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続 哲学〜真理〜探求について

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from: 沙羅(Sarah)さん

2011年11月23日 19時56分33秒

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Communication コミュニケーション

今まで、色々な宗教関係の本を読んで見た、読後感想を述べたいと思うのですね。どの本も、それなりに納得させられる、、それなりに善い事が書かれている、それは


 今まで、色々な宗教関係の本を読んで見た、読後感想を述べたいと思うのですね。

 どの本も、それなりに納得させられる 、、
 それなりに善い事が書かれている、それは、仏教だから、、、とか 
 西洋宗教だから、、とか、、そのような 違いを、探そうとして読む、、という事ではなく、

 なかなか、よろしい 道徳や倫理、、はたまた、哲学的な視点からみても、納得させられる、、どの宗教や信仰も価値を見出せる
 そのような 共感がもてる 内容になっている。

 ところが、最後にちかくにつれて、、

 他教や、他宗派 他宗教の 名前を出したり、はたまた、西洋の宗教は、、、という言葉を、放ち、此処が納得出来ない、、この点は良くない、、はたまた「、だから、仏教は優れているんです、」、

 という 展開に 結び付けられると、、

 わたしの気持ちは、なぜか、、

 あぁぁぁ、、 これでは 仏教の普遍性は、期待できない、、

 と萎縮する、、、

 何故なら、他者を批判する事で、自己の正当性を 認めさす、、という

 現われ方は次元の低さを問われてしまっていると思う。

 早く言えば、「我田引水」、、という行為と全く変わらない、、

 現われ方になっているのだと思う。


 自分が信じている何がしかは、唯一のもの<その個人に関与する>であり、他教と比べる、、という意識は有り得ないと思うのですね。

どうして、そこに、他教や 西洋 と比べないといられない、、、

 という言説に 落ちてしまっているのでしょうか?

 といつも思うのですね。

 世間で、輝いて 居る人は、決して 他者や他教、 自分や 自分の信じる 信教を比べたりしない、、、

 何故なら、 比べる、、という意識事態が、 次元の低い、、、意識<精神>とされているからだと思うのですね。

 インデパンダント  自立、、、という意識は、

 他者や他教と比べる事はない、、という 意識に思えるのですが

 違いますか?


 一人で、個 の存在を、 宇宙に世界に、 個々、自立 させ、

 自分自身、個人の 言葉 を放つ。


 もし、その言葉に、真実と思えるような事が 他者達との共感を得られれば、どの言葉を話す人達にも、どの国の人達にも 自然に 浸透していく 存在の仕方になりませんか?

 そこには、 他者や他教を比べる、、、という 意識や精神は 不在だと思うのですね。

 インデパンダント とカタカナで書くと 分かりませんが、

 イン+デパンダント

 ですから、、デパンダントDEPENDANT は、頼るとか従属する
という意味なんですね。

 つまり インデパンダント、という単語は、 自立とか独立

 と、いう意味で、辞書には載りますが、

 言葉の意味は、 従属しない、 頼らない、、、、という意味ですよね。好きになったりその個人に惹かれる事も反対に、嫌ったり 批判したり、押しのけたり 排他しても、同じその個に頼って呼応してしまうという意識でしょう。

何かに依存する、頼ってしまわなければ、自分の反応がない、、というのはおかしいと思いませんか?

ただ、何観ても、何も 心が反応しない、常に 顔は無機質な表情で 能面のような表情でいる人いますけど、、そのような 何事にも動じない、何事にも反応しない、、全く、感性の発達がない、、というのも違うと思うのですね。人間に生まれたら、人間的な愛情は感じるように なると思うのです。何故なら高次に近くなる 高度な意識でしょう、、

むしろ、愛の意識を、もっと語らないと、ひとびとは、ドンドン心枯れていくと思うのですよね。

 どちらにしても、 情動意識の運動、
 好き<同意、接近、共感、>になる方向と、
 嫌い(認めない、批判、離れる又は排他する,無視>方向と、大きく二つの方向を見ると、、、

 他者を批判する、、事で、自分の言説の優位性を述べる、、という事は、

 宇宙や世界からみたら、同じように 他者達からも 扱われますから、、いつまでも、 同類同士で 同じ行為を繰り返す、、という事になっていると思うのですね。違いますか?

 他者は、何故?

 存在するのでしょうか?

 という視点で 見た方が、賢いと思いませんか?

