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続 哲学〜真理〜探求について

続 哲学〜真理〜探求について>掲示板

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2011年11月26日 07時30分51秒

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    めるろ〜さん

    表題の通りです。

    時々、思い出したら このスレッドに書き込みますね。

    何もしてあげられなかっためるろ〜さんへの気持ちだけですが

    さっき、パソコン開けたら、昔の書き込みが保存されてあったのを見つけたので

    「なんでしょう?」

    めるろ〜さんが、書き込んで欲しいと思ってらっしゃったのかしら?



    感想文『仏説 摩訶般若波羅密多 心経

    From: めるろ〜001


    以下感想文です。
    「仏説」と書いてある。仏様の言葉であるということですね。
    『般若心経』は小本(組み立てが小さいということ)であり、
    『大般若波羅密多経』大本の要約であるという。(異説あり)
    僕は、この発想にちょっと疑問である。
    詩歌と小説が同じもの同じ対象を書いたとして、小説の方が多くを語れるかというとそうではない。
    浮かべる場景は、詩歌の方が多い場合だってある。
    問題は、<文字の表現の先の場景>の話であって、
    小説はつらつらと読めるが、場景は多いというものではない。
    漢検で、清水寺のご住職が一文字を書くのが恒例となっていたが、
    あの一文字で、一年を語ろうというものなんですね。
    その一文字の広がりが多種多様で、観ずる者によって、
    感情も加わるでしょう。

    宮坂氏が語っておられるのですが、大本に無くて小本にある文字もあるのですね。<表現という場景>のことなんですが、
    小本である『般若心経』を繰り返し読めば浮かぶ情景は、
    小説のように大本だと通り過ぎてしまうものなんでしょう。

    で、「仏説」に戻りますが、仏様の説ということはいえるのか?
    ということですね。
    上座部仏教にしても大乗仏教にしても、仏様の説いた、
    一切皆苦、八正道、四諦、涅槃、戒律などを継承していれば、
    仏説と呼べると思います。
    「結集」による<仏説の継承>があって、早くて仏滅100年後に
    申し合わせ(照合)があったのですね。
    ということは、現在のようにレコーダーも無ければ、文字に残すこともしなかった「仏説」は、何かの象徴的な要素を含めば、
    「仏説」と呼べるモノになってしまったのですね。
    それが、一切皆苦であり、八正道であり、四諦であり、涅槃である。(と思われます。)

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コメント: 全24件

from: 沙羅(Sarah)さん

2012年05月30日 17時29分36秒

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「Re:めるろ〜さん」
死者が、自分の記念日<日本語では、命日と呼ばれる日>になんらかの、マニフェスタシヨン<恣意運動、表明、デモ>をする事は、別に珍しくないのですね。気がつかない人、沢山いるようですけど、、、例えば、その日に限って、倉庫に ある探し物をする、、同時に、こんなところに 何故?こんなモノがおいてあるのだろう?、、と、気がつかせる、家族の 行為により、出てくる何かがあるとします。


抽象的な表現だけど、、
その 出てきた あるモノを、見て、家族が、それは、「20年前くらいに、何処そこに行った時、何とかさんに もらったものじゃない?」という 家族の一人が思い出す。

そして、よくよく考えたら、その20年前に 逢った その人の命日が、その日<突然、倉庫で見つけたモノ>であったりする、、、というような事を 思い出す、、、
という途上なんですね。

こういう事は、よくあります。死者というのは、忘れかけられると、そのような存在の仕方をするらしいのですね。

つまり、人間の行為の中に、直接目的<何かを探さないとならないと思わせられる>があり、行動に至るんですね。つまり、顕在意識です。

しかし〜、、、そのような目的には、真実は見えないのですよね?
義務だとか、責任とか、誰かに 知らせないとならないとか、、
形而上世界では、どうでも良い理由と云ってはなんですが、、、、直接目的として、人間に行動させているみたいですよ。

また、世俗倫理も、
「あの人は、大変多忙な人」という判断がされる人って、、
多忙に見える、、、、あちこち、移動し仕事をしている姿を見せられる 。
世間の人も、忙しく動く人、働く人、頑張っている人に、一目置きたがる。
つまり、真面目に、働いている という イメージは、善人のイメージとして社会を成す俗世界に固定化しだす。

だから、働かないで、何もしないで、家に いるように見える人は、心の気にしろ 病気でなくても、、なんとなく、社会に 心の居場所が見つからないから、ますます、社会の人達から避けたくなるのである
。そのような 家族の一員を 抱えている家族は沢山いるでしょう?でも、健康な家族の 道徳、倫理を象る価値観が、そのような 表象に見える、行動のみ、、に価値観置いているのですから、

自分、あるいは家族が、ニートのような生活を強いられるのは、本人も家族も、同じ価値観で、世間の目を気にしなければならなくなる、、という苦痛を 体験させられるでしょう?

結局、心 を 観る、、、という事をしてこなかった つけが回りまわっているのではないですか?

それでも、自分自身を観る事しないから、いつも、自分は外的要因によって、苦しまされているのだ、、と、全て自分以外に原因があると思い込んでいる。


景気が低迷で回復しない、、とか、会社が解雇に踏み切る、悪条件の 転勤を強いられる、子供の犯行、自然災害、離婚、、次々に 自分が描いた、幸福な生活や幸せな人生とはほぼ 遠い、 地点で、人生を歩んでいるように 思わされているようなのですね。

このような、書き込みサイトにコメントしたり、何処かの、哲学サイトや、信教サイトに 書き込みして、心の 会話をしたい、、と思っても、、実は、何も もたらさないのである。

記号を介して、コミュニケートしても、何も自分の生活は 変わらないでしょう?
何故なら、全て受動態意識で、 コピペ行為を繰り返している行為には、何も もたらさない。せいぜい、一時の、退屈しのぎに、つき合わされ同士達の、其の時だけの自己満足 感情吐露、、といった、行動から抜けないのですね。

ただ、、それでも、此処、7,8年の書き込み行為を介して、、あれ?と思わせる出会いは、ありました。

そのような人達との対話形式は、文章全体把握のみの対話に限られましたね。
ま、めるろ〜さんもその方のお一人なんですが、まさか?、このような形でお亡くなりとは思っていませんでした。

しかも、最後の出会いは、2010年、10月の、大覚寺の写経という行為が 最後なんですよね。

「何故?2010年に写経しなければならないのですか?」、、、、とは、時間途上では 聞かないけど、、


「沙羅ちゃん、大覚寺で、写経しませんか?」と、2010年に突然提案してくる めるろ〜さんなのです。


どこか?訪ねようという気持ち、発心の気持ちね どこかで落ちあわせするとなると、京都、大阪、奈良地方は、、いくらでも、神域の宝庫なのであるのですが、、、。
ところが、、2010年は、いきなり、 写経 だった。


しかもお互いが、写経 をした経験がないときている。

写経するには、 まず 「日本語が書けなければ、ならない」

日本語を読める

日本語が理解出来る、、
という事と、
日本語が 書ける、、
という事は別の事である。

そんな事、ある訳ないと思っている人は、すでに、かなりお思い込み、自民族中心主義、ヱテュノサンとリズム」の 色眼鏡を 知らない間にかけて物事を観てしまって判断していると思った方がいいのです。

「沙羅さん?般若心経読めるでしょ?ソラで 読めるじゃないですか?」だから、 写経できるでしょ?

という 質問があるかも知れないけど、

般若心経の、お経が書かれている、横には、ひらがなの読み方が書いてあるのです。

ひらがなの 音素が 記載されているから、声にだして 読めるのと、
般若心経を、 筆で 書くという 行為は 違うと思う。

そう、説明すると、今度は、

「いや、沙羅さん、、写経は、般若心経の 上を なぞって、書くだけです、別に 般若心経、知らなくても、写経できるんですよ」、、、と、ほぼ、こちらが危惧する返事が返ってくる。

そんな事は、知っている。
そういう問題ではない、、、、と 思うけど、もちろん、言わない。

つまり、話そうとする次元が違う、、という表現しかないのですよね。

写経をする、、、、という意識と
般若心経の上を なぞる、、という意識は、違う

めるろ〜さんは、そんな野暮な会話を、わたしとしようとは 思わない方なのは、分かるのですが、
それでも、突然の 写経の提案 は やはり驚いたのです。

そして、2010年は写経をしたのです、、そしてその行為が、最後の私たちの出会いになってしまったのだ。

もし?
写経するのは、嫌だ!とわたしが 無理に反対したら???

まだ、生きていらしたかしら?と思ったりする。

いや、、そうではない、、そのように 導かれる運命だったらしい、、、
めるろ〜さんの命日は、7月8日なのですが、

フランス時刻だと、7月7日になるのです。

去年10月帰国した時、実は、神護寺にも一度、行こうか?
と思った、2009年にめるろ〜さんと訪ねていて、2009年7月7日の書き込みが、以下のように、神護寺の話題なのだ。

私が、朱印帳を持って、お寺参りし、めるろ〜さんにも、朱印帳の朱印を 見せて、
色々、その時の 神社やお寺での 出来事を説明した。

その時の、体験が、めるろ〜さんに、 「僕も、朱印帳 もとうかな〜』と発心させているのが、書かれている、実際、2010年大覚寺に行った時、紺色の朱印張を、わたしと一緒に窓口に お願いされたので、

「あぁぁ、、ほんとに、朱印張購入されたのね?」と、一年以上前の 以下の書き込みの 内容の記憶がよみがえったのだ。

ただ、2009年の7月7日に 記した書き込みの内容は、、2011年、2年後の 命日に中る日に生じる、意味を、読み取る事が出来るかは、私自身の 心に かかっていると思う。

つまり、哲学で言われる、存在させる、、、と言う意味を、 実践できるか?出来ないか?という事だと思う。

死が、そこで、何もかも、終わってしまった、、と思い込んで、命日になると、機械的にお墓参りしたり、習慣化した行為を繰り返すという事ではなく、 死者達を存在させるという 行為は、生者達も存在させるという事に繋がるのでしょう。

この世で、普遍性を持つ存在である、、、という事は、そのような魂の 希求運動に コミットする事だとおもう。

しかもどの 層で、誰とでも、コミットすればいい、、という事ではなく、ちゃんと、高次の世界での、コミュニケーションだと思う。

霊感があれば、何処にでも どの人とでも、チャネリングすればいいという問題ではないでしょう。

憑依と、チャネリングが曖昧な 行為の人達も そのうち、自然淘汰ではないですかね、
これだけ、訳のわからない、霊感商法や、

又 見かけ知識人や教育人のようですが、

明らかに、よくない
低次の 層での、呼応運動を、影響させて、マイノリティーの 人達と魂の引き合いをしているような、サイトやブログもかなりありますが、、、ネットって、簡単に誰でもコミュニケート出来るけど、ちゃんと、付き合う相手を 選んでコミュニケート取って下さいね。


知識豊富とか難しい言語を並べるだけの サイトやブログの内容や書き込み仲間と 呼応するのではなく、正直、精神や心を病む人が多い社会になるという事は、そのような人達は簡単に接する事が出来る、、という事なんですね。哲学では、困るのは、日常生活の 普通人との会話のコミュニケートレベルでコミュニケートが出来なくて、いきなり 形而上世界でスパークされて、形而下の世界の 常人に 無理やり、分らせようと、している人、、、結構いますが、、

コミュニケート能力不足ですと思います、

誰かさんと、恋愛でも、して 心を 伝える事した経験すり、実践重要に思えます。恋愛経験なくして、肉体と心模様の経験を他者となくて、どうして、この世の性的関係のしがらみを 話せるのでしょうか?
きれい事ばかりでは、もう世俗人は、誰も信じないと思うのですね。教義ばかりでは、実践にならないと思うのです。それとも、そのような形で、この世に普遍化させてみたいという、結局、、欲、、ですかね?

、、形而上世界の コミュニケートは出来ていないでしょう???

空 の、 手応えを、 感じられないのでしょう?

他者不在でしょう???

そのような事に繫がるから、他者の存在は、大変重要なんですね。

別に、他者の存在を語るのは、大乗仏教だから、、大乗がどうの、、、という事ではなく、
暗中模索していたら、、他者が自分を理解するのに、必要な存在であった、、、だから、大乗なのね?という 途上での、経験における、整理整頓しているだけでしょう。

最初から、大乗を 提示して、水戸黄門のもつ印籠みたいに 可かげているのではないでしょう、、と思うのですね。どうも、紋きり型表現ばかりする人というのは、時間の断面しか理解できない 自個過剰投影する人が増えましたね、現象学も分かってないんでしょうね。

ま、それはよいのだけど、、


心 の 高さ を 観る事です。心 です。

普遍性は、いくら知識があっても 浸透しないんです。有名な、なんとかとか、本をいっぱい出してる、、なんとかサンだとか、、そのような 唯物的に知覚できる世界ではないのですね。


普遍性は、形而上世界との 何らかの合意でしょう、形而上でも、 魔や 悪の 意識は 存在するでしょう。

知らない間に、無意識分野に 入り込むのですから、、そして、そのような本心を隠さないとならなくなるから、表象に見える行為では、偽善行為に徹しながら、真面目な人だと、社会の判断を得たくて、、平衡感覚持とうと、無意識と 意識の 間に存在しようとしているみたいですよ。

ですから、江原浩之など、「政治家、宗教人、教育人、地獄とされてる幽界の 世界に沢山いるんです。」

なんて、言ってはいけない事、言っちゃうから、バッシングされるのでしょうね。でも、観えるもの、感じるもの、そのまま言ってはいけない世界に 生きてるのは、ホント、大変ですね。


でも、同じ 幽界にいるのが 観得てしまう人が同じ人達だったりするのが観える 感性が鋭い人達とのコミュニケートもあるんでしょう、、と思います。

これからは、そういう人達のコミュニケートが 増えると思うのですね。存在しようと、するという事は、存在しようとする、どの場でも変化するという能動意識なのでしょう、

時間を後ろから追って、存在しようとしている事ではないんですよね。時間の前、超越 レヴィナスの

Transcendance トランスサンダンス
この超越という 意味の アルファベットは、
先祖という意味の単語の 相対なんですね。

家系は
Ascendance アスサンダンス

ですから、超越の Transcendance トランスサンダンス
と音素は似てるでしょ?

