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続 哲学〜真理〜探求について

続 哲学〜真理〜探求について>掲示板

公開 メンバー数:6人

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2013年06月26日 02時06分53秒

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    時間と空間を形而上学から考えて観るという方法でしか、唯心論<魂は不滅である>は成立しないと思います。問題は、感覚的な世界は実在するか?の問題から必然的に生じてきたものであり、それが時間と空間という形をとって、私達の前に姿をあらわしているにすぎないのでしょう。
    つまり、この時間と空間は、真に存在するのか?という哲学的な表記の仕方が、仏教でいうところの、何もない、生まれも、滅しもしない ・・・・という表現に至るのだと思います。

    思うに、哲学もこれほど、時間性が重要な役割を占めるに至ったのは、やはり、唯物から人間中心、、つまり、 心とか魂の存在を考えないとならなくなったのではないか?と思います。

    モノが豊かになり、知識や学力はたしかに、何世紀も前の人達に比べると 豊かだと思うのに、10歳代、20歳代の 死に至る原因の一位が、自殺 という 日本世相は、明らかに病気に思えます。
    大変な事に思えます。どの宗教も命を粗末に考えてはいけないはずです。

    無神論が当然の如く、生きてきた私達は、初めて今、ここで、とてつもない時空を越えるモノの存在から、人間側の真偽を問われていると思われます。どちらにしても、私達の心如何にかかっているのは、間違いと思います。




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  • from: yeshangさん

    2013年06月25日 23時11分09秒

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    最近は、生死について考えることが多くなりました。

     西洋哲学ではデカルトに始まる「我思う故に我あり」に始まり存在と無、論理を積み重ねた理論にはそれなりに意味がありますが、生と死をよく考えることがこの人生において大切ではと思っています。

     生きている間はこの体と精神(こころ)、意志と行動が伴いますが、死ねば精神世界のみになるのか? それもわかりませんが、生きていることの意味を深く考えたいと思っています。

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2013年06月23日 18時00分44秒

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    宇宙を 認識する。 宇宙の手応えを感じる、 宇宙の一部<自分>を感じる事、 =自分は、地球をなす一部と 体感共感出来るという事



    宇宙UNIVERSを認識 する という事はどのような意味なのか?
    「認識」フルキエ
    から抜粋します。
    L'univers de la
    connaissance 認識の宇宙
    Par l'univers eu sens propre du mot, nous entendons :
    dans une acception étroite le globe terrestre ; au sens large qui est propre,
    l'ensemble des corps célestes, depuis la terre jusqu'aux plus lointaines
    galaxies ;avec l'espace qu'être corporel :

    宇宙とは、本来、次のものを意味します。
    狭義では、地球、、、広義では、<これが、本来の意味として>地球をはじめとして最も遠いギャラクシー<星雲>に至るまで、およびそれらすべてを含む空間など、天体のすべてを意味する。この宇宙は物質に過ぎず、人間は身体的存在としてその一部をなしている
    mais
    ,en tant que sujet connaissant il le transcende et le survole, Comme le dit
    Pascal :
    [ par l'espace l'univers me comprend et m'engloutit] par la pensée
    ;
    しかし、認識する主体としては、人間は宇宙を超え、宇宙の上空を飛ぶ。それが パスカルの云う言葉に
    「空間によって宇宙はわたしを包含し、呑み込む。思考によってわたしは宇宙を包含する」
    En
    d'autres termes : par mon corps, je fais partie de l'univers matériel : mais,
    grâce à mon esprit ;J'intègre cette donnée matérielle à mon univers mental
    ;
    表現を変えると、わたしは身体により物質的宇宙の一部をなす。そして精神のおかげで、この物質的な所与をわたしの心的な宇宙に統合する。
    Par
    là même l'univers dont les astronomes et les physiciens cherchent à déterminer
    les lois et la nature se trouve doublé d'un autre univers immatériel celui-là,
    dont traitent les phénoménologues et les philosophes
    ;
    それにより、天文学者や物理学者たちが諸法則や本性を明らかにしようとつとめる宇宙は、現象学者や哲学者達が扱っているもうひとつの、非物質的な宇宙と、二重映しになっている。

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  • from: yeshangさん

    2013年06月21日 18時47分07秒

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    時間の長さを変える

    子供のころは一日の時間が長く、年とともにその時間感覚は短くなってきます。

     子供のころは10分もじっとしていられない、1時間後のおやつまでの時間はとてつもなく長く、来年の小学入学は未来のことのようでした。

     それが年を取ると一週間はあっという間、気がつけば月が変わっていて、年賀状を出したのもつかの間、もう暑中見舞いの季節になっています。

     ふと思ったのですが、電車の待つ間、乗っていて目的地に着くまで、病院での待合室での時間は長く感じられます。
     この時、何かやることを考えて、新聞、本を読む、スマホでゲームをするでもいいのですが、何か夢中になることをやれば結構時間は短く感じられます。

     反対に、旅行の予定や友人と会う約束などをしていると、それまでの時間は結構長く感じるものです。将来の楽しいこと、うれしいことに対してはそれまでの時間は長くなるようです。

     また、一日、なにやかやがあって忙しくしていると、一日はあっという間に過ぎますが、振返ってみると結構長い時間を過ごした気になります。

     このことから、時間を長くしたり、短くしたりはその時の工夫で変えられるのではないか? というのが私の考えです。

     光の速度に近づいて時間を変えるなんてことは今は無理な話ですが、日々の生活の工夫でいろいろと時間の長さを変えることが出来ると思います。

     こんなことを考えるのは暇人の考えで、毎日充実した生活を送っている方からは失笑を買うでしょうが・・・。

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2013年06月21日 16時14分04秒

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    平等意識の本当の意味

    ある時、このブログの前身でもある、今はお亡くなりになったMSN時代哲学サイトをたちあげられた、めるろ~さんから「日本の新聞のコラムを読んで
    運動会の徒競走で、子供達に・・・・順位をつけるのは、よろしくない・・・・という事で、ゴールは、皆で手を繋いで、一緒にゴールをするという事が、道徳的に善の行為と判断する事、これを民主的判断と
    考えるのは、おかしいと思いませんか?」という質問を受けた事がありました。

