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続 哲学〜真理〜探求について

続 哲学〜真理〜探求について>掲示板

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from: 沙羅(Sarah)さん

2012年08月09日 22時42分04秒

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心理学

人の書き込みや人の意見をあちこち聞いたり、読んだりするのですが、気になる事、、謙遜、、という意識は、取り違えて受け止めていると、その人の本当の魂や心の


人の書き込みや 人の意見をあちこち聞いたり、読んだりするのですが、

気になる事、、

謙遜、、という意識は、取り違えて 受け止めていると、その人の

本当の 魂や心の 状態や性格を 見抜く事が出来ていないと思われる、返事を している 場に はち会わされる事があるのですね。

何故か、、、

謙遜って意識、すごく 美化したくなっている自分がいません?

謙遜意識の 何処に そんなに、自分が 惹かれるのか?

という 事を よくよく、考えてみませんか?

自分が 何かの 言葉や 言説を 観たり、読んだりして、

「 あぁぁぁ、〜、この人、謙遜で、控えめで、偉ぶらなくて、

好感もてますね」、、と、言う時の自分の、

謙遜、、という 意識を、どの 次元で感じていますか?

その次元は、他者達と共感出来る共通の次元ですか?

そこに、 他者達<違民族の存在や、違う言語を話す 、人達と同じ感覚を持てるのですか? 同じ、善の意識や、善悪判断の 物差しが同じで、
謙遜は、すばらしい、、と述べているのですか?


という 事なんですね。

違うでしょ?

よく、 謙遜意識はよいのだけど、自分を卑下する人、、、

自分を卑下することで、 相手を持ち上げよう、、とする人、居ますけど、

この性格は 要注意なんです。

過度の自己非難と過度の尊大は、同じ人間に 共棲する 性格なんですね。

そんな事あるわけない?

それは 貴方が 観えないだけです、片一方の面からしか、感じられないからです。

ロロ、メイの書いた、「失われた自我を求めて」

という本の中に、

「過度の自己非難や、自己断罪は、かえって内に隠れた尊大さを、とりつくろうための 衣となっている」、、と述べています。
同時にスピノザ<哲学者>の 言葉

「 自己を 軽蔑する人間は高慢な人間にもっとも近い」という言葉をあげています。

何故なら、

そのように、しながら、無意識、意識の バランスを 執ろうとするからなんです。

ですから、自分を 愛せない 自分は、他者と愛情関係を結べなくなるんです。

自分を愛す事、、自分を卑下したり、 過度に 自分の存在に 自信を失くしてはいけないでしょう。

ですから、極端に 自分を 控えめな 人に見せたがるような人ならまだしも、、過度の謙遜な態度の裏には、親密な関係になると、とんでも、性格の 人、、かなりいますよ。

知識人の教育者、、宗教人、政治家など、 近くなり、メイル交換する間柄になると、「何?この人、、この次元?」と思わす人、かなりいますよ。

そういう人達は、なぜか、高学歴で、勤めている場所も、信用されてる場所ですけどね、、
ようするに、本人も 観えていないらしいのですが、、

土壌がそうなのだから、仕方ありません。


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from: 沙羅(Sarah)さん

2012年08月31日 17時44分12秒

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「Re:Re:Re:心理学」
2011年は、地震だけでなく、地震が起こる前から、十字架の 十のワードが 気になりはじめたのですが、

、当たり前ですけど、、だけど、10を、十と置き換えるのは わたしという日本人で日本語の読み書きが出来る記憶に 帰属しなければ、分からないはず。

しかも 家紋<紋章>の事を言えば、島津藩の 家紋は、丸に 十字ですよ、、などと、閃いたり、フランスの 県旗で 十字を 県旗に している 県は、 savoie サヴォア県の savoie公国の 紋章を 保存させてきている、、という 歴史は、 わたしの 脳内でしか、生じない、個人的な 考えに尽きるのだ。

この県に住む 住民に一番多い 苗字が、 白さん blancさんという苗字であることは、 その手の フランス語の web で調べる事も 出来る。

しかし、SAVOIE公国の血縁をもつ、フランソワ一世のもとに、ダヴィンチは、 奨励される、、という展開になっているのかしら?