ですから、過去に探しにいくのも、
未来に探しにいくのも、同じですよ、、
方向だけが、違うのです、、という表現になるのは、そのような事なんです。

日本語の漢字表記だと意味が見えませんけど、
これは、漢字表記の 講造世界で、人間がコミュニケートしているという事なので、何もコミュニケート自体には、真理は 観得ないと思います。この事を理解するのは、哲学の分野しかないと思いますね。
2009年7月7日の 書き込み、再度あげます
==============================

From: めるろ〜001
沙羅ちゃん

>
> めるろ〜さんとご一緒したのは、今回東寺と、神護寺ですから、
>
> 神誤寺に行きたいと思ったのは、虚空蔵菩薩が5体あるあの鍵が閉ってた場所なんですけどね、、、
>
> いつ公開するんでしょうか?
>

公開は何時するんでしょうね。
愛想の悪いお坊さんに聞いて見ます。
写真は撮れませんよ。。。

僕も御朱印帳を持とうかな。
東寺の朱印を見てそう思いました。
あれは立派ですね。立派というと失礼かもしれませんが、
あの方がいないとあの朱印が実現しないんですし、
不思議ですね。

あの朱印は、『般若心経』に勝るとも劣らない朱印でござりました。



• 2009.07.07 13:33:09
[343] :Re:Re:Re:感想文『仏説 摩訶般若波羅密多 心経』 >> 返信元メッセージを表示

From: めるろ〜001
少し開眼した。
よく文章が浮かぶということです。

先達との訳の違いが出てきました。
浮かぶ像が若干違うのですね。

空海の短い文章に苦労されて居られる方もいらっしゃいますが、
少し抜け出たように思います。


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from: 沙羅(Sarah)さん

2012年05月29日 06時58分52秒

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「Re:Re:Re:めるろ〜さん」
今、23時 30分過ぎているので、もう寝ようかと思ったけど、、今日は、大変勘が働くのだ。ソレも、当たり前なので、昨日、今日と、書き込みの数が多いのは、

キリスト教国は、Pentecote 聖霊降臨の主日で、祭日です。ペンタコステとか五旬祭と呼ばれます。

高次元での コミットにチャネリングしやすい人は、 時間超越の メッセージが 降り易いのは、体感出来ると思うし、不思議な事も生じやすいと思う。という事で、最後、

空海さんとめるろ〜さんとの不思議な話し

わたしの、めるろ〜さんとの最後の 会話、

2011年7月5日で、終わっている、、と書きましたね。めるろ〜さんは、真言宗、未決文、会津の徳一菩薩との 問題疑、東寺の官庁さんが書かれている十疑を探さないといけないらしい、、

前身、哲学〜真理〜探求の サイトに書かれてあります。、

2011年7月5日に 何を書いているのか?

というと、又、再度ミカエル大天使の写真を貼っているんですね。

同日に 書き込みした内容は、めるろ〜さんの書き込みの内容とは違うのだけど、、、
どちらにしても、はった、モンサンミッシェルの 写真のUPした

日付は、2011年4月22日に、UP していたらしいんですね。

そのミカエル大天使の 写真を、めるろ〜さんが、見たであろう、、
いや観るであろう、、、という、超越のなんらの暗示が隠されているでしょう。

何故なら、このミカエル大天使のUP した4月22日は、空海さんの命日に中るのですね;

そして、キリスト教の復活日は、月の満月を計算しますから毎年移動記念日で、違うのですよね。でも、2011年の 4月22日は、キリストの命日と重なった、珍しい年なんですね。

2011年に、何も起こらない年ではあり得ませんね。でもその分、存在、再生能力が高まるはずですね、、

愛 の 意識が、ダイナミズム化すれば、、

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from: 沙羅(Sarah)さん

2012年05月28日 22時50分37秒

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「Re:Re:めるろ〜さん」
MSG700
の続き、、、

東北地震が生じ、福島の 原発が、大問題を起こしたのですよね・

仙台には、原発があるんです。震源地にちかい原発は、福島の ように事故に繫がらなかった。

こういう事不思議に思いませんか?

福島は、会津藩、、 津波の津がつきますし、、初代の会津藩主は、

あの 保科でしょう?

保科正之といったら、、 徳川秀忠が父親でしょう。長女に、あの千姫がいますし、千姫は、 家康の大の お気に入りの孫だったのでしょう。

豊臣、徳川幕府、、転覆劇を演じた、立役者でしょう。

その千姫の 命日が、1666年3月11日ですから、、

6の数字がこれだけ並ぶのですよね。

千姫の記事は、4,5年前に随分、このコミュで UPしましたから、覚えているのですよね。

島津と津軽 が 卍と十字で呼応しているように 感じるといったのも、

この 津 という音素なんですが、、

会津藩の保品正之が祭られている、土津神社、、猪苗代に近いけど、

一度、青森に移転させられていますね。

徳一菩薩が、この会津出身の菩薩なのは 認識していましたが、

空海との「真言宗未決文」、これは、空海の世界、即身成仏に、「マッタ!」とかけた、徳一菩薩に、 空海は、 沈黙、、という 態度でしか、 存在出来なかった、

ま、そういう事w、3,4年前UPして書いたのですが、、

どうして、めるろ〜さんは、亡くなる数週間前に突然、

又、会津の徳一菩薩なんでしょう、、と思っていたのですね。


============================

慶応4年(1868年)の戊辰戦争時、母成峠の戦いで会津藩が敗れた後、猪苗代城代高橋権大夫の命で土津神社には火が放たれ、全焼してしまった。その後、会津藩が斗南藩(現・青森県下北半島)に移封されると、土津神社の御神体も斗南藩に遷された。明治4年(1871年)の廃藩置県によって斗南藩が廃されると、御神体は猪苗代へ戻り、磐椅神社に祀られた。この後、明治7年(1874年)から土津神社の再建が始まり、同13年に完成し、御神体が遷されて現在に至っている。

==================================

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from: 沙羅(Sarah)さん

2012年05月28日 22時15分14秒

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「Re:Re:Re:めるろ〜さん」
MSG704

の続き、

この 青龍、、気に入っているんですね。

空海さん重なっていますものね。

長安に、 遣唐使として、導かれた、空海さん。密教を恵果和尚の手ほどきを受け短期間で、正当伝道者として、引導を渡される。20年の留学予定が、2年で、帰国。そのお寺が

長安の 青龍寺、、、

創建当時の 名前は、、霊感寺 そして、観音寺、、そして 青龍寺です。

密教の宇宙観は、 霊感なくては、体験や体感は無理ではないか?と思う。

お寺の名前からして、頷ける。 青龍寺なのです。

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from: 沙羅(Sarah)さん

2012年05月28日 21時42分09秒

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「Re:Re:めるろ〜さん」
実は、昨日MSG700に、めるろ〜さんとの最後の会話となった、2011年7月5日の書き込みと貼ったミカエル大天使の写真について、気がついた事があったのだ。


それは別の機会にして、少しミカエル大天使の事、、、
日本人にフランスの行きたい場所、訪ねたい場所の一つに必ず、あげられる モン、サン、ミシェル、、、、という観光名所があります。でも、観光名所という呼び方で呼ぶには相応しくないのですよね。


でも、
あんなに、狭い島なのに、すごい観光客の数ですね。そうなんですねぇぇ、、
聖域の場所には、島と呼ばれる場所や島自身が多いのですね。島と書くと、日本語では、島の意味を成しますけど、フランス語で、島 ile イル という音素で放っても、実際に見ると島では ない事よくありますね。

Ile de France イル デゥ フランス フランスの島、、と放っても、「フランスは大陸でしょう?島国じゃない!」などと、頓珍漢な反応されると、ドテッと、こけてしまうでしょうね?


Ile de France フランスの島という意味はパリの意味ですね。抽象単語と抽象表現で 述べたい事を 述べたい意味を通時態で、コミュニケートを取って行く、、実践が、生きた言語なのだと思うのですね。

という事で、SHIMAという音素の意味には、細心の注意を 日本語でもはらう事にしました。音素って、大事なんですね?書くより本当に大事です。

ですから、アルファベットを読んでいても、心の中で発音していませんか?実際に 声を出さなくても、心の中<実際頭脳でしょうけど>で放っているのを、あの世の人達の 心は 、キャッチしているのではないですか?
心を観る という事はそのような事ではないかと思うのですね?

観音菩薩という名前は、字を読むであったり、声を 聴くという表面上誰でも、分かる行為をさしているのではなく、「音を観る という 」 という 漢字 を 当てはめなければ、ならなかったのでしょう? その意味するところは?という地点にまで、深く、掘下げないと ならないのではなでしょうか?
音、、、という意味、、、記号や字ではなく、「音」 です・

それで、モン、サン、ミッシェルは、いつも
ごった返していますね。でも 普遍性があるから仕方ありません。
今、モン、サン、ミッシェルは、アクセスの仕方の大工事をしているのですね。

モン、サン、ミッシェルは、 本とは、オムレツを食べる場所ではないのですね。起源は、708年1300年くらい前にのぼります。


708年10月16日に、大天使ミカエルがオベール神父の前に現れ、、、「此処に、僧院を建てなさい!」
と現れたのですね。

このような 話を聞いても、観光客は、だれでも、その地方の民話とか神話とか、伝説とか、実際にある訳ないじゃん!という感覚で聞いていますね。世界の神域という場所に伝わる話は「何故?、其の場所なのでしょう?」
という懐疑意識がないので、 聞いても、右から左の耳に 聞き流して観光していますね。

外国だけでなく、自国の 神域に伝わる 縁起もすべて、「そんな非科学的な事ある訳ないじゃん」という判断のもとに、フンフン、、まじめな顔しながら、入場料を支払った時に頂く、しおりなど読んでいますね。それで、すぐ忘れますね。

それでもって、日本に帰って、何処かの宗派の檀家さんであるから、外国お土産のワインなど、持ってご住職のご機嫌をとりに伺う事を、子供達は 冷めた目で、何も言わず 観ていますね。

親子関係の質も、すべてそのような日常茶飯事の 行為を 見透かされているでしょう。

子供というのは、心が純粋ですから、そのような事も全てインプットしてあって、何十年か後にも、親の前で、ポロっと述べますね。親は既に、忘れていますから、ドキっ!としながら、「嘘つくな!」とか、その場を取り繕う事に一生懸命でしょう。

ま!そういう日常茶飯事の親子ドラマも、観得る人には観得るでしょう?
何十年か後に、会社が 傾きかけて、どうしようか?
決断を迫られている時、会社が傾いた理由は、景気がよくない、、とか、取引先が倒産したとか、銀行が、取り立てを急いだ、、とか、 そのような理由でしか、原因は分からないけど、、実際は、そのような、状況に追い込んだ、それまでの沢山の 因果関係、家族、従業員、親戚全ての人々達との心の接し方に、現れて影響しているのではないですか?


人間的な 接し方が出来ない、早急にジャッジや判断をくださないと、やっていけない、、というような人間が、モノ扱いとされだす。
例えばです。

ある未成年が、高級食品店の、高級メロンを盗んだりするとするでしょう?
盗みという行為に、大衆は過剰反応するのですよね?

そしてそのある未成年が住む家は、貧困で苦しい毎日を送っているとします。


悪の行為と、判断する事で、感情吐露の 対象を簡単に見つけられる事、吐き出す、(盗みはいけない、、と決め付けられて判断しやすいのでしょうね)大衆の判断の目、視線ですね。

その未成年の住む、家に例えば重い病い末期患者さん、母親と住んでいたりして、「あぁぁ、、果汁いっぱいの美味しい夕張メロンが食べたい」などと、一人言を聞いてしまった子供の 行為だった、、、という事もあるでしょう?

あまり現実的でない犯行かもしれないけど、、それでも其の家族、年老いた家族に美味しいもの、食べさせてあげたい、、という気持ちは、人間の優しさでしょう?

優しさが育たなくなるまで、社会が何から何まで、個々人の悪の物差しを 乱用しだす、悪用ではなく、乱用です。

ABUSERです。善行為<悪を失くす>と称して、全て 伐採しだす。、、という次元の低い熟考せずの野蛮行為に至る事を、乱用という言葉が放たれるのですね。
結果行為そのものに、何でも、良し悪しの ジャッジが適用されるのでしょうか?
善悪の判断というのは、そのような、人間社会においては、大変難しい次元の 事ではないですか?大勢の 情動判断に任せておけばいい、という問題でないと思うのですね。

他者への優しい心が 育ちにくい社会は 不健康な社会に思えますけど、違いますか?

いじめの問題が生じた社会的気質の問題は何処にあるのですか?、簡単に パソコンのゲーム感覚で、 気にくわないモノ(人間 ?)を、消したり、排除したりするゲーム感覚のように、悔悛や自責の念など生まない動物行為と同じ次元に成り下がってしまった感覚をもつ それでも 人間を 生む社会は、普通ですか?

いつまで、観たくないものは、観ないようにしながら、避けて生きようとしているのでしょうか?と思うのですね。ちゃんとまっすぐ、人間と接する 心の問題を見つめる事の出来ない人達がまやかし宗教や信仰や、霊能者の 所に行って話しを聞いてもらう事しか、出来なくなっているんではないでしょうか?

