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続 哲学〜真理〜探求について

続 哲学〜真理〜探求について>掲示板

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2013年02月27日 05時09分28秒

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    薩摩落ちについて


    戸隠の鏡池。ちなみに主人と知り合った場所。

    この池を見ると、大宰府の戒壇院にある、ル遮那仏像を思い出す。



    北海道に住む知り合いが、突然、「鹿児島行く」と言う

    「 何で?わざわざ?」と私が聞くと

    「鹿児島に呼ばれている」みたいな事を言う。

    「 ふうぅぅぅん、」、と聞いて、鹿児島人は、苗字が 素敵!

    幸福 さんという名前の 鹿児島県人と去年知り合ったわたしは、なんとなく、雰囲気よさそう、、、、、

    などなど話していた。

    何処に行くのか?と聞くと、指宿だという。



    指宿には幕末に活躍した豪商・浜崎太平次(はまさきたへいじ)という人物がいたそうだ。浜崎太平次は『山木』の屋号で代々廻船商を営んできた浜崎家の8代目当主で、薩摩藩家老・調所広郷(ずしょひろさと)の後ろ立てを得て、薩摩藩の財政政策に関わり、唐物商いと黒砂糖商いで薩摩藩に多大の利益をもたらして明治維新の原動力ともなった九州一の大商人だったという。

    という話しだそうだ。




    それはそうと、日本の豪商番付で東は
    最高位・大関三井、
    西は
    大関が湊屋・浜崎太平次であったというほどの豪商だったそうだ。

    母方の渋谷氏の御先祖の 事もあり、薩摩落ちの記録を読んで見る。

    日本豪商の浜崎家の先祖を辿ると、、、、真田幸村に辿り着くらしい

    面白い!


    なぜ薩摩で真田幸村なのか?

    薩摩に残る豊臣秀頼の薩摩落ちに関係があるらしい。

    豊臣秀吉の死後、豊臣家を継いだ秀頼は大坂夏の陣で落城した燃え盛る大坂城の中で自害したことになっている。<MSNのコミュで、千姫救出の書き込みを随分記事にしました>

    しかし薩摩落ち伝説によれば秀頼は真田幸村の手引きで秘密の抜け穴から大坂城外に脱出し、島津義弘の手引きで薩摩国まで落ち延びて島津家により匿われたという。

    面白い!

    地元では薩摩落ち伝説に因む地名があり、
    真田幸村の子孫と称する方々もいらっしゃるそうだ。歴史はこれだから、面白くて堪らない。


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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2013年02月27日 00時38分30秒

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    liquidateur リキダテゥー 水溶液、流動性、液体性 の人という意味




    一度 前に書いた内容ですが、

    東北震災の後、世界中で ボランティア運動が
    起こりました。

    わたしも、ある日本女性から、のり巻き造るの参加?しませんか?

    というアイデアに
    便乗した。

    彼女の家を開放し、のり巻きを作れる
    日本女性が、好きな時間に来て作った。
    小さい子供連れでも来れるよう、彼女は、全ての個々人の環境の違いに応対出来るよう、彼女のご主人が、
    小さい子供達を連れてきたお母さん達を、海苔巻き造りに専念出来るよう、近所の 公園に
    連れて行ってくれる、、、

    こうして、随時15人くらい日本女性達が、のり巻きを造り、材料費だけ差し引いて、売り上げ金を、日本に送金するというアイデアだったのだ。

    20万円から30万円くらい送金出来た事、ボランティア行為は、地元の新聞に
    紹介されていた。

    彼女の家は、わたしの家から歩いていける距離だった。集まった女性達の 半分以上
    初対面の方だったのです。

    何時間も何時間も、何千本、海苔巻 巻いたか?分からないけど、、、

    巻いてる間、口だけは、お喋りに
    夢中であるのは、見ていておかしい。

    その時、ある女性が、


    義援金は、どうやって、日本に送るのですか?」

    と言う質問をしたのだ。

    確かに、、、そういう事は考えないで、海苔巻を巻いている。


    日本の被災地の様子を映した後 赤十字に 送るように、仕切りに ニュースで
    言ってるわよ」と、誰か応えている。

    わたしも、数週間前に、小切手を赤十字に 送金してあったので、義援金は小切手であろうと現金であろうと、赤十字が
    取り仕切るのでしょう、、と思って、黙って聞いていた。

    すると、

    ある人が、


    えぇぇ~?赤十字は国際的な機構でしょう?、、赤十字に送ったら、例えば、ハイチとかに送金去れるんじゃない?」
    と、言う。

    それを聞いて

    そこに集まってた、日本女性、10人くらいが

    「それじゃー困る~、、、」と、不満をもらしていた。

    わたしは、黙ってきいていたけど、、、

    これは、言い換えると、

    ボランティアに
    、ある 見返りを期待するという 意識であり、 見返りに 目的が執着することで、自分に 行動させてる、、と
    分析するのですよね。

    それを、簡単に表現してしまうと、

    それじゃ、ハイチの人間は、被災にあっても、平気でいられて、自分の民族だけは、被災に遇うと平気でいられない、、

    つまり、自由意志(ボランティア)の
    頻倒 ですよね?

    人間に ある行動を 起させる 元の元は、
    義務感ではなく、自由だから、ですよね。

    ボランティアという単語の意味は、自由 という意味が含まれているのですよね。

    その
    自由は、他者を含む 自己であり、つまり 自他共存の世界観を造る途上の
    上、、つまり、今を生きる、、という意識なんですよね?

    例えば、時間を後ろ向きに観る という意識が、
    いけないのではなく、

    その意識が自分を支配していると、どんどん、閉塞的な世界観を おのずと造るので、他者との
    健康的な世界観が造れなくなるのですよね。

    それを何度も
    述べているのですが、、どうも、忍従意識を美化し過ぎの民族にあっては、自由意志という理解が、悪の意識と解釈され勝ちなので、
    コミュニケートは難しい・

    「我慢するのは、当たり前」、、とか、「人はこれくらい
    我慢しているのだから、貴方も我慢しなさい」、、と、押し付け、型はめ、倫理、道徳観を、 他者や 家族員の間で、造っていると、

    愛、、という
    人間として、生まれ、一番 次元の高い、意識は、理解出来にくいでしょう?

    何故なら、 自由だから、愛すのであり、

    義務感で、仕方なく
    愛すという意識は、在り得ないでしょう?

    何故なら、その人ならではの存在感と自分との
    独立した関係を、造らされる世界観でなければ、

    その人の 存在、代わりは 居ないという宇宙で 唯一無二の
    大事な存在として、その個人に愛情を向けるのは、
    後ろ向きの意識、義務感だけの意識では、育ちにくいでしょう?

