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続 哲学〜真理〜探求について

続 哲学〜真理〜探求について>掲示板

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2012年08月31日 17時44分12秒

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    「Re:Re:Re:心理学」
    2011年は、地震だけでなく、地震が起こる前から、十字架の 十のワードが 気になりはじめたのですが、

    、当たり前ですけど、、だけど、10を、十と置き換えるのは わたしという日本人で日本語の読み書きが出来る記憶に 帰属しなければ、分からないはず。

    しかも 家紋<紋章>の事を言えば、島津藩の 家紋は、丸に 十字ですよ、、などと、閃いたり、フランスの 県旗で 十字を 県旗に している 県は、 savoie サヴォア県の savoie公国の 紋章を 保存させてきている、、という 歴史は、 わたしの 脳内でしか、生じない、個人的な 考えに尽きるのだ。

    この県に住む 住民に一番多い 苗字が、 白さん blancさんという苗字であることは、 その手の フランス語の web で調べる事も 出来る。

    しかし、SAVOIE公国の血縁をもつ、フランソワ一世のもとに、ダヴィンチは、 奨励される、、という展開になっているのかしら?

    しかも、 1517年、10月10日に枢機卿の 訪問を彼が受けていたとは、これはうかつだった。

    同じく、arc 川という 川の名前と、 イゼールという 川の 発生地なのだ。

    Arc という宗教言語に一番頻繁に使われる、、この音素を持つ名前は、140キロ先の イゼール川と合流する。

    隣県の イゼール県の 街中を流れ、 フランス革命が 勃発した、グルノーブルを流れる 川である事。そのイゼール川には、 dracという、ドラゴンの名前の語源を 要す、川が、合流する 地点、でフランス革命の 種火が、爆発してしまったのだ。

    もちろん、何故?そのような場所に そのような事が生じるのか?というと、当時の 文化人、芸術品に 残された作品を読めば、人々の心に 抑圧されたものが、ドンドン蓄積して行く事の 途上に あるという事、、

    心の中に 蓄積していく、なんらかの、 抑圧されたものが、ある時、 なんかのきっかけで、火がつく、、その時を待っていたかのように、あっという間に、全国に 革命の 津波が、 遠心を描くように、人々は、立ち上がる、バスチューユの牢獄へ、向かった市民の姿は、なんだか、パリの フランス革命の イメージで よく 浮かぶらしいけど、 同じ、バスチューユという名前の 牢塞が、 イゼール川を 上から眺められる 場所にあり、イゼール川は、この バスチューユ牢塞を 取り囲むように グルリと 周り 流れている。フランス革命が 勃発した、最初と 最後の 締めくくり場所に、バスチューユという 音素の 牢塞と牢獄が あるのは、面白いでしょう?。

    起承転結しながら 能動的に 歴史を つくりあげないと、 受動的に ズルズル 引きずられてしまってては、いけません、、などど、言いそうな フランス人達なのである。

    わたしが、昔、この 川の名前と場所と歴史の不思議さを 話している時、ある フランス人女性の知り合いが、「貴女、谷によって、男性の 性格違うの 分からない?」と 云ってきた事があって、ハ!とした事があるのです。
    、彼女の 分析が 本当なのか?わからないけど、彼女は、 イゼール川沿いの谷に住む 彼氏と、 アルク川沿いに 住む、彼氏と 付き合った事があった彼女だったのだ。

    フランス人の付き合いは、友達が友達を呼ぶ、、という広がりのある 付き合い方が 普通なので、だいたい、その人の周りに集まる(引き寄せられる) 友人達、その家族の 考え方というが、 一人付き合うと、その人が生きている 周りの人間環境が、どうしても 観得る。現象学という 客観意識は、彼らの人間関係造りに 根ざしているのだと思う。

    彼女は、 ARC川沿いに住む、男性には、マッチョが 多いと思う、話してきた。
    地形的にいうと、イタリアとの 国境に流れている、 ARC川の方だから?つまり、キリスト教の 色が濃くなる 宗教心が強くなる地域なのか?という話をした事があった。谷とその 谷に流れる川、、その川に つけられる 音素は、無関係に つけられているとはとても思えない。

    日本にも、 風水は、 山と谷と結界を 見ながら、 龍脈の流れを見て、波動の低い場所、高い場所を観るらしいけど、それに 似ている。

    2011年に話しは戻すと、、たとえば、2011年に生じた 中東諸国に次々、クーデターの火が起こったのに フランス革命を起す、なんらかの 外側に向かう、人間を力で管理しようという動きに 反発する 人間側の怒りが 爆発するという事に類似していると思う。少数の支配者側と、多数のレジスタントの存在の 均衡が 崩れたのだ。

    しかし、 このような 状態に ちかじか なりますよ!という 、、兆候を感じるのは、いつの時代も、 感性の鋭い人達である事。

    感性の 鈍い人達は、何故か?唯物論者であって、目の前の 数字や、 地図を 目の前にして、 苦虫を潰している、、という 政府人は どの時代も 同じような人達が、 国を 管理すようと 思うらしいし、 国民も そういう人達に 委ねてしまうという依存関係ばかりを 求めているらしい。

    先に 生じる事を、観じられない、、
    このままいったら、存在出来なくなるでしょう?
    という 感覚が、何故?
    持てないのか?
    例えば
    終戦の時期、イタリア、ドイツが5月に 終戦を迎えたのに「、まだまだ、日本はいける」、、と思ったのか? 戦況はますます、悪化しているのに、 見て見ないようにする、信じたくないから、業と、考えないようにする。

    物事を真正面から、 観る事の 勇気が ないんだと思う。

    わずかな、希望に しがみつく、、しかし、その間、戦場に 出されて 戦う 日本兵はドンドン、命を失っている、、という 状況は 心にもしない。<考えない。他者不在>

    ただただ、 日本は 勝ちたい、みっともない負け方はしまい、というなんだか、 自己満足を 得る為にしか、考えられないのでしょう。<他者不在>
    そして、挙句の果てに、
    「原爆を 落下したのは、アメリカだから、アメリカが悪い」、、と 敵対心を 向けてしまう、実際、今でも、そのような言説をコミュで放つ人が存在するんです。
    その感情は何処からくるのでしょうか?