マ、それはいいですけど、、
そのような時間のワンクッション置く心の余裕を持たず、何から、何まで、感受した時のドタバタ情動劇とジャッジの権利を持たされていない、人間が、お互いを判断しあって、傷ついているのですよね?

そのような 人々の 心模様の世界、感じられませんか? 総体を観る、全体を観る、、と感覚です。現象学の意識なんですね。

何処かの、サミット参加する先進諸国の庶民が利用する 鉄道車両 には、 時々、女性専用の 車両が ある。なんでも、そのような女性専用車両を作って、女性を 暴力や、性的犯罪から守らないとならないらしい???????

この現象、、、普通の事でしょうか?

そこまで、女性が 他者扱いされてしまうのは、性差を ますます 違う他者として 接しなければ、ならなくなった。つまり、他者が 分らない存在なんでしょう?
他者が分らなければ、当然、他者を求めるでしょう?
何故なら、自他共存が自分を成す世界なら、態々 求めなくていいのですから、、

完全な共存球体に ならないと、いけないのに、異性が欠けているから、求めたくなるのでしょう?

最初から 他者 共存なら、わざわざ、求めないでしょう?

寂しいという 心の感情は、ラテン語系は、 欠けている、、というアルファベットの単語で現しませんか?

執着するのがいけないとか煩悩が
人を苦しめる、、と何でも、自分で自分を制裁する事ばかりに、一生懸命、相手を批判しているのではなく、

その相手こそ、昔の 自分自身の一部なんでは、ないですか?

ですから、目の前に 現れるのではないでしょうかね?


ま!それは良いですが、、、モン、サン、ミッシェルは、「観光客は、どうしても、モン、サン、ミッシェルに行きたいのなら、後は、自分の足で昔の人みたいに、歩いて行きなさい!神域なのだから、それくらいの覚悟で行きなさい」という事らしい。

今まで、モンサンミッシェル島のパーキングに駐車できた自動車もバスも、5,6キロ手前で、通行止めになったんですね。環境破壊につながるので、車の乗り入れは規制され、あとは、路線バスが運行するらしい。


そうなると、ブーイングがでるのは、まず忙しい日本人観光客と、その観光客を相手に、モン、サン、ミッシェルオムレツ作ってた地元の、人達ですね。

ううううう〜ん、、聞いてて、疲れる問題だ!
もう、神域を 観光目的として商売で儲けさせて維持させてきた人達への 怒りでしょうかね?

ミカエル大天使が怒ると怖そうですね。ま、楽して、神域場所に 行って、オムレツ食べようなんて人達の煩悩に、正義の刀が振り落とされるのかも知れませんね。

ところで、旧約聖書のミカエル大天使の役目は、

PSYCHOPOMPEプシコポンプ
PSYCHOプシコは、心理、精神、心
POMPEポンプは、ギリシャ語に、POMPATIO送る、導く、引導する
という意味の単語がありますから、PSYCHOPOMPEという意味は、死者の魂(心)を冥界に導くという意味です。

其の前に、魂を量る、Pese les ames 役目をしますから、ミカエル大天使の秤が、裁判所のロゴ、秤になっているのですね。

つまり善悪を 量る。バランスの上に魂(心)を置く、善悪の裁断(判断)は、人間の 権利(判断)ではなく、神の権利の範疇ですね。

月まで行けるロケット飛ばしたり、宇宙船とばせる人間になっても、変わりませんね。

ミカエル大天使は、心を量るので、知識や認識力を測っているのではないですね。

言葉の意味の重さを感じない、人間になると、大変ですね。

知識も知能も、霊感も、何でも、天使の中で最高の力で、世を見渡せる、最高の位に位置していた熾天使、ルシファーは、何でも、出来ると思ってしまったらしい、、 天使番付表の 一番上に 君臨し存在していた、ルシファー天使は、神のすぐ下にも関わらず、自分の下に位置する天使やその又したの人間界ばかりの阿保さ加減を見ていて、自分は一番偉いと思ってしまうらしい、、、ところが、その、あまりの傲慢さに神の 怒りに触れて、墜天使となって、地球上に 墜ちてしまう、、、、という トンでもない、ドンデン返しが、天空界では 起こるのが 旧約聖書ですね。

その 最高の位の天使ルシファーと、闘うのが、 天使の段階9階級でいうと、下から2番目の位、会社だと、課長クラスですかね?

大天使の位の ミカエルが軍総長となり、天空界の居3分の1の天使達と闘う、天使達の反乱がありますね。

天空での天使反乱軍に向かい、ミカエル大天使を軍総長にして3分の2の天使達は闘うらしいですから、人間界に 何も ない訳がありませんね、
、、
• Saint-Michel :
Michel (ou Michael).
o Michel est un archange, un saint céleste et un saint militaire, chef de la milice céleste et défenseur de l'Eglise. Il combat contre les anges rebelles et contre le dragon de l'Apocalypse. Il est représenté ailé et le plus souvent en tenue de soldat ou de chevalier tenant une lance ou un épée et un bouclier orné d'une croix ; quand il combat le dragon il est à pied ou dans les airs, ses caractéristiques permettent de le différencier de Saint-Georges qui combat le dragon en étant sur un cheval, et il n'est pas ailé.
o Saint-Michel est aussi un psychopompe, il conduit les morts et pèse les âmes le jour du jugement dernier ; il est souvent présenté portant la balance dans les scènes du jugement dernier.
Parmi ses attributs on cite la balance, le dragon et les ailes puis les coquilles, en lien aux pèlerinages à son sanctuaire au Mont St-Michel en France.
o En Europe, le culte de Saint-Michel se développe à partir du Ve et VIe siècles, d'abord en Italie, puis en France, ensuite en Allemagne et sur tout le continent. Ses lieux de culte sont souvent localisés sur les hauteurs comme c'est le cas au Mont Saint-Michel, car il s'agit d'un saint céleste.


• Saint-Michel :
Michel (ou Michael).
o Michel est un archange, un saint céleste et un saint militaire, chef de la milice céleste et défenseur de l'Eglise. Il combat contre les anges rebelles et contre le dragon de l'Apocalypse. Il est représenté ailé et le plus souvent en tenue de soldat ou de chevalier tenant une lance ou un épée et un bouclier orné d'une croix ; quand il combat le dragon il est à pied ou dans les airs, ses caractéristiques permettent de le différencier de Saint-Georges qui combat le dragon en étant sur un cheval, et il n'est pas ailé.
o Saint-Michel est aussi un psychopompe, il conduit les morts et pèse les âmes le jour du jugement dernier ; il est souvent présenté portant la balance dans les scènes du jugement dernier.
Parmi ses attributs on cite la balance, le dragon et les ailes puis les coquilles, en lien aux pèlerinages à son sanctuaire au Mont St-Michel en France.
o En Europe, le culte de Saint-Michel se développe à partir du Ve et VIe siècles, d'abord en Italie, puis en France, ensuite en Allemagne et sur tout le continent. Ses lieux de culte sont souvent localisés sur les hauteurs comme c'est le cas au Mont Saint-Michel, car il s'agit d'un saint céleste.




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from: 沙羅(Sarah)さん

2012年05月28日 05時10分06秒

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「Re:めるろ〜さん」
以下の会話が、2011年7月5日

わたしと、めるろ〜さんの、最後に交した、会話であるのです。

徳一菩薩が、 福島<会津>出身なのは、数年前から認識にあったけど、、

何故?めるろ〜さんが、亡くなる数日前から、どうして、この空海と徳一菩薩の「真言宗末決文」
の話題をあげたのか?よく分らないでいる。

徳一の疑問に対し、空海は、返答せず(返答しない?、返答できない?>、、という形で終わっている。
この話題は、わたしが、3、4年くらい前に あげた話題だったので、徳一菩薩の存在は、比較的記憶に新しかった。

とりあえず、私達は、空海と徳一の 未決文の会話が最後で、プツンと切れてしまったのだ。

めるろ〜さんは、文面からすると、死期が近い事などまったく感じてない。
わたしが、最後、モンサンミッシェル、700年代に出現した、ミカエル大天使の 画を 貼っている行為に出ているとすると、何か感じているのだろう、、と思う。

しかし、、一人言コーナーってホントに一人言なんですねぇ


================================

[469] Re:一人言コーナー >> 返信元メッセージを表示

From: 沙羅


 2ヶ月前に、旧友のKちゃんが、
 わたしに すごく似ている人のサイトがあるから見て!

 と云って、メイルに添付してきた人のサイトは、

 幸福への近道(松原照子) というタイトルのブログだった。

 クリックしても、アクセス過多で、いつもエラーが出るので、

 それについては、何も返事せず、他の話題の返事をしてすましていた。(話す話題は他にいくらでも、あるので、、)

数日後、又Kちゃんは、松原さんのサイト 見た?

 と確認してきたので、

 「なにかなぁぁぁ?どうしてもわたしに読んで欲しい、、という再度の
 呼びかけが、他者から伝わってくるというのは???」

 という捉え方、、つまり、現れ方なんですよね?

 話しは飛びますが

 現れ方という存在の仕方と捉えてもいいです。

 つまり抽象的な捉え方をしないと、その人の現れ方、存在の仕方というのを捉えられないと思うのですね。

 人を感じるのであって、個人<OOOOOO夫とか、OOOOO子>を捉えるという感受の仕方はではないですね?

 反対の捉えかた<感受の仕方>、
対象に意識を、FIX <固執、固定、執着>してしまっているのだと思うのです。

 問題は、この個人に執着の仕方ですよね?

人の現れ方には、抽象的な外延があると思うのですね。その外延を感じる事が重要に思えます。何故ならその外延に他者達との共通の公約数を含んでいるからだと思うのです。


 ですから、戸籍謄本を見るような、個人情報はどうでもいいので、知りたいとも思わないでしょう?というか考えも及ばないと思うのですね。

その外延を捉えようとする、感受の仕方が出来ないと

すぐ個人情報を知りたくなったり、個人情報が気になったり、結局あれでしょう?ゴシップ雑誌のレベルと変わらない次元ではないでしょうか?

その人が、何人で、何処の国の人で、何をしていて、何処の大学でて、どのような職種について、どこ出身で、男か?女か?か、どの信仰を持ってて、両親は何をしていて、、
と、まぁぁ、、本当に、どうでもいい情報に自己投影したがるから、そのような情報があると判断しやすくなり、結局そのような情報を求めてしまい、世間もそのような情報から得る通俗価値観に自己を委ねる、、、という事でしか、、、、反応する事が出来ない、、、

これはすごく 悪循環に思えませんか?

この構造から、抜けましょうよ、他者の判断をしているから、自分も他者の判断におびえてしまうのではないですか?

又ね?

多数決を昔書いた事ありますが、

少数派と多数派 の世間の扱いの仕方が違いますよね?

少数派の価値観に、価値を置くということではなく、
自分自身の 価値や納得できそうな、真理とする外延部分が普遍性をおびる事があるんですよね。

つまり、信仰があるとかないとか、どこの国の人とか、個人情報とは全く関係ない全ての地球上の人間に共通するであろう、、高次の世界を目指すであろう、人間が生かされる、途上においての 他者達との何らかの共感を得た時です。

 そのような、真理に近づく方向に向う人達が放つ、言葉の意味です。

 決して、個人の言葉を、部分で判断しないという、、捉えかた

 意味 において、何らかの外延を摑む、感じる事が出来ると思うのですね。それを、個人、個人の 人生と個人の持つ価値観の共通点や共感を持つ、、という事がコミュニケートではないか?
と思うのですね。





個を対象視 しないと、何も 表現出来ないという悪循環でしょ?

 個の落とした、記号を対象視、しコピペしないと、何も 表現出来ない、、、つまり、自分自身との違い、差を感じる事が出来ないから、

 他の残したトレース<コピー、ペースト>を、追う、、、、という時間を後から 追わないと、何も 放てない。何も書けない、、、という

 呼応の仕方は、健康的な世界観を造るのでしょうか?

 それが いけないとか間違っている、、という事を述べているのではなく、、、、、<何度も述べます>

 世界を自分で感じた時、世界の人達が 存在しようとしている、、
 (存在しているではなく、存在しようとしている、、という途上での、書き込みの地点です)

 バランスを感じる という事が先ず最初であり、そして、重心を観るというのも、自己能力ゆえに思えます。

 先ず、その世界、宇宙を感じる、、、という体感がないと、

 いつも同じ事を、同じ人達と、話すという記号のみの展開で、事態はドンドン 閉鎖的な方向に向うと思うのですね。

 しつこいほど、述べたくなる 普遍、、UNIVERS ユニヴェー
 世界、宇宙、領域、地球 が、最初に 自分の中に自覚がないと、

 複数他者達との広がりのあるコミュニケートの中で、

 自分の存在性は普遍化しないとならないと思うのです。

 心理学的見地から述べれば、

 もし自分という個を、権威的にならず、お仕着せにならず、支配的にならず、ただその人個人の存在を世間に存在させようとする、普遍化できる存在の仕方は、個のアイダンティティーの深化の過程を、述べながら、関係する読者や対話者や聞く人達自身の経験や思考と、重なる価値観でのコミュニケートしかないでしょう。

つまり、自分の自己体験を述べる 又 自己の体験に寄る、考察や思いを述べる、、という事しかないと思う。


いつまでも、宇宙との一体感のない体験なしの 思いや認識や知識を放ち、他者の同感や合意を得ようとする行為(反対は、他者は間違っている、他者の考えは間違いである、、貴方は分かっていない、等々)

という問答の繰り返しをしなければ、気がすまない、、、いったい何処から?そのような現れ方をさせる欲望が生まれるのか?