    自分が、社会や家族から、存在感のない人間として扱われたり、必要ない存在として
    接してこられたり、、、

    表現、言い換えると、自分が、社会や家族から、存在感や 必要な人間として認めてもらえるのは、生活費や、唯物的な
    物的な物を与えられる事が出来る人間が、良いと
    考える。

    回りがちやほやするのは、そのような唯物的なものを、簡単に手中出来る、財力や地位がある事が、存在感を
    示すと思い込んでいる。

    つまり、人間的な 内面的な 価値に
    視差が行き難いのでしょう?

    今世紀、経済不況におちいり人びとは、経済的にますます、節約を強いられ、子孫をもたない独身者が増える。同時に世界的に不吉な事故や
    自然天災に見舞われる事、ますます、目の前の 放射能汚染という危険には過剰に呼応しながら、20年後、30年後の、 老人医療にかかる お金は、
    誰が?払うのかしら?

    税金を納める若い現役労働者の人数と、老人医療を必要とする層の人数とのアンバランスを、どのように

    帳尻収めるのでしょうかね?
    国債発行?

    このような、自分が20年、30年後、あるいは40年後、生きているであろう
    未来の事は、

    観ないように、考えないように、する?????

    そう言えば、2011年3月11日の震災の
    ニュースが毎日世界中に流れていた途上の経験は、今でも忘れませんが、翌日、つまり、3月12日に、フランスのニュースで、高千穂連山 新燃岳の 爆発が
    すでに、一ヶ月前くらいにあった事を述べていた。

    しかし、それを日本人の知り合いに述べると、「
    聞いていない!」とメイルで返ってきた。

    多分、被災地の 様子の
    酷さに、信じられない、、というショックが、心に占有してしまって、

    「なんで、 九州の話しを、今東北がこんなに大変な状況になっているのに、、火山の
    話し、今するの?」
    という 心の状態なんでしょうね?

    それは、良いのですが、火山活動は、
    未来の地震予知と関係ありますし、地層の動きから、東北だけでなく、
    これから未来、揺れる可能性があるという意味での、発信なんでしょうと思う。

    地震の震源地に近い、原発が爆発せず、福島原発が、次々爆発してしまった、途上においても、、

    近い未来に生じる、放射能の汚染被害を世界中が、懸念しだした、チェルノビル事故の20年後の
    今の 現状と比べる
    世界のメディアの動きが、あちこちから、入ってきた。

    多分、地震から、5,6日経った頃だと思う。

    ヘリコプターで、海水を
    救い上げて爆発した原子炉に、海水をかけて、温度を下げる、、という 様子が毎日 テレビに映し出された。

    正直、、、、あの様子を、客観的に
    観れる人達は、どのような事を 心に思うのか?

    わたしには、よく共感出来る。

    ヘリコプターで、
    海水を上空からかけて、温度を下げる、、という一見、原始的な行為に見える 行為を 方や、命がけで行うという、情動に訴える、イメージの
    ギャップに、人びとは、無言にならざるを得ない。

    この情動運動は、その行為が、命がけであれば、あるほど、犠牲 という字が
    心に浮かぶのだと思う。

    途上に置いては、 犠牲を払う、、という行為は、美しい行為、であると、他者に 「黙れ!」 という雰囲気が伝わるほどの
    意味の重さがある事を よく観ないとならないと思う。

    つまり、犠牲を払うような 行為を国民に させてはならない、、という 次元の高さに
    国や政府は、存在しなければ、ならなかったはずなのだ。

    ならなかったはずというのは、過去形ですけどね、、、

    何しろ、国も
    政府も、その時よければ、全て善し、、という時間軸の短い
    判断でいると、
    ドンドン、存在しにくくなり、その時、その時、問題が生じた時、時間の後ろを追う、尻拭い処理を
    永遠にしていかなくてはならなくなり、ドンドン、後ろに ズルズル、下がってしまうのですよね?

    分かりますか? 空の存在の仕方
    を問いているのです。

    もう一度、ラテン語の使い方を述べますが、

    例えば、福島の原発の 原子炉の近くに 行き、高い放射能を浴びる
    危険をおかす、いくら、宇宙人のような格好をしようと、とりあえず、命の 危険を周知の上で、福島原発の
    処理をする。

    このような、人達や家族の勇気は、確かに 私達の心に動揺を呼び起こすのですよね。
    でもね?

    一番大事なのは、
    そのような、人達を 社会やその土壌に根ざす民族が、最善をはかり、存在させてはいけない、、それまでの途上の
    生き方、示唆、あるように思えます。

    2度と、犠牲者をだしてはいけない、、、、という
    意味で、私達は何世紀も何世紀も、同時体験しているのではないでしょうか?

    フランスの新聞に、福島原発の原子炉付近に入る
    人達のニュースがでた時
    タイトルは、 LIQUIDATEUR
    リキダテゥー

    です。

    リキッドliquidは、水液とか液体という予想はつくでしょう?

    eurが語尾につくと、何々する人、、という意味なんです。
    つまり

    このリキダテゥー
    liquidateur は、 水液、液体の人

    という音素です。水の人という音素で 放つと、形而下の世界で通じる

    意味は、「
    決算者、精算人 」
    という意味なんです。<辞書を引くと、、>

    分かります?

    意味、、、、、人間の命は、お金の決算をする為にあるんじゃないんですよ。

    命は、水に流して、事の終結に急ぐ為に「はい
    終わり」にしては いけないんです。

    そのような 行為を
    人間に強いてはいけないんです。

    それが、美しい、犠牲による行為として、ウルウル感動するのは、特攻隊の人達の
    命の死を無駄にしているのと同じです。

    広島、も、長崎、も、福島も、今同時に
    生じているのでしょう?連呼しながら気づかせるように、死者達の永遠の訴えに 思えます。そうすると、東北震災の、5ヶ月前に初めて、広島の 原爆資料館や
    平和公園に行かされた、、というわたしの、行動も、意味がわかるんです。

    どの次元に 存在しようとしているのか?というのは、 火<精神>の
    存在が必要に思えます。

    いつまでも、他者の命の犠牲に、ホロホロ、国民が泣いて、その後、すぐ忘れてしまう、、と言う意識でいては困るのですね。

    犠牲者あるいは、殉教者といった命や魂の
    浄化や成仏は、それなりに忘れないよう、個々人が、その人の死を無駄にしないよう、他者に起こった事物にしてはいけない、、という自他共存世界観を持つ事でしかないと思います。

