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続 哲学〜真理〜探求について

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  • from: 沙羅(Sarah)さん

    2013年06月21日 16時14分04秒

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    平等意識の本当の意味

    ある時、このブログの前身でもある、今はお亡くなりになったMSN時代哲学サイトをたちあげられた、めるろ~さんから「日本の新聞のコラムを読んで
    運動会の徒競走で、子供達に・・・・順位をつけるのは、よろしくない・・・・という事で、ゴールは、皆で手を繋いで、一緒にゴールをするという事が、道徳的に善の行為と判断する事、これを民主的判断と
    考えるのは、おかしいと思いませんか?」という質問を受けた事がありました。

    当時、「あぁぁなんだか、それは、わたしの心に聞いても同感出来るエレメントは不在に思いますし?外国では、聞かない善意識に思いますけど?」という反応したと思うのですね。
    自分の心の中に、同じ共感できる思いを探す、自分の
    心の奥に、他者と共感出来る、納得出来る思いや 感情が沸くのか?という事を
    探しにいく・・・・それで、不在だと、「なんだか、変でしょう?違和感かんじますが・・・」という返答をする。
    自分の心の中に探しにいって、ヅレや違和感を感じるというのは、もうしょうがない感覚なのだと思う、

    自分(貴方の)の感情・・・それは正しいとか間違いだとか、そのような記号上で表象事象を感情に任せているのではなく、心に不在の感覚を、外部の人が、「正しいでしょう?」とか「違うでしょう?」とコミュニケートしながら、善悪判断の物指しが、出来上がる・・・という途上にあるのでしょう・・・・・そのように、他者とダイアローグをしながら、他者達と接点<合意点>を見つけるという行為の途上に存在するという事で、他者共存での世界でしか、心の進化も、協調性も、生まないと思うのですね。自分を本当に分かるのは、他者を介してのみ・・・・という現象学の手段が活かされるのですよね。つまり、孤立<引き篭り、うつ病>するというのは、自分の存在をみつけられないという状態なのは、現象学意識の実践に至らない・・・・という事だと思うのです。

    このサイトの前身は、メルローポンティー、現象学の哲学人のハンドルネームをもつ、めるろ~さんが立てられましたね

    元へ
    ですから
    経典や聖書に
    何々、コレコレ、こう書いてあるから、これが正しい・・・という言説に至るのは、おかしいと思うし、存在性も見えないですし、その固定観念に縛られる事自体が、執着とか、煩悩とか、呼ぶのだと思うのです・・・・
    何故なら、その存在の仕方は、一方通行だけですから・・・・・
    むしろ、一方通行の 言説のみが、存在するのなら、一方通行の言説を放つ個人に、追随するという従属的な関係で結ばれている共同体のみです。その共同体の 雰囲気が、閉塞感とか、隠蔽化していると、社会の人達が判断するのですよね?

    グルとか教祖や、現人神宗教人呼ばれる人達の処に集まって造らなければならなくなってしまう・・・・いわゆる 社会の弱者達を最初から標的にしたような、信者の集め方によって普遍化しようとしている、宗教団体の質を 述べているのであり、信仰している 信仰を云々議論していてもしょうがないと思うのですね。

    いつも、信仰している 信仰教義の経典を引っ張り出して、云々エンドレス議論をする宗教人達の目的は、結局、全員が、「わたしの信じている宗教や信仰は、正しいでしょ?」と 相手にも 思って欲しい・・・認めてもらいたい・・・・・

    ただ、そのような 思いや願い・・・・欲望・・・執着・・・から生じているのでしょうと思います。

    本出したり、どこかに呼ばれて講演したり・・ま、それでもよいのだけど、大衆や民衆に求められるから、・・・・・普遍化するという途上の存在の仕方には、本当に 次元高い世界の 神秘的な 力添えでの事なんでしょうかね?

    大衆や民衆は、情に流されるという 感情が表象しているのですよね。草枕の冒頭を読んでも、わかりますが、、、
    二本語を話すという事は、日本語の型の構造を自分で造って、日本語を話す、日本人と呼応しながら、コミュニケートする・・という社会を造っているのですよね?
    自分の外に真理がある・・例えば、超越という現象学の意味は、日本語で考える外の世界<日本語以外の世界>へのコミットにも思えます。

    情は感情でも良いけど・・・・流れるという日本語は、水の性質・・・・情が燃える・・・とは言わないですからね・・・

    水は、 上から下にしか流れないんですよね?

