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続 哲学〜真理〜探求について

続 哲学〜真理〜探求について>掲示板

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2013年01月28日 17時44分11秒

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    ふと、昔に書いた ジュール、ミッシェルと、ショーペン、ハウエルの言葉想い出しました。
    再記してみます

    ジュール、ミッシェル


    「Le difficile n'est pas de monter, mais en montant de rester soi.」
    (難しいのは上ることではない、上りながら自分自身でいつづけるということだ。)



    「時は良く用いるものには親切である」

    哲学者ショウペンハウエル

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  • from: yeshangさん

    2013年01月27日 21時52分20秒

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    我が家の猫

    女房が我が家の飼い猫のブログを開いています。

    http://ameblo.jp/mutimutima-mutika/
    タイトルき「シャム猫 チョコ」 です。

     もう6年ほど前に知り合いが迷い猫を拾ってきたのですが、すでに飼っている猫との相性が悪く、我が家に引き取ったのです。

     暇なときは覗いてやってください。

     しかし、猫を見ていると(犬でも外の動物でもそうでしょうが)いろいろ相手は何を考えているのか? 猫に生まれてきてどうなのか? いろいろ考えさせられます。

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  • from: yeshangさん

    2013年01月27日 21時34分31秒

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    形而上学と形而下

    形而上と形而下の中間があってもよいのでは? と思っています。

     形而上は何かしら高尚に思えますが、ああでもないこうでもないの言葉の遊びに落ちるような気がします。

     それよりも私がこの頃言っているのですが、実感、体感、共感と直感、予感、霊感(私にはないのでこれはすこし言い過ぎなのですが)をもとにした本当にがつんとくるものを求めています。

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2013年01月23日 19時16分25秒

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    根本概念の連鎖 < 途上、通時態>




    こんにちは
    自分自身がどのような人間であるか?どのような思考形態や傾向や 癖をもっているのか?という事を自覚するのには、自分以外の
    他者とのコミュニケートによってでしか、分からないのですよね?コミュニケートは 他者達との交流であり、他者が自分にとって
    自分という人間がどうして存在しているのか?という
    意味を知る(感じる)には必ず他者は必要な存在ですし、むしろ他者と知り合う為に、時間や空間があるような感じがするのですよね。
    なるたけ自分と違う他者が地球上に存在するという自覚がないと、いつも
    自己の内的な一部分、同部分、類似部分を探す方向は一方向にしか意識は向いていないと思うのです。自分と同じ類似エレメント探し、または共感探しの呼応ばかりですと、密着度が強いのと同じ、結束させて自己保存、守る、、という形態になりますから<それはそれで仕方のない事だと思うけど>、そこには
    他者を 除く、他者排除という 世界を
    意識していようが、無意識であろうが、同言語を話す、同民族だけでの世界観を造っていると思うのです。