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2013年02月26日 23時15分57秒

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    日光近辺の 地震

    大政奉還

    こんにちは
    栃木県 日光の近辺で、地震(震度5強>が生じたニュースを見て、
    アレ?となんだか、わたしの中に、不思議な問題として生じていた、
    「どうして?復活祭の事を英語は、イースターと呼び、フランス語含む、ヘブライ語、イタリア語系は、パックpaques(アラム語のパスハから来る)などと、違う音素なのかしら?」
    イースターという音素は、東という意味の 単語eastは輝くという原義らしいのだけど、、、
    なんだか、地震が日光だった事で、「あぁぁ、、これかぁぁ、」、となんだか納得してしまった。
    フランス語の音素 パックpaquesに 東est(エステゥ)を重ね、復活という意味で理解するのは苦しいなぁぁ、、
    と思っていたのだ。キリスト教の教えが、ユダヤ教からきているという感覚は、音に対する敏感な感性によってであるので、ユダヤ教の「過ぎ越しの祭り」ぺサハpaschaの音素に近い。
    日光東照宮は、徳川家康の 生前の遺言で、祀られているらしいのだけど、確かに、伊勢から北東の方角とすると、風水では、鬼門ですよね。
    家康が東照大権現という神号を人為的につくりあげ、死後日光にお参りする人達を前もって計画する???
    何と言ったらいいのか?つい最近まで、歴史上に実際存在した生身の人間の生身の権力が、形而上世界で神様扱いとされてしまういう感覚、
    「今一、、何だかねぇぇ、、」と 首をかしげてしまいますが、宗教起源の理由とか純粋性とか、、、そのような懐疑点に 気がつかされるのですよね。
    東という意味が、復活祭の呼び名になっている英語に、何故かしら?と思っていたのですよ。
    太陽は東から昇るからなのか?
    日光に何故?
    地震が生じたか?
    という現象から、色々閃いてしまいましたが、以下、WIKIの イースター<復活祭)転記します。

    ==========================================
    復活祭は基本的に「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」に祝われるため、年によって日付が変わる移動祝日である。2011年の復活祭は西方教会も東方教会も同日であり4月24日であるが、年によっては東西教会で復活祭を祝う日は異なる事も多い。

    英語・ドイツ語・ポーランド語以外のヨーロッパ諸言語における「復活祭」という言葉は、すべてギリシア語: Πάσχα(古典ギリシア語再建音:パスカ、現代ギリシア語転写:パスハ)に由来しており、その言葉も元をたどれば、アラム語の「パスハ(pascha)」で、これはユダヤ教の「過越(すぎこし)の祭り」を表す「ペサハ」(Pesach)というヘブライ語の言葉から来ている。つまり、キリスト教の復活祭がユダヤ教の「過越の祭り」から生まれた祝い日であることを示している。ギリシャ正教会で復活大祭を「パスハ(Πάσχα)」と呼ぶのは勿論のこと、ロシア正教会・ロシア語でも復活大祭はヘブライ語・ギリシャ語起源の「パスハ(Пасха)」と呼ばれ、日本正教会でも復活大祭をパスハと呼ぶ。カトリック教会においてもイタリアなどのラテン系の国では「パスカ」(ラテン語:
    Pascha)、スペイン語ではパスクワ(Pascua)の呼称が一般的である。

    一方、復活祭を表す英語「イースター(Easter)」およびドイツ語「オーステルン(Ostern)」はゲルマン神話の春の女神「エオストレ(Eostre)」の名前、あるいはゲルマン人の用いた春の月名「エオストレモナト(Eostremonat)」に由来しているといわれる。8世紀の教会史家ベーダ・ヴェネラビリスはゲルマン人が「エオストレモナト」に春の到来を祝う祭りをおこなっていたことを記録している。実際、復活祭の習慣の中には、このゲルマン人の祭りに由来すると思われるものもある。たとえば、復活祭に色をつけた卵を配るイースター・エッグや多産の象徴であるウサギ(イースターバニー)が復活祭のシンボルとされていることがそうであると考えられる(「習合」を参照)。 あるいは、卵は殻をやぶって雛が生まれることから復活を表し、うさぎは(特に岩うさぎ)その目が、月を思い起こさせ、月は欠けて見えなくなっても、また新月から三日月、そして満月となることからやはり復活を表すものとして、キリストの復活のシンボルとされている。

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2013年02月26日 19時37分07秒

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    責務あるいは 義務と必然性



    本質的な規範は、事柄の変遷の過程を通じて自己への忠実さを探求することから成り立っている。

    ここで言う、忠実さとは、我々の内や外において既に出来上がっている与えられたモデルを模倣するという死んだ忠実さではなく、生きた忠実さであって、未来の方を向いており、決してそこまで到達することはないが、常に倫理的活動の 地平線上の姿を現わしている我々自身のある種の カタチ(フォルム)を、現実化することと結びついた、忠実さのことである。

    「倫理的存在について」 G、ギュすドルフ


    写真は、お台場に運ばれた、セーヌ河にある自由の女神です。

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2013年02月25日 22時25分47秒

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    amour 愛 アムール






    アカデミー賞
    こんにちは
    昨日、20時の主要チャンネルのニュースを
    見ていて
    ハっ!と、 思ったのですけどね、、、
    アメリカの アカデミー賞<映画>受賞の事を
    ニュースで流しているのを、料理をしながら、聞いたり、観たり、していたのですよね。
    フランス語では、オスカー賞 と呼ぶのが普遍的なのですが、
    アカデミック (アカデミー)という単語の音素は、あまりにも、頻繁に使うので、アメリカで審査される
    その年の映画の祭典の事を意味する、、という風には解釈され難いのですよね。

    ここら辺は、同じラテン語起源の言語をもつ民族なのですが、ヨーロッパに住むと、言語の起源に
    視差を向けないと、近代に生まれた文化的事業の意味を伝えるのに、アメリカ英語とは、別の古い単語を、再度表象化させないと、ならなくなってくるのですが、、、。

    何故?
    こんな事とクドクド説明しているのか?と言うと、
    三次元世界で、誰もが知覚出来る、事象に、
    自分の感情や情動運動を、上塗り反応すると、
    その 事を、表象させてる 根っこの部分に 原因(因果)意識が向うことが出来ないのですよね。

    あまりにも、人間は 受動的に 存在させられてしまっている、、という事だと思うのです。
    潜在意識に存在する、不安や恐怖を
    感じないように、意識しないようにと、自己の 深い部分に目を向けないように、自己保存しているのだと思うのです。
    話しが逸れましたが、十一、11
    という数字の存在の不思議さについては、色々述べたのですが、、、、

    昨日、ニュースを見ていて、「アムール」愛という、フランス人が演じた、映画がノミネートされていた事を説明していたんです。

    映画内容は、アルツハイマーの病に妻が罹り、老夫婦の日常生活を描いているのです。
    ま、イワユル、大概の先進諸国に住む人間が 抱える
    老齢化について、どのように、人間が、生(死)の問題を
    考えるか?
    という何処の家庭でも、頻繁に聞かれる
    社会(人間)問題を取り上げているんですね。

