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続 哲学〜真理〜探求について

続 哲学〜真理〜探求について>掲示板

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from: 沙羅(Sarah)さん

2011年11月26日 07時30分51秒

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めるろ〜さん

表題の通りです。時々、思い出したらこのスレッドに書き込みますね。何もしてあげられなかっためるろ〜さんへの気持ちだけですがさっき、パソコン開けたら、昔の

表題の通りです。

時々、思い出したら このスレッドに書き込みますね。

何もしてあげられなかっためるろ〜さんへの気持ちだけですが

さっき、パソコン開けたら、昔の書き込みが保存されてあったのを見つけたので

「なんでしょう?」

めるろ〜さんが、書き込んで欲しいと思ってらっしゃったのかしら?



感想文『仏説 摩訶般若波羅密多 心経

From: めるろ〜001


以下感想文です。
「仏説」と書いてある。仏様の言葉であるということですね。
『般若心経』は小本(組み立てが小さいということ)であり、
『大般若波羅密多経』大本の要約であるという。(異説あり)
僕は、この発想にちょっと疑問である。
詩歌と小説が同じもの同じ対象を書いたとして、小説の方が多くを語れるかというとそうではない。
浮かべる場景は、詩歌の方が多い場合だってある。
問題は、<文字の表現の先の場景>の話であって、
小説はつらつらと読めるが、場景は多いというものではない。
漢検で、清水寺のご住職が一文字を書くのが恒例となっていたが、
あの一文字で、一年を語ろうというものなんですね。
その一文字の広がりが多種多様で、観ずる者によって、
感情も加わるでしょう。

宮坂氏が語っておられるのですが、大本に無くて小本にある文字もあるのですね。<表現という場景>のことなんですが、
小本である『般若心経』を繰り返し読めば浮かぶ情景は、
小説のように大本だと通り過ぎてしまうものなんでしょう。

で、「仏説」に戻りますが、仏様の説ということはいえるのか?
ということですね。
上座部仏教にしても大乗仏教にしても、仏様の説いた、
一切皆苦、八正道、四諦、涅槃、戒律などを継承していれば、
仏説と呼べると思います。
「結集」による<仏説の継承>があって、早くて仏滅100年後に
申し合わせ(照合)があったのですね。
ということは、現在のようにレコーダーも無ければ、文字に残すこともしなかった「仏説」は、何かの象徴的な要素を含めば、
「仏説」と呼べるモノになってしまったのですね。
それが、一切皆苦であり、八正道であり、四諦であり、涅槃である。(と思われます。)

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from: 沙羅(Sarah)さん

2012年05月30日 17時29分36秒

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「Re:めるろ〜さん」
死者が、自分の記念日<日本語では、命日と呼ばれる日>になんらかの、マニフェスタシヨン<恣意運動、表明、デモ>をする事は、別に珍しくないのですね。気がつかない人、沢山いるようですけど、、、例えば、その日に限って、倉庫に ある探し物をする、、同時に、こんなところに 何故?こんなモノがおいてあるのだろう?、、と、気がつかせる、家族の 行為により、出てくる何かがあるとします。


抽象的な表現だけど、、
その 出てきた あるモノを、見て、家族が、それは、「20年前くらいに、何処そこに行った時、何とかさんに もらったものじゃない?」という 家族の一人が思い出す。

そして、よくよく考えたら、その20年前に 逢った その人の命日が、その日<突然、倉庫で見つけたモノ>であったりする、、、というような事を 思い出す、、、
という途上なんですね。

こういう事は、よくあります。死者というのは、忘れかけられると、そのような存在の仕方をするらしいのですね。

つまり、人間の行為の中に、直接目的<何かを探さないとならないと思わせられる>があり、行動に至るんですね。つまり、顕在意識です。

しかし〜、、、そのような目的には、真実は見えないのですよね?
義務だとか、責任とか、誰かに 知らせないとならないとか、、
形而上世界では、どうでも良い理由と云ってはなんですが、、、、直接目的として、人間に行動させているみたいですよ。