    時々、哲学分野の世界の
    言説を聞いたり、読んだりして思いますが、唯物的な事に偏重する、あまりにも、偏り過ぎて普遍性に必要な柔軟性の思考に欠けたり、一対一の話し方も、
    多数に話す時も全く、同じ表現力であったり、、、、この存在の仕方は、普遍性含まないでしょう?権利や力や言葉の持つ 権力的な力を 利用して
    他者を自分の支配下に置こうとしたり、自分より 無学であろうという人ばかりを、狙って 知識や認識で、相手や対峙者に、良い印象を
    感じてもらおうとしたり、あるいは、自己を上位に位置づける事で存在性を 示したり、、、知っているという事が、他者より 素晴らしいと思う事で、他者に
    印象づけようとしたり、、、マ、色々 権力的な世界造りで、自分を保護したいのは分かりますが、、、
    どちらにしても、自分自身の
    心の状態が、自分自身の行いによって、満ち足りた気分、幸せを感じる、、、という至福感ね、、、征服感=至福感を勘違いしていると、
    老いるに連れて、ドンドン、起動修正しないとならなくなると思いますよ。
    何故なら、死のヱタップを超えるのは、そのような 唯物的な事に
    価値を置いている訳ではないでしょうと思うからです。
    人生においてだけではなく、死生観においてでも、ある 納得できる 心が癒される
    安らぎを感じるものでなければ、ならないと思うのですね。それはやはり、宇宙や 地球や 総体的、全体との一体感という
    コミュニケートであると思うのですよね。そこには、何も、自分が知っている人だけ、が、コミュニケートや感情交流に必要な訳ではないのですから、、、
    時間途上、人生途上において、気持ちの良い、驚きや遭遇なんですよね。そのような体験は、別に、何か?一つの宗教や信仰だけが、導く、、、という事ではないと思うし、もっと開けた未来観を伴わなければ、閉鎖的でしょう?そのような事を考えませんか?
    自分は、
    何に、執着し、何が不安で、何に、一生懸命しがみ付きながら、絶対と思っている 一部の真理を
    頑なに信じ込むという目的に、猪突猛進しなければならないのか?、、とか、、、
    その 道に、
    他者の存在や他者の介入する場所はないでしょう?
    そういう事を考えた事あります?
    理性的と論理的は、時々、同じように解釈されるようですが、ラテン語に理性(RAISON)レゾンの
    語源があるからでしょう、、、しかし、事物の理由を把握する能力、、それを論理と訳したところで、理性と論理の混同をしていいとは思えないのですよね。
    これは唯物論に傾いてしまう
    一番の欠点といってもいいと思う。
    RAISON レゾンは、
    理由とか原因という意味も含み、そして真理の推論過程では常に、理性ではなく理性的原理を頭に置くと思うのですね。つまり二つの語、
    理性的、、原理(PRINCIPE)プランシプです。
    明証的であるという点で、これが絶対だ、、という決め付けではないのですよね。
    論理は、後から推論する事であって、途上での思考では、ないと思うのですね。
    理性的原理についていえば、論証されることが不可能であるので、この地点で第一原理とも呼ぶ事が出来ます、、、
    普遍的な存在の仕方、、と
    言うのは、この理性的原理には、理性的活動にとっては、必要不可欠であり、ソレであり、他者達の存在を必要とする途上で明証的であるという事でしょう。
    明証的であるという点で、他の原理から区別されているのですから、、、、論理的な骨組みを形づくる明証的かつ必然的な真理であるとしても、
    その
    論理そのものが、絶対真理と述べてしまう事は、違うでしょう。
    理性的秩序はそれ自体として考察された事物に基づき、論理的秩序は命題の構築にとって思考の道具であるのですから、思考を
    表明する手段である、言語の形式と秩序とに基づいているのでしょう。
    ですから、理性的秩序を、論理的秩序と、混同してはいけないのですよね。
    A
    クルノー「 根本観念の連鎖について」から、引用

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2013年01月20日 06時39分31秒

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    体験




    仙台に住む友人、R子と去年、15年ぶりくらいに会った。
    年末の挨拶をいつのまにかしなくなり不義理をして何年も経ったていた。ところが
    2011年3月11日の震災は
    わたし達を再度 引き合わす縁起が生じたようだった。
    わたしは、去年10月北海道の
    帰途、仙台に寄って、R子に会ってその時の様子を、彼女の生の声から聞いたのだ。
    仙台市内に住むR子の家の800メートル前で、津波は止まった。
    地震が起きた時、彼女は、飼い犬と
    散歩に出ていたそうだ。

