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続 哲学〜真理〜探求について

続 哲学〜真理〜探求について>掲示板

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2012年11月29日 00時47分28秒

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    ひさびさの現象学


    現象学で語られる 時間上における認識について、、

    消化器系の同化と
    認識上での 事物との同化<体験>は
    違うのですよね。

    消化は、大腸消化が先で、小腸消化が後に来る事はないでしょう。

    ところが、知られる対象は物質的には元のままで、ただ知る主体のうちに新しいあり方、つまり非物質的な存在を獲得するのですね。

    これが、認識の同化ですね。知る主体と知られる対象との関係を
    よく
    知覚すると、

    今度は、同化とは違う、精神とは独立な客観的実在に向けられた精神の態度を指示するのが表象REPRESENTATION
    <再現>の場合とがあり、認識は、まず、呈示
    から一層、対象に向かいあう行為からはじまる。、、

    ついでに、その対象を
    表象するとは、つまり、それを再現前させる。心のうちにではなく、心の前である。

    すなわち、表象とは、みずから 対象を
    現前させることである。

    もっとも
    ここでの、現前とか表象とは、本来の意味ではなく類比的な意味でなければ、ならない。即ち、

    対象への、現前も、精神へのその
    再現<表象>つまり認識も、非物質的秩序に属し、物質的秩序に属するのではない。

    現象学者は、認識対象に向かうこの精神の態度を 説明するために、
    志向性という語をえらび、つまり、意識は、自己とは、はっきり、区別された、対象へとむかい、したがって、認識するとは、事物を所有化したり、自己のうちに貯えたりするのではなく、反対に、自己それらの、事物のうちに、すくなくとも、それらの事物の側に投げ出すことなのである。

    認識するとは<~に向って炸裂する。>こと。

    胃のじめじめした内容から脱して、自己を超えて彼方へ、自分でないものの方へ、木の側に、それも木の外へと進むことである。なぜなら、木は、わたしから逃れ去って、わたしを拒み、木がわたしのうちで薄まりえないと同様に、わたしも、木のうちに消え去ることができないからだ。即ち、木の外にあり、私の外にある。

    J;P
    サルトル、フッサール現象学の根本概念、志向性

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2012年11月28日 18時44分35秒

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    1800年代の異国への 定住意志




    お台場に 1998年運ばれた、パリのセーヌ河にある
    自由の女神

    去年、311の震災後、鹿島に実家がある友人のK子は、わたしに似ている超能力者の松原照子さんのブログを絶対見てほしい、、とメイルを送って来た。
    地震の予見や予知が、ホントの情報であるかどうか、、という判断するのは、大概、超能力を持たない凡人でして、、、こういう
    次元の書き込みや議論を読むと、なんと言うか、、ズレているという感じを持たされるのですね。その人<超能力者>がわかるのは、その人と同じ土俵に乗れる時だけである、、というわたしにとっては、当たり前の事に思うのですが、、、わからなければ、それで気にしなければいいと思うのですけど、大衆や一般や民衆というのは、複数ですからねぇぇ、、ニーチェも言いますが、バタバタ心が走る扇動したり扇動されたりする事を自分から求めているのだと思うのですね。
    有名になる人に、又意識を
    帰着<目的>させる。そして批判したり、時たま罵倒したり、バッシングする事に便乗したがるという
    次元の低い行動はなんとかならないのでしょうか?と思うのですね。
    ストーカーと同じ傾向の意識なんだと思うのですね。その人求めるか追うか?または、批判するか?どっちかの行動しかしないんですねぇぇ、、それだけ、他者の存在を求めているのでしょうけど、依存関係をおのずからつくる他者を、排他したい想念世界を繰り広げて、呼応する事ばかり自立して、しようとしない自分の弱さに気づきながら、実は、どうにもならない自分を嫌って排他しているのと同じなんですよね。その代変え者に怒りの矛先向けているんでしょう、、精神分析者が見れば、自他の密接な関係はこのように分析するはずなんです。

    時たま、仏教説法を聞いていると「苦悩は凡人だから仕方ない、、苦悩を滅すには、自分が無であらなけらばならない、、」、というような一般人に向ける、単純定理では、複雑な人間の存在や存在させてる理由や原因は、分かりません。何故?苦悩を生むのか?という何故?という疑問を向ける事なく、苦悩は人間だから仕方ない、、という次元に迎合して、笑う、、という情けなさに同意する事での共感を持つ事の関係に
    、、安堵感を生じる<{わたしも、あなたも同じなのね、、あぁぁ、、よかった}という次元ねぇぇ、、
    「そんなに、この次元にいる事が心地良いのですか?」
    「そんなに、安心します?」
    「そんなに、人が自分と同じだと、嬉しいですか?」
    こういう風に、自己に問いてみる、、自分自身に問う、、という事があって、当たり前に思うのですね。
    哲学は、人から教えてもらって、身につく事はまずないでしょうし、そのような哲学は偽りの知識に思えます。
    自分自身でしか、切り開くしかないと思うのですね。何故なら、人、それぞれ、違うのですから、この宇宙にひとり、ひとり、自立、独立
    させようとしている意味を、自他共感や宇宙一体感として観じとる、、という経験がなければ、いつも、肉体を持つ、3次元に生きる情動運動に呼応しながら、なるたけ、多くの人に迎合する事で、安心感を得なければ、ならなくなるという
    存在の仕方になるんでしょう?、、わたくしの言事、間違っていますか?

    日本だけでないけど、この世界、どうするんでしょう?と思ったりするんですね。
    以下、今日、28日の
    松原照子さんのブログ読んでいて、内容はほぼ、わたしの観じる宇宙観と同じ意味だと思う。性格はわたしと松原さんでは随分違う感じがするのですが、、友人がわたしに似ている、、という感覚をどこらへんに感じて、言ってきたのか?良くわからなかった。
    松原氏が、地震の予知の
    地名まで、挙げる<陸前高田>が危ないとされた2月16日のブログを見た時は、部分明記には、さすが思いましたが、、部分や、一部、に視点を向けるのは大変な疲労伴いそうだ、、と思って当時のブログを読んでいたのです。

    わたしの場合は、前日、、つまり3月10日の夜、寝床で読む本を、
    ふと、半年前に読み終わった 本「わたしの遺言」佐藤愛子の 本の
    4章だけ、、神界から来た人というタイトルの章だけ、、読んだ。
    何故?その4章なのか?わからない、、、
    前にも書きましたけど、この4章には、
    神戸、淡路島地震を一週間前に予言し、佐藤愛子に電話をかけてくる。
    「地震は必ずきます。場所は言えないけど、必ずきます、気をつけてください」という電話だけ、佐藤愛子にかけてくるのである。
    わたしは、このフレーズを読んで、3月10日の夜ベッドに寝た、日本とフランスは当然時差があるから、眠りについたのは、多分、日本時間の8時から9時の間に自分の心{魂}が
    日本に存在している事になる。こういう風に 説明すれば、超能力者の
    予知が、心や魂の存在にあるのが、分かるのではないだろうか?
    ただ、後から考えると、前年、2010年10月のダヴィッドと一緒に、生まれてはじめて訪ねた、広島、原爆資料館と平和の鐘の下で遇った、不思議な体験も全て、半年後の福島への汚染の示唆をしめしていたんだと思う。
    つまり、地震や津波という、インパクトの災害が起こる事で、なにが生じたか?何が?その後に起こったか?
    という視点に
    目を向ける事だと思うのですね。つまり、死者の死を無駄にしない、、、という気持ちが、その
    福島やその後の原発に対する意識を試されているのではないか?

