性をともなわないで、

    ほとんどが、思い出や記憶に帰着する

    つまり、 通俗的な知識・・・・・だそうです。

    そして、それは 真の知識ではない・・・と言います。

    つまり、先人の 知識や記憶の リピートを後世代の 人たちが、その場限りで、 演じていても、それは真理とは言えず、

    伝言ゲームのようなコミュニケーションなのではないでしょうかね?

    それは知性とは言えないのでしょう。

    =================================

    「 真に知るとは、 原因によって知る事にある」

    vere scire per causas scire
    そこにあるのは、説明的な知識だけである。

    ===============================================

    説明的知識の獲得は知性を要求し、発達させる。

    説明するためには、理解しなければならなず、理解するのは、知性である。

    そして知性はいっそう困難な問題解決の為につかわれれば使われるほど、いっそう 理解するのでしょう。

    しかし、知識の所有は、一般的な理解能力としての知性とは無関係であること。

    なぜならば、

    知識はいわば、知性に 供される手段ではあるが、知性と ひとつになることはない。

    よって、知性が、知識より重く価値をみるのであろう。

    P FOULQUIE 哲学講義

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  • from: yeshangさん

    2014年02月23日 21時09分43秒

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    中国人の古い友達を近く実家に招待しようとしていますが

    友達は福岡の在日本国領事。
     実家は和歌山県の高野山の麓。風光明美な土地なので、ぜひ招待したいと思っています。
     しかし、一人で来るのか、家族三人で来るのか?

      今の実家は年老いた母一人、私が帰ってもどれだけのもてなしを出来るのか疑問です。

     でも、いいや、旧来の友達だから、しっかり日本の風習に馴染んでもらえればそれが、一番のおもなしかもしれないと開き直っています。

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2014年02月23日 20時46分22秒

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    義務化と 忘れる事



    外国に住みなれてきて、余裕がもてると、今度は外国にきたばかりの日本人達と知り合う機会が増えてくる。
    、日本から外国に来て、勉強する若い人達、最近は 定年後外国語の勉強の為に 何年か外国に 住む日本人も増えてきた。

    そのような人達から 電話がある日かかってくる。

    日本食でも食べに来る?と・・・・・家に招待する。普通の 人づきあいをするのである。

    別に わたしが日本人だから、特別に日本人だけをうちに招待するのではない。

    ラジオで、1800年代南米に移民した もと フランス人達、チリ、アルジェンチン、ウルグアイ等の国から 先祖の住む国を観光に 来る人達もいる。

    フランス人の家庭でおもてなしをする人達を集う。

    ボランティアに似ている。

    そのような集いにも参加する。南米の 国に移民?もとフランス人?

    スペイン語を話す もとフランス人達が、南米から 観光に来る。

    何人か、わたしも うちに 泊めてお世話した。

    そういう時の食事会には、必ず わたしの家の近所の 知り合いも呼んで食事会を開く・・・・・

    近所に住む 70歳代の 男性 レモンさんを呼び、ウルグアイからいらした4人のウルグアイ人と7人でうちで食事をした。レモンさんは、奥様を亡くされて 一人暮らしだったので、なるたけ、そのような社会的な未知人達と知り合う機会があると、食事にさそうようにしている。

    高齢年齢が、一人で暮らすという環境が、社会から孤立しだす・・・という自然方向への、存在させる為の 軌道修正のために、社会は存在する・・・という、考えが底辺に フランスの国に住むと備わってくるからである。

    孤立と自立はちがうのは、、当然ですが・・・・・

    年齢を加算していく人間をとりまく環境が、 しょうがなくて、孤立しているのか?