    当時、「あぁぁなんだか、それは、わたしの心に聞いても同感出来るエレメントは不在に思いますし?外国では、聞かない善意識に思いますけど?」という反応したと思うのですね。
    自分の心の中に、同じ共感できる思いを探す、自分の
    心の奥に、他者と共感出来る、納得出来る思いや 感情が沸くのか?という事を
    探しにいく・・・・それで、不在だと、「なんだか、変でしょう?違和感かんじますが・・・」という返答をする。
    自分の心の中に探しにいって、ヅレや違和感を感じるというのは、もうしょうがない感覚なのだと思う、

    自分(貴方の)の感情・・・それは正しいとか間違いだとか、そのような記号上で表象事象を感情に任せているのではなく、心に不在の感覚を、外部の人が、「正しいでしょう?」とか「違うでしょう?」とコミュニケートしながら、善悪判断の物指しが、出来上がる・・・という途上にあるのでしょう・・・・・そのように、他者とダイアローグをしながら、他者達と接点<合意点>を見つけるという行為の途上に存在するという事で、他者共存での世界でしか、心の進化も、協調性も、生まないと思うのですね。自分を本当に分かるのは、他者を介してのみ・・・・という現象学の手段が活かされるのですよね。つまり、孤立<引き篭り、うつ病>するというのは、自分の存在をみつけられないという状態なのは、現象学意識の実践に至らない・・・・という事だと思うのです。

    このサイトの前身は、メルローポンティー、現象学の哲学人のハンドルネームをもつ、めるろ~さんが立てられましたね

    元へ
    ですから
    経典や聖書に
    何々、コレコレ、こう書いてあるから、これが正しい・・・という言説に至るのは、おかしいと思うし、存在性も見えないですし、その固定観念に縛られる事自体が、執着とか、煩悩とか、呼ぶのだと思うのです・・・・
    何故なら、その存在の仕方は、一方通行だけですから・・・・・
    むしろ、一方通行の 言説のみが、存在するのなら、一方通行の言説を放つ個人に、追随するという従属的な関係で結ばれている共同体のみです。その共同体の 雰囲気が、閉塞感とか、隠蔽化していると、社会の人達が判断するのですよね?

    グルとか教祖や、現人神宗教人呼ばれる人達の処に集まって造らなければならなくなってしまう・・・・いわゆる 社会の弱者達を最初から標的にしたような、信者の集め方によって普遍化しようとしている、宗教団体の質を 述べているのであり、信仰している 信仰を云々議論していてもしょうがないと思うのですね。

    いつも、信仰している 信仰教義の経典を引っ張り出して、云々エンドレス議論をする宗教人達の目的は、結局、全員が、「わたしの信じている宗教や信仰は、正しいでしょ?」と 相手にも 思って欲しい・・・認めてもらいたい・・・・・

    ただ、そのような 思いや願い・・・・欲望・・・執着・・・から生じているのでしょうと思います。

    本出したり、どこかに呼ばれて講演したり・・ま、それでもよいのだけど、大衆や民衆に求められるから、・・・・・普遍化するという途上の存在の仕方には、本当に 次元高い世界の 神秘的な 力添えでの事なんでしょうかね?

    大衆や民衆は、情に流されるという 感情が表象しているのですよね。草枕の冒頭を読んでも、わかりますが、、、
    二本語を話すという事は、日本語の型の構造を自分で造って、日本語を話す、日本人と呼応しながら、コミュニケートする・・という社会を造っているのですよね?
    自分の外に真理がある・・例えば、超越という現象学の意味は、日本語で考える外の世界<日本語以外の世界>へのコミットにも思えます。

    情は感情でも良いけど・・・・流れるという日本語は、水の性質・・・・情が燃える・・・とは言わないですからね・・・

    水は、 上から下にしか流れないんですよね?

    火は、 上に炎むけますからね、、、、

    心が潤うとかね?癒されるとかね?多分 水分って、心が安心するのですよね。

    でもそればかり、他者に癒してもらいたく、または自分も他者に優しくする事は、善の意識であると思い込んでしまい、善悪の判断の物指し自分の感情のみで造り上げていく


    つまり、水のエレメント、、情・・・を強めていく・・・・

    ちなみに、虐め<いじめ>は、フランス語は、humiliation ユミリアション・・

    語源には 水の意味を含む、HUMIDITE ユミデゥ=湿る、ぬれた
    からきています。

    屈辱、侮辱、謙虚、恥辱 恥をかく・・・・・・・

    このような感情を表す 単語は、 水 という意味の語源から発生する単語を使っているんですね。

    何故?

    いじめ・・・という意識が、土壌に生じてしまうのか?

    という社会問題の根底に沈む人間の弱点もちゃんと、正面から観なければいけないと思うのですね。最初から、ただ優しいひと、ただ出来た人、心の広い人、云々と、情を靡かせて、ウルウル感情を、自己内で、放し飼い状態・・・というのも、考えものなんです。何故なら、裏を返せば、同一の人間には、憎しみや、憎悪感と 一体になりやすい・・・という弱点も持っています。
    ですから、癒し産業 大流行ですけどね?ちゃんと洞察力がないと危険ですし、知識人、宗教人、教育人が、何らかの普遍性を持つとしたら、一般に根ざすはずですから・・・・大衆、民衆の弱点を十分知っていますよ。
    、、何というか。津軽海峡冬景色じゃないけど、流行歌で終わり、2011年年末の紅白歌合戦で、トリが歌う・・・・・・津軽海峡冬景色・・・・まぁぁ、、歌で終わるのならいいのですけどね?
    2011年は特別な年でしょ?演歌(情)で一致団結、エイエイオー、ガンバロウ、日本・・・・という 雰囲気つくりは、水で固まってしまう・・・民族の性格なのか?と思います・
    何か違うような気がしまう。火は、どうした?火は、精神<エスプリ>なんですけどね?