 ま、、わたしの 一人言ですけど

 

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from: 沙羅(Sarah)さん

2012年07月31日 16時55分33秒

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「Re:Re:Re:Communication コミュニケーション」

子供達を フランスで産んで、育てて、ごく普通の地元の子供達がいく学校に入学させて、友達ができ、お母さん同士 知り合いになり、 お誕生日会に呼ばれたり、呼んだり、遠足の付き添いに行ったりしながら、

実に、色々な日本と違う 発見があって 面白いと感じたのです、、、

他者を知り、自分を知る、、自分を成す あらゆる さまざまな エレメントが、日本で 生まれ、日本の学校に通い、日本人家族の中で、はぐくまれた 感情や 心情、、、それはそれで良いのでしょうけど、、、

自分自身を知る、 普遍性 を含む、、、という存在は、、

やはり、世界へ 目指しが 向いていないと 孤立していく 途上を歩むでしょう、、、

しかも世界もドンドン、 変わっていく、、、

自分が変わらなければ、普遍性をもてないのですよね、、

そういえば、ロンドンオリンピックの 開催式を見ていて、つくづく 変わりましたね?と思うのは、、、、

入場行進だけ見ていると、20年くらい前の、 閉会式の 雰囲気に似ている。

時間途上の存在の仕方の 現われ方の違いを 察する事なんですよね。

例えばです、テレビでオリンピックの歴史とかいう 番組を見る事あるでしょう?そのような 表題でなくても、、東京オリンピックの 入場行進の仕方です。各国の 入場行進が、 行進、、という 型にはまって、綺麗に並んで行進しているでしょう?

ロンドンのオリンピックの 入場行進は、 選手達は、笑いながら、自分でカメラもちながら、自分を写したり、隣人と 冗談言いながら、歩いて旗を振って和やかな雰囲気なんですよね。、ひと昔前の 入場行進 列にそって、、という存在の仕方はしていないでしょう?

行進と言うのは、行 に進み、、と書くのですよね。

何処の 先進諸国の 軍隊は、皆類似の存在の仕方になるでしょう?

列になって、同じ ユニフォームを着て、回りにあわせて 歩く、、、、

という 人間が、同じ時、同じ 型に嵌まった、行為を 自ら<したくてしているのか?しょうがなくてしているのか?能動的?受動的?>

する 団体を、 外からみる 視聴者の マスメディアが存在するという世界観が 造れませんか?

そのような、 オリンピックという 4年毎に生じている 場で、世界中の人達が 喚起する瞬間を 映し出す、、、

そのような 場造りにおいても、 世界の人達は、 ひところの、管理された 人達がなす、、、場造りは異様? 同じ事をして、マスとして 同一行為を 演じる場、、というのは 不自然な 場であった事を 感じているのでしょう?

ひと昔前は、国名が呼ばれると、、縦横綺麗に並んで、行進して入場する選手達が存在する。、 国名のパンカードを持った、選手代表の後ろには、その国の 同じユニフォームを来た 沢山の選手達、、、、

すると、時々、一斉に、 選手達が、同じ方向に 顔を向けている、、

「アレ?何なんでしょう?」と見ていると、どうも、 選手団の中にいる誰かのかけ声と共に、

選手達は、国賓席に お座りになっている
その国の Empereur Imperatrice に、ご挨拶、、、という感じらしい。

ううううう〜ん、、、

このような ヒト昔前の オリンピックの 入場行進での存在の仕方は、

軍隊っぽい、現れ方が 価値をもって<持たされ>世界中、似たような感じだった。

フト、考えると朝鮮民主主義人民共和国、、という国の映像が ヨーロッパに流れてくる時、、

なんだか、 軍隊と、 回りに人民<民衆>という 映像が映し出される。

軍隊は何故か?いつも 行進している。

時々、 学校の 校庭にいる 生徒達も、 縦、横、 升目に並んで、
歌歌ったり、マスゲームのような 体操や、民族体操している。

どの子供も、 どの 人も、 皆 同じに 見える事で、

外から見ると、「 ほら〜、、美しいでしょう?」、、という イメージを 最初から、計画的な 人間を管理する、、、と言う事には、何の 罪悪感を感じる事がない 不幸な次元にいる人達であると思う。

あの人達は、、、不幸なのだ、、

人を管理しないと要られない、、そのような目的しか 持てない人生を 歩まされ、心 という 動き、人間の心を 感じられない、、非常に 不幸な人達の 集まりではないか?と思う。

自分では しあわせ、、と思っているのが、せめてもの救いかも知れないけど、、問題は、 彼らが 世界から どのような心情や 感情を持って、非人間的な 存在のあり方に、観ているか?という 世界人との 感情交流の 層が、断絶してしまっている、、という地点だと思う。

形而上世界での 孤立感は、 三次元に生きるひとびとに、当然 通じているからこそ、ますます、ガードを頑なにしなければ、守れない、、と
妄信するのでしょう。

何を? 守り、 何が 守れなくて、何故?、そんなに 恐怖心や 不安感を強めて、 頑なな態度や表現で、現れないと ならないのかしら?

いつも、思いますが、、

死への恐怖を 絶えず持たされている、、、、、

という 意識が、自己(自我)を蹂躙しだすとこのような 存在の仕方に なるんじゃないでしょうかね?

死への恐怖ではなく、途上でしょう、、?

生死の 間の 生き方、感じ方、存在の仕方に、安心感を得ながら、、、という意識を もたらせる 死は、安らぎなんでしょう?

別に、 それは 死を 肯定している、、という意味ではないですよ。

そのような 瞬間に至る結果に、 意識を執着して、情動を安易になびかす事は 死に至る、あるいは、死へ旅たった人達の 心の存在にとっては、いい迷惑のような関係の結び方だと思うのです。

個々の関係の 自立、、その人の魂と、短い、あるいは、一生関係を持った事、その 個々の人間関係は、尊い関係だと思うのです。

万が一、被害者意識を 過敏になびかせているのなら、果たして、自分自身が、最初から、自立している意識で、能動的な 意識で、その人と関係をむすんでいたか?