    書き込みしていると、そのような話に 対話者とするような関係を結ばないとならなくなるのですよね。
    議論に勝つとか 議論に負ける、、とか議論まで、勝負の世界と同じレベルに 考えている人達が多いのですね。

    哲学の 構造主義、、言語=思考なんです。

    話す言語の 限界は、思考の 限界、、と言ったのは、 あの ヴィトゲンですが、、
    本当に、そう思うのですね。

    それで、話しを当事の議論に戻すと、本当は
    同じ、敗戦国という立場からいったら、イタリアやドイツは、 原爆投下という 悲劇的な 体験をせず、先に終戦を迎えた 国も 存在するという事、、という事は 云わずにいたら、

    なにしろ、 原爆被害意識を過剰に 呼応させられていますから、、、その事だけしか 見えないらしいんですね。

    つまりね、それに 至るまでの、途上はどのような 展開の仕方だったのか?という事は、読もうとせず、「 世界でたった 一つの 被爆国なんです。 日本にこれだけ、被爆者を だしたのは、 アメリカの 責任です、、」と、こぶしを、挙げて<結果しかみない、それに至るモロモロの因果関係を 考えようとしない>、それに続く、「 そうだ!、そうだ!」
    扇動運動に簡単に なびいてしまう、情動呼応なにやぶし、ウルウルの人達が、後に続くのですよね?

    あのね? 尖閣に 他者が 呼応するのも、 類似の このような 感情なんでしょうか?と思うのですよ。受動態意識は 簡単に 被害者意識に 塗り替えられて しまうんです。
    ですから、無我なんて云っていては、いけないんです。それこそ、ひとり、ひとり、 精神高揚、高次の世界へと、次元をあげないと、いつまでも、次元の低い 争い事に巻き込まれる。日本人は、出来るでしょう?これだけ、古い歴史があるのですから、、次元を上げる、他者達の 心の様子が感じ取れるはずだと思うのですね。いつまでも、一方通行の 自己保存ばかりの言説を述べるばかりに、一生懸命になるのではなく、普遍性は、そのような 途上で、対峙世界の争い上にあるとは思えません。

    いつも、思うのだけど、 自他が、対峙している世界観つくりにあっては、 自滅的な 途上に向かって、存在しているように 思えてしょうがない。何故なら、他者を排除したり排他する事は、外側からみれば、自分自身に 批判や 攻劇の矢を向けているように 観得るのですよね。

    自殺と他殺は、同一人物に 生じる裏返しの 行為であると、精神分析では言われる所以でしょう。だからと云って、好きになれない、嫌いな 人と 無理に 付き合う事はないと思う


    つまり、 和と 調和とという結果ばかりに、迎合<目的に不自然に執着する>事ばかりが、善の意識と思い込む、、という 既成のお仕着せ 倫理や 道徳感で、 人々の 心を縛り、管理する 指導者や 宗教人の 倫理道徳は、 普遍性がないと思う。

    人間の 心は、そんなに、簡単な既成道徳感で、平和とか 幸せとか、得られるとは考え難い。

    もっと、自分自身が、色々な 人間関係を 体験し、 人々との心の対話をしない限り、いつまでも、難しい、経典や、偉人さんの格言ばかり述べる事しかなくなると思う。

    他者達との、心の会話や対話による、実践や体験が 不足すれば、他者の 心に届く、言葉は放てない。いつまでも、頭に 記憶させた知識や 認識ばかりを、上滑りの言葉ばかり、もっともらしく、放っても、馬の 耳に念仏でしょう。

    しかも いつも 断定的な表現しか出来ない、、というのは、 どうして?と思う、コレだけ日本文学や芸術は、あちこち簡単に触れる事が出来るのに、詩や ポエムとか 川柳でもいいし、もう少し、そのような 文学的な表現力が身につかないで、どうしていつも、 人と話すのに、 断定的に 上からお仕着せのような 現われ方で、関係結ぼうとするんでしょうか?という人が本当に多いけど、なにかの 過去世に支配されているというか、魂、乗っ取られているんでしょうかね?と、

    、あまりの不自然さ首をかしげます。「大丈夫? この人」的に、 感じてしまうというか、、
    それで、哲学 話すと、 やはり、その人は大丈夫じゃないんですよ。



    明らかに、普遍性が見えない、途上を歩いているのが見えるんです。

    どんどん、孤立していくというか、形而上世界でも 引き寄せが生じないというか、 誰からも、求められない、愛されない、、という存在の仕方をしてはいけないのに、、、それで、「あぁぁ、、心の病かな?」という 事も 推測出来る、一貫性の 見えない 言説を返答してくる。