    話しもとへ
    どうも、知識人は、
    最初から、「わたしは、これこれ、こういう宗教を信じています」・・・・それだけ・・・という存在の仕方ではなく、見返り<わたしを受け入れて欲しい、認めて欲しい>など期待しているからだと思うのですね。

    専門分野に拘るのがいけないではなく、その前にあると思うのですね。一般的な人達との心の会話です。普遍性は、年齢違いや男女の違い、職種に関係なく、どの人の心にも届くという
    人間らしい言葉を放つ事が必須に思えます。
    いつまでも形式や依存関係に頼る組織内での従属関係を
    強調した存在の仕方では、人々の心に存在しないのではないか?と思うのですよね。
    ちょっと話しがそれましたが、運動会の徒競走の話し
    自分は日本人だから<条件>、ご飯が美味しいと思うに決まっているでしょ?・・・・という単純な自己投影判断ではなく、自分が、運動会のかけっこをしていると仮定してみる、皆で一緒に、ゴールする場面を想像する、
    これは、そんなに嬉しい体験に感化出来るのか?と思うと、そうは思えないし感じない。なんだか、大人は子供を随分馬鹿にしている接し方をしているように感じるのは、わたしだけだろうか?むしろ、不愉快な感じをもたされるのですよ。
    一生懸命走りたいという
    こちらの欲望は無視されて、結果ばかりを過敏反応している大人達が、「はい、はい、、みんな、お手て、つないで、ま横に一列になって、一緒に、ゴールするんですよ~・・・いいですかぁぁ?
    一緒に、ゴール、一緒に、真横一列になって、ゴールですよう・・・誰が早くても、誰が遅くても、いけませんよ~・・・・一緒に、真横になって、ゴールデス~・・・・・・」
    ここまでしつこいほど書かないと、分らないのではないか?と思いながら、書いたのですが・・・・
    この状況を大人が正しいと思い子供の為にお膳立てするという世界観に、わたしの心は、すごく、しらけるのですよ。
    しらける・・・という気持ちを持たされる子供がいる・・・という
    存在が、全くわからない 大人達が、運動会のゴールの仕方に過敏になるのでしょうね?
    もちろん、みんなと一緒に、ゴールという風景を
    見て、中には、美しい平等主義と、うるうるする大人もいるんでしょうね?
    子供自身も、「あぁぁぁ、よかった、ビリにならないですんだ」という安心感を持たされる事で、大人がホットするのでしょうね。
    あのですね?このような外国にはそのような心情や感情は育たないであろう・・・と思う不在であろう、何かが違うでしょう?という感覚を持つのですよね?
    原因分析すると
    なんだか、人と差をつけられる事にオドオドさせられている
    ・・・多分、生まれた時から既に持たされてしまっている自他を比べた上で、生じる違い<差>・・・優位点にジェラシーを感じてしまう、受け入れられない自他の差<違い>。本とは、差ではなく、違いとして捉えないと自分の存在を愛する、愛おしく思う心が育たないと思うのですね?
    従属社会<依存関係>でなりたつ世界では、どうしても
    自分と他者との違いに優劣をつけないと気がすまない社会らしいんですね。
    又、人々の卑下の意識に我慢や怒りを持たされ、何らかの卑屈精神が、平等<EGALITE>精神に取り替えられてしまっているのではないか?とも、分析したりする。多分、自分を愛する事を忘れてしまって、自分は他者と比べる事でしか、存在性が見えなくなっているのではないか?そのような知識人が、政治家や教育者や宗教人の立場になって、国を動かそうと
    ガンバリズムに徹しているのではないか?と思うのですよね。人と違う事が当たり前なはずなのに、違う自分を愛すことが出来ず、他者を愛すことにだけ
    真の意味を見出し、犠牲的な精神を <偉い人>と判断しがちな
    モラルが価値を持ち出すのも、これも本来健康的な人間で生きなければならない人間が、バランスをうしなった歪な世界に思えます。本当に普遍性をもつのであろうか?と懐疑するんです。

    甘えと傷つく・・・・は同一人物に生じる裏表の感情なんですね。心理的に依存しているから離れられないから、愛したり満たされなかったら、憎しみを持つ事で、離れようとするらしいのですが、憎しみを持つという事自体が、対象に依存しているのですよね?
    だって、依存しないというのは、相手はどうでもいいのですよ。自分がしっかりすれば・・・愛も憎しみという感情を
    抱く事はないのでしょう?自分が離れたいのに、離れられないから、憎しみという感情がわいてしまうのだと思うのですね。それが出来ないと、自分は駄目だ・・・という
    卑屈な心情を生じさせる・・・謙遜は 度を超えると、相手に不愉快な感じを持たせると思います。自分をへりくだる事で、相手を持ち上げるという
    表現はわたしは、自分の心が、そうならないようにしたいので、使いませんが、何故なら、相手が、相手自身をへりくだって、私を持ち上げて褒めても、全く良い気分などならず、不愉快になるからです。
    自分が、嫌だと思ったら、相手にも言わない・・・ただそれだけ・・・
    これだけ、心理的、精神的な病いを総生産させる社会の質は、
    何もかも、不安定な経済機構や雇用問題に還元せず又自然天災によるトラウマを持たされた人達の心が病む問題もそうですが、、、少し、こういう時期だからこそ、真剣に人間恐怖症や希薄な人間関係になった理由を考えませんか?
    自分の肉体的、知的な弱点を相手に対して、恥ずかしいと感じない関係が、安らかな関係でしょう。そして、そのような関係においてこそ、人は、心理的に成長できると思います。

    自他の
    違いを 差と解釈させられてきた、「子供の心を、傷つける事はいけない事?」という過敏呼応を、まだ、傷つく心を育てていない時期の
    無垢な子供達の心に丸投げし、
    人と人の違いを弱点と判断という教育委員の不健康な歪世界・・・
    「そんな事、どうでもいい、一生懸命、僕は、走りた~い!」という、子供の希求運動の
    芽は、無残にむしりとるという大人の無神経な横暴さ、
    それも、「平等」という、善の倫理道徳だと
    信じ込んでやまない、知識人。
    あのね?
    善悪の判断は、
    次元の低い目的の為に、次元の高い目的である本来の途上の意識が、結び付けられてしまう事・・・・・それを、悪の行為とか悪の判断と哲学では表現するのですよね、
    善悪の本末転倒は、人間70年くらいの短いスタンス内で、呼応しあっていては、未来観がなくなりますよ。
    レ、ミゼラブルの、ジャベール警官の人生と同じでしょう?
    悪(者)と思い、何処までも、探し回る<悪を追い回す行為が生きる目的としてなりたってしまうという人生>・・・・でも最後は、生きられなくなって自殺する・・・・
    よくよく、何か信じている事一つを追う、執着する、手に入れたく<身につけたく)「ガンバル、ガンバル、ガンバル、がんばろう、日本」と呼応する。
    何か?観ルとこ、違いません?と述べたくなる自分がいるのですよね、