    ただ、問題はそのような、状態において、人々は、自分の体験した心情事でしか、分からない、、体験{体感}していない事は、分からないのである。どのような感情や心情を起していても、同じ映画をみても、感じる人、感じない人、面白い場面が各人違うのと同じで、自分の心や魂が体験{体感}していなければ、ひもとけない。何故なら、、霊感、直感、あるいは霊視、霊聴にしても、ほとんど、意味論で通じようとしている、、という形而上世界とのテレパシーではないか?と思う。
    そしてその意味する事は、受信側の
    人生の上で生じた個人的体験がなければ、第三者達の体験や体感など全く関係の無い事で、個人への何らかの暗示的な体験<不思議なシンクロにしても>意味を通じ合っているのだと思う。
    そのような個々人との繫がりが独立、自立、インデパンダントであろうという予測がついてくるのである。そう考えると、第三者が、超能力者の能力や体験や予言が、本物であるとかないとかは、判断する関係事ではないのである。もし、3次元の世界での下種の勘ぐり意識で、何かを
    放てるとしたら、後は、その個人が、人々の間に普遍的な存在として浸透していくか?という未来へ向かう視点に立っての地点でしか、判断できないのである。

    以下、今日11月28日のブログの内容なのですが、、この
    笠戸丸、、何処の造船所で造られた船なのか?知りたかった。調べても、分からなかったけど、、、笠戸丸の話は何度か記憶にあるけど、、笠戸丸の記事を書かれたブログがありこの
    写真は
    確かに貴重で興味深いと思いました。何故なら、わたしが、生まれたのが山口の下松の笠戸島にある笠戸造船所の前にある社宅に両親は住んでいた頃、生まれたので、笠戸丸は、もしかしたら、笠戸造船所で造られ、神戸からブラジルに
    行ったのか?とフト、よぎったからなのですね。
    ================================================
    「地球家族」この言葉が当たり前になる時代が来る事を。
    <2012.11.28>
    日本に於いても名ばかりの管理職が増え、残業は自己責任の企業もあり、うつ病患者と診断される人や職がなくひきこもりになる20代・30代の人が増えるのも気になります。
    自殺者も年間何処かの町や市の人口がひとつ消える勢いです。
    1908年ブラジルに向けた移民船の第1号の「笠戸丸」が神戸港を出港する時、約780人の日本人はどの様な思いを胸に抱いていたのでしょう。
    あの日から百年が過ぎました。
    現在は約150万人もブラジルで日系人が住んでもいます。
    後500年もすると、世界中はどの様な人類分布になっているのでしょうネ。
    「地球家族」
    この言葉が当たり前になる時代が来る事を願わずにはおれません。
    地球は他の星と同じ球体の星です。
    どなたがお付けになられたのか地の球と付けられています。
    私達はこの地球の表面で生きる知恵を持つ生物です。
    いつだったかなぁ~
    この世見を始めてから書かせて頂いた気がするのですが、
    海の死が近付いていると・・・
    現実に海の酸性濃度が上がっていると知りますと胸が痛みます。
    50年 イエ 後30年もすると珊瑚は全滅するかもしれません。それとプランクトンも減少して海の生態系は大きく変わる事でしょう。
    私達人間が犯した罪は今、この地球を崩壊させようとしているのは事実です。
    http://rakuan117.blog.fc2.com/blog-entry-626.html
    ブラジル国、ニッポン村だより
    笠戸丸移民について考える

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    By Shigeo Nakamura
    15 May 2008
    100年前の今頃、移民781人の契約移民と自由渡航者たちを乗せた笠戸丸は洋上にあった。サントス港に到着する6月18日まで、神戸港を出てから60日の航海である。
    この笠戸丸移民の集合写真、というものがありそうでない。私が知っていたのは、ずっと鹿児島県出身者が神戸の神社で撮影したという一枚の写真だけ
    だった。だけだった、と過去形にできるのは、つい最近、別の一枚を見る機会があったからで、その一枚をここに掲げる。笠戸丸甲板上に勢揃いした移民たち
    の、おそらく出港前の記念撮影である。
    画像というのは不思議なもので、私のように想像力の羽ばたきの弱い人間でも、一見すればどこかが刺激されるらしく、いろんな思いがひっぱり出されて
    くる。どうやらこの写真、知っている人にはとっくに知られていたものらしいが、ブラジル日本移民史に興味を持ちながら、これまで笠戸丸移民についてはあま
    り明瞭なイメージを描けないまま来た私にとっては、ひとつの新しい、ちょっとした出会いだ。
    はっきり見えるのは前のほうに写っている数名にすぎないが、移民たちの顔、というより面構えと言いたくなるような彼らの表情をどう読み取ればよいのだろ
    う。不安でもなく、かといって決意といった清々しいものでもない、なんとなくふてぶてしさすら感じるのは、ブラジルでコーヒー農園に入った彼らの多くに、
    待遇に怒ってストライキを起こしたり、さっさと見切りをつけて都市や遠くアルゼンチンにまで行って働く主張と行動力があったこと、一方で農園に残った人び
    との、そんなトラブルにもかかわらず日本移民はダメだと烙印を押させなかった粘り強さを知っているからだろうか。いずれにしろ私の目には、この後大正、昭
    和、平成と生きて今日にいたった同じ日本人の表情には見えない。
    そもそも今のわれわれには、60日かけてようやく行きつく未知の土地などというものが残されていない。ほとんど情報のない土地へ自分と家族の生活を
    かけて出発するという選択もまずないだろう。ネットを通じて綿密な情報収集ができる旅行者は、メールを通じて知り合った現地在住者とまるで旧知であるかの
    ように「再会」し、その土地のネットワークに苦もなく溶け込んでいくのが珍しくもないご時勢だ。
    甲板上で撮られたこの写真が出港時のものだとすれば、われわれには想像もできない旅に向け、もう後戻りができなくなった時点ということだ。そんなときに人はいったいどんな表情をするのだろう。私には読み取れなくて当たり前かもしれない。
    それにしてもこの写真を見ていると、彼らをブラジルに向かわせたものが何だったのか、もう一度よく
    考えてみたいという気持ちにさせられる。
    人はなぜ移民となるのか。いちばん一般的で、説得力もある答えは、その時の経済状況からされる説明だろう。近代日本の景気状況と移民送出数を示すグラフを
    重ねると、相関関係は明らかだ。人は食うために、家族を食わせるために、生活を豊かにするために海を渡る。実に簡明な説明である。
    それだけだろうか、と、しかしもうひとつ胸に落ちない思いがいつもあった。
    移民という選択肢以外に生計を成り立たせる方法はほかにもありはしなかったか。あえて家郷を離れ、言葉すら通じない人の間に入り、金のなる木がある
    という噂(本当に信じたのか?)だけを頼りに保証のない生活に飛び込むほどの賭けに出なければならなかったと簡単に納得はできない。
    そんな考えを持って思い入れたっぷりに写真を眺めていると、笠戸丸に乗り込んだ移民たちが、やはり当時としても特別な「冒険心」(もっと適切な言葉
    がありそうだが思いつかない)を持った人びとのように見えてくる。それは今でも、個性的な移民一世たちと実際に接する中で時々感じるものでもある。ほんと
    うの冒険心というのは、だれにでもある資質ではなく、ある種の人にだけ宿るものだというのが私の考えだ。
    それは、合理的な思考を鈍らせ、まわりの人びとを巻き込んでありえない進路を選ばせ、おそらくは「失敗」という結果に帰着することが多い。「失敗」
    といってももちろんひとつの価値観に基づいての評価にすぎないが。かれらはただ、見たこともないものを見たい、行ったことのない土地に行ってみたい、人が
    経験できない生活を経験したい、という思いに憑かれた人たちだったのではないか。この写真から私は不思議なエネルギーを感じるのだが、それはそんな精神を
    もった人間が一同に会しているところから発するものかと思う。
    世界は結局、そういった人びとがいて、得にならない、不合理な選択を時々しながら新しい道を切り拓いてきたからなんとかここまで存続してきたという
    こともいえる。個人としては損になることが多そうな冒険心を持つ人間がいつまでも淘汰されずにいるのは、その存在が長い目で見れば人類に利益もたらすからだという考え方もあるだろう。笠戸丸移民の係累は、そう考えると人類史上にたくさんいることになる。
    笠戸丸移民については、ウソの宣伝にだまされてブラジルに来た被害者という見方もある。その側面を認めない訳ではないが、それ一辺倒の見方はかれらに失礼だと思えてくる。
    さて、写真の彼らの視線の先にはカメラがある。その傍らにまさに立っていたかも知れない、彼らをブラジルに導いた張本人である水野龍がいったい何を考えてこのような企てをしたのか、これも再考に価するテーマだ。
    ©
    2008 Shigeo
    Nakamura
    http://www.discovernikkei.org/en/journal/2008/5/15/brazil-nippon-dayori/

