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続 哲学〜真理〜探求について

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2012年11月13日 23時07分27秒

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    今朝のひとり言

    オハヨウございます。


    昔 現代思想 という本が毎月だったか?刊行されていたのを、昔読んでいた事があったのですが、、、、

    ま、このように書くと沙羅さんは、左派思想に傾く昔哲学少女だったのかな?と想像される方は多いのじゃないか?と思いながら、、


    さてと、、、、 そして
    、 読み手の 想像を推測しながら 書こうとする、、、、熟考する過去への立ち返り、、。

    それとも、 自分<主体>の書きたい事をかけばいい?(コミュニケート不在)



    デリダは、 落とした記号は、書いている次から次へ、、記号は死んでいるという表現しましたね。

    コレ、、、3次元世界の 日常会話の感覚では 難しくてわからないでしょう?

    でも、形而上世界の動きを体験出来る方は 哲学的表現の意味が分かると思う。

    ですので、例えばブログでも、アクセス数が多いのは、ただ単純に良いと思いこむ<唯物論重視>のでしょう?
    死んだ記号を読む人達が多いほど、
    受けいられている?????

    それは、其処に停まっているんでしょう???

    共時態で呼応するというのは、進化しているとは言いません。

    何故なら、共時態(シニフィエ)の対は、通時態(シニフィアン)

    これはシニフィアンは進化と哲学書には訳されているじゃないですか?


    数字が多いと、世間に認められていると思い込みたい、、という判断が底辺にありでしょう?

    記号を書く前の時点で、テレパシーのような暗示やコミュニケート出来ているのでしょう?それを、感じ取るから読むのでしょう、、と思います。


    よく 習慣化したのか、毎日同じコミュやブログを読み、毎日コメントするという行為ありますが、それが良いとか悪いという判断ではなく、何かの義務感でも感じているのかしら?それとも、過去世でいつか一緒だったのかしらん?とか、思いますが、、、色々なコミュやブログ、観ていると 人間行為の本質が何処からきているのか?観えるので、勉強になりますね。そうでした、べつに現代思想の内容の事を書きたかった為ではなく、、、話題探しをしているのですね、、何を、この時<書かれるために>この時が来るのか?

    その時がクルのかな?未来から視た、現在の行為というのでしょうか?言ってる意味、わからないと思いますが、、この書く、、という行為ね、佐藤愛子も言っていますが、、自分自身の 頭の整理にもなるんですよね。

    整理になっていない?それは頭の構造が違うのかもしれません。(笑)

    それと、 8年前のコミュの書き込みからの 積み重ねなんですよね。つまり、連続性の 行為として書き込みますから、自分の頭の引き出しの 中の記憶を土台にして、推論や推敲を、体験を書きながら記しています

    。そして、何故?このようになるのか?という文にして書き記すと、その理由が、後から観えて来る。理由は因果があるから、、でもいいけど、懐疑論者には、懐疑論者、 哲学者だった、守護霊や背後霊でもいるんじゃないか?と思うくらい、懐疑した事、、その理由が、その後、画像で見せくれたり、テレビや 人の会話や、それこそ、見ず知らずの人が話しかけてくる、何気ない会話に 答えがあるんです。だから、書くんですね。

    つまり、私なりの 空世界とのコミュニケートの手段なんです。ですから、誰もよまなくてもかまわないんですけどね、これね、、色々考えましたけどこれは、執筆者や文筆業に多い 思考の傾向ですよね。

    ややっこしい 書来方しましたが、 昨日、ある友人の 家に招待されて、高齢者のコミュニケートにういて大部話したのです。難聴気味の高齢者達が集まる場での会話の質は、やはり違う。という。

    見かけは、話している人の 話しを聞いている様子に見えるけど、その返答が返答になってない話の内容である事。つまり、一方通行の 会話の場が、それはそれで成り立つという 空気の質が、 やはり、、、他者の 言いたい事、感じている事を 理解しようと、聞いて いる 私達の 対話の場と違うという事。その理由が、難聴であったり、耳が遠いという理由だけで、笑える場として、 何かの コントのネタみたいに 放つ事はせず、、 この時、その方のお母様が、高額な補聴器を購入したのにも関わらず、つけない、、補聴器を利用して外界の 音<声>を聞こうとする能動意欲が不在である、、という点を話してきた。それは、既に、生きるという魂の希求運動の収縮であって、おのずから、死に向いたがっている、、という意味ではないか?このように書いてしまうと、 自殺したがっている、、と安易に解釈されては困るのですが、、

    そうではなく、無意識に 下界<俗界>の 音から、引き離される事は、何も全てが悪い方の途上に向っているのではない、、と言う事、、俗世間の音って、とくにテレビの音、、あのテレビの声って、これ見よがしで、随分、酷いと思うのですね。