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2013年06月17日 13時24分27秒

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    空海



    三界(この世)の狂人は狂うことを知らず
    四生(生きとし生けるもの)の盲者は盲なることを識らず
    生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く
    死に死に死に死んで死の終わりに冥し  (「秘蔵宝やく」)

    わたしたち凡夫には 「自分がいったいどこからやってきて、どこへ去っていくのか」
    ということは、わからないのです
    わたしたち日本人が浅薄は生き方になってしまったのは「死んだあとには何もない」と
    思い込んでいるからではないでしょうか (中略)
    コップの中に水をいれておいて、その水が消え去ったとします
    これは蒸発して水がなくなったということです でも 蒸発して水がなくなったわけでは
    ありません H2Oという水の分子が分解されて空間にひろがっていったわけです
    そのように 生命というものは死んで無になるのではなく それぞれが生きていた世界とは
    ちがう世界へ移行するだけなのです   (ひろさちや「空海」を読む)

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2013年06月16日 05時58分46秒

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    神々の声





    以下は、2011年2月16日に
    陸前高田の地名を中てて予言した超能力者の松原さんのブログの内容です。
    =====================================
    予言した内容(抜粋)
    <世見>
    2011/2/16
    やはり太平洋側は動く気配がムンムンしています。
    「陸前高田」と云う地名が声にならない会話を 自分にしています。
    どこにあるのだろうと 探してみると 見付かった。
    指で感じ取ろうとしたが 期待ほど感じなかったが 釜石辺りが赤く見えた。
    東和と書かれている場所辺りが気になった。
    今度揺れると広範囲に思える。
    岩手・秋田・山形・宮城・福島・茨城 これだけ書けば当たるだろうと思える県名だが 書かずにはおれない思いになります。
    目の前に5の数字が先程から見えて仕方がない。
    千葉も 神奈川も近く揺れると思われるし 東京・埼玉も「なんだこれ」私がおかしいのか群馬も 栃木も 長野も いつ揺れてもおかしくない事を地図は語ってくれているだけに 私自身 今日は地図を見る力が薄れているのかと 心配になってしまうくらいだ。
    もしかすると近日中に何回か揺れを感じるか かなり広範囲なのかもしれないと思った。
    出典幸福への近道


    ==========================================
    以下は、茨城新聞の記事で、4月11日に諏訪神社からお札が流れてきたのですね。
    こういう事は、必然なんですね。・・・地震の予言という考え方に、意識を執られるのではなく、むしろ神々の声を聞くという事が大事に思うのですよね。

    ============================================
    2011年4月21日(木)
    諏訪大明神のお札、因縁の鹿島に 東北から漂流か
    神宮、長野の総本社に送る

    【写真説明】鹿嶋市の海岸に流れ着いたお札。東日本大震災で被災した神社のものではないかとみられる=鹿嶋市宮中の鹿島神宮

    東日本大震災で津波被害にあった東北地方の神社のものではないかとみられる「諏訪大明神」と記されたお札が鹿嶋市の海岸に打ち上げられ、同市宮中の鹿島神宮社務所に保管されている。同神宮の鹿島則良宮司(64)は「鹿島と諏訪の神は因縁がある。不思議なめぐり合わせを感じる」と話している。
    お札は長さ約130センチ、幅約20センチ。震災発生からちょうど1カ月の今月11日、同市荒野の海岸で鹿島神宮の氏子が発見し、現在、神宮内の祭壇に祭られている。黒い油の染みや板の傷み具合が、海上での長い漂流を物語っている。
    お札の文字から所有者と推測できる諏訪神社は全国に約2万5千社あり、震災被災地の東北地方にも複数存在する。いずれも総本社は長野県の諏訪大社。
    神話では、鹿島神宮の祭神・武甕槌大神(たけみかづちおおのかみ)が国譲り交渉のため諏訪大社の祭神・建御名方神(たけみなかたのかみ)と力比べを行い、戦いに敗れた建御名方神が諏訪湖まで逃げて命乞いをしたとされる。
    「(お札が)鹿島に行けば助けてもらえると思ったのだろうか。被害を受けた東北の神社が立ち直るよう、これから私どもが協力するのが務めだと思う」と鹿島宮司。お札を所有していた神社は特定できないため、21日に鹿島神宮の職員が総本社の諏訪大社へ持参する予定という。

    http://ibarakinews.jp/news/news.php?f_jun=13033129647891

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2013年06月16日 05時23分54秒

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    ひろさちやの般若心経の理解

    http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/religion/hiroikikata.htm

    ひろさちや 「般若心経」生き方のヒント

    仙台駅前の書店で、インターネットの本や構造解析の本を見て疲れたので、
    仏教書コーナーをのぞいたら、尊敬するひろさちや氏の著書がずらり並んでいました。
    一番新しくて読みやすい本を買ってきました。 例によって、勝手な理解ぶりをここに紹介します。

    取り越し苦労
    飢えたロバがいました。腹をペコペコにすかしていたのですが、幸運にも
    乾し草の山を見つけました。だが、2つの乾し草の山を見つけたのです。
    それは不幸なことでした。
    ロバは「どちらを食べればよいかの?」と迷ってしまったのです。

    どちらを食べてもいいのだから、ちっとも迷う必要はない、と思うかも
    しれませんが、それは大きな間違いです。
    迷いというものの本質は、迷う必要がないから迷うのです。
    たとえば、昼めしに鰻重を食べるか、お寿司を食べるか迷います。
    それは、鰻重を食べても、お寿司を食べても、どちらでもいいからです。
    迷う必要がないから迷うのです。鰻の嫌いな人は、迷わずお寿司を食べるでしょう。

    人間は「未来」に対しても迷います。それは未来が「わからない」からです。
    私は(ひろさちや氏のこと)20年間、大学の先生をしていました。
    理科系の大学で哲学を教えていました。哲学の先生だからでしょうか、
    ときどき人生相談に来る学生がいました。

    その学生の迷いは、この大学をやめて他の大学に行こうか、それとも
    この大学をこのまま卒業しようか、というものが多かったのです。

    「好きなようにしたら....」と、私が言いますと、「自分が何が好きなのかが
    わからない」と学生たちは答えます。彼らは、「この大学に残ると、
    自分の未来はどうなるか」「他の大学に移れば、自分の将来はどう変わるのか」
    それを知りたいと思っているのです。それも正確に予測したいと思っています。
    でも、そんなことはわかりません。