    哲学は、 まず自我(自分)、、そして一貫性が 底辺にある事、心や魂 の 存在を 思惟といってもいいですけど、、そのような全体像があるのですよね。まず、それを察知する事の出来る事。右派だとか左派だとか、仏教徒だとか、 イスラム教徒だとか、ユダヤ教徒だから、とか、、そういう 事の 以前の段階で人間陶治と 人間的な 感情を育む事が出来る事、この二つの意識は大事に思えます。。
    十の事に関しては、もう少し 煮詰めます。





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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2012年08月31日 00時14分44秒

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    「Re:univers ユニヴェース (地球、宇宙)」

    いやはや、10月10日、は変でしょ? 菅元首相の誕生日?なんだか 変ねぇぇ、、と 想って、レオナルドダヴィンチの 記事の アンボワーズ城との関係を読んでいたら、、これだったのかぁぁ?と想わされる。


    1517年、アラゴン枢機卿が、 10月10日に、 ダヴィンチに会いに行ったという記録が、枢機卿の 秘書の 記録に残されているらしい。驚いた、、

    いったい、10月10日に ダヴィンチに会わなければ、ならなくさせた、
    、何故?10月10日だったのかしら?

    Le 10 octobre 1517, Vinci reçut la visite du cardinal Louis d'Aragon, et le secrétaire de ce cardinal a laissé une relation de cette visite. En particulier, Antonio de Beatis y énumère les oeuvres que Vinci lui a montrées :
    • le portrait d'une dame de Florence peinte au naturel sur l'ordre de feu Julien de Médicis [la Joconde] ;
    • un saint Jean-Baptiste tout jeune au doigt levé [au Louvre] ;
    • une Vierge avec l'Enfant assis sur les genoux de sainte Anne [au Louvre] ;
    • un traité d'anatomie comportant une foule de croquis faits à partir de la dissection de plus de trente cadavres ;
    • de nombreux volumes comportant l'étude de machines très diverses
    http://www.bude-orleans.org/lespages/44centr/37/amboise_luce.html

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2012年08月30日 22時51分57秒

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    「Re:Re:心理学」
    MSG950の続き、、

    この コンコルド広場、


    この場で、 歴代の 王、ルイ16世は、絶対君主から立憲君主へ

    同じくマリーアントワネットと共にフランスの 象徴化へと、、、

    、くすぶっていた、民衆の 怒りが爆発し、 フランス革命を 起させた、

    王権が 制止され

    彼らは、ギロチン台へ 処刑された 場所には、

    CONCORDE コンコルド広場、 CONCORDEは、 調和と和合と呼ばれる 広場に なった。

    CON(コン)=共に
    CORDE=コード、 綱、紐、ロープ

    共に、 つなぎあって、調和を 保つ、、という 意味の広場になったのです。

    「あぁぁ、、 フランス人って 怖いわねェェ、、
    ギロチン が行なわれた 広場が、今では、 観光客が、世界中 ワンサと、 ルクソーから運んできた、 オベリスクの 鉄塔など背にして写真とっているのを見ても、なんとも思わない?、

    血なまぐさい、歴史の出来事は、思い起こされないようになっている」

    などと、 ギロチンと聞くと、「きゃー怖い」、、と いう過剰投影する事だけは、外国にきてもしっかり忘れない。

    でも、ちゃんと、 広場に行けば、マリーアントワネットの 処刑された場所と良く見れば書かれているでしょうに、と思って、外側から黙って見てるわたしがいる。どうも、 目的が 彼らは、モネの 蓮を見る事が、今回の 旅行 目的だった、、と、 走りまわる、、、、


    そうそう、 金の天使などと、いうお名前の 美術館に、 モネを 蓮の 絵を、 展示する。ひと頃、 モネの蓮の 絵を 見るために、 日本人観光客の 行列がすごかった。


    そういえば、 この5月、大統領選挙ありサルコジー氏からロランド氏、左派に 移った。

    フランソワ françoisという名前、何故か?左派は、フランソワという名前が 多いのかしら?あのミッテランさんから、 シラク<ジャック>氏、サルコジ<ニコラ>氏から 左派に移ったとおもったら、又 名前は フランソワさん。

    その フランソワさんが、選んだ、大統領選挙に 選ばれた、初の大統領としての、ディスクー<演説>、場所に 選んだのは、この コンコルド広場だった。

    大統領によって、初めての演説の場所は、自分の 意志で決める。 思惟を成す 帰属していると思われる、歴史的な 場所、 を選んで演説をするらしい。
    それが、コンコルド<調和>という場所だったのだ。

    この場所は、 聖マドレーヌ寺院<マグダラのマリア>の 真正面に 立って、マドレーヌ寺院を 背中にすると、 真っ直ぐ、一直線状に、コンコルドの オベリスクが、立っているのが見えるのです。

    こういう事だったのかなぁぁ、、?


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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2012年08月30日 21時29分35秒

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    「Re:Intuition 直観」
    2,3週間まえ、、から、101という数字が、降りてきて、なんだか、 頻繁に 思わされる。

    11 、、十一面観音の事かな?とおもっていたけど、 それでも、11は11として、降りてきていたし、例えば、

    3月11日に しても、9月11日に しても、2011年にしても、 11という数字が、提示されている 現象だったのだから、、違う、、

    小さい頃 見た、ディズニー映画、101匹 ワンちゃん 物語なのかなあ?