しかも、 1517年、10月10日に枢機卿の 訪問を彼が受けていたとは、これはうかつだった。

同じく、arc 川という 川の名前と、 イゼールという 川の 発生地なのだ。

Arc という宗教言語に一番頻繁に使われる、、この音素を持つ名前は、140キロ先の イゼール川と合流する。

隣県の イゼール県の 街中を流れ、 フランス革命が 勃発した、グルノーブルを流れる 川である事。そのイゼール川には、 dracという、ドラゴンの名前の語源を 要す、川が、合流する 地点、でフランス革命の 種火が、爆発してしまったのだ。

もちろん、何故?そのような場所に そのような事が生じるのか?というと、当時の 文化人、芸術品に 残された作品を読めば、人々の心に 抑圧されたものが、ドンドン蓄積して行く事の 途上に あるという事、、

心の中に 蓄積していく、なんらかの、 抑圧されたものが、ある時、 なんかのきっかけで、火がつく、、その時を待っていたかのように、あっという間に、全国に 革命の 津波が、 遠心を描くように、人々は、立ち上がる、バスチューユの牢獄へ、向かった市民の姿は、なんだか、パリの フランス革命の イメージで よく 浮かぶらしいけど、 同じ、バスチューユという名前の 牢塞が、 イゼール川を 上から眺められる 場所にあり、イゼール川は、この バスチューユ牢塞を 取り囲むように グルリと 周り 流れている。フランス革命が 勃発した、最初と 最後の 締めくくり場所に、バスチューユという 音素の 牢塞と牢獄が あるのは、面白いでしょう?。

起承転結しながら 能動的に 歴史を つくりあげないと、 受動的に ズルズル 引きずられてしまってては、いけません、、などど、言いそうな フランス人達なのである。

わたしが、昔、この 川の名前と場所と歴史の不思議さを 話している時、ある フランス人女性の知り合いが、「貴女、谷によって、男性の 性格違うの 分からない?」と 云ってきた事があって、ハ!とした事があるのです。
、彼女の 分析が 本当なのか?わからないけど、彼女は、 イゼール川沿いの谷に住む 彼氏と、 アルク川沿いに 住む、彼氏と 付き合った事があった彼女だったのだ。

フランス人の付き合いは、友達が友達を呼ぶ、、という広がりのある 付き合い方が 普通なので、だいたい、その人の周りに集まる(引き寄せられる) 友人達、その家族の 考え方というが、 一人付き合うと、その人が生きている 周りの人間環境が、どうしても 観得る。現象学という 客観意識は、彼らの人間関係造りに 根ざしているのだと思う。

彼女は、 ARC川沿いに住む、男性には、マッチョが 多いと思う、話してきた。
地形的にいうと、イタリアとの 国境に流れている、 ARC川の方だから?つまり、キリスト教の 色が濃くなる 宗教心が強くなる地域なのか?という話をした事があった。谷とその 谷に流れる川、、その川に つけられる 音素は、無関係に つけられているとはとても思えない。

日本にも、 風水は、 山と谷と結界を 見ながら、 龍脈の流れを見て、波動の低い場所、高い場所を観るらしいけど、それに 似ている。

2011年に話しは戻すと、、たとえば、2011年に生じた 中東諸国に次々、クーデターの火が起こったのに フランス革命を起す、なんらかの 外側に向かう、人間を力で管理しようという動きに 反発する 人間側の怒りが 爆発するという事に類似していると思う。少数の支配者側と、多数のレジスタントの存在の 均衡が 崩れたのだ。

しかし、 このような 状態に ちかじか なりますよ!という 、、兆候を感じるのは、いつの時代も、 感性の鋭い人達である事。

感性の 鈍い人達は、何故か?唯物論者であって、目の前の 数字や、 地図を 目の前にして、 苦虫を潰している、、という 政府人は どの時代も 同じような人達が、 国を 管理すようと 思うらしいし、 国民も そういう人達に 委ねてしまうという依存関係ばかりを 求めているらしい。

先に 生じる事を、観じられない、、
このままいったら、存在出来なくなるでしょう?
という 感覚が、何故?
持てないのか?
例えば
終戦の時期、イタリア、ドイツが5月に 終戦を迎えたのに「、まだまだ、日本はいける」、、と思ったのか? 戦況はますます、悪化しているのに、 見て見ないようにする、信じたくないから、業と、考えないようにする。

物事を真正面から、 観る事の 勇気が ないんだと思う。

わずかな、希望に しがみつく、、しかし、その間、戦場に 出されて 戦う 日本兵はドンドン、命を失っている、、という 状況は 心にもしない。<考えない。他者不在>

ただただ、 日本は 勝ちたい、みっともない負け方はしまい、というなんだか、 自己満足を 得る為にしか、考えられないのでしょう。<他者不在>
そして、挙句の果てに、
「原爆を 落下したのは、アメリカだから、アメリカが悪い」、、と 敵対心を 向けてしまう、実際、今でも、そのような言説をコミュで放つ人が存在するんです。
その感情は何処からくるのでしょうか?