    「いろはかるた」に、「一寸先は闇」というのがありますが、まことに
    私たちの将来は、一寸先がわからないのです。日本経済がどうなるか、
    1ドルが80円になるかならないか、そんなこと、私たちにはわかりません。
    いや、それどころか、その学生の寿命がどれだけか、予測なんて不可能です。
    ひょっとすれば彼が翌日、自動車事故で死ぬかもしれないし、東京に直下型の
    大地震が起きて、東京都民が一人残らず死んでしまうかもしれません。
    だから、この大学をやめたほうがいいのか、やめないほうがいいのか、
    誰にも予測できないのです。

    私は、人生相談に来た学生に言いました。「迷っているなら、サイコロで
    決めなさい。2つのサイコロをころがして、丁が出たらやめる、半が出たら
    残る。そう決めるといいよ」 そうすると、たいてい学生は怒りますね。
    「先生、ふざけないでください。ぼくはまじめに相談に来ているのです」

    2つの乾し草の山を見つけたロバの話にもどりましょう。
    ロバは最初、右の乾し草がおいしそうだと思ってそちらに歩いて行くのですが、
    途中で左の方がうまそうだと考えて、それで左に行きます。しかし、左に向かって
    歩いているうちに、やはり右の方がいいと思い直して再び右に引き返す。
    すると、こんどは左の方がうまそうに思える。それで左に向かう。
    そうしているうちに、とうとうロバは翌日、2つの乾し草の中間で飢え死にをした。
    そういうオチがついている話です。愚かなロバです。

    しかし、わたしたちは、このロバを嗤(わら)えません。
    わたしたち自身、このロバと同じ迷いを迷っているからです。
    どちらを食べても同じなのに、だからちっとも迷う必要がないのに、
    それを迷いに迷って苦しんでいます。それが人間なんです。

    実は、その問題を、われわれは『般若心経』に聞いてみたいのです。
    『般若心経』であれば、そのような問題にどう答えるか? それがわれわれの
    テーマなのです。

    たとえば、あなたが癌を宣告されたとします。あなたが癌にかかって、あと1年の
    寿命と言われたとします。そのまま何の治療もしなければ、1年の寿命しかない。
    しかし、放射線療法をすれば、ひょっとしたら癌を克服できるかもしれません。
    だが、その成功率は7パーセントです。さあ、あなたはどうしますか。

    放射線療法を受ければ、いろんな副作用があるようです。頭髪が全部抜け落ち、
    肌にはしみが出てきます。全身にむくみが出てきます。そして、精神的にも
    げんなりとし、虚脱状態になるようです。そうなることを覚悟で、成功率
    7パーセントに賭けて、あなたは放射線療法を受けますか?
    それとも、まあ普通の状態で死んでゆきますか?

    そこで、迷いが生じます。いや、迷いが生じる人がいます。でも、言っておきますが、
    私は迷いませんよ。私はそのような状況に立たされたら、ためらうことなく治療を
    拒否します。普通の状態で死んでゆくことを希望します。

    けれども、この点を誤解しないでほしいのですが、それが『般若心経』の教え
    ではありません。『般若心経』は、頭髪が全部抜け落ちて、見るも無惨な姿に
    なって生きるよりは、むしろ人間らしい姿のままで死ぬほうがましだ
    と、そんなことを教えているのではありません。『般若心経』が教えている
    ことといえば、そんなことはどっちだってかまわないということです。
    そんなことにこだわるな、というのが、『般若心経』の教えです。
    オランダ人画家の格言

    キリスト教のイエス・キリストも
    「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。
    その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイによる福音書6)
    と言っています。

    私たちは、取り越し苦労をやめて、今日のことだけ考えていればいいのです。
    だから、癌を宣告されたとしたら、そのときに迷えばいいのです。
    そういうときには誰だって迷うのですから、そのときになってしっかりと
    迷えばいいのです。それが『般若心経』の教えです。

    私は迷わない、といったことは、考えてみると『般若心経』の教えに反する
    ものです。『般若心経』がわれわれに教えてくれているのは、迷っていいのだよ、
    大いに迷いなさい、ということです。それを、偉そうに私は迷わない、と断言する
    なんて、もってのほかです。

    われわれは、もし癌を宣告されたらどうしよう...と、なにも取り越し苦労を
    する必要はありません。浪人生が、来年も受験に失敗したら....と思い悩むのも、
    取り越し苦労です。いっさい、取り越し苦労はやめましょう。
    私たちは、取り越し苦労はやめて、そのときになって真剣に考えればいいのです。

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2013年06月16日 05時23分29秒

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    ひろさちやの般若心経の理解

    http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/religion/hiroikikata.htm

    ひろさちや 「般若心経」生き方のヒント

    仙台駅前の書店で、インターネットの本や構造解析の本を見て疲れたので、
    仏教書コーナーをのぞいたら、尊敬するひろさちや氏の著書がずらり並んでいました。
    一番新しくて読みやすい本を買ってきました。 例によって、勝手な理解ぶりをここに紹介します。

    取り越し苦労
    飢えたロバがいました。腹をペコペコにすかしていたのですが、幸運にも
    乾し草の山を見つけました。だが、2つの乾し草の山を見つけたのです。
    それは不幸なことでした。
    ロバは「どちらを食べればよいかの?」と迷ってしまったのです。

    どちらを食べてもいいのだから、ちっとも迷う必要はない、と思うかも
    しれませんが、それは大きな間違いです。
    迷いというものの本質は、迷う必要がないから迷うのです。
    たとえば、昼めしに鰻重を食べるか、お寿司を食べるか迷います。
    それは、鰻重を食べても、お寿司を食べても、どちらでもいいからです。
    迷う必要がないから迷うのです。鰻の嫌いな人は、迷わずお寿司を食べるでしょう。

    人間は「未来」に対しても迷います。それは未来が「わからない」からです。
    私は(ひろさちや氏のこと)20年間、大学の先生をしていました。
    理科系の大学で哲学を教えていました。哲学の先生だからでしょうか、
    ときどき人生相談に来る学生がいました。

    その学生の迷いは、この大学をやめて他の大学に行こうか、それとも
    この大学をこのまま卒業しようか、というものが多かったのです。

    「好きなようにしたら....」と、私が言いますと、「自分が何が好きなのかが
    わからない」と学生たちは答えます。彼らは、「この大学に残ると、
    自分の未来はどうなるか」「他の大学に移れば、自分の将来はどう変わるのか」
    それを知りたいと思っているのです。それも正確に予測したいと思っています。
    でも、そんなことはわかりません。