    と思っていた。

    2011年 3月1日に亡くなられた、広島に 1945年<終戦>生まれたMさんが前年、つまり2010年の夏、わたしに 「読んで欲しい」と云って、6冊スピリチュエル関係の 本を、 突然持って来た。その手の 本には、興味ないので、一冊もなかったけど、癌の末期という彼女の 事もあり、
    読んで、話題性を 広げてみようと読んでみた。その中の一冊に、
    佐藤愛子の 「わたしの 遺言」という本が、あり、中味に、わたしが 主人と知り合った、戸隠中社の 神様の 事が書かれてあった。

    心霊守護神としての、心霊家の信仰の的であるそうなのだ。

    当事は、そんな 事はもちろん知らない、戸隠は、閑古鳥が鳴いていたといっては、怒られるけど、、今のように、マイクロバスがひっきりなしにくる場所ではなかったのだ。
    去年、20年ぶり、、訪ねて、人の多さに、度肝を抜いたのです。

    佐藤愛子氏の 回りに生じる 霊現象を沈めるために、あちこちの 霊媒師や、超能力者を訪ねたという、 一番最初に 伝手を頼って電話をかけた、美輪明宏氏は、 佐藤氏が、説明する前に、 「大変なところに、家を買いましたね」という出だしで、はじまったという。

    霊能者というのは、 相談事を 言う前に 分かるので、向うには、十分に分かっている。

    「北海道の 家、あんな恐ろしい処には、いけない」と言われ、しぶしぶ、佐藤愛子氏は、サニワと、霊媒、日本有数の心霊家に、ご縁を得るのである。

    正直 紹霊の 場が書かれているのですが、 死者の 言葉に対して、心霊家の サニワとして話す、 大西氏の 言葉に、大変感動してしまった。

    死者の魂に 接する、接し方であるのです。

    話し方、接し方、心と接する、苦しむ 死者達の 心の 接し方、何百年も 何千年も何万年も、怒りや、憎しみの 感情と一体化し、あの世で 苦しみ、三次元に 暗号や 兆しを 生じさせる。

    どうやって、過去から永遠と 持ち続けた 怒りを 解けるのか?

    なんとか、 解いて、安心させて 浄仏させたいと、 大西氏は 必死に 説得する。
    そのような 紹霊の場が、無事 すむように、 前もって、戸隠中社の 心霊の神様、天八意思兼命の心霊神の お札を 頂きに 行く話しになっていた。

    スピリチュエルという言葉と ともに、心や魂の 存在が語られはじめたのは、15年くらいからだろうか?

    戸隠という場所は、 たしかに テレビで、江原氏が、 大変なエネルギー 波動の高い 神域として 紹介された事も あり、 一気に戸隠は、人が増えた。しかし、わたしが、よく通っていた頃は、 仲間達が 常宿していた 宿も あり、比較的に、滞在費も 高くなく、スキーもできる。山菜取り、、といった 自然の 宝庫だったのだ。

    そのような 興味深い 事が書かれた本を、Mさんは 持って来た。

    わたしは、手術で入院した、彼女に I子からもらってまだ、手元にある、不思議の メダイユを つけて、 病院の 受付に行き、手術の後で、面会も 苦痛であろうと思い、看護婦さんに、わたしてもらうよう、手紙を添えて、置いてきたのだ。

    翌日、彼女から電話があったのだが、この時期、もう一人の 友人も 乳がんだと 宣告されて、 突然うちに遊びによってくれた 友人からも、 昔シャモニに住んでいた頃の 友人J さんは、 癌で ホスピスに 入退院していると 聞かされ、心が沈んだ。

    ピレーネ地方、ルルドの聖母 出現の 地を訪れてみようと、初めて 思わされ ルルドの 聖母マリア出現の 地、 年間500万人もの、参拝客、巡礼者の町を訪ねる事にしたのだ。


    話しは、 その 101の 数字が、頻繁に降りてきた、、ある神道のブログを書かれている方の ブログを、たまたま、8月14日の 日に 開けて、なぜか?不思議の メダイユの 写真が張られていた。

    パワーストーンは、失くしても、メダイュは、何故か 失くしても、見つかるという経験を語られた ブログだったのだ。

    アレ?と思わされ、コメントしたら、今度は、 丁度 秋田の 聖母マリア聖体奉仕会に、訪ねた後だったので、驚きましたと コメントがかかれた。不思議のメダイユの 事を、ブログにはったのは、一週間前だったらしい、日付も確かに、そうなっていた。

    ところが、 この 秋田の 聖母マリアだったのだ。
    その方の話しで、 101回 涙を 流した、 秋田聖母 マリアという 事に 気がつかされた。

    つまり、101は、 ディズニーの 101匹 ワンワン物語りではなく、 101回、涙を 流された 聖母マリアの 木造の 像だったのだ。

    これは、 聖母は マニフェストするのは、 被昇天 8月15日であるから、 イエズス会発足、 十字軍の 出発も、 8月15日 聖母マリアの ご加護、、、願いが叶う為に、8月15日 前後は、 霊体や神界は、 あわただしくなるという事を、 感じられる人達は、信仰があるとかないとか、関係なく、無意識に 呼応しているのだと思う。

    これは、 やはりね、、という 手応えを感じるのだけど、、

    ロザリオの祈りを、してください、、という 聖母の マニフェスタシヨンが、内外 どこでも、チャンネルが合えば、感じてられると思う、秋田の 聖母は、1970年代の出来事、霊聴ですが、、ロザリオのワードが、おりてきているんですよね。

    後は、知らない 人達で、情報交換でしょう。普遍性をみるには、他者達の存在は、絶対 ひつようです。

    独りよがりに ならないように、、見ず知らずの あかの他人に見える、他者達にこそ、秘密のキーワードをもっているのですよね。

    いつまでも、同じ人達と話すのではなく、、他者達なんですね。しかも自分の 知らなかった、他者達です、

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2012年08月30日 19時15分12秒

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    「Re:心理学」


    哲学分野のWEBの 書き込みを読んだり、 書き込みしたり 6年ほど

    してきましたけど、、

    思うに、、

    MSN の 議論と言えるか?わからないけど、、、

    議論は、 相手を 負かす為だと思っている 人達が かなり多い。

    日本語の、 議論で 相手を 負かすの 負かすは、 勝負の 負けという漢字を書く。

    いったい、議論って、 勝ち負けする為の 行為なのですかねぇぇ?