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2012年11月28日 03時27分25秒

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    プロパガンダ 宣伝,布教 伝播





    報道人は、ニュースを流す時、購買数の事を気にして、とりあえず、目だつように、

    一目で、意識を引くようにというような、空の存在において、

    大げさな 文句で、放つ事がありますが、、、、、

    とりあえず、こういう 心理学者の言説も ちゃんと 知って肝に銘じてもいいんじゃないか?と思うのですよね。


    そして 情報を得る方の受信者にも 情報を流す方にこのような意識がある事を、ちゃんと肝に銘じながら、いちいち、瞬時瞬時、、に 呼応して、現れるという事はよした方がいいと思うのです。

    コロンビア大学のミラー教授が設立した「宣伝分析研究所」が発表したプロパガンダ「7つの方策」


    1.ネーム・コーリング(悪いイメージのレッテル張り)
    2.華麗な言葉による普遍化(「自由」「正義」「愛」「平和」といった普遍的な価値との結びつけ)
    3.転移(権威ある存在を味方につけ、自らを正当化)
    4.証言利用(有名人の発言を利用)
    5.平凡化(立場を似せて、親近感を得る)
    6.カードスタッキング(都合がいいことの強調と、都合が悪いことの隠蔽)
    7.バンドワゴン(ある事柄を、世の趨勢であるかのように宣伝)』
    (洗脳選挙/三浦博/光文社から引用)

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2012年11月28日 03時12分38秒

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    コミュニケートに欠かせない、他者AUTRUIの存在






    あぁぁ、、やはりそうだった、、

    今日、お昼の ニュースを見ていて、推測していた事が
    AUTISME(日本語の訳は自閉症になっているけど、通常通じ合う意味使いは間違いと思えます)の
    方で、最近本を出された人をゲストにむかえていた。

    彼は、7カ国喋れるのですが、AUTISMEという
    病いを持っているんですね。彼が「、何カ国喋れようが、それを、ちゃんと、人間の
    通常会話にアダプトさせるのとは違いますよ。」

    という事を話していた。この時、彼は、AUTRUIという単語を使って表現していたのですが、まさしくこれなのだ。

    AUTRUIは哲学や
    精神分析、心理学では、コミュニケートの仲介者として他者(他人)と訳されてしまうのだけど、この二つの単語の意味あいは、形而上世界の 仲介者が、必要な
    AUTRUIとして、実践されなければ、ならないのだと思う。

    彼が、話す内容で、 この
    AUTRUI(他者、他人)が不在の人の顔をよくみると、分かります。と言っている。
    無機質で、無表情であるのが、特徴で、一人で、相手に
    事務的、機械的に話すという傾向が多い、、と話すのですね。

    そして、自分の世界だけの事が全てと思い、相手も同じ価値観を持っていると思い込む事がおおいので、まず、相手の表情を見て確認する事はないです。と
    AUTISME <自閉症>とされてる 彼がテレビの主要チャンネルで話していた。

    このAUTRUI不在、他者不在、、哲学では
    間主観性という単語で現象学を話す時、必ず、このAUTRUIの事が話される。

    興味深いのは、
    このコミュニケート不在、つまり神経症気味も類似の傾向がある事をかんがえると、今の NETの コミュニケートが原因であろうと言っていた。

    ここ数年の
    NETの書き込みもそうですが、瞬時、瞬時に呼応する人達がふえ、紋きり型の表現で、瞬時に呼応したがる表現の仕方が主流になってきた。
    底辺に流れる
    時間の流れを 察する能力がなくなっていると思う。又2ちゃんネルという 存在の中味を分析すると、
    何に呼応するのか?という自我が弱く、

    受動態の主体が野放図なのが見えるんですよね。むしろ、大衆受けを狙っているのが、まず第一に
    きているので、その大衆や一般の 民度が 低ければ、そのレベルに
    合わす、、という事で、存在の仕方をみつけていこうとしているらしい。

    言説は
    自由に放てる、、と思い込んでいるのは、多分、自由の乱用でしょうと思う。
    空には、色々な存在が、目に見えないモノまでの存在を観る事ができなければ、どのような
    モノも、 波動があえば、引寄せられて 呼応するであろうと思う、そういう
    意味での(普遍化を狙っているのなら、間違いでしょう。

    普遍化は、超越と言い換えてもいいと思う。

    たとえ、公共の場であろうと、
    何を言うのも、自由でしょう、、という自由の意味使いは、いつも、 主体は後ろ向きである事が治核できれば、いつも 自己保存の場合に、
    この自由という単語を、水戸黄門の 葵のご紋のような使い方をするのである。

    哲学をしっかり、身につけていれば、このような 使い方で
    放つと、哀れみを買うのである。

    あぁぁ、、無情、、、「レミセラブル LES MISERABLE」なのだ。

    いったい、この
    「ヴィクトル、ユーゴー」の「 あぁぁ、、無情」の作品を読んで意味を、

    孤児の
    コゼットを養子にする、という場面だけに反応する事、貧民の子供を養子にする事は、情けをかけるということ、だから、「あぁぁ、、無情なのね」というレベルと、国民の安全を保証してあるであろう律法の権限をなくしてしまうような、国際テロリストの要求をのむ事、正義の正当化を提示した、どこかの首相の言説「
    人間の命は、地球よりも重い」といった、世界のロイター報道陣、唖然と口をあけた瞬間、、、

    このレベルは、大変問題だと思う。将来を案じる以前に
    どうしてここまで、コミュニケートが成されていないのか?ここまでズレてしまう、、倫理観は、大変な事だと思う。

    哀れみという感情の意味が違うのではないか?と思う。なぜか、貧民とか金銭的、物質的なマテリアルが欠けていると解釈しているきらいがあるけど、形而上の
    世界では、心や魂に哀れみを感じる時、、そのような物差しで
    観じているのではない事は、当然に思えますが、、、、発展途上国の人達でも、人間に根ざす倫理はもう少し把握できるのではないか?と思う。
    誰かに 哀れみを
    大衆が感じたら、、

    それ その地点で、自分が努力を
    放棄しているのであろうと思う。つまり前向きに生きる事を放棄しているのである。

    つまり、哀れみを感じさせないように、人間は、前向きの意識を持たなければいけない事に、努力をする事であり、何も、生活や
    家が裕福になったり、する事だけに、生きる目的をもって生きているのではないでしょうし、そのような生き方を下賤な人間として軽蔑される土壌にひと昔前まではあるのではなかったのか?