何故?そのような 現れ方で他者との関係を結ぼうとする、、

その現れ方に普遍性を感じる事が出来るか?



自分の言ってる事に、知らない他者は、気ついてもらいたい、、

自分の放っている事を、知らない他者に納得してもらいたい、、

自分の言説が、複数他者達の間で、価値観をもつかどうか?知りたい、、

自分の存在の仕方は、正しいのかどうか?

自分は、何を やっているのか?

こんな形で 現れてる自分って何?

自分とは、いったい 何?


自分は、いるの(存在してるの)?



と、このような探求の仕方ではないですか?

アイデンティティーは、自分が他ならぬ自分として存在していることを、自分のふに落ちるように、実感できる事ですよね。

そのアイデンティティーの形成は、
まず自分自身にとって、他者の存在が必要になってくるでしょう?

つまり、他者との関連によって、自分のアイダンティティーの確立が必要になってくるのですよね。

又。人生の、途上、途上で、他者は変わりますよね?

他者達は、その時、その時、同じ関係の質を求めて近づいてくるのでもありませんし、会社や組織にまで変化していくでしょう。

中には、社会的組織、学校や会社という組織に属するということが、アイデンティティーの形成の強い要素になったりする人もいるし、その国に住む、その国の言葉を話すという事で、アイデンティティーを自覚しながら、自分の存在性を把握する人達も多いでしょう。


しかし、そのアイダンティティーは、今回の人生経験でしか、意味を持たないVALABLE(有効な、通用する、効力のある)の価値観ですよね?

何故なら、死に至れば、自分が男であるとか、自分はこれこれこういう職についていて、これこれ、このような信仰を持っていて、これこれ、このような趣味を持ち、これこれ、何処そこの国の人と生まれ、、、云々、、、、結局、うつろいゆくものに、価値を見出そうとしてしまっているのだと思うのですね。

絶対にくる 死 の先に何が 来るのか?

分からない。
死の先にまで 繋げようとしているのだけど、
 自分のアイダンティティーは、死の前で停まってしまうことばかりに執着してしまっている、、そういう現れ方を、似たもの同士の類似の価値観の人達と話し合っても、いつまでも、変わらないのではないでしょうか?

わたくしの述べる事違います?

人間にとり、絶対なものは、死が誰にでも 来る、、という事なのですから、

死の先に向う、なんらかの 自分自身の 存在するアイダンティティー

、絶対に来るであろう、死の関連により、ゆるぎないもののアイダンティティーの確立は、これこそ、人間が生かされる、生きてゆく手段を選ぶ、生き残ろうとする手応えを求める、、という魂の不滅への行為でしかないと思うのですね。

それは、自分の生と、真剣に向き合うという自分自身との向き合う事、、同時に関係してくる他者達との関連性も考える。

自分が何故?

この形で現れようとしているか?
自分を知るため、自分の存在を自覚する為

自分のアイダンティティの深化させようとするためには、

結局、自分の意識を、深化させる事が必要になってくる、、


つまり、自分という人間が誰なのか?

自分のアイダンティティーを この世界で 感じようと 知る為に

自分がしている行為を、複数他者達の 心に映し出してみる、、


そのような 事を、言葉を 介し しているのですよね?

そして、この記号を介す世界では、沢山の人達がいますよね?

でも、アイダンティティーの普遍性を探すとなると、自分という意識は、通常のそれとは異なり、色々な不思議な事を、体験する事になるのですよね。

 自分のアイダンティティーの深化は、同音意義の進化でしょうかね。

つまり、地球の自転<回転>にともなうm人間の EVOLUER 進化でしょう

REVOLUTION レヴォルーションの意味は、

(天体)の 回転、公転の周期、地球の現れ方を述べている音素ですよね。

つまり、地球上に人間が住み着いて、言葉を介すようになると、

何故か? REVOLUTION レヴォルーションは、革命とか、大騒動とか、大変革を表す音素として辞書に載るようになるけど、この音素の元の意味は、もっと深いのですよね。

言葉の表象理解に留まっては、いけないですよね。

話しが最初に書き出した意味から逸れましたけど、送信します

モン、サン、ミッシェルの大天使ミカエルの出現の絵です。

================================
 

• 2011.07.05 18:59:46

[468] Re:Re:『真言宗未決文』を読む >> 返信元メッセージを表示

From: めるろ〜001

>沙羅ちゃん

空海は徳一菩薩と呼び、徳一菩薩の才能を褒め称えています。

「十一疑は書簡で交わされたと思われる。」と
高橋富雄教授は言っておられます。

それ以前の十の疑に関しては、空海は知らなかったのではないかと。

歴史家であられる高橋教授の検証は大変興味あります。

十疑に関しては、東寺の管長であられた杲宝師が
答えられておられるようです。
その書を探さないといけません。

http://www.toji.or.jp/kanchiin.shtml


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from: 沙羅(Sarah)さん

2012年05月13日 17時21分30秒

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「Re:めるろ〜さん」
おはようございます。

2011年という年の 十一という漢字表記を縦書きにすると、土 という表記になりますね、、。、、、という事は何度も書きましたが、

物事の流れ、根底にある流れの 方向を 観じ取る。という事が一番大事ですよね。?
ところが、人間は、 自分に 見えたり 聞こえたりした現象全てのものに、他者が価値観を 持っているか?いないか?そして、なるたけ、大多数の 人達が 同感する カテゴリーの 範囲内に 自分の 存在しやすい 位置を 探している、、という事ですよね?

この位置ね?

大多数が、間違った途上の流れに 乗っているのに、周りが 正しいと思っているから、自分は大丈夫だと 自己暗示している、、という感じに 似てません?新聞やメディアやテレビ 時々 本を読んだりね、

外部の 情報を 取り入れるのも いいけど、
結局、日本がある時、世界ではただ一つの 原爆被爆国として、存在している、、という事実は、どういう事なんですか?

ただ、アメリカがいけない、アメリカに 落とされた、、、被害妄想意識を 強めてしまうのではなく、
何故?
そのような 展開に導いてしまうのか?
という事を 考えませんか?


いつも西洋人や東洋人と話していて感じるのですが、アジア諸国の民族の呼応や感応の仕方の違いを比べると、忍従意識を 美化しがちなのは、どうしてなのか?と考えるのですよね。

歴史の展開の仕方、歴史の 導き方、、というか流れの 方向は、 未来観を ともなわないと、普遍性を 感じないのが、世界人なんですね。

自由を 我侭の 自己中と 解釈しがちなのは、我慢が足りない、、という意識が強いからじゃないか?と思いますが、、違いますか?

真の 哲学分野で語る、自由という意味は、違い意味なんですけどね、

世間で使われる 自由という意味は、 何をやっても 自由、、、と解釈されがちですが、、、違うのですね。

この「何をやっても、、」、という 前提に 既に書いているでしょ?

「何をやっても自由、、」、という考え方の自由は、

「何かから、逃れたい、、」、という意味で、自由という言葉を 放っているのですよね。
最初から、自由なのですから、

何かから逃れるとか、何をやってもの、、「何々、」、と断定する事が 出来ないはずの 位置<次元>に 引き上げないと、真の 自由 という意味で、言葉に、 意味が 感じられないと思うのですね。

するとね?この 自由の 論議を していて、必ず 出てくるのが、

「じゃ、人を 殺すのも 自由なのか?」という 言説がでるんですね。
つまりね?何から何まで、呼応する 方向が、対峙世界、あるいは排他世界の
ネガティブ反応なんですね。
この 呼応の仕方は、 わたしも色々、フランス語の コミュサイト同時に 読んでいましたが、この自由の解釈論議の展開は、独特に 思えるのですね。
自分という人間を 真正面から 見据えて、自分が 何に、反応したり 呼応したがるのか?
よく、自分自身の 性格や人格の性向を、普遍性の存在している 人達の言説と比べて よくよく熟考して下さいね。

ただね、忍耐心や 忍従心が ただ 良くないと述べているのではなく、その後の 経済成長率の発展を導くのにも、民族の優れた性格が 機能しているのでしょうし、世界とのバランスを 観る、、という事なんですよね。

どちらにしても、ユダヤ人と日本人は、世界の歴史では、信じられないような 悲惨な 経験をさせられている、、という風に、世界では 歴史を捉えているはずなんです。

ですから、福島の 問題が生じた時に、「日本が、それほど多くの 原発を有しているとは知らなかった」、、という驚きの反応を 聞くのですよね。

その地点で 「先進諸国の仲間入りをするにあたり、原発によって多量の電気消費が必要なんです」云々の 回答は、的が 外れているんです。


彼らが、知りたいのは、 歴史が展開する センスSENS (方向)なんです。そういった意味で、何故?ユダヤ<イスラエル>と日本の歩む 歴史には 民族にトラウマ的な記憶が潜在意識に宿っているのではないか?
両国とも、優秀で真面目な民族の 性格を あげられますからね。

ただね?他者の存在、他者との 共存という 他者達との バランス、他者を介してしか、、自分という 人間が どのような 人間なのか?という 事、、、これは、真理だと思います。

つまり、 他者達の 心に、 自分の 姿が 写っているのを、感じられない場合は、 自分自身の 一人芝居に 夢中に なっていると、解釈した 方が いいと思います。

例え、他者に 声を かければ、 返事は 返ってきている、、というこの世の 動向だけに 真理を 見ようとするのではなく、
返事するのは、 別に 貴方だからじゃなく、 声をかけられたら、
返事をする、、、という 機械的な応答しているだけですよ。

つまり 習慣でしょう。翌日になれば、「誰と何を 話したか?」と忘れているんです。
つまり、そのような、機械的で 習慣性の 無意識反復行為には、 心が ともなわない行為が多いでしょ?

そのような行為に、価値を 見出していてはいけないのではないですか?

何かを 信じる、、という意識は、 習慣や惰性行為とは、違うでしょう?
日本の 都会を歩いていると、夢遊病者みたいな人が多くなったと感じるのですよね

。信号をムヤミに信じて 進む、という行為、、、身の危険を察知するという感覚が 何でも信じれば大丈夫、、、という受動態に なってしまっているような感じ受けるんです。

数年前、日本に 居た時、こういう事がありました。

明らかに、獰猛な犬にわたしなど 思えるのに<犬の周りにモヤモヤ攻撃性の 雰囲気が 漂っているんですね>、幼稚園児を連れた母親が、子供が、「あぁぁ、可愛い」と言う言葉に、「あら〜 おとなしくて可愛い犬ね〜」と母親、子供に 安心させ、 近寄らせる、、という行為を 見せられるんです。
オリの中に、居て じっと している 犬は、 全て大人しくて、可愛いと思うらしい。

視たら、明らかに獰猛で、平気で噛み付く犬であろう、、ラブラドール種なんですけどね、、ラブラドールは皆 大人しいと 断定判断したがるのでしょうかね?
5,6歳の子供が、ダーと、走ってオリにちかづいて、手でも入れて、撫でようとする勢いがあるから、思わず、「近づいては 駄目!」と、大きな声で、言ってしまいました。

この前、青森で 飼育していた 熊が、オリから 逃げて、飼育していた人が 身元がわからないくらい、かみ殺された 悲惨な事件がありましたが、、
呼応の 視点に 毎日 餌を 与えあげている飼育人を 殺した、、
という 熊に、人間特有の 情動を 放っていた 人達の 呼応記事読みましたけど、、、、、
このような、反応は、 日本人民族の 特有な 反応かも知れないんです。熊は熊で、人間は 人間なんです。
一線が 引かれているんです。というより引かないとならない 存在である、、という地点に 存在しようとしているのですね。つまり、次元が高次化する途上に いるのは、 人間だけなんです。チンパンジーでも いるかでも ないんです。

獰猛なラブラドールの 事は、後で、 平気で噛み付く獰猛な犬だという事を、家人に 聞いて 知りました。知らずにオリに 子供が 手を入れて 噛まれなくて良かった、、と思いました。

よく、飼い犬に、 洋服着せたり、動物マンションみたいなところに、自分が留守の間、預けますよね。犬や猫や動物の可愛い仕草は、確かに、人間の 心を癒しますけど、、それと、動物を 人間と同じように 接したり、扱う事には、至らないはずなんですね。飼ってる従順な熊が 自分を知っているはず人<熊>と勘違いしだす、、
フランス語で分析すると、CONFRONTER比較、対立、させ、結果、CONFUSION混同、混乱、混雑 の 解釈していると思うのですね。
これが、関係の自立は、 人間と人間のみでしか存在させてはいけないでしょう?
自分の 飼う 動物と飼い主は、人間なのですから、動物の魂と人間の 魂の 結びつきを、 情動運動に 任せてしまうのは、よくないでしょう? 人間の 弱点、、可愛いから、、という意識を無闇に心に波紋させてしまうのではなく、 自分自身の意志が持つ たずなを 放してはいけないと思うのですね。
可愛い存在というのは、自分が 支配している立場に立てるからではないですか?。
支配しやすい存在を、人間は 可愛がる傾向に あるんです。つまり、自分<人間>に 頼っている、、という存在が 可愛いのですよね。自分が居ないと、餌が食べられない、存在なのですから、、その関係が 存在してしまうんです。

「可愛い」と いう 気持ちを持たされるのは、人間、癒されるんです。動物は、餌くれる人との関係に尻尾ふりますから、、、何故なら、人間は、明らかに、上位の 次元に いるからでしょう。

犬が 人間の 赤ちゃんを 可愛いと 思っては いないでしょう。そのような 人間である、、という事、人間存在の 意味を とことん 突き止めないと、 人間の 弱点に ズルズル 引きづられてしまうと思うのですね。