    「いろはかるた」に、「一寸先は闇」というのがありますが、まことに
    私たちの将来は、一寸先がわからないのです。日本経済がどうなるか、
    1ドルが80円になるかならないか、そんなこと、私たちにはわかりません。
    いや、それどころか、その学生の寿命がどれだけか、予測なんて不可能です。
    ひょっとすれば彼が翌日、自動車事故で死ぬかもしれないし、東京に直下型の
    大地震が起きて、東京都民が一人残らず死んでしまうかもしれません。
    だから、この大学をやめたほうがいいのか、やめないほうがいいのか、
    誰にも予測できないのです。

    私は、人生相談に来た学生に言いました。「迷っているなら、サイコロで
    決めなさい。2つのサイコロをころがして、丁が出たらやめる、半が出たら
    残る。そう決めるといいよ」 そうすると、たいてい学生は怒りますね。
    「先生、ふざけないでください。ぼくはまじめに相談に来ているのです」

    2つの乾し草の山を見つけたロバの話にもどりましょう。
    ロバは最初、右の乾し草がおいしそうだと思ってそちらに歩いて行くのですが、
    途中で左の方がうまそうだと考えて、それで左に行きます。しかし、左に向かって
    歩いているうちに、やはり右の方がいいと思い直して再び右に引き返す。
    すると、こんどは左の方がうまそうに思える。それで左に向かう。
    そうしているうちに、とうとうロバは翌日、2つの乾し草の中間で飢え死にをした。
    そういうオチがついている話です。愚かなロバです。

    しかし、わたしたちは、このロバを嗤(わら)えません。
    わたしたち自身、このロバと同じ迷いを迷っているからです。
    どちらを食べても同じなのに、だからちっとも迷う必要がないのに、
    それを迷いに迷って苦しんでいます。それが人間なんです。

    実は、その問題を、われわれは『般若心経』に聞いてみたいのです。
    『般若心経』であれば、そのような問題にどう答えるか? それがわれわれの
    テーマなのです。

    たとえば、あなたが癌を宣告されたとします。あなたが癌にかかって、あと1年の
    寿命と言われたとします。そのまま何の治療もしなければ、1年の寿命しかない。
    しかし、放射線療法をすれば、ひょっとしたら癌を克服できるかもしれません。
    だが、その成功率は7パーセントです。さあ、あなたはどうしますか。

    放射線療法を受ければ、いろんな副作用があるようです。頭髪が全部抜け落ち、
    肌にはしみが出てきます。全身にむくみが出てきます。そして、精神的にも
    げんなりとし、虚脱状態になるようです。そうなることを覚悟で、成功率
    7パーセントに賭けて、あなたは放射線療法を受けますか?
    それとも、まあ普通の状態で死んでゆきますか?

    そこで、迷いが生じます。いや、迷いが生じる人がいます。でも、言っておきますが、
    私は迷いませんよ。私はそのような状況に立たされたら、ためらうことなく治療を
    拒否します。普通の状態で死んでゆくことを希望します。

    けれども、この点を誤解しないでほしいのですが、それが『般若心経』の教え
    ではありません。『般若心経』は、頭髪が全部抜け落ちて、見るも無惨な姿に
    なって生きるよりは、むしろ人間らしい姿のままで死ぬほうがましだ
    と、そんなことを教えているのではありません。『般若心経』が教えている
    ことといえば、そんなことはどっちだってかまわないということです。
    そんなことにこだわるな、というのが、『般若心経』の教えです。
    オランダ人画家の格言

    キリスト教のイエス・キリストも
    「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。
    その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイによる福音書6)
    と言っています。

    私たちは、取り越し苦労をやめて、今日のことだけ考えていればいいのです。
    だから、癌を宣告されたとしたら、そのときに迷えばいいのです。
    そういうときには誰だって迷うのですから、そのときになってしっかりと
    迷えばいいのです。それが『般若心経』の教えです。

    私は迷わない、といったことは、考えてみると『般若心経』の教えに反する
    ものです。『般若心経』がわれわれに教えてくれているのは、迷っていいのだよ、
    大いに迷いなさい、ということです。それを、偉そうに私は迷わない、と断言する
    なんて、もってのほかです。

    われわれは、もし癌を宣告されたらどうしよう...と、なにも取り越し苦労を
    する必要はありません。浪人生が、来年も受験に失敗したら....と思い悩むのも、
    取り越し苦労です。いっさい、取り越し苦労はやめましょう。
    私たちは、取り越し苦労はやめて、そのときになって真剣に考えればいいのです。

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2013年06月15日 15時01分01秒

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    がんばろう!という言葉


    パリのセブラン教会にある絵、

    時々、色々なサイトを読んでいると、「あぁぁ、、やはりねぇぇ・・・おかしいよね?現状の道徳意識?」と 自分が社会から感じ取る
    道徳とかモラルに関する意識、つまり大多数の人間が無意識に流されて価値を見出すであろう・・・・そういう大衆意識の深層に根付く・・・何らかの善とされてる意識とのズレ・・・・・これを感じるのは、私だけではない・・・・という文章を見ると、膝を打つ・・・「あぁぁぁ、やはりねぇぇ」と思わされる。
    わたしも、がんばろう日本・・・とは言いたくない自分がいるし、それを言うと、自分が、頑張らないとならないとならない、想念世界に存在しないとならなくなるから、、、、
    だから、ガンバロウ、、、、とは述べたくない。

    でも、そのような事を述べて必ず呼応される人の反応が、「それでは、日本がこのままで良いと思っているの?」という対峙世界の理屈に結びつけるという反応。
    で、これが、「ああ言えば、こう言う」状態の呼応運動。
    つまり、その言葉の意味する事までは、考察をせず、その言葉の表面上の意味を、対峙させるのみの、世界で、、貴方とわたしの
    呼応世界にどっぷり浸かってしまう・・・・という事らしい。

    戦争の被害、又は自然災害といった被害を受けた立場に立たされた時、、、、いったい、人間は何を生きる為に思わされるのだろうか?