    フランスという国は、人間に根ざした根本的な事を絶えず凝視しながら、少しづつ、抽象的に表層化する。文化的に
    放つ手段を持つ、という民族的な意識かも知れないです。そのような作品や芸術的な行為を得意とするのですよね。、
    今回は、
    題名が、アムール
    ですから、「 愛」 という単刀直入な 題名として、2013年のアカデミー賞に、ノミネートされていた、、という事、、

    この映画を演じた、俳優は、あの「 男と女」、ダバダバ、ダー♪、ダバダバダー♪、、
    の主役を演じた、ジョン、ルイ、トランティニヨン です。

    この俳優さん、素敵に 歳を重ねていて、時々、知り合いが、-「絶対彼の存在の仕方に何か、あるから
    見てほしい」、、、とダヴィングして、昔の彼が出演する映画を 何枚か日本から送ってくるのですよ。
    それで~、、本当に、演技力には脱帽しながら
    見ているのですよね。
    昨日
    気になって、WIKIを見たら、やはり、11日生まれなんです(12月11日)ちなみにヴァチカン聖人カレンダーは、聖ダニエルの 日です。

    この名前の音素を持たされる、、という事、その日に生まれるという意味、、、、コレは、形而上世界は動くでしょう?
    形而下
    世界の出来事では中々観えないのだけど、、、
    それと、もう一つ、 この 映画の 相手役を演じている

    フランス女性もすごいのですよね。 アルツハイマーという病気になった 女性(奥さん)の内面的な 心を見事に演じています。
    それを支える、
    ダバダバダ~~♪、ダバダバダ~~♪ の素敵な ジョンルイ、トランティにヨン、、
    「昔の
    かっこ良すぎるオープンカーを運転する、アヌーク、エメという女優さんと演じた時の彼の演技力を比べると、雲泥の差だなぁぁ、」、とYOUTUBEを見直して考えていました。

    素敵に年令を重ねるという内面的な 成長を見せてくれる、俳優さんは、そんなにいないと思うのです。

    さて、話し、それて述べたい事忘れそうです。、
    この アルツハイマー患者の奥さんという役を見事に演じた
    素敵な女優さん、エマニュエル、リヴァさんは、86歳なんですね。
    驚くのは、このリヴァさんの主演の映画に、フランス人の知る映画のタイトル

    HHIROSHIMA mon amour 」 ヒロシマ モナ ムール
    というタイトルの映画は1959年公開だそうですが、
    あるのです。
    意味は、
    「 わたしの愛する人、広島」という直訳なんですね。

    この映画のタイトルが、日本の邦題が、「24時間の情事」に代わっているので、タイトルだけ見ると、インパクトはかなり 言語によって違いますが、、、、
    見た事はないけど、、、
    今度、見てみようかな?
    タイトルが違うのは、
    多分、個人的な分析ですけど、この1950年代はまだ、まだ
    HIROSHIMA という音素には、原爆場所、というイメージが
    心を占めるイメージ、不安に支配されてしまって日本人の敏感な情感を傷つける、受け入れられない タイトルだったのでしょうね。
    「24時間の情事」と
    広島との関連性を見つけるのには、映画をみないと、分からないのですものね?、、
    そのような
    時空を越える、普遍性の原因や理由や、やはり、人間個々人の存在の仕方にあるのでしょう、、と思うのですよね。そして、何故?
    彼女は、86歳で、

    「私の愛する人、HIROSHIMA」
    から「、愛 」アムール
    というタイトルの映画の主役を演じているのかしら?

    しかも2013年という 半世紀後ですね?
    オスカー賞にノミネートされる、、、

    このオスカー像ですが、デザインは、裸の男性が、十字軍の 剣 を持った騎士、を、セドリック、ギボン氏に拠って、デザインされた
    オスカー像らしいです。
    あぁぁ、、なるほどね、、と、半世紀の時を越える、普遍性に納得してしまいました。

    ジョンルイさんも、エマニュエルさんも、いつまでもお元気で居て欲しいと願わずにはいられません。
    Hiroshima mon
    amour (Titre japonais : 二十四時間の情事, 24 jikan no jôji, soit : une liaison de 24
    heures) est un film franco-japonais d'Alain Resnais sorti en 1959

    愛、アムールのyootube 予告はこれ、、アムール、愛
    AMOUR



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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2013年02月25日 00時41分00秒

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    終末医療







    フランスに住み、小さい子供達に恵まれ、忙しい毎日に追われていた頃、終末医療を仕事にする、看護婦さんのルポルタージュの番組を見た事があった。
    平均入院期間は、2週間。患者の自由意志によって入院するホスピスだ。

    20年位前の 番組なのだがかなりわたしは、感動させられて、こういう仕事につきたいとおもわされた時期があった。しかし、目の前の小さい子供達を見ながら、

    イヤ、、ちがう、、、わたしにはわたしの道があるはずだ、、、、でも、この感動は、どこから生じるのだろう?と 色々考えていた頃があった。

    友人が、わたしに見て欲しい、、、と、以下の内田さんという方のブログをリンクしてきたのは、つい最近の事ですが、、、読んで、その当事のわたしが受けた、感動が蘇って来た。

    今まで、哲学に興味があるので、色々、NETを閲覧したり、コメントしたりしましたが、どうも、知識や認識偏重している 人達の 言説は、浮いて観得るんですよね。

    体感や経験がともなわない、知識<宗教、哲学、認識>で、議論したがる 意味はなんなんでしょう?と 考えたりする。

    毎日、死を、前に働く、この田村恵子さんの語る、言葉の 重みとは、くらべものに、なら無いのである。

    コミュニケートは、どれだけ、言葉<記号>に、真実とされる 言葉の重みを 伝えられるか?が勝負であり、上辺の 認識や知識は、何もならない、、という事を、ちゃんと 体験して、分かっている人は、 哲学でも 宗教でも、 昔の史実や資料や 記実などに、いちいち拘らないであろう、、と思う。

    つまり、実践として、相手とコミュニケートが 通じているという体感している事だと思う。これについては、法華経に 死者とコミュニケートできている 観音の 事が書かれているはずですが、この内容<知識>を読んで、体験や体感や経験できてる人は、すぐ納得できる と思う。

    話しは、飛びますが、
    今まで、哲学、宗教、信仰形而上世界の NETの書き込み見ていて、思いますが
    体感や体験が伴わない人達は、なんだか、色々、あちこちから、難しい内容の 経典やら、史実を 転記したり引用したりしないと、説明出来ないらしい。