人間には、徳 という 意識も あるんです。そのような意識も 哲学では 語られるのですが、そのような 途上を、進化と いうのでしょう。

ですからね、人間の 弱点に 皆で、「わたしもそう」、「わたしもそう、」、「僕もそう』 「君は 僕と同じだね?」
という共通点を見つけて、近づいて、関係を造る、、、という

存在の仕方は、 普遍性は、ないんですね。

考えてみて下さい。自分と類似点を持つ人と行動すると、必ず相手を 縛りだしませんか?相手が 自由であるという一人の尊重した意識が弱くなるんですね。

閉塞性密室性が強いほど、二人の関係が 強まるんです。 これも自然でしょう。

性的関係をあげるまでもなく、密室性の 行為に なんらかの 二人の関係を 仄めかす事で、対峙世界を 作り上げているんですね。

人間は、食べる、寝る、排出する、そして、性的関係を求める、、この4つの行為しかしないんです。

他者が 必要なのは、 性的関係だけです。つまり、社会的な存在です。他者の存在は 異性を異性と差異を感じないくらい、自然に 共存させる、、という世界が 個人のもつ 世界観であれば、健康でいられるんじゃないか?と思います。

それでね
他者の存在する意味が、未来に 向かっていない、仲間作りは、永遠という存在や スタンスの長い関係造りは難しいと思うのですけど、、違いますか?
難しいのは、 この 形而上と形而下の 狭間のバランスの 執り方だと思うのですね。

マ!なんだか、ズラズラ、書きました、、

そういう事を話したかったのではなく、諏訪大明神の お札が、2011年の4月11日に 鹿島神宮の 海に流れついた、、という意味なんですが、、
めるろ〜さんと、初めて お会いした時は、2005年で、この時 大騒ぎさんという方と3人で、京都で待ち合わせしたのです。

この日、、最初は、三十三間堂に行った、、という事は話しましたが、、何故か?三味線の コンサートを 聴きに 3人で行ったのですよね。

何でしょうね?めるろ〜さんは、 三味線弾かれるのか?と思いましたが、違うようでした。

眠くなるのを、我慢していました、、と 本音を言われて 笑わせていましたから、、マ!そういうモンだ、、と思っている 自分なのですが、何故?3人で、三味線を 京都で 聞かないと、いけないのかしら?とか思っているのですが、、、、

何しろ、めるろ〜さんが、ご自分で色々、決めていらしたから、わたしは、ついて行くだけ、、という感じなんですよね。2011年に 他界される6年前の事なんです。

あの三味線は、 津軽三味線とか呼ばれるものかしら?
今にして思えば、島津と 津軽の接点が 怪しいと思うわたしがいるのだけど、6年前には、分からないのですよね?

ま! いいです。
諏訪大明神のお札見ていて、安東氏や、島根、石見色々出てきたので、気になるので はります。


=============================

諏訪大明神のお札、因縁の鹿島に 東北から漂流か
神宮、長野の総本社に送る
http://ibarakinews.jp/news/news.php?f_jun=13033129647891
【写真説明】鹿嶋市の海岸に流れ着いたお札。東日本大震災で被災した神社のものではないかとみられる=鹿嶋市宮中の鹿島神宮

東日本大震災で津波被害にあった東北地方の神社のものではないかとみられる「諏訪大明神」と記されたお札が鹿嶋市の海岸に打ち上げられ、同市宮中の鹿島神宮社務所に保管されている。同神宮の鹿島則良宮司(64)は「鹿島と諏訪の神は因縁がある。不思議なめぐり合わせを感じる」と話している。

==============================




津軽時代 [編集]
『保暦間記』によると北条義時の頃、安藤五郎が東夷地の支配として置かれたとされ、『諏訪大明神絵詞』では安藤太が蝦夷管領となったとされている。これらの史料から安東氏は、鎌倉中期頃から陸奥に広範囲の所領を有した北条氏宗家(得宗)の被官(御内人)として蝦夷の統括者(蝦夷沙汰代官職)に任ぜられ、北条氏を通じて鎌倉幕府の支配下に組み込まれていったものと考えられている[7]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%9D%B1%E6%B0%8F

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from: 沙羅(Sarah)さん

2012年05月04日 06時04分03秒

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「Re:めるろ〜さん」
やはり、聖母被昇天 8月15日
気になるので 貼ってみます。
WIKI
から
聖母被昇天の祝日に起きた主な出来事 [編集]
※聖母被昇天と直接関連のない8月15日の出来事については、8月15日#できごとを参照。
• イエズス会結成(1534年)
• 第1回十字軍中東エルサレムへ向け欧州から出発(1096年)
• アスンシオン建設(1537年)
• フランシスコ・ザビエルら、日本到着(1549年)
• イエズス会が京都に建設した聖母被昇天教会、通称「都の南蛮寺」の献堂ミサが行われる(1576年)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%AF%8D%E3%81%AE%E8%A2%AB%E6%98%87%E5%A4%A9

イエズス会の歴史 [編集]
創設 [編集]
1534年8月15日、イグナチオ・デ・ロヨラとパリ大学の学友だった6名の同志(スペイン出身のフランシスコ・ザビエル、アルフォンソ・サルメロン、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、ポルトガル出身のシモン・ロドリゲス、サヴォイア出身のピエール・ファーヴル)がパリ郊外のモンマルトルの丘の中腹のサン・ドニ聖堂(現在のサクレ・クール聖堂の場所にあったベネディクト女子修道院の一部)に集まり、ミサにあずかって生涯を神にささげる誓いを立てた。

この日がイエズス会の創立日とされている。彼らは清貧・貞潔の誓いとともに「エルサレムへの巡礼と同地での奉仕、それが不可能なら教皇の望むところへどこでもゆく」という誓いを立てた。

「モンマルトルの誓い」のメンバー(7人)
• イグナチオ・デ・ロヨラ(1491年 - 1556年)
• ピエール・ファーヴル(1506年 - 1546年)
• フランシスコ・ザビエル(1506年 - 1552年)
• ディエゴ・ライネス(1502年 - 1565年):第2代総長
• アルフォンソ・サルメロン(1515年 - 1585年)
• ニコラス・ポバディリャ(1507年 - 1562年)
• シモン・ロドリゲス(1510年 - 1579年)

1537年、一行はイタリアへ赴き、教皇から修道会の認可を得ようとした。当時の教皇パウルス3世は彼らの高い徳と学識を見て、まず彼らの司祭叙階を認めた。

ファーヴルはすでに司祭叙階されていたため、他の6名が1537年6月24日にヴェネツィアで叙階を受けた。オスマン帝国と神聖ローマ帝国のカール5世の間で行われていた争いのために地中海を渡ってエルサレムに赴くことができなかったため、彼らはとりあえずイタリア半島にとどまって説教をしながら、奉仕の業に専念した。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%BA%E3%82%B9%E4%BC%9A

==================================
不思議ですよね。モンマルトルの誓いから3年後、ファーブル以外の6人は1537年6月24日叙階を受けているんですね。

6月24日は、洗礼者聖ヨハネの祭日なんですよね。叙階を受ける日って、どうやって決めるのかしら?

それはよいのですけど、

1576年8月15日に 京都に建てた、イエズス会の聖母被昇天教会の 場所は、京都の中京区なんですね。

めるろ〜さんが住まわれていた住所も中京区でした。

ザヴィエルが日本に着いた、1549年から20年〜30年くらい後の事なので、ルイス、フロイスの 出現辺りかな?と思って調べたら、やはりそうでした。

この方も ザヴィエルと同じく、日本のキリスト教布教に イエズス会の 聖人として、ザヴィエルの後を引き継いで、日本に 渡った人で名前が知られていますね。

WIKIより
================================
1563年(永禄6年)、31歳で横瀬浦(現在の長崎県西海市北部の港)に上陸して念願だった日本での布教活動を開始。日本語を学んだ後、1564年(永禄7年)に平戸から京都に向かった。1565年1月31日(永禄7年12月29日)に京都入りを果たしたが、フロイスは保護者と頼んだ将軍・足利義輝と室町幕府権力の脆弱性に失望したという。

豊臣秀吉は信長の対イエズス会政策を継承していたが、やがてその勢力拡大に危機感を抱くようになり、1587年7月24日(天正15年6月19日)には伴天連追放令を出すに至り、フロイスは畿内を去って加津佐を経たのち長崎に落ち着いた。

1590年(天正18年)、帰国した天正遣欧使節を伴ってヴァリニャーノが再来日すると、フロイスは同行して聚楽第で秀吉と会見した。1592年、ヴァリニャーノとともに一時マカオに渡ったが、1595年(文禄4年)に長崎に戻り、1597年(慶長2年)には『二十六聖人の殉教記録』を文筆活動の最後に残し、7月8日(旧暦5月24日)没した。65歳。

フロイスは日本におけるキリスト教宣教の栄光と悲劇、発展と斜陽を直接目撃し、その貴重な記録を残すことになった。

========================================================


ルイス、フロイスの 説明読んでいて、思いましたが、命日も、めるろ〜さんと同日なんですね。7月8日です。
と思って、何故?

被昇天から、こういう繫がりなのかしら?

と思ったら、そういえば、3,4年前、確かに めるろ〜さんにも、不思議のメダイュ聖母出現のメダイュを、R子の体験した不思議な話を説明していて、めるろ〜さんに差し上げた記憶がある。

いや、、そうじゃない、、

その被昇天聖母マリアじゃなくて、、、


そうそう、、今日だった、大事な日、5月3日だった。

フランスの哲学者、メルローポンティーの命日だった。

知覚 PERCEPTION
それは、我々が生きている世界を知る、最も重要な能力PERCEPTIONだ!

つまり、直観 ですね。

時間と空間の世界を 閃光の如く、突き抜ける 知 への 探求心による、希求運動能力でしょう。

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from: 沙羅(Sarah)さん

2012年04月14日 22時02分04秒

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「Re:Re:めるろ〜さん」
msg556の続き

めるろ〜さんが 京都のお住まいで、

MSNの 哲学コミュの書き込み仲間で、オフ会をしましょう、、という案をだされ、わたしの 日本行きに 合わせます、、という事で、

京都で 3人 初めてお会いした日、

京都は、わたしにとっても、20年以上訪ねてなかった。

一番 最初に 3人で訪問したのが、

三十三間堂だった。


つまり、めるろ〜さんと 初めてご一緒させていただいた 訪ねた 場所
が、蓮華王院 と言う正式名称をもつ。国宝です。


MSN時代の書き込みで、だいぶ 話題にした 場所ですが、

毎年のお正月、ここでは、江戸時代の 通し 矢 の舞台になった、三十三間堂の 前の 広場で、成人式を迎える 袴をはいた
弓道家達、 射手が 弓を引く、姿が テレビで見れる・


前から、 天使が 弓 と関係ある事、アーチの 弓 ARCH は、ARC
の 語源である事、大天使<ARCHANGE>や大司教<ARCHVEQUE>が ARCを 語源にする 命名になったり、している事、、

中国、モンゴルや、秦氏 と 弓国、、、、すべて、何らかの関連が あって存在しているのでしょう。という事は 今まで書いてきましたが、、、

2011年、10月の京都旅行は、智ちゃんを 京都で待って、三十三間堂を案内した。彼女は、今まで行った事がないという。

修学旅行で 全国の学生が行く場所と思っていたので、びっくりした。

京都にいた朝、眠れなくて早朝おきて、テレビをつけた。
駅に 智ちゃんを迎えにいくまで、時間がありすぎる。
今から、シャワー浴びても 仕方がないと思い、何気なくテレビをつけた。
朝から コンサートをしている。たしかNHKの朝のクラシックコンサートで、弦楽器を弾いている人が、わたしの 知っているフランス人だったので、これも驚いてしまった。

苗字を、カピュソンさんCAPUCONさん
多分、カペー朝の マントを与えた聖人 マルタン聖人と関係をもつのだろうか? バイオリン奏者です。奥様の お父様は、エクセレバンの 元市長さんだったはずで、サッカー日本代表が初めて WCUP出場した年にベースキャンプに選んだ町の 市長をされていたか?それとも時期の市長に変わっていたか?うっすらと 14年前、日本サッカー代表の受け入れ側の市の ニュース、、、人びとの 反応、町中の反応、市民の 呼応、メディアの 受け方、、全ての情報の中に 感じ取る事が出来る。

ここら辺 無関係でないと思う。

何故?京都に居る時に、テレビで、 彼のバイオリンを 聞いて、 蓮華王院に 智ちゃんと訪ねるという 途上に 生きているのかしら?

日にちは、10月10日だったと思う。

日の丸が、蓮華王院の前に 立てられている。

十字を 二つ、、、、

朝の そのコンサートを聞きながら、最後 場所を見たら、

2008年の 八王子で 録画した コンサートだと テレビの画面に流れていた。

八王子、、、、八 に 王子 である。

王子は、 フランス語では、 王太子と呼ぶ DAUPHIN

ドーファン、で、イルカと同じ音素で呼ばれる。

だから、八王子の付近、昭和天皇の御陵があるのかしら?

しかも コンサートの 2008年に 八王子で、 CAPUCON氏は、

バイオリンを弾く。その再放送が、何故?2011年の 10月10日だったのかなぁぁ?

京都で 聞いているわたしの存在は、

いったい、時間や空間の層を、どうして 捉えれば いいんでしょうね?