    と、 日本語の、 議論に 勝つ、、とか 議論に負ける、、とか、

    対話<対峙>者と、 相手をしようと、鼻息を 荒らして、しかも、 対話者の、 書き込む 文を、 コピペして 断りなく、作成者の 文面の 断面を 切って、そのつど、 後追い、返答を するという 世界では、変わった 議論の 場に 熱中していて、、それで、 哲学を語っている、、と 思い込んでいる人達が すごく 多かった。

    哲学を語るのだから、 哲学を書くのではないのでしょう。

    語るは、 語るであり、人の 生きた 言葉と、対話するのが、本来の 姿であると思う。

    議論に 勝つとか負ける、、という 表現は ないでしょう、、

    どこからそういう 言葉が出来るのかしら?と思う。

    議論は、 相手の 意見に 納得出来る。自分の意見又は 共感出来る、同じ 価値観が 存在します。という 同感、一致を 認める、、という 行為は、、相手の 意見に納得します。共感します、同感します、 一致します、、という 事は、議論の相手に 負ける、、という 意味ではないでしょう、、

    又、反対に、 自分の 意見や 意図、自分自身のもつ信仰や 概念に至るまで、
    相手に、 これこれこうだから、私は、このような意見を持っています。又はこれこれ、このように考えるのですが、 それが、貴方とは 対立 意見に 結果 なります。しかし、 わたしが、 この 考えを 推し進めるのは、 コレコレ、こういう 理由からなんです。、、という

    議論するにも、 このような 途上の コミュニケーションが 不可欠であろうと思う。

    何故?

    そのような 途上の コミュニケーションを 成さず、相手<対峙者>を理解するという 努力も せず、 いきなり、 議論に 勝つ、、とか、負ける、、という 表現に 至るのか? 、まったく持って わからない。

    わたしは、日本語を 話すけど、自分自身で、話す 日本語の 意味に、納得出来る、共感がなければ、決して、言葉には しない。

    それくらいの、 努力は、最低でもするべきだと、 思っているので、 日本人で、日本語にあるから、安易に、 表現しても、放っても、回りが 使っているから、放っても いい、、などという 考えには、とうてい 及ばないです。

    自分に納得できない、自分自身の 価値観が 共感できない言葉は、放たない、、、 日本語にあるから、 日本語を話す、、という大衆に 委ねているのではなく、 言葉を 発する 者の 一人として、 責任を 持つ、、と言う事でしかないと思う。

    それは、 思惟 とか 自我とか、 心 とか 魂とか、そのような ものが、納得させなければ、 放たないであろう、、という 事、、当然に思えるのですよね。

    人が話しているから、、とか

    回りが 話しているから、

    回りの皆が やっているから、、

    流行っているから、、とか、

    どうでも、いいと思う事、価値観をおけないものもありますし、話題性としては、 知りますが、だからと言って 自分が おのずから、そのような 大衆がたなびくムーブメントに 共感し、頭を縦に無意識に 同感する事はないでしょう。

    心理学的に思うに、他者が理解出来ないのでしょうと思う。他者との 心の コミュニケーションができていないというか、 いつも、いつも、議論に 勝つ、とか負ける、、コミュは、 テリトワールと 思い込んでいて、 自分の 主張が 通らなければ、その コミュから 遠ざかる<負ける>

    と 考えているらしいし、 コミュに 居残る人達は、 何故か?同一意見、同一価値観、 同質 感情で、 集まり。団体に なりたがり、 外からの 意見が 違う 人達を、 遠くに 追いやる、 ディスタンスを、 取りたがる、、という、 結局、 コミュという テリトワール内の 議論なんだけど、 コミュの テリトワール、境界線、例えば、キリスト教なら キリスト教徒、仏教徒なら 仏教徒信者達が、集まって語る、テリトワールなのだから、 仏教語るのあたりまえでしょう???的な、存在の仕方に なっているし、 自分達は、 その 隠蔽、閉塞性を、 造り上げている事さえも 自覚できないのだと思う。

    実際、わたしが、 哲学に 興味が あると、回りの 人達が 知っていて、
    ある、仏教コミュニティーの コミュに 書き込みすると、

    最後には、「 何故? 沙羅さんが、 ここに 書き込むのでしょうね?」という 言葉が、 公開されている コミュ上に、 返答として 書かれるのである。
    これを 読まれた方達は、多分、そういう 心の狭い 人は何処でも いる、、という 情動論で 自分を納得させ、他者をも 納得してもらう、、という行為に 出るらしいけど、 その方は、 何処かの 僧職であり、阿闍梨
    と呼ばれる世間では 一応ですが、 それなりの なんらかの判断をするであろう、、そのような密教僧の一人でいらっしゃった。

    つまりね、 肩書きや名誉とか 知識とか、 教育者とか 宗教者には、 人びとは、信じられない、、この世の現実を見せられて、、嫌気がさしているんでしょう。

    もちろん、全部という全部とは もちろん 述べませんが、結局、そのような 世間で通じるような 権力的、存在<実存>の力、横暴性を、心では 嫌っているのに、 反対に ないモノねだりで、求めなくては いられない、、という 感じに思えます。