    つまり、
    そして、その他者に哀れみ感をもたせた地点で、人間の存在しようとしている 次元が決まるのである。

    だから、あぁぁ、無情
    レミゼらブルなのでしょう。

    つまり、魂や心が存在しようとしている 次元が、
    他者との依存関係を望みながら、生きる事しかできないのか?という事を、ひとびとは、洞察しているのだと思う。

    そういう次元の心や魂の様態を問われているのである。

    自由
    という言葉は、そんなに簡単に放てないはずなのだ。

    言葉の 意味の重さを、ちゃんと感じられる事、 そして、他者に その言葉の
    意味の重さを、伝える事が出来るほどの、コミュニケート能力や情操を育てる事。

    そういう事が、人間には、大事だと思う。
    学校で習う、知識など詰め込んで、
    成績表に反映するだけの マテリアルな数字のみに、夢中になって、肝心の 人間との 心のコミュニケートが
    出来なくなったら、生きていけないのだと思う。
    つまり、淘汰に向うという事なのだと思う。何故なら、
    AUTRUIに関しては、形而上とのコミュニケートである助けを含んでいるのだと思うのですよね。

    死後、その人が繫がる次元の魂とのコミュニケートなのか?実はAUTISME(自閉症)と呼ばれる人の7パーセントは、
    超能力をもっているらしいし、、不思議な事がたくさんある。

    日本のバラエティーには、いつも、超能力人を お笑いの対象にしたり、特別扱いとして、能力が
    テレビの映像に写されるけど、なんというのでしょうね?
    人間はこのような存在の仕方をしてはいけないと思いますね。

    いつも息の短い、人気商売みたいな事に夢中にあるのではなく、もう少し物事を深く
    洞察する、、という事が必要だと思うのですね。

    今日は、 1830年 11月27日、パリの真ん中、愛徳教会に
    聖母マリアが出現し、不思議のメダイユを公布しなさい、、、と
    キャトリーヌ修道女と、コミュニケートとった日なんですね。高級神霊の出現の日と言うのは、、、何かあるんでしょうね。

    天体の動きと関係あるので、毎年ちがいますが、去年、2011年の11月27日は、この日は、
    待降祭の日だったんですよね。つまり、2011年は、
    キリストが、降りてきた、地球に宿る日、、だったんですね。

    不思議ですね、、2011年、十一は、漢字で縦に書くと、土と書きますものね、、、、

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2012年11月26日 05時54分57秒

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    予見を 放つという事は?





    以下は、去年311、震災を一ヶ月前から予言された超能力者 松原照子さんの 書かれたブログの転記ですが、わたしも納得します。

    普遍的な超能力を持たされる人、やはり神に選ばれし人だと思う。選ばれない人は、一生懸命修行するらしいのだけど、、、やはり、センスが違うし、むしろ心が違う、、、何に感じるのか?という 人間性に尽きるはずなのに、「人間性は、ヒューマニズムですね?」などと、これまた、どこかに書かれたような知識を 述べるて、話しを合わせようとする無機質な表情の人達、、、、なんというか、世間ズレして心が篭っていないのは、すぐ記号見ても分かりますし、浮き上がって観えてしまうのですよね。


    心が、頑なで、、自然とか 人間愛を感じる心が不在なんですね。

    きっと、本当の愛をふんだんに 受けて育てられてこなかったのかも知れません。子供に高等教育を受けさす事が親の愛だと思い込んだり、子供の通う学校のレベルばかり気にする親だったり、、、子供は、親の持ち物ではないのですよね。

    人間ですし、親も子供も魂は平等です。そのような煩悩に悩まされた親に育てられた子供も、同じように子供を育てるのかも知れませんね。大人のしたり顔の倫理道徳主義を子供達はとうの昔から見抜いているのですよね。

    援助交際はいけないなどと、口先でいうことは、誰でも出来るのに、現世の欲望とお金だけが、優越する人間社会の枠組みを作り上げたのは、大人達本人なんでしょう。

    強い者勝ちの、闘いや、戦争を仕掛けて、弱者を徹底的に痛めつけるという半分、VENGENCE仕返し感情によって、対峙者に 怒りを丸投げするというような 仕方が世間では正義と呼ばれるようになれば、この世に救いはないと思う。

    動物の次元なんでしょうね。そして、強者や勝者に尻尾をふるのが、国益とすると強弁する、知識人達、、、其の大人達が、、いったいどうして、子供達に道徳や倫理を教えたりする事ができるのか?豊かな情操を育てる事などできないで、子供達の、波乱な学校生活に 何もうつ手段持たず、、、本当に反省しなければならないのは、そのような硬直した頭をもち、生きてる人間を、型に嵌めて、管理する事に一生懸命になっている大人達でしょう。型は、 土という字の上に、 刑罰の 刑&nbsp; という字を書く。

    しかも 刑は、 鳥居と リ 。
    土に 鳥居とリがついて、型に嵌めるの 型、、、という字。
    型に嵌めるのはもち、宗教や信仰の存在も入るでしょう。
    何々さんを、好きになる、気に入る、という表現には、日本語に、ファンになる
    というカタカナ音素で、AさんのファンFANです。という表現の
    FANは、ファンから
    ファナFANA=夢中になる{何々に}
    ファナティック FANATIQUE= 狂信的、熱狂的
    という言葉が出来るんですね。つまり同じ意識が単一目的に執着{帰属させる}に向かう方向SENSなんです。

    自分の存在の仕方が、明らかに、閉塞的、友人や友達も何故か同じ人達、同一思考、同一趣味、同一<同類>という事が大事な連帯や連結や連帯感を強める事が必要である、又は安心する、という存在の仕方は、健康的でないですし、いずれかは、自分自身を追い詰めると思いますよ。

    しかも死が近づくにつれて、人間に生まれた本当の価値を探しだしますから、、、そのような意識に変わっていかなければ、生死の境は安心して越えられないのだと思うのですね。死後になんらかの 繫がりがある、、「死後に必ず幸せになります」、、という事を約束してくれたのは、ルルドの聖母出現でしたっけ。出現に遭遇したベルナデットに「この世ではなく、あの世で必ず幸せになります」、、、と、出現時に、聖母は、話したと、小さな薪拾いの無学な少女ベルナデッドは語る。

    このような、出現時のベルナデッドが聞いた会話ほど、本人に確信や安心させる事はないと思う。

    学校など通わない少女は、聖母マリアが言った、ラテン語の言葉を述べる。何度も、何度も、ベルナデッドの前に出現する。ベルナデッドが、知らないはずのラテン語の言葉を放った事で、やっと村の神父さんは、信じだす、、、そのルルドは、出現の洞窟の上に立派な 大聖堂が経ち、毎年世界から、沢山の巡礼者や観光客の足を向かわせる。神域というのは、自然に足が向かって歩いているのだと思う、信じているから向かうのではなく、信じても、信じなくても、そういう顕在意識の事ではない。

    つまり、天空の高級神霊にとっては信じていようが、信じまいが、そんな事はどうでもよいのだと思う、無意識、潜在意識での、コミュニケートなのだと思う。だから、不思議な現象に遭遇するのだと思う。しかし、それは、偶然ではなく、必然なのだ。

    つまり、最初から、選ばれて生まれて今まで生きてきた、、という事なのだと思う。そういう時の連続性が観えなければ、何も分からないと思う。ただ、その時代の瞬時に見せられた、超能力を、嘘だとか、本物だとか、せいぜい、乏しい自己体験から得る事の出来る価値観の物差しで 他者を図りたいだけなんだと思う。大事なのは、他者は自分のもつ物差しと同じメモリでは無い事に気がつく事が出来るくらいの開けた目指しを持てるか?だと思う。
    =============================================