    、「復興しなくてはいけない、早く、建ちあがらなくてはいけない、、、早く前の生活に戻さなくてはいけない、早く、早く、早く・・・・」
    まるで、ヒロシマ,ナガサキといった経験をした終戦後の日本人気質、というか、真面目な日本人、優秀な日本人と世界を驚かせたあの当事の民族意識が、又ジワジワとガンバルという意識に火がともされたのだろうか?、何かに向かって驀進している塊のようなモノを感じる。
    世界は、YOUTUBEで、仙台の復興の早さを駒切イメージを通し、被災時と
    2年後のイメージを目の前で展開させられて、「どうです?すごい復興速度でしょ?」と言う感じで、皆が、驚きや感嘆の声をあげてしまう・・・という存在の仕方になっている・
    わたしが、なんだわ違和感を感じるのは、
    頑張る事がいけない・・・と言っているのではなく、そうではなく、どのように頑張るかが?問題であり、
    頑張るという行為のみにしか、価値をみない・・・という存在方は、危ない・・・と思うだけなのですね。
    なんだか?違うと思う・・・・そうではない?でしょ???・・・と思う気持ちが、わたしを、ガンバロウニッポン・・・と安易に口に出せない自分の存在が明らかに存在しているのだから、しょうがない。

    それは、愛という意識を問いても、同じヅレを感じるのに似ている・

    まるで、愛を求めるという意識と、愛するという意識は、全く違うという違いに気がついていないで存在しているらしいという事。

    何故なら、愛を求める・・・という意識は、足りないから求めるのであり、足りていたら求めたり、探しにいったり、買ったりしないのでしょう。

    わたしは寂しい・・・という気持ちを表現する時、
    アルファベット圏語は、
    ~が足りなくて<居なくて、ここに存在しなくて>わたしは寂しい・・・・という言語の仕組になっているという意味を考える。
    つまり、寂しい・・・という意識の単語は、
    わたしに 足りない、、不足している、、、という単語を使うという事。
    寂しいという主体<わたしは
    さみしい>という文態はなく、
    それが<愛が、貴女が>わたしに不足している、足りない・・・・という言語の構造である・・・という意味を考えると、言語のしくみ・・・つまり、

    何が?わたしを寂しく感じさせているのか?・・という風に、深く考察仕向けているのだと思う。

    愛するという意識は、そのモノを、大事にしたい・・・という意識であり、自分<個>の存在とモノの関係ではなく、<見返り求める>・・・ただ、その存在があるという事だけで、心が豊かな気持ちになるという事だと思う。

    ガンバル事で復興という結果求める行為の途上に存在させるというというガンバリリズムではなく・・・・、
    もっと、自然の天災を被るといった時間の断面図の結果に自分の魂をFIX<固定>していいのかどうか?
    そのような存在の仕方で、大多数の人間が、義援金の援助を求める事、ボランティアに徹する事・・・ある人は、東北を地を離れてしまい、全く未開地に住む人・・・・色々です・・・・
    、、、でも、何か?違う・・・という気持ちがわくのは、しょうがないのですよね。

    一体、フクシマの経験は、未来へ向かい活かせているのか?という地点で懐疑してしまうのでしょう・
    将来への2度と同じ過ちを犯してはならない・・・死者達の死を無駄にしてはいけない・・・というヒロシマ、ナガサキの死者達の死の意味を
    ちゃんと考えて、終戦後の復興をしてこなかったのではないか?
    もちろん、原発の問題は日本だけの問題ではない事は、今回のチェルノビル、フクシマの件で、世界がやっと動き出したと思う。つまり原発は、危険だ・・・という人類への危機感を心の底から自覚できるようになる・・・・という感じだと思う。

    フクシマの事故を介しヨーロッパのほとんどの国が左派陣営の力を増してきた。いやフランスに関して、久しぶりの左派陣営復活が、そのまま存在力威力を増して、

    今年、とうとう同性同士の婚姻を法案化するという選挙時の公約を守る事にまるでフランスは政治家も国民も真正面から各個人のイデオロギー、各党のイデオロギーをかけ死闘するという、空気の中を駆け巡っていた。

    同性同士も男女婚姻と同じように国は平等に扱うべし・・・・

    日本に住んでいると たぶん自覚出来ないと思うけど、平等という意識は、男女の賃金格差を問題にするというレベルではなく、男女の性差をなくす・・・という、人間が平等に扱われるべき、平等に接するべき、平等に人間一人の尊厳を守るべき・・・というむしろ次元の高い域での格闘になってしまうのであろうと思う。それは、男女の差異による婚姻を 正しいとする現行の法はおそらく未来観がないのだと思う。つまり閉塞性を呼ぶのでしょう。

    今までは、宗教の
    アダムとイブの男女の違いの概念が規範になって、歴史をくぐり共同体としてコミューンから国の制度を強いてきたであろうと考えるのですね。

    この時の世界の反応も興味深い。物見見物的に、300人近い世界のジョーなリストがモンプリエに
    男性同士の初の結婚が市役所で行われる場に、集まって報道したのですよね。

    この同性同士の婚姻の法案化に反対のマニフェスタシヨンは、日頃は教会などいかない、無信仰者達の逆鱗に触れ、右派系にあるナショナリズムの運動と一緒になって、法案化反対のデモ乱闘や、ナショナリズム、ラシスト、ファッショ、過激な隠れ極右に所属している若年層までが感化されてしまった。19歳の
    左派コミュニストのミリタンをいきなり路上で数人集まって殺してしまう・・・という事まで生じてしまった。若干、20歳代の若者たちの事件だった。このあと、知識人や文化人は一斉に、このような事件が生じる原因は、左派陣営が進めた同性同士の婚姻法案化を強引に進めてしまったツケを社会が負わされているといいデイベートがあちこちで話されている。

    男と男が愛し合う?
    女と女が愛し合う?

    そんな事が、生じる訳ないであろう?

    いったい、どうして、男と男や女と女が愛し合うんだ?