    演技する人の演技力がないと、 演技と声が分離しているように観えますよ。声に心が篭ってないで、いつまでも、記憶にたどって台本読みながら、演技しているようにまで見えてしまうんですね。 演技力というのは、声にその人の気持ちや心が入り込まないと、視ててもつまらないんですよね。

    別に、俳優や女優さんが綺麗だとかかっこいいとか、そういう視点で 映画やドラマみているのとは違いますから、、、そうそう、、それで、耳が不自由な高齢者の話しですが、、一緒に生活している人達の 言った事が伝わっていない事にたいする 家族たちの不満や、外を歩いていても、自動車、自転者の音も聞こえないので、事故にあう、、、という健常人の抱える不安が、高齢者の 心をい辛くさせているだけなのでしょう。

    亡くなった祖母は、「補聴器をつけると、聞きたくない音も聞こえるからつけない」と、 主張していたので、 聞こえたくない音とはいったいどういう 音なのか?と小さい頃考えた記憶が蘇り聞きたくない音と 聞きたくない声とは、同じ意味なのか? という視点で、聞いてみた。同居者の 愚痴を 聞きたくない人だっているはずだ、、と思ったからである。日本では、実態<結果>に 意味をおきたがるので、高齢者の世話をしている 若い家族の人達は、有無もなく 善人として理解され、倫理的にも 功徳を積んでいるように 恣意的に理解される傾向にある。しかし、高齢者の 心は、ズタズタに 傷ついている事がある事があるのですよね。

    自分が一人で生きられない事による介助の人に申し訳ない、、という思い<自責>が、多少の非人間的な対応にも我慢しなくてはいられない、、という状況を生むという事がわからない人達が多すぎると思う。結局、最後は、 依存関係によらない、隠蔽化されない、健康的な人間関係を続ける努力は 死まで続けるという のが 次元の高い世界つくりだと思う。

    犠牲や忍耐や我慢をあまりにも、美化し過ぎるという世界観が、土壌に浸透すると、 どういう事が 生じるか?というと、今度は、相手に対して、我慢したり忍耐心をもつのが当たり前、、という価値観を、相手に強いるのですよね。倫理や道徳というのは、結局、人間が造っているのでしょう。それは哲学的な意味の 本当に 真理や真実という事ではないと思う。何故なら、 魂の自由は、やはり喜びや平和や幸福感を伴なうものであると思う。同じ行為に、第三者には見えても、自由だからしているのであり、好きだからしているのであり、しあわせだからしているのである、、という次元に存在する行為は、回りの人達に与える 心理的な影響が全く違う。

    次元の高さを述べられなければ、信仰や宗教でも、ただの霊感商法に 尾ひれがついたような 部類と同じ存在をしていると思う。ここ20年、 オーム事件が生じたのは、日本の土壌に浸透する、霊感があるから 予知できるから、あの人は、正しいと 思い込んだり、信じ込む事の 危険を 提示したのだと思う。昔の聖人達は 預言者として載っているし、霊感がなければ、人びとに、納得させられる なんらかのコミュニケートができなかったのだと思う。

    しかし、そのような人達が、何百年後、普遍性や存在の検証されて、何千年も 続いているという時間の重さは、やはり、尊重すべきだと思う。

    それが、自分の民族的な風習に合わないから、、という理由で異なるモノ<人>と認識するのではなく、違うモノ<人>のおかげで、自分が違うのが分かる<認識でsきる>という事でしょう。ですから、他者を排他するのは、宇宙から観れば、自分を排他しているのと、同じなのですから、普遍化するという 漢字の 原語は、 ユニヴァーサル、、一つ(ユニ)に回るというラテン語の意味が、見えてくるのでしょう。

    自殺と他殺が同じ人間の裏表の意識の行為である、、と言う事はそういう事なんですよね。補聴器をつけたがらない 高齢者の方の話しから 筋が流れました。


    現代思想という雑誌はまだ発刊されているのでしょうかね?昔なんだか、難しい認識ばかりで、日常に身につかない哲学思考ばかり、読んでいる感じしましたが、、


    こちらの大学の哲学教授が中学生の教室で授業をする事など頻繁に行われているフランスの場を見ると、哲学は、他者とコミュニケートがとれなければ、哲学しているとは言えないのでしょう、、と思うのですね。子供の目線に立って話せるということは、他者がどのように コミュニケートをとるのか?という事を知っているのでしょうと思うのです。他者不在の 自己世界、語られても確かに、聞いてくれるのは、ごく一部、ごく部分の人達だけで、呼応するという方に存在するのでしょう。

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