    世 見

    今日という日は一度しか人生でやっては来ません。 <2012.11.25>

    日本にどれくらいの宗教団体があるのでしょうか。
    以前聞いたお話では20万くらい日本には宗教団体があったようですが、私は今から30年くらい前に不思議な世界のブルーグレーのおばちゃまに「あなたは宗教団体を作ってはいけません」と言われた事がありました。
    宗教とは無縁な私が宗球団体を作る事などあり得ないのに不思議な事を言われるよなぁ~と思ったのですが、最近になってこの意味がよく分かるようになって来ました。
    私は宗教批判をするほど、この年令になっても「宗教」に付いては全く興味がありません。
    だからと云って神社仏閣に行って手を合わせる事は大好きです。
    初詣にも行きます。クリスマスは特に大好きで家の前を電飾で飾りもします。
    宗教とは書いた通り「宗し教える」事を云いますが、人間にとってこの宗教は切り離す事の出来ない文化です。
    人間は「考える」事が出来ます。
    それ故に迷いも生じますし、病を受け止めるのには「死」も付いても来ます。
    きっと、宗教とは心を住まわせたいところなのでしょう。
    私は死後の世界を次なる本に書かせて頂きましたが、人には今日と云う日は一度しか人生でやっては来ません。先ずはこの事をお心に叩き込まれる事が大切です。私が不思議な世界の方に教えて頂いた死後の世界は、私達人間は地球の細胞のひとつなのだと云う事がよく分かりました。
    あなたのお心が、私が毎日書かせて頂いている拙い文章で安らがれる事を心から願っております。

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2012年11月24日 00時01分34秒

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    高次元



    聖書でも経典でも、他の教義の本や伝承でもそうですが、わたし達が記号を通し、伝わる工夫をするのですが、色々な方がいますが、最後は心の存在しようとしている層<域>を見抜く事で同等の眼力のある数他者達と同感や共感を体感出来るというコミュニケートが不可欠でしょうと思います。普遍性は、3次元世界で、コマーシャルの流行言葉を話し、やさしそうに砕けた雰囲気ばかり心がけて、庶民感覚で、宗教や信仰や学問語るのが流行っていそうですが、、、

    そういうのは、大概、エセに観えます。

    ちゃんと、本質を見抜くという眼力がなくて、どうして、自分が癒されたり、自分と話しが合う人ばかりをさがしにいかなきゃならないのか?よく分かりませんが、、、他者を判断したり、他者を気に入ったり、反対に 批判したりしないとならないのは、それだけ、他者が自分にとって必要なんでしょうと思うけど、、、そういう事は自分では、気がつかないらしいんですね。

    他者に認めてもらいたいから、色々マニフェストするらしいんですね、
    以下、他のブログの一部を転記しましたけど、同感できます。
    もうすこし、ちゃんと 自分はこうだ!という高次元の位置のマニフェスト出来ないのは、低次元の 低い次元の倫理に 従属したがる傾向にある んじゃないか?と思いますが、、、、

    自我がない?
    ありえません・
    そのように考えるようにすれば、楽なんじゃないでしょうか?と考えたりします。

    何故なら、、人間は結局、どうしても、怖いものから 避けながら、見ないようにしながらなんとか、大義名分探しますから、、


    自分自身が制裁されるのではないか?という恐れを潜在意識で感じているから、どうしても、顕在意識の世界で、 自我がない、皆 平等説を唱える事で、自己逃避なんじゃないでしょうかね?

    自分自身の 悪<我>と真正面から付き合うという事をせず、自我がない、、と言って、見ないようにするのは、一番簡単でしょうと思いますが、、、何か、表面上 きれい事ばかり述べる知識人ってこのような傾向が強いのですよね。

    悪人正機説じゃないですが、、最近おりてくるワードに、唯識法相宗がたてる、5性格別説があるんです。
    どうも、精神分析や心理分析しながら 話や書き込み読んでいていて、良いものを感じない、、という流れね、、純真であれば、そのような、手練手管みたいな 後追い書き込みばかりする事はないでしょう?

    と思わされる議論場が多いです。記号に拘るからいつも、人の文コピペしますし、、世界の議論場でそういう事している哲学者は皆無でしょう、、世界の討論や議論といった 形を経験してみて普遍性を観じて見る事が必要だと思うのですね。


    めるろ~さんの生前最後の書き込みの内容も、同じく、会津藩の徳一菩薩の「真言宗未決文」について、突然他界される、1,2ヶ月前から懐疑意識つよめた書き込みなさっていますから、、この話題、3、4年前以上にも めるろ~さんと話しましたが、記録がないんですが、、

    。わたし個人として、5,6年前からずーと 気になっていた話題です。徳一菩薩も法相宗ですし、京都の清水寺も、めるろ~さんとわたしは、関係深いお寺ですから、同じく行基菩薩もわたしが無意識に訪ねている神域場所にも広範囲に関係してくるので、どうもなんらかの法相宗の暗示のような気がします。

    鎌倉時代になると下火になりますが、しかし、菩薩としての実践は主体的な努力を必要とするはずですから、自由自在に利他の実践が出来るという事に対し、主体の努力は、自己責任という先見の意識も当然あったと思われます。空海と徳一菩薩が、どのように最後 真正面から組み合ったのか?
    空海は、徳一菩薩に無回答という 形で、存在したという意味、、未来に死者達はなんらかの形で返答できると、明確化できると、思っていたのだろうか?、、色々考えます。
    以下、高次元について
    =====================================

    高次元は次元が上がれば上がるほど多面的要素が飛躍的に増大する世界だ。
    私の場合、焦点を合わせたターゲットは瞬時に光や色として視覚的にとらえられる。

    その意味合いを解釈したり理解したりするには感覚・感性を踏まえた上、豊富で広範な知識・記憶・語彙から、より的確と思われる内容をピックアップして、"文字・言葉"へと誰にでも理解可能な言語化を心掛けている。
    こうした3次元的なコミュニケーション手段を通した『伝わる工夫』を施さなければ、私にとっては当たり前のごとく高次元と送受振している内容についてなのだが、一般の人たちには全く理解が及ばない事柄となってしまうからだ。

    例えば、仮に高次元(※厳密には次元の高さで意味合いや解釈が違ってくる)の"緑色"が見えたとしても、単純に"調和"を意味しているとは限らない。
    時と場合によっては、正反対の意味内容を指していることだってある。

    暗い色味や濁った緑色などは病んだり陥ったりしていて、本来の特性を活かせていない場合などにしばしば見受けられる特徴なのだ。

    つまり、"不調和・優柔不断・心身症・うつ・引き籠り・無気力・心臓疾患・植物的・第4チャクラの異常...etc."などから、その状況に一番ふさわしい"文字・言葉"を選ばないと脈絡や意味が通じないおかしな内容を発してしまうこととなる。

    その上、ただ単語の羅列ではもちろん意味が通じなくなってしまうだけだ。
    同じ"調和"にしても、"調和するように・調和しなさい・調和が足りない・調和していない・調和が取れていない・調和がいやだ・調和を求めている...etc." のうちいずれか、主語は誰なのか、目的語は誰(どれ・何)に対してかでも、意味合いが全く違った内容となってしまう。

    そもそも、単純に通り一遍の解釈しかできないということは、低次元の意識レベルが故で、高次元にふさわしい条件や状態ではないことぐらい想像が付かないものだろうか。

    身近な例では、外国語で書かれた文章は日本語翻訳ソフトを使えば、たちまち日本語の文章へ機械的な変換をしてくれるものの、伝わるどころか、まるで違う意味内容の理解不能な日本語となってしまった苦い経験を誰しも一度や二度はしたことがあるだろう。
    単語を単純に羅列するのみの作業能力であれば、人間は機械やパソコンに劣る。
    人間が人間であることの証明として、意味内容や脈絡の確かさを十分付加できるだけの文章を組み立てる柔軟さを持ち合わせなければ、存在意義も必然疑わしいものと成らざるを得なくなってしまう。

    機械や外国人であれば、おかしな日本語を使ったとしても、誰でも多少は大目に見てくれる寛容さぐらいはあるだろう。

    微妙なニュアンスや文脈全体が正確に伝わるためには、"て・に・を・は"などの助詞や動詞なども的確でなければ正反対の意味にもなりかねない。


    すなわち3次元的とはいえども、大前提として当たり前の"文字・言葉"の表現力が乏しく、伴っていないようでは、高次元の多面的内容を的確に3次元下に言い表し、人へと伝わることなどは到底不可能な事柄となってしまう。


    高次元とは、自分目線で皆が思っているようには単純でも粗雑な世界でもない。
    多面的で繊細かつ、緻密だからこそ高次元の内容や言葉にふさわしいのだ。

    "高次元"を流行り言葉のように乱発することは、チョットだけでも精神世界をかじった人間であれば誰にでも簡単にできることだ。

    逆に言えば、3次元的生活や土台が築き上げられていない者ほど、目には見えないことを逆手に取って逃避的にか、えせ優越感に浸りたいのかで、声高に叫んだり強調したりする傾向が顕著に見受けられる。

    もちろん、単純に一断片のみを拾い上げた「ミレーの落ち穂拾い」的低次元目線で高次元を推し量ったり、もてあそんだりや、幼児並みの理解や解釈のオアソビしかできない未熟者では、高次元界やアセンションの条件などには当然合致していない。

    これからは、より一層世の中に氾濫しているニセモノに惑わされない確かな見識力が個人個人に要求されてくる。
    理屈や筋道を通して考えれば誰にでも分かりそうなものだが...。

    http://homepage2.nifty.com/syn-wa/cgi/msgsun/

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2012年11月23日 21時56分07秒

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    culte カルト?





