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続 哲学〜真理〜探求について

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from: 沙羅(Sarah)さん

2011年12月10日 08時57分17秒

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マジに哲学!

少し、他者の再認識について述べてみますね。コギト、、この話題ほんとうに難しいです。デカルトのコギト、、「わたしは考える」この一言で、出発したのですよね

 少し、他者の再認識について

 述べてみますね。

 コギト、、この話題ほんとうに難しいです。

 デカルトのコギト、、「わたしは考える」

 この一言で、

 出発したのですよね。
 しかしこれは、唯我論(自我はあるのよ!)へと導かれながら、
 でも、「わたしは考える」という意識が直接的所与と考えると、
 具合がわるくなった。
 何で?
 ここで精神の活動を考えたのでしょう。
 「わたしは考える」ではなく、
 「考える主体ではどう?」と考える

 この方が、すっきりいく、、
 でもこれも、時々だけ、、
 とんでもない方向へいく

 考える主体はそれぞれ、自分自身の実存以外のすべての実存の否定へといたり、又唯我論を、強調したりする。

しかし、これは近代哲学の世界では、解決の意図は見つからなかったですね。
この唯我論、、、表現力乏しい人は、あまり強調しない方が普遍性を持つような気がする。これほんとうに難しい題でしょう、、
時々、唯我論、
 「ちょっと、、あの人 正気で、話しているんだろうか?」と、思わせる 口角泡飛ばし、議論に熱中する人達の デイベートを、いやと言うほど、立ち会わされてきている 哲学者達の話しです。

 最近も 時々 巷で見受けますね、、

それはいいけど

   疑問は、いかにして我々は他者の意識のなかに起こる事を、認識するのか?
 ですよね?

 ハイ、眠いからお終いにします、続きは後日という事で、、

  お休み〜♪

 

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from: 沙羅(Sarah)さん

2012年01月31日 21時59分29秒

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「Re:マジに哲学!」
テレビで、野田聖子さんという女性が 「わたしは 母になりたかった、」、という言説内容が放送され

反響を呼んだらしいのですね。

わたしは、聞いた事ない名前なので、色々聞いたり調べ見ると野田さんは

男性の精子と米国女性の卵子とを体外受精させ、
その受精卵を子宮で着床して、妊娠したそうなんです・・

生まれた子供は、多くの障害を持ち生まれたそうなんですね。

それに対し、メディアの反応が色々あったそうなんですが、ここで再三 登場する、
佐藤愛子さん緊急寄稿されたらしいので、転記します。

最近女性の高齢出産が多く、わたしの回りに入ってくる 問題もこのような類似の問題をなげかけられる事がすごく多いのですよね。

時間があったら、もう少し この問題は煮詰めてみたいのですが、今回はとりあえず 佐藤さんの緊急寄稿、転記します。


佐藤愛子 緊急寄稿「欲望が生みだすもの」
(略)

私などの世代は生まれてこの方、この世には人間の力ではどうにもならないこと、抵抗してもしようがない、抵抗したくてもできないことがたくさんあって、その前には人間は無力だという事実を受け容れてきました。


例えばその頃は子供は「授かり物」といういい方がありました。

神さまからの授かり物だから、子供に恵まれない時は、それが神のご意志と受け止めて、諦めて、子供がないのならないようにそれなりの生き方をしようと覚悟を決めたものです。


しかし医学の進歩によって、子供は授かり物ではなく「作るもの」になりました。そしてあの方法、この方法といろんな手段が考え出され、実行され成功しました。

作ることだけではなく、生れないようにすることも出来るようになりました。今まで絶対に不可能とされていたことが、次々に可能になっていきました。(略)

欲望を充足させることは幸福のひとつに違いないでしょうが、それに馴れていくと欲望はだんだん膨張して、あれも、これも、もっともっと、という具合になっていくような気が私はしています。


それまでは欲したことが実現すると有難いことだと感謝して喜んでいたのが、そのうちそれが当り前になり、やがては執念のようになって得られないことが苦しみやイライラのもとになったりする。

諦めたり我慢する方がよっぽどらくなのに、と私などは思うのですが。


欲望というものはあり過ぎても困るし、なくても困るむずかしいものだと思います。

人間の欲望によって文明は進歩してきたのでしょうが、物質文明の進歩は私たちが大切にしてきたもの、大切にしなければならないものを見失わせる危険があるのではないか? (略)


しかしながら文明の進歩にはこういう落とし穴もあるのです。

物質文明の恩恵を受けるには、覚悟というものが必要なように思います。



 自然主権には、確かに大きな意味が含まれているのでしょうね。

 その意味を 観じとる。

 感性のするどさと、心の発達、自然の恵みを 感応でき人間的な愛情

 人の心の 痛みを 分かち合える、、そのような小さい頃育った環境が豊かで人間に優しい高次の心を育む事ができる、他者を受け入れる事の出来る、、そのような人達の 心、観じる心、何に 観じているのか、、

という事を 聞くというのも他者の存在を知るのに大切だと思うのです。

いつまでも、人の心に全く 届かない、記号を放っていては、しょうがないでしょうし、コミュニケートで、他者の心の反応を感じず、難しい 誰も使わないような記号を並べて、一方通行の コミュニケートされてて、自己満足されてもしょうがないでしょう。

普遍性を持たない、普遍性の動きや 稼動を内包する 行為には 必ず、
複数他者の第三者達の 心に訴える事の出来る、コミュニケート能力があると思うのですね。

広島の平和公園の 鐘です。

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