と思って、カプソン氏の、 バイオリンの 音色を 四条にあるホテルで 聞いていた。

写真は、マドレーヌ寺院<マグダラのマリヤですね>の階段に座り、寺院を背にし、コンコルド広場に真正面に 向うという向きをとると、こんな感じ。正面は、 ルクソーからきた、 オべりクスの塔があり、

コンコルド広場に 向う。

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from: 沙羅(Sarah)さん

2012年04月14日 05時13分57秒

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「Re:めるろ〜さん」
めるろ〜さんの ご実家が 奥能登の 見附島に近い場所であるのを知ったのは、書き込みを2005年にはじめて、多分翌年だと思う。

フランスで ひょんなきっかけで知りあったI子の
おばあ様の 実家が、奥能登の珠洲市でめるろ〜さんは、確か輪島市のご実家だった。両市は、お隣同士で海に面している。

彼女は、奧能登のおばあ様に 小さい頃育てられたようで、京都のお寺参りなど、おばあ様はI子を連れて御参りしたそうだ。
彼女の記憶にあるのは、 三十三間堂での事。彼女は、6,7歳の頃で、真夏のカンカン照りの中、京都の 三十三間堂に行ったという。

真夏の炎天下の日、クーラーなどはないのです。、平屋建ての 中には1000体の 千手観音像が ところ狭しと立ち並んでいる。その日は特別に暑かった、外気温度が40度近く上がると、蜃気楼があちこちに 見える。と言っていた。

中に入ると、I子と おばあ様しか 居なかったらしい。ま!それくらい閑散としていた、、という事を彼女は言いたかったのだろうと思う。

誰も居なかったはずの、 三十三間堂の中、、、歩いていると、
「もしもし」と後ろから女性の声がしたという。

奥能登にお住まいの おばあ様に、「数珠を 落とされましたよ!」と 話しかけてくる 女性がいたと言う・

I子の おばあ様は、「それは、私のでは、ありません」と 返事したと言う。
すると、その女性は

「 この数珠に 彫られている 観音様のお顔、お連れになってる お嬢様のお顔にそっくりですよ。 お持ちになったら?」と おばあ様に言ったという。

おばあ様は、私と知り合う前に他界されているのだけど、

正直 こういう話しを聞かされて、考えてしまった。

何故?

数珠なんでしょうね?

1000体の 千手観音像がひしめく 三十三間堂の 中での 話であるのです。

彼女の家には、 仏壇はないらしいのですが、ご商売しているので、神棚があるらしい。

それは いいのだけど、

2005年から 哲学コミュに書き込みをはじめて まもなく、

能登の地震があった。めるろ〜さんは、すぐ MSNの哲学コミュに書かれた記憶がある、2007年の事。

この後だと思うけど、奧能登に お帰りになったらしく、奧能登の 千体仏という場所の写真を 撮って貼られたのを 覚えている。

WIKIの転記します。
==========================

能登半島地震(のとはんとうじしん)は、2007年(平成19年)3月25日9時41分58秒(JST)に石川県輪島市西南西沖40kmの日本海で発生した、マグニチュード(M)6.9(気象庁暫定値)の地震。地震空白域とされる地域で発生した

• 発震:2007年(平成19年)3月25日 日曜日 9時41分58秒
• 震央:石川県輪島市西南西沖40kmの日本海
• 震源の深さ:約11km
• 地震の規模:マグニチュード6.9(気象庁暫定値、モーメントマグニチュード6.7)
穴水町[1]、輪島市、七尾市で最大震度6強を観測し、石川県、富山県、新潟県で震度5弱以上の揺れを観測した。計測震度の最大地点は輪島市門前町で、震度7(計測震度6.5以上)に近い計測震度6.4を観測した。石川県で震度6を観測したのは、観測開始以来初。富山県で震度5を観測したのは、1930年(昭和5年)の大聖寺地震以来77年ぶり、観測史上2回目。

余震 [編集]
本震の後、余震が長く続き、有感地震は500回以上も観測された。3月25日18時11分45秒に輪島市と穴水町で震度5弱を観測するM5.3の余震が発生。この余震が規模・震度の双方で最大規模のものである。また、3月26日14時46分35秒に志賀町で震度5弱を観測するM4.8の余震、3月28日8時8分15秒に輪島市で震度5弱を観測するM4.9の余震、2008年(平成20年)1月26日4時33分頃に輪島市で震度5弱を観測するM4.8の余震が発生した。この3つの余震と前述の最大規模の余震が最大震度を観測した余震である。

===============================

前から、 原子力発電所の場所と、神社や御陵のある場所が、何故か微妙に関係があるのではないか?

と思っていた。

いや!関係があるという共時態の表現では 意味は通じないのです。

神社が建つ場所というのは、適当に 建ったわけではなく、

やはり、その土地の エネルギーや 太陽の日没場所や、又、人ひとの 波動や 流れが関係しているのだと思う。

そのような 場所は 自然と一体である人間生命を脅かすなんらかの、不自然な モノが、土地に埋められたりすると、何か、機軸が狂うのではなかろうか?

仙台の地震が起きた時、何故か?
仙台、仙台、、と思わされたので、てっきり仙台の事か?と思っていたけど、なんだか、頻繁に思わされるので、しかも鹿児島から薩摩へと

思わされた。

この思わされる、、、という意識を なんと説明すればいいのだろうか?

Mさんが、私に 残していった本に、

佐藤愛子の、「こんなふうに 死にたい」という題名の本があるのです。

Mさんは、この本を癌という病に侵される前から 持っていたようなので、
わたしに 読んで欲しいといって持って来た時期(亡くなる半年前>と関係あるわけではないのだけど、、、

後から考えると、過去、現在 未来というのは、やはり 一貫性をもって 絵巻物物語のように 観得る。
でも観得るという行為は、 いつも、時間がある程度経ってから、あらゆるエレメントがなければ 懐古の意識は 生じない。

西洋風に CAUSALITEコザリテ、原因率と表現しても、 日本人のみだけに 放つ時に、因果 という単語を使用するとしても、実践する場にで話される、言語が違うのならば、臨機応変に 放つ言葉も 変えなければ 存在出来ないし、臨機応変に 放つ言葉を 変えなければ、普遍化はないと思う。


つまり、他者不在の 自己言説に あっては、孤立の 方向に向う存在の仕方だと思う。

言説が、真実に思える、思えない、、という個々人の感情や情動とのやりとりには、何も ないと 思う。

観なければ、ならないのは、 どれほど、他者存在を 含むか?であり、

やりとりされている 世界の 隠蔽性や閉塞性を 感じ取るべきだと思う。

自己<発信者>の 創る想念の 世界での対峙やりとりの 呼応劇を、 受信者は 見せられているのである。

そのような 閉塞世界に、 身を染めてはいけない。

もっと、開ける世界へと 目指しを 向けないとならないと思う。

関係したり 呼応する 相手を ちゃんと 選ぶ事が必要に 思えます。





話しを元へ
佐藤愛子の 本は。
新潮社で刊行されたのを、新潮文庫となって出版された本だった。

この本の中に、三輪明宏が お経をよみながら、佐藤愛子のご先祖様が、次々と 現れてくるという、、下りが書かれている。

この時、佐藤愛子が、

「 どうして、現れた人が、 わたしの 曾お爺さんであったり、ご先祖の津軽藩の武士であると わかるの?」という質問をする。

美輪明宏は、 ただ そう思うからよ、

「あ! 愛子さんの お爺さんだ!、」、と思うからよ。

と書かれてあった。

興味深かった。

遇った事も、写真を見た事もない、全く 見ず知らずの 霊体が 霊視する映像に 写ると、
霊能者は、「 あ!OOさんの、 お爺さんだ」と、ただ思うのだ。

そして、実際、 出てきた風貌を 佐藤愛子に、尋ねる。

「佐藤さんのおじいさんでしょ?白い長いあごひげを垂らした方、毅然とした風貌で、、」と 美輪氏が言うと

「祖父です。弘前ではうるさ方で 有名だったんです」と答えている。

この箇所を読んで、思うという事はやはり 核心に迫る意識なんですよね。妄信している人の 思うは、普遍性がないのですよね。

他者を介せば、理解や了解や共感をえないのですから、、
他者を介す、他者に自分の 思った事を放ってみる、、
普遍性があれば、真実でしょうし、いつまでも衝突ばかりで 普遍性がなければ、やはり軌道修正はするようにした方がいいと思います


それで、話しを能登に戻すと、、、2007年の能登半島地震の時,余震が続いたのだけど、、、

能登にも、 薩摩の川内にある 原子力発電所と同じく、志賀原子力発電所があったんですよね。うっかりしていました。

川内<せんだい>と思わされていたのに、仙台と思っていたんですよね。

志賀町にある原資力発電所です。

マグニチュード5弱の余震が翌日あるのだけど、時刻が東北仙台地震の時刻と、同時刻なんですよね。

2007年 3月26日 14時46分です。

2011年3月11日、14時46分 は、東北宮城地震です。


何でしょうね?、、、めるろ〜さんに お聞きしようかな?

写真は、奥能登にある 千体地蔵です。

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from: 沙羅(Sarah)さん

2012年03月05日 07時50分41秒

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「Re:めるろ〜さん」
2005年3月、わたしが、めるろ〜さんと お知り合いになれたのは、もちろんこの哲学のコミュを通してであるのです。


同時期に、I さんという女性と知り合いになった。
つくづく思う事。
人生の不可思議な事は、自分の周りにいるこのような他者達の存在なのです。
Iさんは、何回が話しましたが、北海道に住む。、地元の本屋さんに立ち寄って、面白そうな本はないか?と思って 一冊のフランス食材の本を 購入した事が、きっかけとなっている。

本を読み終わり、著者に感想のメイルを書いた。その本の著者は、わたしの知人で フランス在住なのです。

数年後、本を書いた著者の家に遊びに行った。偶然にも I さんが フランスの仕事の途中立ち寄って滞在していた時期と重なった。

著者の話しだと、本を出すと色々著者あてに読者からのメイルが届くけど、Iさんのメイルの内容は、他の読者と違って並みならない感性の持ち主だったという。だから、著者である友人も、自宅に呼んだんでしょう。

その著者である友人に会いに行ったら、そこに Iさんがいらしたのだ・
Iさんは、数ヵ月後に、わたしに、いっしょに旅行をしませんか?とあまり知らないわたしに、突然旅行を一緒にしよう、、と話しかけてきた本人である。

旅行が、2006年、の7月18日出発だった。

目的はミヨーの橋を走り、フランス南西部コンク中世の巡礼場所のロマネスク教会を見るという観光目的だった。彼女が、コンクの ティンバンをすごく見たいと言ってきたからだ。

ここだけの話だけど、最初聞いた時、そんなにティンバンは興味をひくものには思えず、ま!有名だそうだけど、有名でも、自分に興味がなければ しょうがないと思う自分がいるので、しょうがなくIさんの行きたい場所に決めた。

。この時も、I さんとめるろ〜さんの 出身が、奥能登の見附島の近く、輪島市と隣接する珠洲市である事などつゆも知らず、時は流れていくのである。二人は同じ年に生まれている。

最初、哲学コミュは、すごくアカデミックで、実践とはいえない感じで、フランスの哲学の状況からかけ離れた感じだった。

これでは 普遍性は見えないと思い、わたしは 隣室の 考える部屋というコミュがあり、そこに 書き込みをしていたのだ。

哲学の部屋には いくつか部屋<コミュ>があるので、ROMさん達の閲覧も当然ある事が分かる。
めるろ〜さんは、最初、考える部屋に書き込みするわたしの 書き込み
アカデミックな哲学について、を読み、「御題を頂戴しました」というスレットを立て、哲学、真理探究のコミュに書き込みされてきた。

つまり、牽制球を投げてきたのだ。

もしあの牽制球が、めるろ〜さんに」よって放たれなかったら?
今、このブログの存在に繋がる行為には至っていないのではないか?

結局、同時にデカルトの方法序説のオークシヨンの記事を読み、2005年の3月 めるろ〜さんのコミュにはじめて書き込みをした。

つまり、わたしの2005年以降の京都訪問は、もちろんこの哲学コミュの管理人さんが、京都にお住まいだ、、、という事はもちろん知らずに、 生じているのである。

これは 本当に驚くべき事である。

多分 これをお読みをROMさん達は、めるろ〜さんという対象とわたしの関係でしか、察知できないのであろうと思う、しかし物の見方はそのような人間個々人の関係局面だけをみるのではなく、時間と空間の流れの存在の仕方を観なければならないと思う。わたしが京都に行かないとならない人生の展開であるなら、、、
きっかけ、、つまり縁起が生じる 誰彼の存在が必ず現れる。

驚く事には、当時の書き込み仲間は関西を拠点にしている人達が多かった。それで、大阪へもめるろ〜さんと 哲学カフェなる会合にも参加した。

わたしは 関東住まいなので、京都に行かないとならないのだけど、たまたま、わたしは九州のR子に会う機会もあったので、いつも京都で途中下車という感じだった。
むしろ、京都は、結婚前に行ったきり。

そのようなきっかけでもない限り、京都に行こうとは思わない。もしかしたら、書き込み行為をしなかったら、一生行かないのではないか?と思ったりする

しかも、2011年は、フランス在住の 智ちゃんまでが、めるろ〜さんと訪問した、東寺や、三十三間堂に 行って見たい、、と言い出す。

京都とわたしの関係は、めるろ〜さんの存在を通して確かな思い出として残された。

そして何らかの意味を伝える為に 人々の出会いがあるのだと思う。つまり、フランスにまできて、旅行をしたいと言って来る Iさんと、 京都の訪問に導く めるろ〜さんは同じ2005年に知り合う事になる、二人の出身は、奥能登の隣の市出身だという事になる。

ここ数年、わたしは 朱印帳まで購入して神社仏閣を訪問し2冊目になる。

ただ、めるろ〜さんがいらっしゃらなくなった京都は、5回の訪問で、なんだか、区切りをつけなさい、、という意味なのだろうか? 