    つまり、自分の体験による 言葉を、放てない、、、という 言い換えや表現の仕方を 相手によって変える、、という体験不足なのだと思う。

    このような、存在の仕方には普遍性は 観えないのですよね。呼応する人達はいつも 一部分に興味がある人達でしょうから、閉塞感は、拭えない世界を想念しているらしいのですね。
    時々、病的と思える方もいつも同じコミュに コメントをする事で、ますます、心理的病いを悪化させている、、ますます、普遍性を失くしていると思われるのに、気がつかない。応対するコミュの管理人さんも、心理的、精神的病いをますます、悪化させている事が気がつかない、、という事らしい。

    どうして、閉塞的、不健康な世界観を 築こうとしていますよ!と述べているのに、閉塞感 気がつかないのでしょうか?、、、

    ま、、それは自分で気がついて、存在性のない存在の仕方をしているという事、、人や、宗教人に言われるのではなく、気づきは自分ですから、、、仕方ないです。



    以下、内田さんのブログ、転記します。

    ==================================

    茂木健一郎が司会を務める『プロフェッショナル』という番組がある。24日の回はガンの末期患者を専門に看護する田村恵子さんという人が登場した。 間近に迫った「死」と向き合って、人はどう変わるのか......。 限られた人生を突きつけられた人を田村さんは何千と目の前で見届けてきた。そして、ほとんどの人が残されたわずかな「生」の中に希望を見いだして充実した最期を迎えられること、そのための手助けをするのが自分の仕事だと悟った。
    自分の命が、あと1ヶ月にも満たずに消えてしまう......それがはっきりわかったら、いったい何をするだろうか? 何を考えるだろうか? 実際にそんな現実に向き合った人たちが、番組には何人も登場していた。
    最期の時間を家族とともに過ごしたいけれど、自分が家に戻ることで負担をかけてしまうと心配する64歳の女性。 舌ガンが皮膚に転移して、もう施しようがないとわかっていながら、最期の望みを託して化学治療に臨み、しかし、結果的にそれが苦痛を増し、 命をさらに縮めて、また入院病棟に戻ってくる36歳の男性。そして、娘の結婚式をなんとか自分の目で見届けたいと願いながら、それがかなわぬことと告げられ、代わりに病院の中の教会で花嫁姿の娘と一緒に記念写真に収まる56歳の父親......。
    『凄まじい』......他に適当な形容の言葉が見つからない。この番組が放映される時には、この世にいないことがわかっている彼らは、しっかりとテレビカメラの前に末期(まつご)の自分を晒し出す。それを勇気といえばいいのだろうか? 当然、見守る家族たちも、 取材に協力しているわけだが、愛する家族の「死」へのプロセスを人に見せること、それが凄まじいと思う。
    どうして『凄まじい』としか形容できないのか自分でもよくわからない。彼らの「決意」が凄まじいわけでもないし、その最期の瞬間へ向かっての充実した「生」を求める姿が凄まじいわけでもない。画面に映しだされた部分だけでは、皆、とても淡々としている。
    ウエディングドレス姿の娘と記念写真に収まった父親は、かすれかけた意識の中で、口元をわずかにほころばせ、声にならない言葉で「ありがとう」と言う。その「ありがとう」の中に、人の「生」の凄まじさの全てが籠もっていたように思う。
    限られた命の現実を突きつけられたときの人間の心理......それを描いた小説や論文もある。マズローの『至高体験』でも、そういったケースが取り上げられているし、コエーリョの『ベロニカは死ぬことにした』でも同じテーマが取り上げられている。
    でも、この番組では、それがまさに「生(なま)」なものであったことが決定的に違う。フィクションや論文では、まだ想像力の範疇でしかない。「生(なま)」は、想像力を遙かに超えている。そして、この番組では、田村さんという、 人の最期にずっと向き合ってきた「ガイド」を通して、具体的な「死」と向き合わされることで魂が揺さぶられる。
    田村さんは、自分の経験と気持ちの全てを込めて、一人一人の人生の最期を輝かせる。いつもとびきりの笑顔で、 死に行く人たちの不安を拭い、心地よく送られる気持ちへと、みんなを導いていく。そして、送り出した後、看護師詰め所の片隅で、 涙を絞り尽くすように泣き、それもつかの間に、涙を絞り尽くしたら、また天使の笑顔を浮かべて、新たな患者に向かっていく。
    漫然と日々を過ごし、人に甘え、自分を甘やかし、真剣に自分が欲するものを見極めようともせずに「満たされない」気持ちを抱え......そんなことが「生きている」といえるのだろうか。無性に、自分の今の姿が恥ずかしくなった。
    満たされなさや辛い気持ちに身を委ねてしまって、投げやりになり、「死んでもいい」なんて軽く思ってしまったことがかつてあった。そんな自分を思い出すと、いかに卑屈で卑怯で、惨めな人間であったか......。
    茂木は、 自身のblogで、番組では語りきれなかった田村さんの言葉を紹介している。
    -----------------------
    田村さんは、人間というものは、
    不治の病を得るのが
    何歳の時でも、それまでの人生を
    ふりかえって、充実した良い人生
    だと思うことができる、とおっしゃった。
    若くして手の施しようのない病にかかるのは
    つらいことだけれども、
    向き合う中で、たとえ「平均」から
    すれば短い時間だとしても、
    振り返り、充実した人生だったと
    思うことができる。
    逆に、たとえば90歳の人が
    病となり、周囲は、「90まで生きたん
    だから、もういいじゃないか」と思った
    としても、本人は、「あんたらは
    そういうかもしれないけれども、私は、
    たとえ一日でも長く、と思うんだよ」
    という感覚を抱く。
    この世で得た生の時間が短くても、
    長くても、人生の意義においては
    人は「究極の平等」の下にある。
    そんなことを田村恵子さんは
    おっしゃった。
    -------------------
    人の、「生」が輝く瞬間に立ち会うことで、学ばされると、田村さんは番組の中で言った。自分がこの仕事を選んだことが「ありがたい」と。
    田村さんが看取った人たちは、みんな、「ありがとう」の言葉を残して旅立っていった......それがとても印象的だった。











    http://obtweb.typepad.jp/obt/2008/06/post-17b0.html

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2013年02月24日 00時05分46秒

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    法の大天使



    人間の死後、魂を秤、善悪の判断をする ミカエル大天使

    こんにちは
    もう20年くらい前の事だと思う。日本の実家の母が、自宅にあった小雑誌を送ってきた。
    その雑誌に子供の
    病気について、咄嗟の時の応急処置が書かれていた。多分異国に住む小さい子供の世話をするわたしの助けにでもなるのだと思ったのだろう・

