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続 哲学〜真理〜探求について

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2013年04月18日 18時09分37秒

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    ボストンマラソンの無差別テロについて、思う事



    こんにちは
    ボストンマラソン場での、事件を テロ行為と見なすか?色々表現の仕方に躊躇している言葉が発せられているようなんですね。
    テロ行為にしても、声明文でも受けない限り、勝手に メディアは発信できないでしょうし・・・・今の処は、誰の行為なのか?わからない、、、それで、デゼキリブレの 人<達>の行為である、、と 述べてます。
    この デゼキリブレ
    déséquilibré という単語は、 エキリーブルequilibre バランスを取るのバランス、重心をつかめるの重心、均衡を保てるの 均衡、の 性格の持ち主・・・・
    つまり、バランス、均衡を持つ性格という意味で使うのですね。
    反対に、無差別にテロ行為に走る性格を持つ人達など、又、社会生活を成す上に、バランス、均衡をもてない性格の 人達を、デゼキリーブルと 表現するんですね。
    何かに 対象に異様に執着したり、何かをすごく妄信したり、何かをすごく美化してしまったり、何かの犠牲になる事又は、何かの犠牲になる事を 神にちかづくと、妄信してしまったり、、、つまり、すべてこのような諸々の 行為、社会生活を営む上で、自己のバランスや均衡が保てない、精神不安定<精神異常>の人達を表す時に、 デゼキりーブルdéséquilibreという単語を放つのですね。
    興味深いのは、この 均衡、重心、バランスを保つ性格を持つには、 自由 である、束縛されない、という単語リーブルLIBREを含むのですね。
    LIBREの前についている equi エキは、は、接頭詞で等しい、、という意味、
    その 前につく、désデ=反対の 逆の
    という意味、
    よって、精神不安定あるいは精神異常の性格と 放つ時は、断定の意味になってしまうのだけど、実際の意味は、自由で、束縛去れない、バランス感覚、均衡感覚を 持っていない、性格<人格>という 意味が、正しいのですよね。
    それを、言語化短縮しないとならず、精神不安定<精神異常>と言葉を 綴ったり 言語域の世界では通じさせているのですよね。
    ですので、精神不安定には、ある信仰を妄信する意識によって、バランスや均衡能力が欠けている事を意味するのですよね。
    たまたま、アルカイダであろうというレッテルによる判断が 優先されてしまっている、現代において、本当の意味するところは、そのような分析ではなく、何故?
    そのような 精神不安定や、均衡、バランス能力が欠けた精神異常者と見なす<本人は大概信仰、妄信によって自由精神を束縛され均衡を失っているので自覚はないし気がつかない>人達の、行為の的に 一般の人達が、受動態として無防備に立たされてしまっているのでしょう、、、という視点だと思うのですね。
    こういう事件が起こる度に思いますが、犯人自身も、生きてゆけない、存在出来ない閉塞世界の途上に存在しているのですよね。フランスの社会学者に デュルケムという学者がいます。自殺にしろ、このような無差別殺人の事件を知ると、デュルケムを考えます。以下転記します。
    最近は、アノミー的現象が本当に多いと思う。
    このような社会の状態に置いて、いつまでも、無我説を説いてばかりの宗教の教義ばかりを続けていいとはとても思えません。実際の話し、全く良くらない精神不安定の人達の 無盲目と思えるその場限りの他殺や自殺が多すぎると思うのですね。
    =================================
    デュルケームが社会学独自の対象とした「社会的事実」とは、個人の外にあって個人の行動や考え方を拘束する、集団あるいは全体社会に共有された行動・思考の様式のことであり、「集合表象」(直訳だと集合意識)とも呼ばれている。つまり人間の行動や思考は、個人を超越した集団や社会のしきたり、慣習などによって支配されるということである(たとえば、初対面の人に挨拶をすること、うそをつくのは悪いことだと考えることなどは、社会における一般的な行動・思考のパターンとして個人の意識の中に定着したものである)。

    彼は、個人の意識が社会を動かしているのではなく、個人の意識を源としながら、それとはまったく独立した社会の意識が諸個人を束縛し続けているのだと主張し、個人の意識を扱う心理学的な視点から社会現象を分析することはできないとして、タルドの心理学的社会学の立場を批判した。
    自殺の四分類 [編集]
    利他的自殺(集団本位的自殺) 集団の価値体系に絶対的な服従を強いられる社会、あるいは諸個人が価値体系・規範へ自発的かつ積極的に服従しようとする社会に見られる自殺の形態。 献身や自己犠牲が強調される伝統的な道徳構造を持つ未開社会、さらにその延長線上にある軍隊組織に見られる自殺・殉死などが該当する(一般人よりも軍人のほうが自殺率が高く、軍隊内では工兵や後方支援部隊の兵士よりも戦闘部隊の兵士のほうが自殺率が高い)
    利己的自殺(自己本位的自殺) 過度の孤独感や焦燥感などにより個人が集団との結びつきが弱まることによって起こる自殺の形態。個人主義の拡大に伴って増大してきたものとしている。 デュルケームによればユダヤ教徒よりもカトリック教徒、カトリック教徒よりもプロテスタント教徒のほうが自殺率が高く、農村よりも都市、既婚者よりも未婚者の自殺率が高いなどと言ったように個人の孤立を招きやすい環境において自殺率が高まるとしている。 ただし、宗教別の自殺率の比較は、その後の研究によって統計上の誤りが証明され、デュルケームが指摘するほどに大きな違いがないことが明らかになっている。
    アノミー的自殺 社会的規則・規制がない(もしくは少ない)状態において起こる自殺の形態。集団・社会の規範が緩み、より多くの自由が獲得された結果、膨れ上がる自分の欲望を果てしなく追求し続け、実現できないことに幻滅し虚無感を抱き自殺へ至るものである。つまり、無規制状態の下で自らの欲望に歯止めが効かなくなり、自殺してしまうもので、不況期よりも好景気のほうが欲望が過度に膨張するので自殺率が高まる。 宿命的自殺 集団・社会の規範による拘束力が非常に強く、個人の欲求を過度に抑圧することで起こる自殺の形態(彼はこのパターンは脚注において説明しているに過ぎない)。デュルケーム自身は、この自殺類型に関して具体的な事例を挙げていないが、宮島喬氏は身分の違いによって道ならぬ恋を成就できずに自殺へ至る「心中」がこれに該当するものとしている。

    アノミー [編集]

    アノミー (anomie) は、社会秩序が乱れ、混乱した状態にあることを指す「アノモス(anomos)」を語源とし、宗教学において使用されていたが、デュルケームが初めて社会学にこの言葉を用いたことにより一般化した。デュルケームはこれを近代社会の病理とみなした。社会の規制や規則が緩んだ状態においては、個人が必ずしも自由になるとは限らず、かえって不安定な状況に陥ることを指す。規制や規則が緩むことは、必ずしも社会にとってよいことではないと言える。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%A0

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