書き込みしていると、そのような話に 対話者とするような関係を結ばないとならなくなるのですよね。
議論に勝つとか 議論に負ける、、とか議論まで、勝負の世界と同じレベルに 考えている人達が多いのですね。

哲学の 構造主義、、言語=思考なんです。

話す言語の 限界は、思考の 限界、、と言ったのは、 あの ヴィトゲンですが、、
本当に、そう思うのですね。

それで、話しを当事の議論に戻すと、本当は
同じ、敗戦国という立場からいったら、イタリアやドイツは、 原爆投下という 悲劇的な 体験をせず、先に終戦を迎えた 国も 存在するという事、、という事は 云わずにいたら、

なにしろ、 原爆被害意識を過剰に 呼応させられていますから、、、その事だけしか 見えないらしいんですね。

つまりね、それに 至るまでの、途上はどのような 展開の仕方だったのか?という事は、読もうとせず、「 世界でたった 一つの 被爆国なんです。 日本にこれだけ、被爆者を だしたのは、 アメリカの 責任です、、」と、こぶしを、挙げて<結果しかみない、それに至るモロモロの因果関係を 考えようとしない>、それに続く、「 そうだ!、そうだ!」
扇動運動に簡単に なびいてしまう、情動呼応なにやぶし、ウルウルの人達が、後に続くのですよね?

あのね? 尖閣に 他者が 呼応するのも、 類似の このような 感情なんでしょうか?と思うのですよ。受動態意識は 簡単に 被害者意識に 塗り替えられて しまうんです。
ですから、無我なんて云っていては、いけないんです。それこそ、ひとり、ひとり、 精神高揚、高次の世界へと、次元をあげないと、いつまでも、次元の低い 争い事に巻き込まれる。日本人は、出来るでしょう?これだけ、古い歴史があるのですから、、次元を上げる、他者達の 心の様子が感じ取れるはずだと思うのですね。いつまでも、一方通行の 自己保存ばかりの言説を述べるばかりに、一生懸命になるのではなく、普遍性は、そのような 途上で、対峙世界の争い上にあるとは思えません。

いつも、思うのだけど、 自他が、対峙している世界観つくりにあっては、 自滅的な 途上に向かって、存在しているように 思えてしょうがない。何故なら、他者を排除したり排他する事は、外側からみれば、自分自身に 批判や 攻劇の矢を向けているように 観得るのですよね。

自殺と他殺は、同一人物に 生じる裏返しの 行為であると、精神分析では言われる所以でしょう。だからと云って、好きになれない、嫌いな 人と 無理に 付き合う事はないと思う


つまり、 和と 調和とという結果ばかりに、迎合<目的に不自然に執着する>事ばかりが、善の意識と思い込む、、という 既成のお仕着せ 倫理や 道徳感で、 人々の 心を縛り、管理する 指導者や 宗教人の 倫理道徳は、 普遍性がないと思う。

人間の 心は、そんなに、簡単な既成道徳感で、平和とか 幸せとか、得られるとは考え難い。

もっと、自分自身が、色々な 人間関係を 体験し、 人々との心の対話をしない限り、いつまでも、難しい、経典や、偉人さんの格言ばかり述べる事しかなくなると思う。

他者達との、心の会話や対話による、実践や体験が 不足すれば、他者の 心に届く、言葉は放てない。いつまでも、頭に 記憶させた知識や 認識ばかりを、上滑りの言葉ばかり、もっともらしく、放っても、馬の 耳に念仏でしょう。

しかも いつも 断定的な表現しか出来ない、、というのは、 どうして?と思う、コレだけ日本文学や芸術は、あちこち簡単に触れる事が出来るのに、詩や ポエムとか 川柳でもいいし、もう少し、そのような 文学的な表現力が身につかないで、どうしていつも、 人と話すのに、 断定的に 上からお仕着せのような 現われ方で、関係結ぼうとするんでしょうか?という人が本当に多いけど、なにかの 過去世に支配されているというか、魂、乗っ取られているんでしょうかね?と、

、あまりの不自然さ首をかしげます。「大丈夫? この人」的に、 感じてしまうというか、、
それで、哲学 話すと、 やはり、その人は大丈夫じゃないんですよ。



明らかに、普遍性が見えない、途上を歩いているのが見えるんです。

どんどん、孤立していくというか、形而上世界でも 引き寄せが生じないというか、 誰からも、求められない、愛されない、、という存在の仕方をしてはいけないのに、、、それで、「あぁぁ、、心の病かな?」という 事も 推測出来る、一貫性の 見えない 言説を返答してくる。

哲学は、 まず自我(自分)、、そして一貫性が 底辺にある事、心や魂 の 存在を 思惟といってもいいですけど、、そのような全体像があるのですよね。まず、それを察知する事の出来る事。右派だとか左派だとか、仏教徒だとか、 イスラム教徒だとか、ユダヤ教徒だから、とか、、そういう 事の 以前の段階で人間陶治と 人間的な 感情を育む事が出来る事、この二つの意識は大事に思えます。。
十の事に関しては、もう少し 煮詰めます。





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