    しかし、その雑誌の他のページには、ある日本の舞台女優さんの
    日本の子供達の意識の変化について書かれてあったのだ。

    (つまり ここで述べたいのは、人の行為に至らせている 直接原因は、その後他者の行為に
    縁起が生じる直接原因<因果>とはならない事を言いたいのです、念のため)
    わたしは、その雑誌を見て、これから近い将来日本だけでなく、子供達は大変な環境に置かされ、無残な事件や倫理を逸脱した事件が起きると
    思っていた時期なので、その小雑誌の 舞台女優さんの 感じた日本の子供達の 内的変化を記した内容を読んで、膝をうった。

    わたしが
    日本に居た1990年前時に感じた、子供達の 心情や感情の
    質の変化に、不安を感じたのと同じだった。

    子供達同士の会話からそのように感じるのである。
    わたしが育った、子供時代(1960年~1970年代)には、1990年代に生きる子供の間の話題を話す子はいなかった。

    まだ日本にいじめという問題が社会的に、メディアが扱わない頃からである。1970年頃から、ジワジワ、子供達の心に宿る、魔のような空気を察していたというか、、、、
    あの重苦しい空気や陰湿めいた空気は何処からくるんだろう?

    それは、非常に賢いので、上辺では、お行儀がいいのである。2重の
    裏表の顔を持つ。
    何故?
    そうなってしまうのか?、、、
    そんなこんなで、オーム事件を
    見ていても、誰もが、あの執行部の人達の肩書きを知って,、
    、アレ???
    と思う事であった事。

    新聞やメディアで流される、執行部の人達は、世間では優秀と知られた大学卒で在った事、医者や宗教人やいわゆる、知識人と世間では判断するであろう人達が集まった、宗教グルであった事。
    いったい、人間の倫理という
    真理は、ないモノと、無価値なものと、人びとを失望させるまで、全く理解に苦しむ、残虐な事件が頻繁に
    生じだした。

    いったい、どうして?こういう事が生じる
    世の中になったのか?

    しかし、時間途上においては、わからないのである。

    人びとは、いつも通りに、朝起きて、通勤時間に遅れないように家を出る。子供達も、学校で、不思議な行動をとる子供達がいても、授業中に教室内を歩き回る子供が居ても、20年前には
    在り得ない現象だと言われても、何も懐疑することはなく、こんなものだと思い込む事で、時間を潜り抜けていく
    時々、倫理逸脱したと思える大人出さえも、新聞や、テレビで見る限り皆、普通に見える、堅気の人達に見えるという存在の仕方をしていて、
    事が生じるまで観えないのである。

    何故?
    こういう 状態の 宗教団体が、日本の土壌にジワジワと
    根付いてしまうのか?

    何故?

    という懐疑意識の能力を
    <人や個人を判断する前に>、稼動させなければいけないと思うのですね。

    そのような客観視を育てると、大衆や一般や社会の体質が観えてくるのである。
    つまり、大衆の層には、簡単に、
    そのような、倫理が逸脱していると思える、、行動に至る人達の団体を、
    存在させている、、、という大衆が根ざす土壌が問題であって、個々人を責めて、責任を法的手段をもって行っても、そのような存在を存在させている萌芽は、我々、同じ土壌に根ざす人間の心に存在しているであろうという事に
    気付く事だと思う。決して、他者(他人)の問題ではないのである。

    それで、話を元へ、、、多分1970年代辺りから、人間の心の奥底に歪んでいる獰猛さというか、一種の潜在意識に残虐性を感じていたのですよね。
    何故そのように感じるのか?よく説明できないのだが、人の身体は、個体として存在しているけど、身体に住む魂は、個でありながらも、色々な
    情報を持っているのである。そして、何が、その人をそのように
    呼応させたり、感動させたりしているのか?

    この人の回りに何故?このような人達が、集まってくるのか?という意識で観ていると、結局、似たような事、類似の事に
    依存したり、感動したり、怒りを感じたくて、集まっているらしい、、、という 人間行動の
    原因の流れ(方向)が観えてくるんです。


    それは、人間の肩書きのような表象に見える事とは、全く違います。むしろ、表象に見える情報は、真理をカモフラージュさせてる役割に過ぎないと思います。
    ですから、知識、認識に
    暗黙に信用や価値を 見つけたい<あるいは、真理は
    過去の史実にしかないと思いこみたい>という、傾向に生かされている人間達が多いのですけどね、、

    ま、それは、それで良いですが、、、、自己の普遍性<存在性>が、だんだん閉塞感を生む世界に
    向かって生きようとしているように見えます。

    自分と違う他者への 無言の 開けた世界への波動の浸透力がないのですよね。<これを 精神世界では
    、引き寄せの法則と呼んでいますが、引き寄せたくて、引き寄せているのではなく、開けた世界観の方に、他者が沢山生きようとしているだけです。引き寄せたくて、引き寄せているという解釈してしまうのは、自虐意識や自己犠牲の強い傾向にある人達の
    呼応の仕方ですから、その考え方で反応するという自分自身は、バランス悪いのですね。年の為に先に述べておきますね>


    話を元へ
    その後
    1997年、神戸に起きた14歳の酒鬼薔薇少年の連続児童殺害事件へとエスカレートしながら向かうのですよね。その途上において、人間の行為には、不穏な空気をドンドン増しているのを感じていました。
    日本に
    一時滞在しても、人々の眼の焦点は定まらない人達が随分と増えていました。まるで夢遊病者みたいな感じに見えるのですよ。JRのホームを歩いても、こんなに夢遊病者みたいな人は昔居なかったはず、と思わされる。前から歩いているくる夢遊病者の人の肩をつかんで、「貴方、ちゃんと生きています?」と肩を揺さぶりたくなり、地面に足をつけて、人間の心をちゃんと感じなさい!と言いたくなる衝動に駆られるのですよね。


    どうして、こういう雰囲気を感じられずに、電車が混んでるとか空いているとか、そういう事しか感じられないのかしら?と思っていました。

    でも唯物論的思考が
    自己中心に幅を利かせるという事は、そのような唯物しか、この世を動かしているのは、無いと思っているのだから、仕方がない人達だと
    思っているのでした。

    それで、20年後に、自殺者が多数化している状況にメディアがやっと、反応しだしても、、、私には、どうしてもっと早い地点で、事の重大さに気がつかないのでしょう???と、思う訳なんですよね。

    そのような
    自分の心が感じる大衆の空気は、着実に 戦後の高度経済成長時期に育った頃と 変わっている。
    日本に住む友人のI
    子に、この事を話すと「だから、わたしは、なるたけ、ホームを歩く時、白線に立ってる人を見ない様にしているから一番後ろに並ぶんだ」などと言う。
    ホームに立つ人の
    雰囲気で、確かに、異様な雰囲気を感じで存在している人に出くわすらしい。別に霊脳者でもないI子も、それくらいの
    感性はあるのかもしれない。明らかに何かが違うのだ。