    という 存在の仕方は、まわりのにんげんから見ると 悲惨の雰囲気を 感じさせる・・・・・・

    好きで、自由意志によって、一人で住む・・・という自立という環境にもっていくのが、理想であろうと思う。

    ところが、反対に、弱者とみなされる、 年齢が高い老人達の 身の回りを世話を家族がすると言うことが目的=倫理や道徳概念として 社会を機能させる・・・・・

    つまり、行為の目的=倫理になるのである。

    自分が存在する意味は、他者達との関係<因果>によってでしか存在性はないと思う。
    存在していこうと未来を考えれば、未知の人達との 他者達との 関係に視さを向けるとは、時間途上において 自然に思う。

    人間の生きる目的が、なんらかの その時代に生かされる生活や周りの 人間の状況によって、共同生活を営む 倫理目的に すりかえられてしまう・・・・・義務化と、 したくてしているのとは 同じ行為に見えても本質は違う。

    話しが飛んでしまったけど・・・・

    ちょっと、トビついでに、、、

    わたしの知人達が、質問してくる質問にいろいろ興味深い質問がある、

    「 ねえ?貴女の知人でも、知り合いでもいいけど、貴女に、『よくご両親が外国に住む事を許しましたね?』という質問してくる人達はいませんか?」・・・・・・という質問の 投げかけてくるので、

    「ああ、、いますね。不思議ですね?そういう考え方や、価値観が、根ずくという のが・・・・」

    という風に 応えている・

    多分、 子どもは親のすぐ、ちかくに住むのは、当たり前であろう・・・・・という 概念が 誘導しないと、そのような 質問は生まれてこないように思うのだjケド・・・・

    よって、子どもも、 親から なんらかの 物理的条件の 利益というか、見返りというか、いわゆる不動産、持ち家にしても、親と一緒に住む事は当たり前なので・・・・親が近所にいると、便利である・・・・・という考えがうまれてくるのではないか?

    人間関係、親子関係や血縁関係が、便利に利用する、たとえば、子どもを見てもらえる・・・といった条件が、最初から当て<目的>になるのだと思う。

    好きでしたくて する行為と 義務化される行為とは 心<内観>の質が違うのでしょうし、、長い時間途上、すこしづつ 関係性の質は、変っていく・・・・・

    表現の仕方をかえれば、老後は子どもが親を見る立場になるのは、当然という 年長者側にある恣意的価値観が生まれるのではないか?

    昨今の 親殺し、子殺しといった 事件が、生じるのは、なにも偶発性ではなく、そのような問題を生じさせるような 内縁の 関係の 歪な圧迫であろう・・・・

    閉塞感、隠蔽性を生む 人間関係世界において、共同生活する人達全員には、居心地のよい 場はえられないと思う。


    善悪の判断ではなく、 そのような人間関係を、片方が支配できる< 金銭的に交換条件を提示出来る>という立場であるというのは、血縁関係においては日常の事なのかもしれない。

    年長者側に、こどもが、年取った両親をみるのは当たり前・・・・・・という 倫理観について、、ただしいのか、あやまっているのか?その判断は 他人事なのでどうでもいいのでしょう。他人がとやかく言う問題ではないのでしょう・・・・・・自分自身が、なんらかの我慢や不条理な事をまかされているように思うには、必ず自分もなんらかの 意識を他者達との関係において肯定しているはずである。つまり自分自身にも原因を含むという事なのでしょう。

    人間行為には、義務化することで、なんらか行為目的に倫理や道徳意識を 根づかせようとすると、それは、次元の低い 意識、概念 となるのは、哲学を勉強すれば、観えて来る。

    何故なら、自由であるから、その行為をするのであり、 義務でイヤイヤながらしているという生き方は、途上・・・同じ行為をしているように見えても、 人間の内観には格段の違いをうませているのである。

    哲学が、 入るのは、その 不条理の世界を、明確化する為である・・・・・

    義務化という 単語の意味はどういう意味なのであろうか?