また、世俗倫理も、
「あの人は、大変多忙な人」という判断がされる人って、、
多忙に見える、、、、あちこち、移動し仕事をしている姿を見せられる 。
世間の人も、忙しく動く人、働く人、頑張っている人に、一目置きたがる。
つまり、真面目に、働いている という イメージは、善人のイメージとして社会を成す俗世界に固定化しだす。

だから、働かないで、何もしないで、家に いるように見える人は、心の気にしろ 病気でなくても、、なんとなく、社会に 心の居場所が見つからないから、ますます、社会の人達から避けたくなるのである
。そのような 家族の一員を 抱えている家族は沢山いるでしょう?でも、健康な家族の 道徳、倫理を象る価値観が、そのような 表象に見える、行動のみ、、に価値観置いているのですから、

自分、あるいは家族が、ニートのような生活を強いられるのは、本人も家族も、同じ価値観で、世間の目を気にしなければならなくなる、、という苦痛を 体験させられるでしょう?

結局、心 を 観る、、、という事をしてこなかった つけが回りまわっているのではないですか?

それでも、自分自身を観る事しないから、いつも、自分は外的要因によって、苦しまされているのだ、、と、全て自分以外に原因があると思い込んでいる。


景気が低迷で回復しない、、とか、会社が解雇に踏み切る、悪条件の 転勤を強いられる、子供の犯行、自然災害、離婚、、次々に 自分が描いた、幸福な生活や幸せな人生とはほぼ 遠い、 地点で、人生を歩んでいるように 思わされているようなのですね。

このような、書き込みサイトにコメントしたり、何処かの、哲学サイトや、信教サイトに 書き込みして、心の 会話をしたい、、と思っても、、実は、何も もたらさないのである。

記号を介して、コミュニケートしても、何も自分の生活は 変わらないでしょう?
何故なら、全て受動態意識で、 コピペ行為を繰り返している行為には、何も もたらさない。せいぜい、一時の、退屈しのぎに、つき合わされ同士達の、其の時だけの自己満足 感情吐露、、といった、行動から抜けないのですね。

ただ、、それでも、此処、7,8年の書き込み行為を介して、、あれ?と思わせる出会いは、ありました。

そのような人達との対話形式は、文章全体把握のみの対話に限られましたね。
ま、めるろ〜さんもその方のお一人なんですが、まさか?、このような形でお亡くなりとは思っていませんでした。

しかも、最後の出会いは、2010年、10月の、大覚寺の写経という行為が 最後なんですよね。

「何故?2010年に写経しなければならないのですか?」、、、、とは、時間途上では 聞かないけど、、


「沙羅ちゃん、大覚寺で、写経しませんか?」と、2010年に突然提案してくる めるろ〜さんなのです。


どこか?訪ねようという気持ち、発心の気持ちね どこかで落ちあわせするとなると、京都、大阪、奈良地方は、、いくらでも、神域の宝庫なのであるのですが、、、。
ところが、、2010年は、いきなり、 写経 だった。


しかもお互いが、写経 をした経験がないときている。

写経するには、 まず 「日本語が書けなければ、ならない」

日本語を読める

日本語が理解出来る、、
という事と、
日本語が 書ける、、
という事は別の事である。

そんな事、ある訳ないと思っている人は、すでに、かなりお思い込み、自民族中心主義、ヱテュノサンとリズム」の 色眼鏡を 知らない間にかけて物事を観てしまって判断していると思った方がいいのです。

「沙羅さん?般若心経読めるでしょ?ソラで 読めるじゃないですか?」だから、 写経できるでしょ?

という 質問があるかも知れないけど、

般若心経の、お経が書かれている、横には、ひらがなの読み方が書いてあるのです。

ひらがなの 音素が 記載されているから、声にだして 読めるのと、
般若心経を、 筆で 書くという 行為は 違うと思う。

そう、説明すると、今度は、

「いや、沙羅さん、、写経は、般若心経の 上を なぞって、書くだけです、別に 般若心経、知らなくても、写経できるんですよ」、、、と、ほぼ、こちらが危惧する返事が返ってくる。

そんな事は、知っている。
そういう問題ではない、、、、と 思うけど、もちろん、言わない。

つまり、話そうとする次元が違う、、という表現しかないのですよね。

写経をする、、、、という意識と
般若心経の上を なぞる、、という意識は、違う

めるろ〜さんは、そんな野暮な会話を、わたしとしようとは 思わない方なのは、分かるのですが、
それでも、突然の 写経の提案 は やはり驚いたのです。

そして、2010年は写経をしたのです、、そしてその行為が、最後の私たちの出会いになってしまったのだ。

もし?
写経するのは、嫌だ!とわたしが 無理に反対したら???