    話が飛んで、申し訳ないのですが、1990年代に送られた小雑誌に書かれた内容はこうだった。
    何年も
    子供達に向けて、人魚姫の 劇を
    演じている、舞台女優の感想だったのだ。
    人魚姫の内容は、、

    「人魚の王の6人の娘たちの内、末の姫は15歳の誕生日に昇っていった海の上で、船の上にいる美しい人間の王子を目にする。嵐に遭い難破した船から溺死寸前の王子を救い出した人魚姫は、王子に恋心を抱く。その後偶然浜を通りがかった娘が王子を見つけて介抱した為、人魚姫は出る幕が無くなってしまう。人魚は人間の前に姿を現してはいけない決まりなのだ。だが彼女はどうしても自分が王子を救った事を伝えたかった。

    人魚姫は海の魔女の家を訪れ、声と引き換えに尻尾を人間の足に変える飲み薬を貰う。その時に、「もし王子が他の娘と結婚するような事になれば、姫は海の泡となって消えてしまう」と警告を受ける。更に人間の足だと歩く度にナイフで抉られるような痛みを感じる事になるとも・・・。王子と一緒に御殿で暮らせるようになった人魚姫であったが、声を失った人魚姫は王子を救った出来事を話す事が出来ず、王子は人魚姫が命の恩人である事に気付かない。
    そのうちに事実は捻じ曲がり、王子は偶然浜を通りかかった娘を命の恩人と勘違いしてしまう。

    やがて王子と娘との結婚が決まり、悲嘆に暮れる人魚姫の前に現れた姫の姉たちが、髪と引き換えに海の魔女に貰った短剣を差し出し、王子の流した血で人魚の姿に戻れるという魔女の伝言を伝える。愛する王子を殺す事の出来ない人魚姫は死を選び、海に身を投げて泡に姿を変え、空気の精となって天国へ昇っていった。しかし、王子や他の人々は人魚姫が空気の精となって天国へ昇っていった事は誰一人も気付く事はなかった。」
    という内容です
    アンデルセンの内容なのです。


    舞台女優さんの
    記事には、
    人魚姫を演じていると、最近の子供達は、最後の 場面、つまり
    人魚姫が短剣を持った場面になると、

    「わたしに、王子は殺せない」人魚姫

    子供達が、

    「王子を殺して~」「はやく
    殺して~」と、

    怒濤のように、子供達の 声が、あちこちから
    放たれる、、と言う。

    つまり、王子を殺さないと、自分<人魚姫>は泡になってしまうのだ、、、だから、自分が生き延びる為に、王子を殺せ!と、躊躇無く、子供達が、
    舞台の人魚姫に向かって呼応するらしい。

    しかし~、わたしが、小さい頃、このような場面の物語を見せられても、会場に、一人でも、「ころせ~」という声は聞かなかったであろう、そのような
    お互いの共感や同感やある倫理観の一致が、あったはずである。

    それは、子供心に
    人を傷つけてはいけない、、、という自他共存の意識が、芽生えていたはずである。自分が助かるのに、有無も言わず、相手を「殺せ~」、、などと、小学生低学年の 意識に
    既に備わっているという状況、、、こういう事を、ちゃんと真面目に考える。懐疑意識が必要だと思う。

    舞台女優さんが言うように、最近は、どこの会場を回っても、「ころせ~」という
    自分本位の意識しか 持てない子供達が大半を
    超えるという。

    何度も述べるが、この小雑誌は、1990年代出版された雑誌だったのだ。
    この舞台女優さんは、日本全国の
    会場をまわり人魚姫を演じる度に同じような会場の
    反響に、劇団員と皆で、「これでは、劇を続けていけない、、、」とまで、話したと言う。
    舞台の上から観た、子供達の心理
    という題の記事だと思ったが、舞台女優さんは、名前は忘れたが、テレビで見覚えがある顔写真が載っていた。

    わたしが、当時懸念していた事が、やはり、、という感じだったので、その雑誌は屋根裏部屋を探せば、見つかると思う。

    今は、ほとんどの家庭で一人っ子の家庭が多いという。兄弟喧嘩の経験をもたない、一人っ子の子供達が社会というマスの
    社会を築き始める、、という事はどういう事なのか?
    兄弟喧嘩が、「ただいいけない!」と
    批判的に述べるのではなく、兄弟喧嘩から得られる心情的な事の分析をしてもよいと思う。昔の大家族の中で育つ兄弟達の心情の発達も、環境ゆえに、その個々人が発育させる此処の自我の
    発達にも、大変バランス能力の優れた人達が多い。そういう人達の小さい頃の置かれていた多数の兄弟間の出来事や経験は決して、無駄な経験とはせず、自分の情操発育の肥やしにしている人達が多いはずである。

    しかし~なんというか、こういう身の回りの状況の変化には、ほとんと、無頓着で、福島の
    放射能の汚染には、過敏に反応するという、呼応の仕方は、やはり
    おかしいでしょう?と思うのですよね。自己自身の内面の問題を業と見ないようにしようとしているのか?それとも、自己自身の 心が
    傷つかされるという問題に不安を覚えて、なるたけ、視線を反らそうとしているのか?時々、人と話していると、何か?ヅレているんじゃないか?と思わされる返答が返って来るのですよね。

    そのような事考えることをせず、東北地震の
    震災の不安に心を捕られ、あちこち神域に行かなければ、ならなくなる、、祈る、、、という自分には、やはり
    ???を感じるし、自己満足にしてはいけないでしょう???と思う 自分がいるんです。


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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2013年02月17日 17時45分57秒

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    デューラーの版画




    今、日本に公開されている エルグレコの絵について、マタマタ、、、書きたい事があるのです。

    去年の10月16日大阪で公開になった、
    聖母マリアの「無原罪の御宿り」

    今年、4月7日まで東京で公開されるそうなのです。

    (4月7日は、エル、グレコの、命日ですよねぇぇ)、

    平成22年には、長崎で聖母戴冠が
    公開されていたらしい。
    グレコの描いた
    この聖母戴冠は、珍しく、三位一体の構図なんですね、

    神とイエスと聖母マリアの位置です。

    すごい発想ですよね。三位一体
    TRINITE トゥリ二ティという音素が、何というか、、

    世界で初めて原爆の実験が行われた 場所がなぜ?
    トゥリ二ティーと呼ばれる場所だったのか?という意味論で、すごい存在感の音素なんですよね。

    普通、形而下の質問は、時間を後から追う質問でしょう?つまり、結果における記憶を質問するでしょう?

    例えば、世界で初めて、原爆実験が行われた場所は何処ですか?