    OOちゃんねぇぇ、、」とわたしの昔の呼び名で、彼女はゆっくりその時の事を語ってくれた。
    地震が起きた時、建物の中に 居る時と言うのは、地震を
    2次的に感じているんだよね。
    直接じゃない。家の中にいると、まず、棚を押さえたり、頭に落ちてこないように どこかに隠れるとか、
    落ちそうなモノを、手で押さえたりとかするじゃない?
    それは、2次的で、地震を肌で感じていない状態なんだと思う。つまり、地震と自分の関係に
    神(自然)は 自覚出来にくいと思う。
    。心のどこかで、助かると思いながらの 切羽つまった状態じゃないんだよね。
    でも、
    地球の上、つまり 大地に 自分の2本足で、立ってる時に、大地震を
    足の裏から感じる体感というのは、とんでもなく、人間の存在が、明らかに、自然に支配されていたんだ、、、という実感なんだよね。あの体感、、、2度と忘れられない。
    自分の立っている大地が、波状に
    揺れているのが 見え、この世の画像でないんだよね。
    うちの 犬は、当たり前だけど、、、4本足であるく、動物なんだよね。
    その
    4本足で歩く、動物さえも、歩けなくなって、お尻ペタンと、、大地にくっつけて動かなくなってしまったんだわ。、、、この気持ち分かる?
    大地が揺れて歩けない、、という事ではなく、犬も明らかに、歩こうという気持ちさえも、失せてしまっているのが、分かるんだよね。明らかに、とてつもない
    事が地球に起きているという体感なんだよね。
    人間が、どんなに、小さな存在であったか?あの 大地の 大きな揺れに 人間は
    立ちすくみ、そして、ひざまつき、、何も、出来ない放心状態だったんだ。
    あの体験は、大地に
    足をつけていた人間しか、体験出来ないと思う。
    建物の中にいては、建物の壊れ方にしか注意がいかないからね、、、、でも、自分の立っている土地が、揺れ、ひびが入り、どんどんひびが延び続け、大地が、大きな口をあけだし、割れていき、不気味な底なしの
    割れたクレパスに、立ちすくむ人間達、、現実に目の前の光景 だったんだよね。これが、地球の本との姿だったんだ、、、神を信じる、信じないという問題など、
    意味が無くなる問題だったんだわ。そのような問題は、浮ついた問題に思えるんだわ。
    人間は、自然の前では、無力だ、、という自覚なんだよね。自覚、、人間が自然の怒りの前で何も出来ないという自覚、、、

    思わせる、恐ろしい体験だった。」R子

    わたしは、ずーと 黙って聞いていた。

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  • from: yeshangさん

    2013年01月17日 22時14分26秒

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    「等伯」阿部龍太郎著が直木賞に

    日経新聞に連載されていて、読み続けていましたが、つい引き込まれて、それに挿絵も素晴らしく、時に身震いしながら。

     今回、直木賞を受賞したとのことは、なんで今頃との感があります。
     以前、最近の日経の連載小説について「等伯」含めちょっと読後感を書いたのですが、なかでも「等伯」は抜きんでていました。

     日経で読んでいたものの、昨年の9月に単行本化されて、再度読みたい、ほかの人にも読んでもらいたいとすぐに買ました。上下2巻になります。

     名と実を残すほどになるにはこれだけの苦労はあたりまえか?

     私も苦労したとは思っていましたが、等伯に限らず先人と比べてみれば甘えでしかなかったかとつくづく感じる次第です。

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2013年01月14日 01時05分25秒

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    聖母の出現の意味






    以下はわたしが、友人のJ 子に3日前に出したメイルなのです。年末J子のお母様が 初めて本を出されたと言ってきて、良かったらその本の購入先を教えて欲しいと聞いたら、本が直接プレゼントされた。J子のご両親は、わたしも何回が学生の時彼女の家に泊まりに行っているので面識があるのです。

    ご両親はご商売をされていて、お母様はいつも、にこやかに温和な方だった。反対にお父様は ほとんど口を聞いた事がなかった。ご商売熱心で 仕事一筋という堅気のお父さんという思い出があるのです。そのお父さんの話しを、J子は、半年くらい前にメイルで話してきた。十年前ほど、脳の病気を患い入院した時の事、
    何週間かの入院生活を経て病気が快方に向かったそうだ。

    明日退院という時に、お見舞いに来たお母さんに「キスしよう」と突然言ったそうだ。お母さんは、「何言ってるの?明日退院でしょ?家に帰ったらね?」と 冗談半分と思って聞いて返事をしたのが、結局その夜、帰らぬ人となってしまった。

    あの無口で堅気なお父さんならありそうな話と思って聞いていた。そして、話してくる友人J子は気恥ずかしそうに、「忘れてちょうだい!」なんて言って来るのでおかしかった。
    でも、70歳代の 素敵な夫婦の話だと思って 聞いていた。