    それで、ある日自分の息子が、「パパ?僕、ダヴィット君と知り合って彼をとても愛している・・・一緒に結婚して、しあわせな家庭を築きたいと思うから、結婚する事にしたよ」
    というような事が自分達の家庭の中に生じる事として、とても、受け入れられない・・・・認められない、、、、他人事ではない・・・・という事なんでしょう。
    同性同士の婚姻、法案化反対運動は、1984年以来の大きな、マニフェスタシヨンだった。何万人、何十万人のフランス人達がパリで行進し、各都市にも拡がった。

    国が法案化するという事は、フランス人自身の自己の問題であるという事なんでしょう。何故なら、法が認めるから力<存在>をなすのであり、法が認めなかったら、力<存在>出来ないのでしょう。自分の周りに
    同性愛者はいないし、少数の問題だから、深刻に考えなくても良い・・・という立場にはなれない、自分自身=国
    という同質<同根>の存在として時間途上にある・・・という自覚がそのような行為に出るのだと思う。
    正直、、、、わたしは、空を仰ぐ・・・という状態になっている。何も述べる言葉を持たない・・放てない

    創造神は何の意図があり、このような現実をしょうじさせないとならないのか?
    ・・・・・・ただ祈るとか。。ただ神域に通うとか、
    お経や祈りの言葉を毎日あげるだけではもう追いつかない・・・状態であるような気がしている。それさえも、完全に出来上がっている宗教人は、「」これが地球の姿です・・・」と、言って平然としている宗教者もいるけど、こういう人達のは自分のコミュニケートの無さを少し自覚した方がいいのではないか?と思ったりする。何故なら、この世に肉体をもつのに、同化しようなんて意識はなく、異化する事で精一杯存在しようとしているというのが観えるから。。普遍性はないのである。

    それでも、そのような流れの底辺には、なんらかの意図にそって、時間をかいくぐるという手ごたえがあるのだけど、それが皆目わからなくなってきている。

    正直、いったい・・・日本語で、何故?フランスという国を
    仏という漢字をあてはめて
    仏国という漢字がフランスになってしまっているのか?当時の仏教徒は、この漢字の意味を見て、何も異議を唱えなかったのか?よく分らないけど・・・・・
    日本とフランスの国の違いを外から眺め、客観的に分析していると、何故か?なるほど~ねぇぇ、、日本が、仏という漢字をつけてしまう意味が、分からないのでもないのですよね。

    外見上全く何の関係も見えない・・・・いや、たとえば、原子力発電所の数や
    フランスがかなりの電力を原発で補い、外国に電力を売っているという状況を考えると、経済的には原発に依存する国・・・としては、日本もフランスも同じように見える。そういった、概念上や頑張りイデオロギーの対極にいると思われる二つの国は、何か?底辺で繫がっているように観じてしまう。
    それが?なにか、、、分らない。ただ、あの、奈良の法隆寺の
    虚空蔵菩薩と呼ばれていた、百済観音と、 十字架の苗字を持つ、ドラクロアの
    自由の女神の絵画が、両国の文化交流で、お互いの国をはじめて訪問したのが、1998年~1999年。
    かたや、インドから来たであろう、百済観音と、かたや、自由の女神マリアンヌ・・・・・
    一見、仏像と絵画・・・極端な違いに見えるけど、未来への思いはマリアンヌも虚空蔵菩薩も一つであろうと思う。その途上にわたし達人間が生死を繰り返しているのであろうと思う。

    話を元へ、
    この日本語の無意識に口ぐせになっていると思える頑張ろうという意識
    民族のDNAに染み付いてしまったものなのか?とも思う。とにかく、どの方向に向かって存在しようとしているのか?100年後、200年後あるいは、1000年後の
    先を観ながら、努力する、生きるという事ではなく、とにかく、目の前の瓦礫をかたずけ、元の家を建て直さなければいけない・・・・とにかく肉体を、頑張る、頑張る、頑張る意識に
    帰属させる事で、生かされる、、、いや、むしろ、頑張る事で、日ごろ感じる生きる事の辛さ<辛苦>から一時でも忘れる事が出来る。

    考えないで存在していける・・・肉体を酷使する事で、深層部分の
    無意識に苦にリンクする事はなくなる。なんというか、観ていて痛ましい魂の存在の姿なんですよね。これでは、この世に生まれて来た理由は?幸せになる為・・・という、個々人の究極の存在理由は、全く価値などもてなくなり、生まれたばかりの赤ちゃんに、貴方は死へ
    刻々近づいているというような期限付きの生命の存在しか出来なくなると思う。
    この期限付きの考えが、閉塞性を生むのではないか?と思うのだ。
    期限というのは、結局
    死 が終わり・・・・という意味である。
    この考え方を
    展開すると、やはり死へ逃れる事で、辛苦から開放されると思い込む事に偏るのではないか?つまり、年齢を重ねれば、重ねるほど、なんだか、人間として生きる価値を見なくなり勝ちになるのではないか?それは、ただ、若い方が良い。。。。若い方が、人々に好かれる、であったり、若い身体の方が老いた身体より、良いに決まっているでしょう?的な、単純な価値を
    優位に位置づけているのではないか?と思う。
    これは、明らかに、おかしい。20世紀を生きる高等教育を受けた人間の愚考故なのか?
    人間の存在の意味、時間や空間の存在の意味を、考える事なし目の前の情報源にだけに自分を依存させ呼応させて生きていると、このような考え方でしか、モノや人を観ル事が出来なくなるのではないか?と思う。
    話があっちこっち飛んでしまったけど、、、送信します。

    =========================================

    中道とは「いい加減」精神

    わたしの嫌いな言葉に、"がんばる"があります。
    実はこの言葉が嫌いになったのは最近のことで、それまでは平気でよく使っていました。

    がんばるという言葉は、本当は悪い意味です。辞書を引けば3つの意味が書かれてあります。

    1.他の意見を押しのけて、強く自分の意見を押し通す。我を張る。
    例「ただ一人反対意見を述べてがんばる」

    2.苦しさに負けずに努力する 例「子どもが大学を出るまでがんばる」
    「負けるながんばれ」

    3.ある場所に座を占めて、少しも動こうとしない。
    例「立ち退きをせまられたが、最後までがんばる」「守衛ががんばっている」

    こうしてみると、"がんばる"っていやな言葉ですよね。

    1のがんばるはよくない。どうも日本人は、自説に固執しすぎます。

    会話のとき他人の話を聞かずに自分の意見ばかり述べている人が多いですね。

    そうかと思うと、大筋では同じ意見なのに、ほんのちょっとした違いを青筋立てて

    議論しています。日本人はよく白黒をつけると言いますが、白黒をつけるということは、

    自分の意見は白(100点)、相手の意見は黒(0点)ということですね。

    そんなケースは滅多にありません。たいていの場合、自分の意見が80点とすると、

    相手の意見は75点くらい、つまりどちらも灰色ということです。

    そうだとすると何もがんばる必要はありません。

    以下「ひろさちやの般若心経の生き方から抜粋」

    http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/religion/hiroikikata.htm

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