    という
    場所の名前を 聞く、、という
    質問の形、、

    これは、、、誰でも、辞書引けば、分かるのですから、そのような次元には、真理はないですよね。

    何故?
    その場所なのか?そして、その時なのか?ですよね。

    原因によって、真理を知るのであって、起きた事物に対して、情動反応を聞いても、何も進化しないと思うのですね。時間止っている事しているように観得ます。

    それで、グレコの聖母戴冠は、
    この時代では、人気のあったデューラーの木版画の聖母戴冠に基ずいて描いたそうなんです。

    それで、どうして、デゥーラーの木版画が、グレコが描きたかった、聖母戴冠の、絵のモデルになったのかしら?
    どうして、
    500年後に 長崎に 来るようになっていたのかしら?と色々考えるのです。

    面白いですねぇぇ、、 デューラーの サインって、まるで、日本の鳥居の中に、D
    を書いているみたいですね。

    名前は、アルフレッドの A が 鳥居のような形として 現れる。A
    のエジプト文字は、牛の頭でしたよね。

    牛というのは、存在力あるのですよね。

    母音の A です。

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2013年02月14日 23時29分30秒

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    聖 バレンタイン




    2月14日

    こんにちは
    昔、と言っても若い頃の話ですが、まだパソコンや携帯など 出回っていない頃
    日本人夫婦が
    フランスのノルマンディー地方に旅行した 紀行文を読んだのです。わたしは独身で20歳代
    その内容は、
    ある日、日本人旅行者が、フランスのノルマンディー地方で、気持ちの良い海辺のレストランを見つけ食事をする。という内容だったんですね。
    記憶を辿ってみます。
    予約をあらかじめ入れておいた。レストランに、案内されたテーブルに着き食事をしだした。

    回りは満席で、「予約しておいて良かったね?」と二人で話しながら食事を楽しんでいたのだ。

    フト座った席の前の二人がけのテーブルは、リザーブという札が置かれていて、そのテーブルだけが、空席だったのだ。
    一人、ギャルソンが来て、テーブルの上の蝋燭に 火を灯し、厨房に戻っていった。

    あぁぁ、もう直ぐお客さんが来る。食事をする準備がされているのだった。

    その日は、天気は良く、真っ青な海の前で自分達の旅行のハプニングを話しながら、前菜、メインデッシュ二人で楽しんでいた。

    時が経ち、食事の中頃になっても、その火が灯されたテーブルには誰も来ない。
    気になりだした。

    日本人旅行者は、それから、何故か?この空席の存在が気になって、仕方がなくなってきた。
    「どんな人達が来るのかしら?」と
    話しながら食べていたのに、
    とうとう食事のデザートの頃になっても そのテーブルにリザーブしたお客さんは来なかった。

    食事が終わり、お会計のレセプションに行き、堪り兼ねて聞いてみた。

    「あの~?僕達の座ったテーブルの前のテーブルは、リザーブされてなかったんですか?一番場所が、海に近くて良い席なのに、、、」と聞いた。
    レセプションの人は、
    「イエ、お食事されに来てましたよ」と、応えたと言う。
    話しは、今は、アメリカ住む、男性が
    毎年その日になると、「いつものテーブルを予約して欲しい」と電話が入るそうだ。
    その男性は 奥さんと
    長い間ノルマンディに住み、奥さんの誕生日になるとそのレストランで食事をし、そのテーブルで毎年食事をされていたそうなのです。

    奥さんが数年前に他界され、子供はアメリカに住み、自分も、高齢になりアメリカに住むようになったそうなのですが、毎年、奥さんの誕生日になると、アメリカから予約が入る。そして「いつもの席をお願いする、、、、、」と予約するご主人。

    この紀行文を読み、ヨーロッパという大陸に 行ってみたいと思ったのですよね。
    思うのですけど、ヨーロッパもあの頃の
    良い雰囲気は、残念な事にあまり感じられなくなって、市場主義優先、人々は唯物的なものにしか価値を見ず、皮相なオートマチックな世界(便利な世界と謳う)の中で暮らし、自分の事だけで精一杯。
    そのような世界的にジワジワ蔓延する他者の存在と自分の存在の間には、記号を不必要とする感情交流が出来る層がある事を感じる事、共感や体感する事、が出来なくなったのでしょうね。
    個々人が閉鎖的な世界しか自分の
    生きれる世界しか創れなくなる。日本だけでなく、世界中に広がる、人間が病む心理的、精神的な問題が横たわっているように感じます。

    愛が育つ土壌を創る、、、、愛が根づく、土壌を 創らずして、どうしてその土地が繁栄するのでしょうか?、、、、、

    そういう思いを昨今強く感じます。

    きっとその紀行文を書かれた日本人夫婦は、その話を聞かされた経験、、多分、そのような場所に行くようになっていたんでしょうね。

    そして、心が和む。今もその日本人夫婦は愛情深い素敵な夫婦で居る事でしょうね。

    今日は、西洋では、
    聖バレンタインデーの日なんです。
    地球上に住む、全ての人達の 心やすらぐ愛を願い、、、、、、 セント、バレンタイン!



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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2013年02月14日 09時17分10秒

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    サルトルとボーヴォワール





    サルトルと聞くと、わたしは今一
    心が傾かなった理由はなんだっけ?
    と考える。
    「実存主義者は、、、神が存在しないことは、非常に困ると考えている。何故なら、神とともに、理解可能な天空に価値を見出せる可能性はすべて消え去るからである。もはや<ア、プリオリ>な善はありえない。というのは、それを考える無限で完全な意識がないから、善が存在するとは、どこにも書かれていない」、、【、実存主義はヒューマニズム】
    サルトル
    そして、今度は、個人的主観性を超越する規範を承認することを、
    「きまじめ者の精神」と呼ぶ、、「存在と無】サルトル
    などという言説を
    放つからでしょうね。
    その点、サルトルの彼女でもあった ボーヴォワールは、其処まで辛辣的な公言はしなかった。

    自由な自己拘束にこそ、倫理はある」【、実存主義と常識 】ボーヴォアール

    ちなみに常識は、良いセンス<bon sens> と
    放つ。
    日本語で、「そんなの常識でしょう?」という咎めの使い方を、フランス語に当てはめると、
    「そんなの、良いセンス
    でしょう?」となる・
    何故なら、常識という意味使いが違うからなのですね、
    ちなみに、センスであり知識ではないです。
    つまり、常識は、センス<感性>が必要であるという事でしょう?
    しかも、良い感性
    です。このような 意味使い不一致がどうして生まれるのか?どちらが、間違いとか正しいという意味ではなく、他者を理解するという本当の意味は
    言語の意味使いと、何故?
    その意味使いなのか?という事を、奥深く他者の存在を理解する事だと思うのですね。

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