    ときどき 日本語の日常会話を 聞いていて、、なんだか、意味が本来の言葉が出来た起源その意味としている意味と違うのではないか? としばしば、思わされてしまう事があるのですよね。 例えば、「 カルト」という 音素 日本人がカタカナ音素を 放つ時、、多分、英語の意味が強いのでしょう、、と思う。 しかし、英語は、ラテン語であり、本来、ラテン語の意味を 理解しなければ、本当の意味を理解した事にはならないと思うのですね。

    音 というのは、本来 そういう意味の存在 を成しているであろうし、そのような存在の仕方を しなければならないのではないか?と思う。時代の変遷に沿って、言葉も変わる、、という意味も分かるけど、、それは、本来の意味をしっかり理解した上でのその時代、その時代に流行った使い方やリンムRIME{押韻}によって、普遍的な言い回しが生まれるのは、自然だと思うけど、、それでも、ただたんにコマーシャルの流行言葉を、日常に安易に使うという行動は、なんだかとても、私自身、心や魂の居心地が悪いので、いくら流行り言葉でも使わない。

    若い子達が使っているから使う、、であったり、、私自身、聞いて、汚い虚音やズレた音階の音を 楽器で引きたくないの同様、、汚い音素は、自分の口から音として放ちたくないのだから、仕方ない。どうして、言葉と音楽が同じなのが、分からないのかしら?と思うのだけど、、、ここら辺の感覚は、説明しても、分からないらしいので、述べないのですよね。

    ヴィトゲンシュタインの論考には、確か音楽について細かい考察があったと思うけど、、、 音楽というのは、結局、リグ、ヴェーダのように、美しい音の流れだと思う。 意味より、美しい音の流れなのだと思う。美しいと感じる心域と、聞いた音の意味は何か?と思考する事とは、全く違う分野だと思うのですね。

    何が?美しいか、、という感覚は、自然で、スーと、鼓膜に、染み渡る、、そして鼓膜の裏には、きっと、心情や感情を呼び起こす、センサーが密着しているのではないか?と思う。それは、学校で習う知識以前の 美を察知できる直観とでも呼んでいいと思うのですよね。音には、そのように、民族の違いを超える、人と人の間、人間として生きる、、という魂や心が存在していく為の、なんらかの センサーがあり、それは、決して、一生懸命勉強して、いい学校に入って、世の中の為になる人になる、、というような 通常の善倫理など超越しているはずだと思う。

    何故なら、そのような通常倫理の価値なども、人間の執着や我欲が原因の人間側だけに通じる価値感なんだと思うのですね。大概は、生まれると、しょうがない、、学校に行かされる。それも人間が造った制度でしょう。

    制度は管理しやすい人間社会に必要ですから、制度は、 STATE エスというSスの子音に Tテゥという子音が並ぶという意味は、何かの型なんだと思うのですね。ですから、停まる、、駅ステーションという言葉できますし、、、、 S という子音は、エスとは 呼ばないでしょう?便宜上 SLMNは、全て、ヱという音素を前につけて 呼びますけど、、エス、エル、エム、エヌ ですけど、ヱという母音もほんとうな、3つも4つも 発音の違いがあって、でも日本語のカタカナでは、ヱという表記しかないので、仕方なく、そのように書きますが、、つまり、聞こえてくる音と、記号化できる 音って、民族の言語によって違うのですよね。そして、聞こえても、意識出来ない音については、認識出来ないんですね。

    聴覚能力に なんらかの問題があるのではなく、音に関しては、聞こえているのに、知覚出来ない音が沢山あるんですよね。20年近くフランスに住んでいて、日本人学生にある特徴があるんです。顕著な特徴は、Rの発音。

    フランス語のRの発音は、日本語にはないので、正しい発音を発音するには、訓練がいるのだけど、人によって、すぐ発音出来る人と何度、目の前で 聞かせて、喉に手をあてさせて、喉の動きや 空気の通りを感じさせても、中々、正しい発音にならない人の違いが日本人だけの間に確かに存在するんです。この違いというのを、本当に考えてしまった事があった。
    聞こえても、認識出来ない音があるらしいのですよね。それは、聞いた事がない音には、なかなか 発音しようとするまでいかないんですよね。普通発音は、真似から入りますから、真似は、聞こえて分からないと真似出来ませんから、ところが、聞こえているのに、違いがわからないという 事は、正しい発音の真似をする行為に至らないのですよね。聴覚に 問題がなければ、聞こえているはずですから、、正直語学というのは、そこまで 突き詰めないと、言語理解を本当にするのは、無理だと思う。

    中途半端にするのは、出来るけど、詰め込む、記憶や認識は、あるていど、必要なのは、わかるけど、、それは、学習能力によって得た知識ですから、実践として身につかないでしょうと思う。特に、言語 というのは、人間を理解する、、という究極な問題が必ず最後に控えているという事を忘れてはいけないと思う。だから、安易に、自分と違う民族の宗教や文化を批判したり、自分の民族意識を過剰に呼応させて優劣判断など出来ないと思う。ヨーロッパでそのような発言を知識人がしたら、頭を横に振り振り、、相手にされないと思うのですね。人格陶治の問題だと思うのですね。

    そうそれで、カルト という単語を放っているのを聞くと、あまりいい 意味で使われていない、、「カルト宗教でしょう?」というと、信用できない、インチキ宗教と いう意味で、意味を通しているらしいというのが分かるのですよね。

    でも、フランス語で、例えば、新聞に CULTE <仏語の正しい発音はクュルトゥ>とのっていれば、教会のミサの時間の予告が載っている、CULTEという音素は、 カルトという日本語的な意味合いではなく、礼拝や祭式の連絡として 意味を繋いでいく音素であるし、 元々、CULTEは、カルチャーの意味と同義語でつかわれるのですから。CULTURE文化なんですよね。 英語の意味の使われ方はここでは書きませんけど、カルチャーセンターに通う日本人は多いのに、カルトと聞くと、目を三角にしないとならないという音素の意味は、何か、狂っていると思うのですね。何故なら、カルチャーという音素は、耕す、、という意味で、田畑を耕す、栽培するという意味はカルチャーという動詞CULTURE{文化}と同じ意味なんですよね。

    広義の意味で、田畑を耕し、栽培するのと、頭脳を耕し、栽培するのと、同じなんでしょう。ですから、教養という日本語も同じく、カルチャーがある、、と表現するのでしょう。 カルトというのは、そういう意味なのですから、あまりカタカナ音素だけに、自己投影して 我田引水論に利用しない方がいいと思う。とくにカタカナは、ラテン語からきているので、ラテン語勉強しないと 本当の意味使いはわからないと思うのですね。