去年めるろ〜さんの代わりに 若い智ちゃんがわたしと 京都旅行するという風に回っているという事は、多分他に新しい訪問地への 呼びかけがくるのではないか?と思ったりする

。神道かも知れない、、人生は、やはり 生きるに価値があると思う。昔哲学を勉強してた頃、自分は、決まった信仰はないと思っていた、今でもそう思っている、でも、それはなんとなく、そう思っている自分がいるのだけど、そうではなく、自分の人生の展開は、自分で自由に決めていると思っている自分がいるだけであって、本当は、知らないうちに、神と呼べるのか?仏と呼べるのか?ご先祖様と呼べるのか?イエス様なのか?聖母マリア様なのか?創造神なのか?わからないけど、、なんらかの 存在が いて気がつかないように 人生の展開に 同乗しているのか?導いているのか?、なんらかの存在があるらしい。


昨日、3月3日はお雛様。
33は 観音様の数字ですね。娘を夜 駅まで送らなければならなくなった。
夜中、山道 走るのは やだなぁぁと思いながら、目の前のテーブルの上に置いてあった 朱印帳を、ハンドバックに入れて 車に乗った<こんな事はフランスに居て今まで一度もない>。雪道だし、フランスはガードレールなんて 気の効いたものはないし、そういう税金の無駄使いしない!街頭やガードレールのない 山のがけっぷち、くねくね道を走る、なかなか、スリルがあるのです。それはいいんだけど、、


途中、娘が、「ママン?見てみて!狐と、大きな鹿がいる」と叫ぶ、、、
角のある大きな牡鹿が、国道近くまで 降りてきた。初めて牡鹿に逢った。
鹿島神宮の実家に帰っているKちゃんに メイルを送ってみよう、、と思ったりした。







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from: 沙羅(Sarah)さん

2012年02月27日 03時36分49秒

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「Re:Re:めるろ〜さん」
 めるろ〜さんに、

 数年前、広隆寺を訪ねた年

、「本堂の入り口付近に 星型、つまり 五芒星がついた 奉納板があるんですよねぇぇ、、」

 と
話したら、「 本とですか?沙羅ちゃん」

 と大層 めるろ〜さんは 驚かれていた。

わたしが、ダヴィンチコードの話題にちなんで、色々書き込みしていた頃だから、3年くらい前の事。

 京都の 広隆寺は、秦氏ととても 関係が深い。

 だいたい、広隆寺は太秦にあると云ってもいいでしょう・、、、

 路面電車が走る 太秦映画村と 弥勒菩薩がある 広隆寺は、直ぐ側にある。そして、めるろ〜さんが、引越しなさったのが、この 広隆寺の近くだった。

 前住まわれていた場所は 嵐山で
、かなり風流な場所で 落ち着いた京都らしい雰囲気が立ち込める
 道路幅も広いし、住宅街みたいなところに、美味しいお店が、あちこちにあるそうで、地元でないと、分からないらしい。そういう嵐山にお住まいだった。

 ご一緒した 居酒屋さんは、めるろ〜さんがよく行かれるお店らしかった。メニューには載っていない、釣ったばかりの鮎の塩焼きなどが出てきて、「アレちょうだい、」、とか「コレあるかな? 」 みたいなアレとコレ、だけ言えば、話しは通じるような 秘密の会話をカウンターの中に居る人と話すめるろ〜さんだった。

 何故?気心知れたお知り合いの数件のお店に囲まれた生活圏 やめて、広隆寺の近くにお引越しされたのか?
よく分らなかった。

 とに角、広隆寺の近くに、お引越しなされためるろ〜さんだった。

京都旅行を娘達がしたのは、1999年で、実家の家人と一緒に行った年だった。わたしはフランスに残っていたのですが、彼女達が、 弥勒菩薩の ある広隆寺を尋ねた日は、7月14日と 写真に印刷されている。
フランスのナショナルデーに 京都を訪ねた娘達だったのだと後から 写真を見て 気がついた。

写真のようなかなり大きな 星型の 木版が 、本堂の入り口付近にかかっているのです。

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from: 沙羅(Sarah)さん

2012年02月15日 02時14分59秒

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「Re:北極と南極」
MSG 355の続き

  しかし〜、、フランス人と話していると
  彼らは、心理分析が非常に上手だ。日常に生じる問題も、
  問題の根源を 分析するのが、上手であると思う。

 アニエスは、モノポール独占的である、お姉さんの存在の仕方の原因は、

 お姉さんが、

「幸せではない、elle n'est pas heurex エレネパ オフォー」

  と言う・

 義理の兄<お姉さんのご主人>との、愛情のない夫婦関係を続けながら、
 その自分の人生に幸福感を感じられない、
不満のはけ口の対処の仕方だと言う。

 わたしも、お姉さんを知っている
 彼女の言動に思い当たる事があったので、黙って聞いていた。

 愛情を感じない 夫婦関係を 続行しようとすると、
 
 他に 一生懸命なれる目的を探す、
 重病である お兄さんの世話をする事で、自分の 存在が、他者に求められている事を感じる事で、
第三者達の存在を疎ましいと思う、自分一人で 世話をしたいという 存在の仕方になっているのであろう、、と言う。

しかし、患者<お兄さん>の本当の気持ちは 分からないのかも知れない。

 そのような心理的な話題になった。

 どちらにしても、

 人間が、 心理的に幸福ではない、、、という状態は、

 哀れみを誘う。

 たとえ、攻撃的な 態度や言動であろうと、こちらに、攻撃の矢を向けようと、問題は、そういう事ではない。

 そのような形でしか、存在が出来ない、、、というのは、

 気の毒である。、

 このように 考えるフランス人達の思考は、

 演繹的な 思考が 身についているのだと思うのですね。


 どちらにしても、

 信仰心の強い、お姉さんが、愛情の感じない夫婦形態を 続け、
 半ば、神経症的な 言動をとる事、、、
 このお姉さんは、右派の市長さんの お気に入りで町会議員。

 反対に アニエスは、ご主人とも仲がよさそうで
 この前も、一緒に 食事をご一緒した。左派優勢の 
 地域に住み、社会党の左派市会議員だ。

 北極と南極
 右派と左派
 右と左

 2大政党が、がっぷり 4つに 組みながら、 後は、国民が、左派?右派?
 どちらに 投票するかは?

 蓋をあけるまで 予想がつかないし、分らない。

 大統領選挙も もう2ヵ月後に迫っている。
 

 マドレーヌ寺院から正面にある、コンコルド広場のオベリスク
 
 
 

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from: 沙羅(Sarah)さん

2012年02月14日 22時51分18秒

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「北極と南極」


 何かしら?

 今日がバレンタインデーなのか?

  よくわからないけど、、、

 昨日も、何人もの知り合いの 電話で、長話しで、1日終わってしまった。
 たまたま、1日自由な日だから よかったのだけど、

 フランス人の アニエスは、癌の末期患者である お兄さんの事について、兄弟や家族のあり方、存在の仕方について、

 あれやこれや、、一時間以上話してきて、大変だった。

 普通多分だけど、
、日本だと、家族に病気を抱えた場合、、、

 患者の世話をする、家族に、 第三者達の 意識が、集中する

つまり、第三者達は、労いの言葉を かける事で、 コミュニケートをとるのである。

ところが、フランスでは違う。

いかにして、第三者であろうと、平等である、、という意識が強い。

例えば、日本だと、

家族に迷惑がかからないように、、、という意識が働く。

つまり、 病人に一番近い位置にいるのが 家族、、、という 現われ方で存在しようとしている。


ところが、フランスは個が独立していると、患者と 個の繋がりは独立しているのが当たり前なので、

患者、、つまり、本人の承諾を得れば、第三者であれば、

一対一の面会や 対話を主張する。

ここら辺は、シビアである。

家族という位置の人達の絆が、必ずしも、第三者の誰かさんとの絆より、深いし強いという事は ないであろう、、、

何故なら、 血縁の絆が必ずしも、血縁関係をもたない、精神的な結び付き<愛情、恋愛、子弟愛、親友>より、絶対強いとは、言えないのである。

肉体が不自由になればなるほど、精神的な繋がりを求めるのはむしろ、肉体を離れた、形而上の世界の モノ達との精神的な繋がりであるのは、別に驚く事でもない。

心作用というのは、他者達との関係の中で、誰をも、傷つけず、存在させるのは大変難しい、、

アニエスは、癌患者の兄の 世話をしている 人<この人は姉にあたる、、つまり、電話をかけてきたアニエスと姉妹である>が、
自分勝手に全て 兄の世話をするという環境が、異様だ!とわたしに述べてきた。

兄は、日常の世話をしてもらっている姉の 反抗をかうと、
後々、不安だから、嫌でも、何でも、言う事を聞いている、、という状態は、おかしいと、わたしに訴える。

彼女は、第三者達の介在を求めると言う。

つまり、兄の世話をする 姉は、 MONOPOLE モノポールだ!

と、言って来た。

モノポールという音素は、 

モノは、一つ、ポールPOLEは、南極とか北極を現す時

POLE=ポール NORD= 北という時にPOLE を使う。


つまり、彼女<彼>は、「一つの極」 を演じる、欲がある

という意味で、つまり、姉は、兄の世話をしていると思い込んでいるけど、独占的だ!

と、アニエスは 言ってくる。

地球はあたり前なのだけど、南極と北極がある。


これだけ説明して、意味が日本人に伝わるか?分らないけど、

わたしが、共同体を語る時、

血縁の近さを 乱用しがちな 関係は、陰湿性を含む。という事に懸念するのは、あらゆる犯罪の萌芽を 生むからなんですね。

これは、家庭内犯罪に繋がる途上にある方向であるのを、社会の人達は知っている。

何が?一番難しいか?というと、いかに 二つの力を、対極に 向わせるべきである 状態を 造る事なんでしょう。健康的な人間社会を 根底からス来る事。

それには、第三者達の、関与が必要である事。

よく、未成年の子供が、親の不注意で 死に至ってしまう事ありますよね。又親の暴力もありますよね。無意識である事、殺すつもりはない事

こういう言い訳はいつも、起こってから 言説放たれますよね。

起こってからでは遅いのですよね?

ですから、第三者達は 何か?おかしいと思ったら、ドンドン、

INTERVENIR 関与する、干渉するのですし、

関与、干渉、関係を第三者達の、倫理感、道徳的な価値観によって、判断されるように、いつも開示的な存在の仕方をしないと、当人は 分らないのですよね・

信じ込むと それが、善だと思って、行動しているのですから、

分らない。

しかし、回りの第三者から観ると、明らかに、不健康な 密閉された 世界をつくっているのを感じるのですよね。

家族もそうですし、よく分らない、セクトの世界もそうですし、

健康的な 精神世界とは思えない、

なんだか、変な 雰囲気なんですよね。

独占する、自分の決定権は全て正しいと思い込む。

これは、万が一患者が 痛みを我慢して、<世話をしている人に悪いと思わせる、COUPABILITE 自責の念を抱かせるようにする>しまう、状況に落ちる、、と懸念する。

患者といえども、最後まで、一人の人間として、尊厳ある生き方をするべきであり、他者から望まれた存在でいなければならないはず、、、

と言う。

ところで、この姉妹は、二人とも、住んでいる地元の市長議員である。

600キロくらい離れていると思うけど

おかしいのは、アニエスは、左派優勢の市の議員であり、
癌患者の兄と、その世話をする 姉が住む 市長は右派優勢の町の議員である。

わたしは、ナンとも、言えず、

 「ううううう〜ん」、、と返事に困っている。










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from: 沙羅(Sarah)さん

2012年01月06日 01時18分09秒

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「Re:Re:めるろ〜さん」
なんでしょうね?

 この形而上世界の呼応は、、

 数字の事を書くと、すばやく反応するのですよね?

 例えばね、、、この右側にオーナーのパソコンしか観えない

 アクセス数字が現れているのですよね、、、

 今 パソコン開けて見ると、下二桁が同数字で現れるのですよね?

 アクセス数は、今日、昨日、 TOTAL と3つでるのです。

 TOTALは、2011年11月11日からのアクセスTOTALですから、、、、例えば今は、今日=ゼロ<どうも、日本時間軸らしいフランスは今、16,59分]昨日=241 TOTAL= 10741 

 昨日は、3つの下2桁が同じになった時にパソコン開けるのですよね?

 なんでしょうね?

 まるで、、「ホラ!沙羅ちゃん分る?数字の不思議、、」

 と、気つかせてくるのですよ。

 この外界からの気つかせてくれる、、このコミュニケートを観じないと、
 形而下世界で、唯物的なモノだけにしがみついて、がむしゃらに シテイテも、美しくない、、、美しくないの真理ではないのだと思うのです。

 美しいのですよ、、自然の姿は、がむしゃらに なる必要はないはずなんです。何故なら 自然の存在なんですから、、

 自然、宇宙との一体感、、
 神様という存在があるなら、

 神様のパズルなんですよね、、、

 2011年、3月11日に鹿島に住む Kちゃんのメイルが初めてだった、、、地震のニュースを知らせて来た彼女、、

 彼女は、飼い犬の命日が3月11日なんですよね。前年の3月11日
 ですから、地震の前に 飼い犬のお墓参りなどしているんです。

 飼い犬も、神様の家来ですかね?

 8月15日生まれのA子の飼い犬が去年亡くなった時の話しは、誰もがびっくりしましたものね!
 
 空海さんと、イエスキリストの受難の日が4月22日同日になった年が2011年でしたものね。

 キリスト教の記念日は月の位置満月から割り出すので毎年、移動しますから、、、空海さんの命日とキリストの受難<命日>の金曜日が、同日になる割合って、、、ドレくらいなのかしら?