    フランス語は、大変興味ふかい・・・・

    義務化<しなければならない>OBLIGE オブリジェ

    と、

    忘れる OUBLIE ウブリエ

    は、大変よく似ている・・・・・

    義務化するから 忘れるのでしょう・・・・・

    自由であれば、忘れるはずはないのでしょう・・・・・・自由だからしたいと思うのであるから・・・何かをしたいと想わされるのは、義務化によって 魂に強いているのではなく、自分がそれをしたいから行為に映すという自由意志によっての行動に到る・・・・という 途上行為なのでしょう。

    人間の無意識世界・・・・・魂や心が、何を求め、存在しようとしているのか?・・・・・と気がつく事であろうと思う。

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2014年02月23日 06時40分41秒

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    格差社会の行き先





    格差社会の行き着く未来は、大変です。格差社会の 幅がドンドン広がるという事は、どのような世界観をつくるか、、、日本も アメリカに盲目的についていくと、大変です。

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  • from: yeshangさん

    2014年02月17日 20時32分43秒

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    どうも人生と言うプロセスをおろそかにしてきました

    若いころは未来への願望の現実化と思ってきたのが、いつのころか歪んでしまって、今の自分になっています。

     他人から見れば、いい人生かもしれませんが、自分自身からすれば、不満足です。これをどう回復するか? 
     哲学は実行の裏付けがあって成り立つものです。
     
     取りあえず、行動をどうするか? どうも行動に至らないままに終わるのを危惧しています。

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2014年02月16日 06時02分00秒

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    羽生弓弦




    ソチオリンピックの、フィギア競技を見ていたときの事。

    はじめて 羽生選手の 演技見ました。名前は知ってたけど・・・・

    あのロミオとジュリエットの曲聴いていて、、、ドッかで、聞いたなぁぁ・・・・と思って

    昔、中学の時だったか?クラスの男女、6,7人で 映画、ロミオとジュリエットを見た・・・・・・その映画で、流れていた曲であろうと思い返していた。
    WIKIで調べて見た。

    羽生君が演技した曲は、1968年、製作された映画ロミオとジュリエットの ニーノロータの曲だった。監督は、あのフィレンツェ出身のゼフィレッリと、ニーノロータコンビは、当時のヨーロッパ映画の全盛であろうと思う。


    30年後の、ロミオとジュリエットが、今度は、レオナルド、デ、カプリオによって演じられたのは、1996年のロミオとジュリエット。

    不思議なのは?ロミオとジュリエット、主役をロミオを演じた 俳優の名前は、どちらも レオナルドLEONARD。というライオンを意味する名前をもつ俳優が演じている

    1968年、イタリア人、ゼフィレッリ監督の ロミオとジュリエット、ロミオ役は、

    レオナルド、・ホワイティング(Leonard Whiting、1950年6月30日

    1996年アメリカ映画 バズ、ラーマン監督のロミオとジュリエットのロミオ役は、

    レオナルド、ディ、カプリオ、(英: Leonardo Wilhelm DiCaprio, 1974年11月11日 -


    ダヴィンチの名前も レオナルド・、 ジャングル大帝レオという漫画がありますが同じくの レオのレオはライオンLIONを意味するのですよね。
    ロミオとジュリエットがシェークスピアの 創作なのはご存知のはず。
    この世紀の悲恋物語は、ギリシア神話の『ピュラモスとティスベ』(『桑の木』)を元にしたイングランドの劇作家ウィリアム・シェイクスピアによる戯曲。

    興味深いのは?この ロミオとジュリエットの創作の元になった、ギリシャ神話の、ピュラモスとティスベの話しは、ライオンに 二人の恋愛は振り回され短剣で自殺してしまうという意味が。なぜか?
    20世紀になると、ライオンの語源の意味を持つ名前の俳優が、この シェークスピアの大作を演じ、ゴールデン、グローブ賞を撮って、その映画が有名になったり 演じた俳優や女優の名が売れていくという普遍化させてる・・・・・・ロミオとジュリエットの普遍性や シェークスピアの存在が、所どころで、意味をもつのであろうと思う。

    世間は、映画の出来を文化人や知識人が指摘し、大衆は好き嫌いの判断をし、映画を見に行こうか?いかまいか?と友達の一言で 決めたりする。シェークスピアが何故?この戯曲を書いたか?中学生の時、だけど昔読んだ時の感想は、世紀の大 悲恋?いやぁぁ、シェークスピアは、その事を 言いたくて書いたとは思えなかった。