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2012年11月20日 22時22分59秒

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    サンテクジュぺリ




    100カ国以上の言語に翻訳されている 本で、世界で一番売れているのは、
    まず 一番めに
    聖書 <納得しますねぇぇ、、この普遍性、、一時は何処のホテルに泊まっても、引き出しにありましたものね>
    だそうです。
    次にくるのは、マルクスの資本論だそうです。
    これ、ちょっと分からないけど、きっと、50年以上の長いサイクルなんでしょうね
    3番目に位置するのが、なんと、サンテクジュぺリの星の王子様だそうですよ。
    やっと、文学的で、宇宙的、真理、夢、平和という意味あいの神秘モードが沢山散らばっている 本が、世界中で、存在化を求められているという事で嬉しいですね。
    サンテクジュぺリの本の中で、一番 好きな言葉は これ
    「 愛することはお互いを見つめ合うことではない。それは、一緒に同じ方向(センス)を見つめることなのだ」
    アントワーヌ、サンテクジュぺり
    最近、追う対象が宇宙の一部なのに、一生懸命、対峙世界や相対世界を想念して、 勉学や認識積む事に一生懸命、又修行励んでいますけど、、
    素敵な人と対面したいと言うことと、 信じるなにものかと対面したいと言うことと、 ほとんど同じに思えますけど、、、
    見つめ合う事、対峙する事、貴方と私の関係でいる事は、もう、、存在性はうすいと思うのですね。
    物事は絶えず、変化していますし、、変容するでしょう?
    無秩序は、ある種の」秩序として定義される限りにおいて、創造に」とって本質的である。
    ヴァレリー
    秩序はなにも許さない。印象と思考の流動を止める緩衝板ごときのものであり、終着駅である。 反対に、無秩序は始発駅である。 秩序は、終点と称され、無秩序は逃避と称される。
    ファルグ、「孤高」

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2012年11月20日 08時26分05秒

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    日本のマザーテレサ





    今回、日本に一ヶ月滞在していて、色々な事がありました。

    少し、時間を戻して説明しますと、今年の8月14日だと思う。

    色々ブログをあちこち覗いていたら、神道ジャンル登録されてるある方のブログに、1830年パリで聖母が出現し、不思議なメダイュを公布するように
    伝言された、不思議のメダイュを大事に失くさず持っています、、という書かれたある方のブログに目が行ったのだ。

    其の方の不思議なメダイュの書き込みブログにわたしの身の上にあった不思議な出来事をコメントしてみたのだ。

    ブログの管理者がメダイユの事を書き込みしたのは、、一週間前だったので、わたしが、たまたま読んだ日は、一週間後だった。

    ところが、その日に、ちょうど、

    聖母マリアが涙を101回流すという秋田の聖母像が安置されている聖体奉仕会を訪ねたばかりの日にわたしが、書き込みを読んでコメントをしたという偶然が重なったのだ。

    もちろん、わたしは、聖体奉仕会の事もしらないし、ブログ担当者が何処に訪ねていかれたか?と言う事ももちろんしらない。

    驚かれたのは、ブログ担当者の方だと思う。

    この時に、秋田の聖体奉仕会を調べて、次回の日本滞在の時訪ねてみようと思わされた。

    話しは違いますが

    今年4月から80歳を超える両親の住む実家には、介護ヘルパーさんが来てくれている、Sさんとわたしは、初めて今回、10月にお会いした。

    家族から電話があった時に、介護ヘルパーさんのSさんは、わたしが去年実家に置いてあった、あんなに、ちいさなメダイュ見つけて、「あら!こんなところに不思議のメダイュがある」と言ったという言葉を聞いたので、介護ヘルパーのSさんは、フランスの不思議のメダイュを知っているらしい、、と話してきた。

    それで、今回実家に居る時Sさんとお話をしたのだ。彼女は介護ヘルパーをはじめたのは、72歳で、今、75歳だと言われ、見かけはそのように見えないし、仕事もテキパキ速いので驚いてしまった。しかも歩いてうちに来られるらしく、ご近所さんらしい。そのような方とご縁を頂いたという事に感謝しなくちゃね?と
    家族と話していたのですね。
    でも、介護ヘルパーをしている知り合いに聞いてもやはり珍しいケースだと思うと話していた


    そして、Sさんは、キリスト教徒の信徒さんらしいという事で、不思議のメダイュの存在を何故?知っているのか?という理由が飲みこめたのだ。

    それは、よいのですが、

    この時、わたしは、秋田の聖母聖母マリア像に逢いに行こうと思うのだけど、、、という話しになり、「わたしも行った事がないのだけど、、とっても行きたいんですよね」という話をされていたのだ。

    そして、Sさんには、お近づきの印として秋田の聖体奉仕会修道院のお守りをお土産に渡しました。そんなこんなで、日本滞在は実りが大きかった。

    フランス帰国してから、
    フト、8月に読んだ不思議のメダイュの事が書かれてあった方のブログを、何気なく読んで、ハっと
    其の方のお誕生日が書かれてあッた日付けに ドキっとした。

    Sさんと同じ誕生日なのだ。

    聖母マリアのマニフェストかも知れない、???、

    、それで、もう2ヶ月経っているけど、コメント欄にコメントしてみたのだ。ブログの管理って自分でしていてよく分からないのだけど、2ヶ月前のブログにコメントつけても、分からないでしょう、、と思いながら、返事がくるとは思っていなかった。それで、返事が来た時、また驚いたのですが、介護ヘルパーのSさんと、ブログ担当者と同じ誕生日にマザーテレサがいますよ、、とコメント返しがあり又驚いてしまった。

    72歳で介護ヘルパーになろうと思い、研修受けたんですと仰った、Sさんは、日本のマザーテレサさんみたいだ。そのような方が家の両親のお世話をしていただけるなんて、この世に感謝、感謝なんですね。

    この世は、生きてて、そんなに悪くないですよ。

    大事な事は、他者に自分の事を認めさせようと釈迦力になったり、依存するのではなく、自然に、自立した自我をもち、他者の立場に立って考えられる、それで無言でいいから、他者の幸せを望めば、かならず、知らない他者から、助けていただける。

    いつまでも、自分の事は誰もわかってくれない、、という孤立感や宗教や信仰に逃避するという姿勢に普遍性があるとは思えない。自分自身で、能動的に
    探求していかないと、それはきっと、大道にあるのだと思う、神がかった、あの世とコミュニケートというのもわかるけど、やはりこの世の人間の生活やコミュニケートが断絶された存在は
    まちがいでしょうと思う。マザーテレサはきっと世界中、観えない場所にいらっしゃると思う。

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2012年11月20日 04時15分56秒

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    予見





    2011年、4月頃だと思うけど、日本に住む友人のKちゃんは、
    わたしにすごく似ている人のブログがあるから、是非見て!といって、

    松原さんのブログをリンクしてきた。松原さんは、2月16日のブログに、陸前高田という場所を指定し、広範囲にわたり、大きな地震がくる事を予言した内容の事を記した。

    予言は中ったのですね。しかし~、、Kちゃんに「絶対見て!」と言われても、アクセス過多で、接続できないから、ほって置いた。

    2週間くらい経つと、Kちゃんが「見た?」と催促してきたので、「見れないからそのまま、ほおってある」、、と応えたら、違うアクセスサイトをリンクしてきた。

    よほど、わたしに 見てもらいたいらしく、

    しょうがなく観てみた。多分、わたしの人生で、WEB上、知り合うようになっているらしい。欲がないわたしというか、あまりそういう事を追い回すという性格ではないので、友人に言われても、興味がないと、見ない、、、、という事もしばしばあるのですよね。しかし、何度も催促が他者によって働きかけられるので、しょうがなく観てみた。