まだ、生きていらしたかしら?と思ったりする。

いや、、そうではない、、そのように 導かれる運命だったらしい、、、
めるろ〜さんの命日は、7月8日なのですが、

フランス時刻だと、7月7日になるのです。

去年10月帰国した時、実は、神護寺にも一度、行こうか?
と思った、2009年にめるろ〜さんと訪ねていて、2009年7月7日の書き込みが、以下のように、神護寺の話題なのだ。

私が、朱印帳を持って、お寺参りし、めるろ〜さんにも、朱印帳の朱印を 見せて、
色々、その時の 神社やお寺での 出来事を説明した。

その時の、体験が、めるろ〜さんに、 「僕も、朱印帳 もとうかな〜』と発心させているのが、書かれている、実際、2010年大覚寺に行った時、紺色の朱印張を、わたしと一緒に窓口に お願いされたので、

「あぁぁ、、ほんとに、朱印張購入されたのね?」と、一年以上前の 以下の書き込みの 内容の記憶がよみがえったのだ。

ただ、2009年の7月7日に 記した書き込みの内容は、、2011年、2年後の 命日に中る日に生じる、意味を、読み取る事が出来るかは、私自身の 心に かかっていると思う。

つまり、哲学で言われる、存在させる、、、と言う意味を、 実践できるか?出来ないか?という事だと思う。

死が、そこで、何もかも、終わってしまった、、と思い込んで、命日になると、機械的にお墓参りしたり、習慣化した行為を繰り返すという事ではなく、 死者達を存在させるという 行為は、生者達も存在させるという事に繋がるのでしょう。

この世で、普遍性を持つ存在である、、、という事は、そのような魂の 希求運動に コミットする事だとおもう。

しかもどの 層で、誰とでも、コミットすればいい、、という事ではなく、ちゃんと、高次の世界での、コミュニケーションだと思う。

霊感があれば、何処にでも どの人とでも、チャネリングすればいいという問題ではないでしょう。

憑依と、チャネリングが曖昧な 行為の人達も そのうち、自然淘汰ではないですかね、
これだけ、訳のわからない、霊感商法や、

又 見かけ知識人や教育人のようですが、

明らかに、よくない
低次の 層での、呼応運動を、影響させて、マイノリティーの 人達と魂の引き合いをしているような、サイトやブログもかなりありますが、、、ネットって、簡単に誰でもコミュニケート出来るけど、ちゃんと、付き合う相手を 選んでコミュニケート取って下さいね。


知識豊富とか難しい言語を並べるだけの サイトやブログの内容や書き込み仲間と 呼応するのではなく、正直、精神や心を病む人が多い社会になるという事は、そのような人達は簡単に接する事が出来る、、という事なんですね。哲学では、困るのは、日常生活の 普通人との会話のコミュニケートレベルでコミュニケートが出来なくて、いきなり 形而上世界でスパークされて、形而下の世界の 常人に 無理やり、分らせようと、している人、、、結構いますが、、

コミュニケート能力不足ですと思います、

誰かさんと、恋愛でも、して 心を 伝える事した経験すり、実践重要に思えます。恋愛経験なくして、肉体と心模様の経験を他者となくて、どうして、この世の性的関係のしがらみを 話せるのでしょうか?
きれい事ばかりでは、もう世俗人は、誰も信じないと思うのですね。教義ばかりでは、実践にならないと思うのです。それとも、そのような形で、この世に普遍化させてみたいという、結局、、欲、、ですかね?

、、形而上世界の コミュニケートは出来ていないでしょう???

空 の、 手応えを、 感じられないのでしょう?