    違う者、異端者として、 押しのけて、言葉の 横暴性を 利用して、相手の主張を 認めないように、排他しても、または、排他していないと 自分では そう思っていなくても、その人をおのずと、 居辛くさせるような 雰囲気を つくり、影で、少数者を無言で 苛めているような、状況つくりをする為に、 その時になると、いきなり、 同行者の意見を 大いに、褒めたりするという 不自然な 行為に出る事。または、いままで、 ROMしていた 人が、 加勢したくて、自己紹介もなく、いきなり、気に入った 対象<対峙>者に、 紋切り型の表現で、 現れるという ほとんど、同調しようが、批判しようが、 あの コミュに現れる、荒らし行為の 存在の 仕方と 同質傾向なんですよね。

    このような、 ネット世界の 書き込み行為に、どれほど、 真実に ちかいもの、、空に存在するであろう、、価値ある 体験できるのでしょうかね?


    日本人達の好きな モネの 絵

    このモネの 蓮の 絵は、 コンコルド<ルイ16世や マリーアントワネットの ギロチンの 刑が 執行された 場所なんですよね)広場の 横、

    オランジュリー美術館に モネの 蓮の 絵あります。


    オランジュリーは、 OR+ ANGEL と書きますから、
    金<OR>の 天使<ANGEL> 美術館です。

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2012年08月30日 08時43分00秒

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    「Re:沙羅ちゃんとボディサットヴァ」
    この曲、去年何回も 歌われた。

    私も、何回か張ったのです。

    フト、、マリア観音かなぁぁ?と 気がするので、

    この 歌歌っている人の名前、、KAN という名前ね?

    WIKIで調べたのだけど、 木村和さんと言う名前で、和を KAN という音素
    に父親が 決めたらしい。

    何故? 2011年 地震が 生じたのかしら?

    全て、決まっていたのだと思う。この2011年に この歌は 歌われるように、、
    33回レコード大賞曲に選ばれている。33は 観音の数字です。

    十字架の 生年月日である、十月十日生まれの菅<KAN>首相の 時に歌われる歌だった、、WIKIで見ると、フランスにも ピアノ留学する経験なさっているようなのです。

    あぁぁぁ、、 これかぁぁ、、バイオリンの 音色は 一緒に住まわれている方なのかな?

    地震で亡くなられた方達は、 殉教者かも知れない。殉教者は、必ず あちらの 世で必要な存在として 今 息吹を放ちはじめていると思う。

    「憎しみを くい止められるものは? それは愛だけだ。愛は 全てに 勝る。」
    レオナルド、ダ、ヴィンチ
    http://www.youtube.com/watch?v=J6pARYITXcs&feature=related

    写真は、2011年10月10日に訪ねた、千体の千手観音像が祀られる
    三十三間堂です。日本の国旗が 祝日なので、出ているんですね。

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2012年08月29日 23時08分47秒

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    「Re:Re:心理学」

    哲学が語られる時、、

    この 虚無主義、、という「 人間はどうせ、死ぬのよ」的、、

    雰囲気が、 場を 支配しだすとどうなるか?

    つまり、生きてる時に 楽しまなきゃソンソン(損、損>

    ですかね?

    独身貴族なんて言葉、昔はやりましたけど、

    少子化現象も それに近いのですか?

    反対に、どうせ 死ぬのだから、好きな時に 死なせてよ!(自殺)

    ですかね?

    しかし、どちらにしても、 この世に居る時だけの 感覚のみ、、の判断なんでしょうと思います。

    死後は、 ナイ!、、

    死んだら、終わり、、

    魂?

    そんな ものは、 ないですよ!

    この世に 産まれ、 死んだら、そこで 終わり、、何も 残らない!


    という 霊魂説を 認めなければ、確かに、 自殺ももっと 善悪の 価値観など考えず簡単に 納得出来るようになるのではないか?と思う。

    しかし、、 そんな簡単な事ではないのですよね。

    昔、 先進諸国が、 中絶手術が合法でない 時代、 日本に 外国から、 堕胎手術を 行いに 来る人達が、後を絶えなかった。

    どうして? 日本は、 合法化なんですか?

    という質問をしても、 なんだか、いつも 歯切れの 悪い 答えしか 返って来ない。

    先進諸国は どうなのか? 一概には 言えないけど、、

    「 だって、 どの医者が、 そのような 手術を するのですか?」

    という 応えが返って来た。

    ハっと 思ったのは、

    別に、 キリスト教徒が、 認めている、認めていないから、、という 問題ではなく、、

    医者個人の、 倫理観 に かかっているのだ。

    産科医が 皆、キリスト教徒とは 考えにくいし、 産科医だから、どの医者も 頼まれれば、行為に至る、、という 事ではなく、

    やはり、 個々人の、 人間の、 命 に 対する 考え方、、つまり、 ヒューマニズムに 帰着してしまうのだと思う。

    「 だって、どの産科医が そのような 手術を 合意するんですか?」という返答が 、フランス人から 上がった時に、

    「あぁぁ、、 なるほど、、」 と 思った事があった。

    たまたま、 そのような 善悪の価値観、 罪悪感を、 持つような 共同執刀者の 立場には、 立ちませんよ!、、という 個々人の 思惟が、 どこに 根ざしているのか、 話していると 見えてくる。

    罪悪感って、、いったい どのような 意識なんでしょう。

    あるいは、 罪悪感は 何もない、、という 心は どのような 事なんでしょう。

    例えば、死に目に あえなかった、、と言って、がっくりする人がいる。

    日頃 会おうと、思えば、会える 距離なのに、 イザ、危ないと知らされて遇いにいったら、遅かった、、

    そして、 死に目に 遇えなかった、、と失望する 意識は いったい どうしてなのか?と 考える。

    どこから こういう 気持ちが わくのか?