    J子のご両親は、満州に住まわれていて、うちの父も満州生まれ、お互いの祖父は満鉄に勤めていた事が最近わかったのです。
    満州時代の子供時代の話を綴った本を出版されたそうで、是非とも読んでみたいと思ったのだ。
    =====================================
    OOO子、、
    今、応接間には、回りに数冊本がいつも置いてあって、よみかけも読んだ本も色々あるんだけど、、、、、、フト、 「000000」を手にとったの。
    サット、あるページをあけた。ここら辺は、無意識にしているらしい、
    それで、ドキっとしたんだわ。
    書かれてある部分を読んだの、000子の お母さんのお母さんの亡くなられた日の箇所に、視線が直接いっていた。
    あのね?お母様<OOOさま>に伝えて欲しい。 パリの聖母の出現の日、7月19日に、他界されているのなら、絶対聖母の御心のような心持たれた方だったんだと思う。
    以下に、 不思議のメダイュ教会に起きた、出現の日の説明がしてあるから、貼っとくわ。
    それとね、御祖母様の他界された様子が書かれてあるページは、66ページなんだよね。
    つまり、本を手に持って、最初にパッと、66ページを開けた
    そのページを読んでいたの。なにかの メッセージだと思う。
    不思議のメダイの聖母の聖堂Chapelle Notre-Dame de la Médaille Miraculeuse
    ■出来事
    17世紀にパリで徹底した愛徳の実践に生きた聖ビンセンシオ・ア・パウロは、協力者であった聖ルイズ・ド・マリヤックとともに、愛徳姉妹会を創立する。その本部修道院聖堂で1830年7月18日から19日にかけての夜、修道生活一年目で24歳のSr.カタリナ・ラブレが聖母の出現を受ける。子どもの呼ぶ声に目を覚まして聖堂に導かれたカタリナは、祭壇の傍らの椅子に腰掛けた聖母の膝に手を置いたという。メッセージは「この祭壇のもとに来なさい。そこですべての人に恵みが注がれるでしょう。」であった。2度目の御出現は同年11月27日の夕刻で、カタリナは目を天に向け、小さな十字架のついた地球を神に捧げる聖母を見る。このとき「原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身により頼みたてまつる我らのために祈りたまえ。」という祈りを唱えるようにとの勧めを受け、メダイのデザインが示された。パリ司教de Quélenの許可を得て製作され配布されたこのメダイは、身につける者に回心をはじめ多くの恵みをもたらしたため、「不思議のメダイ」と呼ばれるようになる(「メダイ」とはフランス語のmédailleの音訳)。

    その後、J子は、お母様にわたしが話した、パリの不思議のメダイュの教会の出現日を話したそうだ。
    お母様に、お礼を言われたので 言付けしますとメイルが届いた。
    ======================================
    母の母
    東京都墨田区で看護婦をしていて 関東大震災のときには 上野の森に逃げて 難を逃れることが出来たそうです。
    職場の病院の側に教会があって、よく♪讃美歌♪を歌っていたそうです。
    母は先日、知り合いの葬儀が教会で行われ。讃美歌を聞いて、祖母が歌っていた記憶が甦り。懐かしく思ったそうです。
    祖父と祖母は、命日が同じ7月19日なんです。
    最後まで仲良し♪ また出逢って デートしてるかな(^-^)/
    ========================================
    あぁぁぁ、、これだったんだ、、、十代の頃、J子の家に遊びに行くと、ご両親朝早くから夜遅くまで、毎日お仕事されて、とても働き者の一家で、3女のJ子は、かなりしっかり者だった。夫婦仲が良いのは、御先祖様のお譲りね、、、
    永遠のキス? 天使が「 後のお楽しみ」って、笑っているのが観得る。