他者不在でしょう???

そのような事に繫がるから、他者の存在は、大変重要なんですね。

別に、他者の存在を語るのは、大乗仏教だから、、大乗がどうの、、、という事ではなく、
暗中模索していたら、、他者が自分を理解するのに、必要な存在であった、、、だから、大乗なのね?という 途上での、経験における、整理整頓しているだけでしょう。

最初から、大乗を 提示して、水戸黄門のもつ印籠みたいに 可かげているのではないでしょう、、と思うのですね。どうも、紋きり型表現ばかりする人というのは、時間の断面しか理解できない 自個過剰投影する人が増えましたね、現象学も分かってないんでしょうね。

ま、それはよいのだけど、、


心 の 高さ を 観る事です。心 です。

普遍性は、いくら知識があっても 浸透しないんです。有名な、なんとかとか、本をいっぱい出してる、、なんとかサンだとか、、そのような 唯物的に知覚できる世界ではないのですね。


普遍性は、形而上世界との 何らかの合意でしょう、形而上でも、 魔や 悪の 意識は 存在するでしょう。

知らない間に、無意識分野に 入り込むのですから、、そして、そのような本心を隠さないとならなくなるから、表象に見える行為では、偽善行為に徹しながら、真面目な人だと、社会の判断を得たくて、、平衡感覚持とうと、無意識と 意識の 間に存在しようとしているみたいですよ。

ですから、江原浩之など、「政治家、宗教人、教育人、地獄とされてる幽界の 世界に沢山いるんです。」

なんて、言ってはいけない事、言っちゃうから、バッシングされるのでしょうね。でも、観えるもの、感じるもの、そのまま言ってはいけない世界に 生きてるのは、ホント、大変ですね。


でも、同じ 幽界にいるのが 観得てしまう人が同じ人達だったりするのが観える 感性が鋭い人達とのコミュニケートもあるんでしょう、、と思います。

これからは、そういう人達のコミュニケートが 増えると思うのですね。存在しようと、するという事は、存在しようとする、どの場でも変化するという能動意識なのでしょう、

時間を後ろから追って、存在しようとしている事ではないんですよね。時間の前、超越 レヴィナスの

Transcendance トランスサンダンス
この超越という 意味の アルファベットは、
先祖という意味の単語の 相対なんですね。

家系は
Ascendance アスサンダンス

ですから、超越の Transcendance トランスサンダンス
と音素は似てるでしょ?

ですから、過去に探しにいくのも、
未来に探しにいくのも、同じですよ、、
方向だけが、違うのです、、という表現になるのは、そのような事なんです。

日本語の漢字表記だと意味が見えませんけど、
これは、漢字表記の 講造世界で、人間がコミュニケートしているという事なので、何もコミュニケート自体には、真理は 観得ないと思います。この事を理解するのは、哲学の分野しかないと思いますね。
2009年7月7日の 書き込み、再度あげます
==============================

From: めるろ〜001
沙羅ちゃん

>
> めるろ〜さんとご一緒したのは、今回東寺と、神護寺ですから、
>
> 神誤寺に行きたいと思ったのは、虚空蔵菩薩が5体あるあの鍵が閉ってた場所なんですけどね、、、
>
> いつ公開するんでしょうか?
>

公開は何時するんでしょうね。
愛想の悪いお坊さんに聞いて見ます。
写真は撮れませんよ。。。

僕も御朱印帳を持とうかな。
東寺の朱印を見てそう思いました。
あれは立派ですね。立派というと失礼かもしれませんが、
あの方がいないとあの朱印が実現しないんですし、
不思議ですね。

あの朱印は、『般若心経』に勝るとも劣らない朱印でござりました。



• 2009.07.07 13:33:09
[343] :Re:Re:Re:感想文『仏説 摩訶般若波羅密多 心経』 >> 返信元メッセージを表示

From: めるろ〜001
少し開眼した。
よく文章が浮かぶということです。

先達との訳の違いが出てきました。
浮かぶ像が若干違うのですね。

空海の短い文章に苦労されて居られる方もいらっしゃいますが、
少し抜け出たように思います。


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