    日頃の 関係の 薄さに 自責の 念をもってしまったのか?

    もう少し、 生きてる時に その人との 人間関係をより良い 改善できたのではないか?と、後悔している自分がいるから、

    死に目に 遇えなかった、、 と 失望するのだろうか?

    人間の 心というのは、そんなに 簡単に 推し量れるものではないし、 どうして、 そのように 思わせられるか? 原因や 因果を しろうとすれば、 どうしても、 未知である過去の 人間との 関係や、知己関係が、浮き上がってくると思う。

    でも、その 域は、 スピリチュエル、精神世界であり、 今この 3次元の 世界の価値観からすると、マイナーな 価値観なのですよね。

    しかし、思うに、もうこの頭打ちの世界観では 無理だと思いますね。

    精神世界、形而上世界の 事を、 信じないように すれば するほど、死者達は、 マニフェスタシヨンすると感じます。蓋をして見ないようにするという死者達の 接し方は、失礼なんですよね。

    それは 怖いから、分からないから、近づきたくない、それでもって、怪我したり不幸にあうと、何とかの 祟りだと 騒ぐ、、

    もう、この 1500年代の 次元に 居心地良さを見つけて、居座るの 辞めませんか?

    もう少し、 精神の 次元を 上げませんか?


    昨今
    恐怖感 不安感に 縛られて、益々、自己保存しなけらば ならなくなる。当然 生きにくくなる。心が、病まない訳がないと思います。

    懐疑意識は、 自分探しなんでしょう、、と思うのですね。自分が この世に 生まれてきた意味、、
    それは、やはり、 過去、現在、未来の 途上の 一端の 現れなんでしょう、、
    そのような、 ツナガリが 観えたり、無意識に体現している事に 気がつくのですよね。変な 話し、 死に 逝く 意味も あるのでしょう、、と思うのです、つまり、死後、どこかで、必要な存在として、呼ばれて行ってしまった、、というか、、

    つまり、 あの世の 逝き方<生き方>に カルマの なんらかの 精算があるのでしょうかね?

    あの世に逝くと、又誰かの 守護霊さんになって その人を導いているという事、、そのような 神霊に 移行しなければ いけなくなって、本人の 意図に関係なく、、生死を繰り返している?

    転生自体に 価値観を持つと、どうも、 閉塞感が漂いますから、そうではなく、先の 世にいく、ステージアップする為に、舞い戻ってきた、、、

    という考え方、、実は、なんとなく、納得出来るんですよね。

    「 だって、沙羅さん? 考えて観て?

    あの世で、あぁぁ、、マツタケご飯たべたいなぁぁ、、と思ったら、マツタケご飯すぐ出てくる、、
    あぁぁ、あの人に 会いたいなあ、と思ったら、直ぐ遇える、、あぁぁ、自由に あちこち、世界飛びたいなァァ、、と思ったら、直ぐ 飛べる、、

    これを、年がら年中、、それが、普通なんですよ、、だから、そのうち

    あぁぁ、、マツタケご飯食べたい、、と思う 欲望さえも ないんですよ。

    そういう 状態に 永久にならされて、 飽きません? 」と 超能力者達は言う。

    「飽きます」 と一言、(笑)、、しかし、こういう考えは、未来感があって、楽しい。先の事、楽しい事が好きだからしょうがない。楽観主義だとか、オプティミストとか言われようが、かまわない自分が確かに存在する。
    そして知らない事を、不思議に思い、懐疑する、、
    ア!と びっくりする、偶然、、
    楽しいから、頭を使いたくなるのである、楽しい事、考えないと、アンポンタンになりますよ、本当に、、

    出来ない事、享受出来ない 色々あるでしょう?人間って生きてれば、、立場に立つ事、、ソレでいながら、幸福感を 求めようとする 魂の 希求運動のある事、、

    結局、 過去ではなく、未来に 向かざるをえない、なんらかの 魂とか 心の存在が 存在しているのだと思う。




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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2012年08月29日 06時56分51秒

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    「Re:心理学」

    人びとの会話を聞いていると、実に 色々観えて面白い。

    フランス人の話す、 アイロニー、皮肉は、本当に、舌を巻く、、
    アイロニーといっても、 えげつない アイロニー、、「 此処まで言うか?」 的ではなく、

    聴衆の 笑いを誘う、そこには、 悲哀さも感じられる。

    「 どうしようもないんだね! 一生懸命やってるのは、わかるけど、、

    ちょっと、その 現れかた、、 変じゃない?、」、と、無言の 対話を しながら、 表向きでは、

    「 すごいですねええぇぇ、、 」、、と、 褒めているのである。

    その気持ちが分かるから、第三者はその場に居て、又褒めるしかない、、という苦しい立場に立たされた人の心情を共感できて、噴出して笑ってしまう。

    これが、空での、コミュニケーションだと思う。

    テレパシーでもいいと思う。

    最近は、 世界の惨事を見せられ、終わりをしらない、 中東の 国々に 拡がるクーデター津波、、
    先進国の 経済破綻、不況、、

    希望なき、 ペシミズムの 省察に はまり込んで、UP..UP...