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2013年01月12日 01時52分13秒

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    正教会


    今朝 何通か届いたメイルの 中に、、、
    学生時代の友人の一人のメイルがあった。
    友人というのは、心が遠い存在
    近い存在色々ですが、彼女は比較的 遠い存在だった。何年も、新年の挨拶をすることもなかったのだが、
    彼女自身、身体が弱く、昔の仲間とあって
    騒ぐというのも気遅れがするというので、他の 友人と3人で、他の日に会える機会をもうけて、新宿で会った。
    この時、 彼女が、誕生日を
    述べて、9月8日だという。アレ?と思いフランスのカレンダーには毎日聖人の名前が載っているし、宗教記念日が載っている。バックから、手帳をだして確かめたら、やはり
    聖母マリアの誕生日の日と同日だった。
    それで、手持ちの パリの不思議のメダイュを、
    ご家族の分も、いくつか差し上げた。
    10月に会ってから、メイルをしたのは、1、2回。
    そしたら、新年になり
    、家にいらしたご主人から仕事場に電話があり、心臓が苦しく痛いと携帯に電話がかかってきたという。
    救急車をよんで、入院したら、すぐ手術。12時間もの
    手術の間、生命の危険も 告げられたらしい。
    なんとか、 手術は
    無事にすみ、やっと言葉を交せるじょうたいだったという。
    手術中、不思議のメダイユを、ズーと握って、祈っていたとメイルに書かれてあった。
    ところで、ご主人が病院に運ばれた日は、1月7日で、わたしは、その数日前から、キルギスタンからきたマキシムの事ばかり
    思わされ、他所の ブログには、1月6日あたりに マキシムの事を書いている。
    かれこれ、4年ちかく
    連絡はないけど、
    マキシムに、「誕生日は、いつ?」と聞いたら、キリストの誕生日、、、というので、12月25日?
    と返事すると、「いや、1月7日だよ」とマキシムが応えてくる、、
    あぁぁ、、そうだった、東方正教会、コンスタンティノーブルだったね?
    というような会話が思い出されていたのだ。
    1月7日に、病院に運ばれたからそういう事かも知れない。
    ご主人の事はお会いし事はないけど、聖母マリアのご加護を祈るばかりです。12時間も病院にいるのは、さぞかし、心細かった彼女に違いない。ご主人は50歳代だと思うけど、最近若い人達の健康もなんだか、不安ですね。
    皆様も
    御身体 あまり無理なさらないで、、、

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2013年01月11日 23時58分13秒

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    遠い未来を考えるのは、楽しいですよね。


    未来は、突然単独に生じる事ではないでしょうから、過去からの、思考産物も引き継いでいるとおもうのですよね。

    近代的で、便利な時代がくると思っていた時代、、、、地球の汚染や、オゾン層の破壊、

    環境汚染など言われていなかった時代は、本当に、未来に、宇宙都市ができると 信じていましたし、わたしも 昔、このままの近代化の速度でいく 未来30年後世界、、、、という 絵や写真が 雑誌や、子供向けの 本にあったので覚えています。

    ところが、地球は 無限じゃなかったんですね。

    しかも人間の存在が、一番、地球の生命を、短命にしている張本人だった、、、という自覚をしなくてはならなくなったんでしょうね。

    創世記には、神が人間に原罪を任し、地球上に追放してしまった、アダム、とイブが書かれていますが、、、、生まれながらに罪を背負ってしまった人間.........つまり、男は、食べ物を得る為の労働の苦しみを 与えられてしまった。女は、出産の苦しみと、男への従属を負う 原罪をとして、罪を負って存在してしまった。

    どうなんでしょうかね?

    人間の存在する意味を考えると、2000年後、 何をしなければ、いけないか?という 考えなくてはならないかもしれませんね。








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  • from: yeshangさん

    2013年01月10日 19時18分47秒

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    2000年後の世界(私の初夢)?

    2000年後の世界はコンピューターとロボットによって人間のやることはほとんど代替されて、人はその成果、果実を受け取るだけの世界に。

     そのため、人間のやることは教養を深めるか享楽にふけるかの世の中に。

     なにしろ衣食住はロボットが働き、医療や福祉もロボットがコンピューターの制御のもとになにもかも提供される世の中になっていて、人はボランティアや趣味で政治、科学技術・文化の創造、人の役に立つロボットやソフトの開発、行政などに携わることで成り立つ社会に。

     ここで問題は貧富の格差より教養の格差が社会の大問題に。
     何もしなくて生活できるから自己を高めようとする人は益々高まるし、遊び呆ける人間は益々堕落して行くことに。
    ここでボランティアの政府が悩むことはこの教養・人格の格差をどうすればいいかが大問題に。

     それと座標軸を直交するように人とは何か? 人の使命は? 霊魂の存在は? といった科学技術ではまだ解明できない課題が大きな問題になるっているでしょう。これは紀元前から、とりわけ21世紀から人びとの関心の的となってきたことなのですが。

     現実に返ってみると、そこに行きつくまでにはまだまだ人類は衣食住~世界が抱える問題まで多くの課題を抱えています。

     しかし、遠い未来を考えることで今の自分の生活・思考・人間の本質などいろいろなことを時空を超えて見つめなおすことが出来るのではないでしょうか?

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