依存関係で、関係をなりたたせていたんではないか?

被害者意識は、必ず 対峙世界の出来事でしょう?

なんでも、 いきなり 思い立って、「そうだ!苦を滅すればいいんだ!」、、、と鼻息あらくして、

座禅組んだり、経典よんだり、 突然、どこかに 大きな墓石を購入して、真面目な信徒さんへと、急変する、、、、、

そういう話を 聞くのですけど、、

ううううう〜ん、なんだか 違うと思うけど、、

ま、自由に してみればいいんじゃないかしら? 、、、、、、^^、、

800年くらい、時間って 必要なのかも????

とフト、思って、知り合いの話しを聞いている、、、

どうにも ならないのでしょうね、、、、、という時、、何故か?

京都の 清水寺が浮かぶのだ、、、

多分、奈良時代、全盛だった、悉有仏性説と対立する 唯識法相宗がたてる 五性各別説と関係しているのでしょう。

清水寺に これほど、頻繁に 行かされた、ここ数年は、わたしの意志ではなく、必ず 他者が関与してきて、わたしに 清水寺に 向わせる、、、というどうしようもない、他者との 時空共にし共感の体験を 生かされている、、
めるろ〜さんが亡くならレル前、何故か?
真言宗未決文を 読まれていること、

法相宗の菩薩とよばれた 徳一は、会津<福島>地方を中心に 活動教化した事も考えて、この時期、法相宗が浮き上がった形になってしまったのだ、、

オリンピックの行進から変な 流れになってはいるけど、別に 無関係に かきこんでいるのではなく、未来に必ず 繫がっていくであろうと、いう未来に 意識を向けて、辿っているんですよね、、

どうなんでしょうね、、

人間ってどうしても、自分が生まれた土地に 根を生やすと、もっと 根を生やしたくなりますからね、、、

居心地のいい場所から動きたくない、、、と言う意味事と

動けない、、、という事とは、もともと、潜在意識に宿す力は違いますから、、、

正反対の方向でしょうと思います。

それをなんとなく、顕在意識に表象してくると、まるで、我田引水のように、 自己説がもっともらしく 聞こえて、信じ込まされている、、という この世界での、問答かもしれませんよ。いや、そうしないと、生きてゆけない<肉体>が 存在しているのかも知れません。

普遍性は、残念ながら他者達が、判断をくだしているのですから、、それまで、自分が優れていると、自分が真理だと思い込んでいても、ま、自由に おやりに なればよろしいでしょう、、と思いますよ。

ドンドン、孤立化していく存在であるのは、自分自身でも感じているのでしょうと思いますから、、、

そういった意味で、存在の仕方に 大変、仏教は問題があるんですよね。

閉塞的な世界観を造っている限り、

世界の宗教分布図は、キリスト教徒 33,5パーセント
イスラム教徒 20,5パーセント

ヒンズー教 13,3パーセント

仏教 5,8パーセント

ユダヤ教 0,2パーセント

無宗教 21,2パーセント

この数字は、納得 させられる、数字として、体感できる、場所に
存在しようと しているんです。


そういえば、今週は、知り合いのフランス人が 息子が結婚した インド人の女性と一緒に 遊びに来る、、と騒然5人で遊びに行くよと電話があった、、

あぁぁぁ、、なるほどねぇぇ、、

こういう感じで流れているのかなぁぁ、、という感じがするのです。

おもしろい、、、人生って面白い、、

そういえば、軍隊の 行進 に似ている、、、という型にはまった現われ方、存在の仕方、、、という 記号を書いていて、思い出しましたけど、、

型 という字は、 土の 上に、 刑 と 記すのです。

型 に はまる、、、という意味を無意識に 引用したり、使ってません?

どういう意味かわかりますか?

人間本来の 自然 な 姿 <女の上に次と記すのです>

ではなく、恣意的な 力で、何らかの 型 にはまった 現われ方で、存在しようとしていると、

刑 という意味を 含むでいるんですよ。

しかも土<地球>の上に書かれるんです。

フランス語は、 土と 地球は、同じ 単語 TERRE テールですから、、

刑?、、、、、、 鳥居に りっしんベンですか?

西洋宗教のあちこちの神域の入り口に彫られている 最後の 審判 が下されるのは、 死後の 魂の状態になった時で、
3次元の世界で観得る事ではないでしょう?

もう少し、人知のおよばない 世界の事にしても 尊重した考えがあってもいいと思いますけどね、、、

自分に感じない 観えない、世界はただの 個々人の 妄信と思い込む事で、自分の存在しようとする世界観に 我田引水の 説ばかり、又は 他者を攻撃したり、非難したりする事でしか、存在出来ない世界に、 雁字搦めに なって、だんだんと、年をとりながら 人びとに 忘れられていく、、、という存在の仕方でいて、、どうするのでしょうか?

と思います、、、、今朝のひとり事は終わり、、







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