    してしまう。

    ナンだろうね?

    私達のしてきた 数々の言論を介し、言及してきた事、逸れによって得た諸現象、、、すべては、無意味だったように、 指し示す、、
    この 空気の 質って何処から、来るの?

    まるで、虚無こそ、真理ないし、実在的な意味を、渇望せずには、居られない、、存在への 意味を、探求視ながら、結局これが 最終的結論ですか?

    とでも、言うかのごときじゃない?

    と、 人びとは、 話す。

    わたしも、色々聞きながら、首を縦に振る。

    でも、どうも、思うに、この ニヒリズムというのは、 大衆の意向を簡単に、集めるのだと思う。

    しかも 人を支配しやすい点は、教条的でもあると思う。

    ニヒリズムは、 「そんなの やっても、無駄なのよ、、どうせ、、コレコレ こうなるのよ)的 な表れで、 他者の 能動意識の 足を 折るのである。

    しかし、このような、虚無主義に、 対抗できるのは、懐疑意識しかないと思う。

    徹底して、 POUR QUOI 何故? 何の為に? プルクワを、半永久的に、 問うのである。

    ニヒリズムが 真に 教条的に 世間や大衆の、同意を 得ようと、いつもいつも、結果の 無意味性ばかりに、 価値をみるなら、

    生まれた 赤ちゃんは、 死期に 近づく為に、毎日 大きく、ミルクを飲み 成長してる、、なんていう 表現を、受け入れ、鈍感にも ニヒリズムの 肩を持っている自分になりかねないと思う。日本WEBの 2ちゃんネル、、という存在が、 その ニヒリズムの 存在なのだと思う。

    わたしは、見ないけど、知り合いの中には、、 「2ちゃんネル、、あのような存在の仕方が、市民権を持つのは、分からなくもない」と言っている。

    しかし、どちらにしても、 哲学は、個々人の 思惟 を 問われているのだから、週刊誌の 内容とは違うと思う。

    民族的団体行為、、例えば、ナチズムに 傾くものもあれば

    小さいグループ、、例えば、オームのような社会的に 許されない行為であるのに、 盲目的、世界観を作り出す、団体 信仰協会に 発達<許す>させてしまう 土壌、、、

    いったい、我々、人間は、 何に 帰属したがっているんでしょうね?

    過去なのか?、 未来なのか?




    「 狂気は個人にあっては 希有なことである。

    しかし集団、党派、民族時代にあっては、通例である」、

    ニーチェ 、善悪の彼岸






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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2012年08月27日 20時39分32秒

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    「Re:Intuition 直観」
    MSG944

    オリンピックという 行事も、変ですよね?

    しかもロンドンオリンピック中に
    何故?
    火星に、着陸する、NASAの 探求君<キュウリオジテ>なんでしょう?

    あのね?

    火星 なんですよね?

    マーチでしょ?

    MARS マースは 仏語ですけど、 同じラテン語語源です、

    変でしょう?

    何故?

    ロンドンオリンピックの 同時期に、

    火星に、 人類が、 探求君を 飛ばしているのでしょうね?

    火星、 歩く<マーチ> 兵隊、ポピーの 赤<戦場に流す民族の 血>、ポピーデー、 11月11日

    第一次世界大戦 休戦記念日、 戦没者、歩兵、ポーランドの独立記念日<11月11日>、ショパン、ピアノ コンチェルトOP 11、

    と、これくらいは、軽く、パッパッと、臨機応変にあちこち 因果エレメントの届く、、、 メルローポンティーの、 知覚の現象学実践版でした。

    とにかく、2012年の1月1日の 元旦、、鳥島で、 地震が、起きた時から、、

    これは、 今年も、神道 に 意識を向けられるかな?

    と思いましたが、はずれてはなかったですね・


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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2012年08月27日 13時31分09秒

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    「Re:Intuition 直観」
    MSG943の続き

    5月31日、 聖母マリアが、エリザベットを訪問するのは、 既に 受胎告知を受けていたから 訪問したんですよね。この時の エリザベットの赤ちゃんは、もちろん、、ダヴィンチの愛する、 洗礼者聖ヨハネなんですよね。、、
    6月24日が 記念日です。 半年後が、つまり、12月25日は イエスキリストの 生誕と、 移るのですが、

    聖ヨハネが、斬首されたのは、ユリウス暦の9月11日 ですよね。

    ココラ辺、、なんんだか、全て 繫がっているんじゃないでしょうかね?

    あのね、ザヴィエルの 薩摩上陸を、1549年 8月15日、聖母被昇天に 導いたのも、 彼らのイエズス会発足が、パリの モンマルトルで、聖母被昇天8月15日に 行われる意味があるんですね。
    モンマルトルという音素の モンは、MONT で 山の意味。マルトルは、 殉教、、という意味なんです。

    殉教者の歴史が モンマルトルには 沢山あるんです。死者達の霊なんですよ。その 霊達を慰める為 教会が建てられるのでしょう。

    ですから、人びとが 向う、御参りに行く、、という 無意識に働きかけている、普遍性をもつ場所というのは、必ず 無意識分野に なんらかのコミットがあるんです、気がつかないのは、3次元の身体を持つ 感性が衰えた人間が、見えないモノ、聴こえないものの 存在に 価値を 持ちたくない、信じたくない、、と思っている 奢りの学者達が、我田引水説ばかりしているからでしょう?
    売れれば良い、、というような情報ばかり、、読者の 次元の低いニーズばかりを、 情報会社が、乞いている。
    これでは、困るでしょう? 本当に、、、


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