    そんなに、わたしと似てると思わなかったのだ。

    何処が?似てると思うのか?わからないけど、、、、第一、行為だけみれば、わたしはこのような予言を記す事はないし、そのような予言は出来ないと思っている。

    ただ、後から考えれば、ナンデ?わたし、 広島の原爆資料館や平和公園など、ダヴィッドと一緒に、前年の10月にはじめて訪ねたりしているのか?という、行為の目的がいつも、わたしの場合、他者に連れられて、ノコノコついていく、、という行為になっていて、直接目的ではないのですよね。そして、いつも、そこで、不思議な事を言う人に逢ったり、する・



    予言が中るとか中らないのに、何か意味があるのか?という事を考えるので、予言が中る、外れる、、という事ばかりに意識がいかないのですよね。

    人間行為には、その人間の思惟があるのだから、そのような存在の仕方を、この世でもとめられているのでしょう。むしろ、予言など、観えても 目いっぱい 外れた事を意識的に述べるという、性格の方に、人間味を感じるし、実際そういう人がいるので、この世は面白いと思うのです。

    誰だって、あまり良い事が観えなければ言いたくない

    。どうにかして、その人間の向う方向の軌道転換をするのに、色々、言葉を探す。そういう人間味のある人に好感を持つ。

    なんだか、時々、悪い霊を、、除霊する、、とか、必死で頑張る人いますが、あれは、又、同じ低い霊呼ぶので、除霊してもしょうがないらしいですよ。つまり、 本質の自分があるのか分かりませんがが、そのようなモノを、引きつけてしまうという事らしいです。
    自我がない、、なんて言ってると、憑依されて肉体をなにものかに搾取されてしまうから 駄目です。
    日本は縦列社会で、人の言う事無言で聞く人、好まれますし、受け入れやすい社会層の体質だけど、従順な人格これは自分がない、というのと同じ意味とも考えられるでしょう。
    ちゃんと、自分というもの、次元高き、徳をもち 思惟を放さないで下さいね。自分を磨くという事だと思うのですね。それで、同じく


    波動を自分であげない限り、自分自身では守れないらしいです。そのような事も精神世界の本には書かれてあります。

    でも、波動あげる事など、波動分からないから、思いもせず、難しい本の知識詰め込む事で、一般の人が聞いても、わからない、、、と言う実態に至っているらしいんですね、お経あげたり、何かに執着したり、自分の信じている事が最高だと信じ込んでしまい、普遍性という目指し、全くないのも困るのですよね。

    予言って確かに霊感や直観に入るのでしょう。しかし、その人の心や魂が存在している層を見抜くという洞察眼がなくては、困るでしょう?ただ怪しい、霊感商法だと批判ばかりするのも困りますし、自分に洞察眼がないのと、ただ超能力者や霊能者を批判するという行為だけ、、というのも、いただけないと思うのですね。
    能力や知識を見抜くではなく、人間の心や精神を見抜くが、一番大事に思えます。



    、東北地震の予知を自分のブログで書かれていた松原さんのブログの内容なのです。転記します・
    、、、

    わたしも、随分前から携帯電話と電子レンジという存在、邪念を飛び放っているんじゃない?と懸念していたのですね・、

    波動の低い層の世界が重なって観えてしまっていたので、ほとんど電子レンジは使わない。

    特に< 疑問に思うのが、あのサランラップで、ラップするという行為。この前日本のある学者がサランラップには、食物との接触で、品質を低質化するという発表をしているニュースが、フランスで流れたのだけど、日本では、全く振り向かれなかったニュースらしい。

    多分話題性に乏しかったらしい。

    それと、フランスで話題になってる ヤシ油の使用。インスタント、スナック菓子、殆ど安いから使用されている。心臓病を誘発するといって、フランスではかなり、頻繁に危険な油としてニュースで放送されている。

    この話題もあまり日本では聞かない、メディア 情報事態何か?違うんじゃないか?と思えてしょうがない。

    &nbsp;東北地震の時は、フランスでは、即座に高千穂の新燃山の爆発が一ヶ月前に在った事を述べてきた。

    地震と火山の関連でその後の余震の予知する事らしかった、、しかし、日本側のニュースは殆ど、犠牲者と行方不明の連絡網を確保する事、事故や震災の災害の酷さを 伝えるという事で必死であった状態がヒシヒシ伝わってきた。
    其処へ来て、福島の問題が生じた時は、わたしも、これ以上の悪夢があるのか?と目を疑ったのだった。

    <何か?ちがう、、、便利、便利、安い、安い、、ばかり求める気持ち<心>には、何か、大事な事、自分の一部、身売りしているのかな?と思えてショウガナイ。松原さんの見えない電波が、殺人事件を増やすという一見、何も因果関係などない非科学的な考えね、、これ、唯物論者が、必ず真の価値を持ちたがるという、へばりついている意識の姿勢が見えるんですね。科学妄信という意識の姿勢が問題なのであって、科学が真ではないと言っているのではないんですよ。一見非科学的な見方に、多数の超能力者達がこれから同じような予見をしますよ。そういう時代に突入してきたと思いますね。
    &nbsp;
    ">真理の古典的な考え方には、質料的真理と形相的真理を別けて考えますし、又、
    論理的真理と存在論的真理と相対させて考えるでしょう。でも論理的も存在論的も古典的な考え方として年代初めの近代哲学は、そのような思考の仕方として教えますでしょう。
    <論理そのものに今でもへばりついてしまうというのは、普遍的でないですし、実際、高校哲学教科書には古典的の考えな云々、、、、、と載ってるのですうよね、
    原始的思考の特徴を成す思惟が感じる価値は古典的<当時>なんらかに価値を持って心髄してしまうのかも知れません。マ、何処の学者さんとは、申しませんが~>何か昔から浄化されてない行者さんの憑依でしょうかね?と疑いたくなりますが、、、話し、それました
    近代になると、弁証法、プログマティズムそして、認識の価値自身の問題が語られると、今度は、思惟と実在との一致、、万人の一致がどうしても、真理を探究する上で必然としてくるとおもうのですね。ここに形而上世界の価値が語れなければならなくなってくるでしょう。
    以下に松原照子さんのブログの一部転記してみます。
    &nbsp;
    &nbsp;
    &nbsp;

    <span lang="JA">殺人事件のニュースばかりです。
    <span lang="JA">この日本はどうなってしまったのでしょうネ。もしかすると、私達が便利を理由に使用する携帯電話や電子レンジと云った、見えない電波が原因かもしれません。
    <span lang="JA">だからと云って今更使用しない生活はありえません。
    <span lang="JA">人間の勝手には私を含め反省しなくてはいけません。

    <span lang="JA">今年も終盤を迎え、はどんな一年になるのか、私自身気になり始めています。
    <span lang="JA">感じ次第お伝えしてまいりますが、先ずは年末までの事をお伝えしなくてはいけません。
    <span lang="JA">海が凄く時化っているのが見えました。
    <span lang="JA">どうか、船舶は気象情報にいつもより充分気を付けて下さい。

    <世見> 2011/2/16
    やはり太平洋側は動く気配がムンムンしています。
    「陸前高田」と云う地名が声にならない会話を 自分にしています。
    どこにあるのだろうと 探してみると 見付かった。
    指で感じ取ろうとしたが 期待ほど感じなかったが 釜石辺りが赤く見えた。
    東和と書かれている場所辺りが気になった。
    今度揺れると広範囲に思える。
    岩手・秋田・山形・宮城・福島・茨城 これだけ書けば当たるだろうと思える県名だが 書かずにはおれない思いになります。
    目の前に5の数字が先程から見えて仕方がない。
    千葉も 神奈川も近く揺れると思われるし 東京・埼玉も「なんだこれ」私がおかしいのか群馬も 栃木も 長野も いつ揺れてもおかしくない事を地図は語ってくれているだけに 私自身 今日は地図を見る力が薄れているのかと 心配になってしまうくらいだ。
    もしかすると近日中に何回か揺れを感じるか かなり広範囲なのかもしれないと思った。
    出典幸福への近道


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