    シェークスピアの言いたい意味は、そこではないであろう・・・・・
    何故なら、ロミオとジュリエットを死なせたのは、彼らの 生まれた家が、敵討ちをしていた、両家モンタギュー家のロミオと、 キュプレッと家のジュリエットだったからでしょう

    彼らが、初めてであったのは、あの、謝肉祭の前日のカー二バルの パーティー。

    カーニヴァルという意味は、カー二<肉>に魂が入り、つまり化肉する。西洋人的考えの、輪廻転生。

    神様の仕業としか思えない。

    羽生君も、たぶんファンに、ロミオとジュリエットの 悲恋を コミュニケートさせる、時代を繋げていく 担い手の存在に思える。昨日は、バレンタインデーが、ロミオとジュリエットの物語の曲を踊り、金に輝いた、羽生君・・・・何かあるんだろうと思う・・・・

    以下、ピュラモスと、ティズべーのあらすじ、、、WIKIからの転記です

    =========================================================================

    昔、バビュローンの街にピュラモスという美青年とティズベーという美少女がいた。二人は同じ家屋の壁一枚で仕切られた隣同士に住んでおり、いつのまにか互いに深く恋い慕うようになっていた。
    しかし、二人の親同士は互いに折り合いが悪く、どちらもこの恋には反対しており、二人が顔を合わせることすら許さなかった。そのため二人には、厚い壁に一か所だけ空いた小さな隙間を通して毎夜密かに愛をささやく他にできることが無かったが、思慕の情はますます募るばかりだった。
    そしてとうとう二人は、この恋が許されるものでないなら、いっそのこと二人で駆け落ちして、どこか遠い所で一緒に暮らしていこう、と決意するに至った。
    そこでひとまず、バビュローンの街のはずれにニノス(古希: Ν?νο? 、ニネヴェの伝説的建設者)の墓所で落ち合おうと約束した。

    さて、約束の晩、ティズベーは親たちが寝静まるのを待ってからそっと家から抜け出し、待ち合わせ場所に向かったが、着いてみるとピュラモスはまだ来ていなかった。小さな泉のほとりにある、白い実をつける桑の木の下でしばらく待っていると、突然、闇の中から猛獣のうなり声が聞こえてきた。ティズベーはあわててその場から逃げ出したが、その時に頭にかぶっていたベールを落としてしまった。
    姿を現したのは、口元を血で染めた一頭のライオン。どこかで家畜を殺して食べ終えた直後らしく、喉を潤すために泉へ来たようだ。ライオンは泉の水で人心地ついた後、落ちていた布切れを見つけてしばらくじゃれついていたが、やがて飽きたのか去って行った。
    その後ピュラモスが待ち合わせ場所にやって来ると、そこにティズベーの姿は無く、あるのはライオンの足跡と血で汚れ引き裂かれたベールだった。彼は恋人がライオンに食べられたものとすっかり勘違いし、絶望のあまり身に携えていた短剣で喉元を突いて(あるいは地面に立てた剣の刃の上に身を投げ出して)自殺してしまった。
    その直後、もう大丈夫だろうと思って元の場所に戻って来たティズベーは、自分のベールを握りしめて息絶えている、ピュラモスの変わり果てた姿を見つけた。彼女は暫し瞑目した後、まだ温もりが残る刃を同じように自らの胸に当て、愛しい人の亡骸と折り重なるようにしてその後を追った。
    翌日になって、事の次第を全て知った両家の親たちは深く嘆き悲しみ、両家の争いが原因で悲惨な死を迎えた二人への償いとして、二人を同じ墓に埋めてやった。
    それ以来、この悲恋の結末を見届けた桑の木は、飛び散り流れ出した二人の血で染まったような赤黒い実をつけるようになり、恋人たちの深い悲しみと永遠の愛を今に伝えているという。故に桑の木は「ピュラモスの木」(羅: Pyramea arbor)とも呼ばれている。

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