 2011年は 珍しいその年だったのですよね。
 

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from: 沙羅(Sarah)さん

2012年01月05日 19時18分24秒

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「Re:めるろ〜さん」

 しかしいぃぃ、、

 この数字の存在ね?

 わたくしは、数字や記号そのものが いけないとか述べているのではなく、、唯物論に偏ると、存在のバランスを失いますよ!と警告しているのですよね?

 つまり、、、普遍性が無くなる、、自然淘汰の方向に向って存在しようとしていますよ!その意識の向きでは、、、、、と

 と 述べたいのですよね、、

 ところがね?

 この世の人達と実際コミュニケートする手段は、唯物的な事を介さないと実際のコミュニケートが出来ない仕組みでしょう?

 信憑性がないとか、一人妄想です、、と他者へに批判をする前に、

 自分がどれほど、唯物的な手段を介さず、

 知らない未知の人々、、あるいは これから知り合いになるであろう人達、、つまり未来に向けての、世界での存在性が観得ているか?観得ていないか?実践できているか?出来ていないか?

 自分自身の 実行や実践が普遍性をもつか?そこの地点に立ってみましょうよ、、
 いつまでも、ちょっと、世間で目立つ人を、見つけては、対象視、しながら、自分の人生で得られない、人気や また不満を 放つ対象を見つけて 他者に 感情を放つ、、、という 情け無い現われ方でいるのはよしませんか?

 他者個人に 批判を 放って何か?自分に得られる事ってありますか?

 何もないでしょう?

 それなら、他者の 残した言説や記号を、後ろから追って、コピペなどしない、、

 他者は他者、、自分は自分、、

 依存しない、、という事にしましょう、、

 そして、普遍性や存在性が判断が下されるとしたら、、それは、絶対数、、空に存在する、無言で、無限に存在する、存在達です。

 もちろん 形而上世界の 心達も含んでいます。

 これを、宇宙と一体になるであったり、自然と一体であるとか、
 述べるのでしょう?

 総体、全体把握が出来ない限り、、
 いつまでも、 部分、部分の 流れしか観えないでしょう?

 その流れは、何処かで、切れているでしょう???

 そうではなく、 最初の 一番 太い幹を、見ないと 世界と自分の繋がりが観えないでしょう?

 自分が一枚の葉っぱだったら、葉脈通し、枝通り、幹に行って、根っこ行って、、そういう探求心は、他者との公約数を見つけなければ ならなく世界に共存しているんだ!という自覚に至る感覚感じてしまうでしょう?
  そこまで、まず感じてくださいね?

 民族中心主義、、は何度も 哲学で話しましたけど、

自分の民族性が、世界の中心をなしていると思い込んでしまう、、という
 エテュノサントリズムね、、

 話す<考える>言語もそうなんだけど、
 それが自分の中心の物差しになってしまう、、という現象ね、、

 これも 脱却しましょうよ、、

 他者は、自分の外に存在しようとしているのですから、、

そうそう、、それで、なんでこのスレッドか?と思ったかというと、

2011年にいろんな事があったでしょう?

11の数字の事象ね?

 数字は、目的にはしないのだけど、後から考えると、、
 因果関係が観える、、という手段で、記号や文字はあるのだけど、それを綱ぐのは、音素かな?

 でも、それはあくまでも、結果、、つまり、過去に生じる事象ですよね、、

 未来は、時間を越えないと観えないはずですから、、

 唯物論思考に偏っているのは、実践とは言わず、、ただの、辻褄あわせを、人の後ろから歩いている事しか表現出来ない、、という事なんですよね?

 分りますか?この違い、、大きな違いなんです。

 この次元に居ては、いつまでも、稼動しないのですよね、

 他者の判断しながら我田引水したり、自分の存在を認めてもらおうと、やっきになる、、事しか出来なくなりますよ、、

 意識の転換期が必要な時期なんです。
存在しようとするなら、、

 宇宙とのバランスを観ないと、、、めるろ〜さんの最後の書き込みの数字も、411 で終わっているのですよね、、

2011年の月が一番地球に接近した 時期、7月7日の翌日、、早朝にお亡くなりになられた、、

 11は、漢字で縦書きは、土 と書く、、

 フランス語は、地球も 土も 同じ 音素 TERRE テールです。

 土を汚染させたら、、生きていけないでしょう?

 人間の根が生えてる 土 なんだから、、、、

 
 

 



 

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from: 沙羅(Sarah)さん

2012年01月04日 00時57分07秒

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「Re:めるろ〜さん」
このカレンダーの年月時間は、日本を中心にしているのかしら?

グリニッジ天文台での、時間軸なのかしら?

良くわからないけど、、めるろ〜さんは何故?2011年7月8日に他界されたのかしら???

と思って、、京都在住の弓恵ちゃんとわたしとめるろ〜さん3人で食事をしたのは、数年前。

2011年7月8日は、弓恵ちゃんのお誕生日なのだ。

どうして?

2011年7月7日は、月が地球に一番接近した日らしいのです。

7月8日の早朝5時から6時の間の時間に他界された、、

いったい、月と地球が一番接近した日?

月に帰られためるろ〜さん?なのかしら???
なら、いいけど、

かぐや姫と、織姫と牽牛のお話の創作版みたいです。京都御所のお近くで亡くなられた。

しかし、いつも思うのだけど、月に帰るかぐや姫は8月15日の満月からお迎えが来た 話しになっている。

キリスト教では8月15日は聖母マリアの被昇天の日で、ザヴィエルが日本の薩摩に上陸した日になっているけど、そのもっと前にかぐや姫は月からお迎えが来た日として、日本昔話が存在していたようなのだ。
不思議ですよね?

もしかしたら、前世は平安時代お公家さんだったのかしら?
7
木 5.8 • 七夕
• 03時24分:カシオペヤ座RZ星が極小
• 19時42分:小暑(太陽黄経105゚)
• 22時53分:月の距離が最近(0.961、36万9567km、視直径32.3')
 http://www.astroarts.com/phenomena/2011/ph201107-j.shtml

アラ!このサイトアドレスは、めるろ〜さんの携帯アドレスと同じ
PHENOMENAがあるのね、、

ふぅぅぅ〜ん!

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from: 沙羅(Sarah)さん

2012年01月02日 00時38分31秒

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「Re:めるろ〜さん」
現象学という日本語は、フランス語 オリジナル音素は、

フェノメノロジー phenomenologie と書くのですが、実は、フランス語に 正しい発音をさせる為にアクセントがつく。

 フランス語の母音は16音あるので、アクセントは大事なのだけど、このサイトは文字化けするので、アルファベットだけにします。

 正しい発音は、正しいフランス語を話すという事なので、

 発音は、書く事より、大事です。

 正しい音が聞き分けられるという事は、コミュニケートをスムーズにするという事なのだと思うのです。

 めるろ〜さんは、個人のメイルアドレスに、

 このPHENOMENの語源を使われていた。

 現象学がめるろ〜さんにとって、大事な意味、そして、なにしろ、メルローポンティーのハンドルネームをつけられている、、という意味は、
フランス人のメルローポンティーの存在とは??、WEB世界で、知り合いになるという意味は???

 実に 興味深いのです。

 現象学は、

 空気を読み取る、、、、という能力だと思う。

 つまり、回りの空を読み取る、、、他者を介して、自分を感じ取る、自分の本との姿を自覚出来る、、、

他者と自分の交互に流れる 無言の感情や心情交流だと思うのですね。



普遍性には欠かせないと思うのです。

K,Y という 記号は、きっと、空気を読めない、、という結果を 記号で放っているのでしょう。

分析家は、

空気が読めない理由や原因は何か?

という地点にいますから、

誰々が、空気を読めない、、という地点にいて、他者<個人>を判断しているのではないのですよね。
===========================
受胎告知、、天使の後姿をこんなに美しく描ける、、
背中、後姿って、前から観るより、ある意味を浮き立たせるでしょう?

人間 前ばかり気にして、後ろ観ると、チグハグ感感じる時あるけど、、

 

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from: 沙羅(Sarah)さん

2011年12月27日 07時04分15秒

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「Re:めるろ〜さん」
R 子の甥っ子さんの幼稚園の話しをしていて、めるろ〜さんの事を思い出した。

 2006年頃だと思うけど、コミュで、自己の描く世界には、枠というか、境界線があるらしい、、、という事を 話した事があったのだ。

 例えば、画用紙を一枚渡される。子供の頭の世界は、画用紙に治まりきれないのですよね。 画用紙の上から クレヨンで描くのだけど、線は、画用紙の外に向うので、机に直接描き、そのまま、机の脚を伝って、床まで描く、、みたいな延長線上を全部総体的に見て描いている。(私です)

 小学校の国語のノートは、一つのマスに 一字書くとは、全く想像せず、4つ使って、一文字を書く子だったので、自分の字は、他の子供の字より、
4倍大きく書く子だった。

どうも、 4マス使うと、中心には、十の字の中心がある・ 字の中心を置く事が出来ると思っていたようなのだ。
話しはそれますが、
母方のご先祖渋谷氏を調べていた時、多分鹿児島の島津藩とご縁があるのでしょう、、と思い島津藩の家紋の十字だという事が分かったのは、此処1年くらいですが、、、こういう幼児の無意識の体験も関係あるのかもしれない。

この自分の考える世界というのが、おのずと、小さめに、小さめにコンパクトにしよう、しよう、、と内的に向う人と、全く逆の方向に、外へ向う人と居るらしい・

めるろ〜さんは、幼稚園児の時、先生が

「さあ、外に行って 遊びましょう」という言葉を、聞いて、

幼稚園の外だと思って、 幼稚園から出て、家の近くで遊んでいたのを、家人が見つけた、、という幼児の時の体験を話してくれた。

幼稚園からはかなり距離があったという。

外、、という 意味は、難しいですね。、、、

哲学的には、めるろ〜さんの思考は間違っていないのですよね、、

そういえば、わたしが外国に暮らしているという事を聞くと、日本人の中には

「大変ねええぇぇ、、一人で、偉いわねええ、外国で暮らして、、」と親戚に言われ閉口していた。

何故?
えらいのか?偉くもなんともないでしょう?
とマジに思ってしまう自分がいたのだった。フランス語が出来なくなってどうにでもなると思っている自分がいるので好きで外国で暮らす言葉、偉くもなんともない、、

多分、自分の中に、外国が外国に思えないのだからしょうがない。

隣町で言葉違うらしい、、くらいの感覚ではなかろうか?と思う。

感覚的に違うのでしょう。日本は良い国だし、母国ですから、、でも、同じ民族で一緒にいるより、日本という国を見直すのは、外国から母国を外側から観るほうが、遥かに、良く観えてくる。違う面から、考えられる。

私見を広げるのには、やはり他者達の存在は、絶対不可欠だと思うのですよね。

めるろ〜さんは、能登出身むしろ、奥能登出身なのだ。輪島市だったと思う

不思議のメダイュを初めてくれた、I 子のご先祖様が住まわれる能登の 珠洲市、、隣町の近さだったのだ。北海道に住むI子が何故?

私と知り合い コミュの管理人さんの めるろ〜さんと奥能登の隣町にご先祖のお墓などあるのかしら?

しかも、I子の家に送られた、20数年前大叔父さんと呼ばれる方が書かれた 奥能登の伝説は、空海が唐から帰って来た時の話しが書かれていたのだ。

しかも、彼らは同年に生まれている。不思議なめぐり合わせがあるもんだ、、と思い、WEBの書き込み行為もきっと何か導かれているんでしょうね?と思ったりする。
 

ご存知、ドラクロアの自由の女神、、マリアンヌです。

時間を後ろ向きに観るのは、精霊だけでいいのです。

民衆は、前も向きましょう。時間の進む方向へと目差を向けましょうよ。

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from: 沙羅(Sarah)さん

2011年12月22日 07時58分30秒

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「Re:めるろ〜さん」

時々考える、、

何故?

めるろ〜さんとの出会いが、大覚寺の写経という行為で終わってしまったのか?

 めるろ〜さん自身が、写経は初めてだ、、と仰った。

 私自身は、京都でもまだ行ってない神社仏閣は沢山あるので、

 神社仏閣を訪ねたかったのに、

 何故か?

 「沙羅ちゃん、、写経をしませんか?」

 などである

 うううう〜ん、、、

 漢字かけるかなあぁぁ?

 と心配したりしたけど、写経は 下敷きの上をなぞる、、という漢字なのだ
数年前、娘が、

お土産に頂いた、写経の道具を見て、

「ママ、書いていい?」と聞いてきた。

多分、彼女は、17歳くらいの時だと思う。

彼女は、漢字は書けない、

フランスで生まれ、フランスの教育100パーセントで育った。

日本語学校というのがあるらしかったけど、片道何百キロもかけて
通わせて日本語の読み書きを必ず身につけさせるという 気持ちや執着もなかった。

生まれた土地のその場所で多いに文化を吸収すればよかったと思っていた。

よって、彼女は 漢字文化に触れた事がない。読んだ事もなければ、書いた事もない、、もちろん、書いているからといって、その字が読める事も意味もわからない。ただ写しているのである。

ところが、彼女の初めての写経は、上記のように書くのである。

しかし、ハタ!と思って、

「ええええ〜?、、ちょっと、日本語の縦書きは、右から書くのよ?

貴女、これじゃ、最後から書いているじゃない。

 これ 月、日 は日付なのよ、

貴女 日付 から 最初に書いているけど、、、」と私

 「なんだ〜、、そうなの?ママン

 左から、最初に書くんだと思った、、』娘

それで、 途中から、右から改めて、観自在菩薩、、と書き出したので、

 このような 形になっているのです、、、

 正直ちょっと、驚いた。

 漢字を書いた事も 筆と墨をつかった経験などないのである。

 

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