    火は、 上に炎むけますからね、、、、

    心が潤うとかね?癒されるとかね?多分 水分って、心が安心するのですよね。

    でもそればかり、他者に癒してもらいたく、または自分も他者に優しくする事は、善の意識であると思い込んでしまい、善悪の判断の物指し自分の感情のみで造り上げていく


    つまり、水のエレメント、、情・・・を強めていく・・・・

    ちなみに、虐め<いじめ>は、フランス語は、humiliation ユミリアション・・

    語源には 水の意味を含む、HUMIDITE ユミデゥ=湿る、ぬれた
    からきています。

    屈辱、侮辱、謙虚、恥辱 恥をかく・・・・・・・

    このような感情を表す 単語は、 水 という意味の語源から発生する単語を使っているんですね。

    何故?

    いじめ・・・という意識が、土壌に生じてしまうのか?

    という社会問題の根底に沈む人間の弱点もちゃんと、正面から観なければいけないと思うのですね。最初から、ただ優しいひと、ただ出来た人、心の広い人、云々と、情を靡かせて、ウルウル感情を、自己内で、放し飼い状態・・・というのも、考えものなんです。何故なら、裏を返せば、同一の人間には、憎しみや、憎悪感と 一体になりやすい・・・という弱点も持っています。
    ですから、癒し産業 大流行ですけどね?ちゃんと洞察力がないと危険ですし、知識人、宗教人、教育人が、何らかの普遍性を持つとしたら、一般に根ざすはずですから・・・・大衆、民衆の弱点を十分知っていますよ。
    、、何というか。津軽海峡冬景色じゃないけど、流行歌で終わり、2011年年末の紅白歌合戦で、トリが歌う・・・・・・津軽海峡冬景色・・・・まぁぁ、、歌で終わるのならいいのですけどね?
    2011年は特別な年でしょ?演歌(情)で一致団結、エイエイオー、ガンバロウ、日本・・・・という 雰囲気つくりは、水で固まってしまう・・・民族の性格なのか?と思います・
    何か違うような気がしまう。火は、どうした?火は、精神<エスプリ>なんですけどね?

    話しもとへ
    どうも、知識人は、
    最初から、「わたしは、これこれ、こういう宗教を信じています」・・・・それだけ・・・という存在の仕方ではなく、見返り<わたしを受け入れて欲しい、認めて欲しい>など期待しているからだと思うのですね。

    専門分野に拘るのがいけないではなく、その前にあると思うのですね。一般的な人達との心の会話です。普遍性は、年齢違いや男女の違い、職種に関係なく、どの人の心にも届くという
    人間らしい言葉を放つ事が必須に思えます。
    いつまでも形式や依存関係に頼る組織内での従属関係を
    強調した存在の仕方では、人々の心に存在しないのではないか?と思うのですよね。
    ちょっと話しがそれましたが、運動会の徒競走の話し
    自分は日本人だから<条件>、ご飯が美味しいと思うに決まっているでしょ?・・・・という単純な自己投影判断ではなく、自分が、運動会のかけっこをしていると仮定してみる、皆で一緒に、ゴールする場面を想像する、
    これは、そんなに嬉しい体験に感化出来るのか?と思うと、そうは思えないし感じない。なんだか、大人は子供を随分馬鹿にしている接し方をしているように感じるのは、わたしだけだろうか?むしろ、不愉快な感じをもたされるのですよ。
    一生懸命走りたいという
    こちらの欲望は無視されて、結果ばかりを過敏反応している大人達が、「はい、はい、、みんな、お手て、つないで、ま横に一列になって、一緒に、ゴールするんですよ~・・・いいですかぁぁ?
    一緒に、ゴール、一緒に、真横一列になって、ゴールですよう・・・誰が早くても、誰が遅くても、いけませんよ~・・・・一緒に、真横になって、ゴールデス~・・・・・・」
    ここまでしつこいほど書かないと、分らないのではないか?と思いながら、書いたのですが・・・・
    この状況を大人が正しいと思い子供の為にお膳立てするという世界観に、わたしの心は、すごく、しらけるのですよ。
    しらける・・・という気持ちを持たされる子供がいる・・・という
    存在が、全くわからない 大人達が、運動会のゴールの仕方に過敏になるのでしょうね?
    もちろん、みんなと一緒に、ゴールという風景を
    見て、中には、美しい平等主義と、うるうるする大人もいるんでしょうね?
    子供自身も、「あぁぁぁ、よかった、ビリにならないですんだ」という安心感を持たされる事で、大人がホットするのでしょうね。
    あのですね?このような外国にはそのような心情や感情は育たないであろう・・・と思う不在であろう、何かが違うでしょう?という感覚を持つのですよね?
    原因分析すると
    なんだか、人と差をつけられる事にオドオドさせられている
    ・・・多分、生まれた時から既に持たされてしまっている自他を比べた上で、生じる違い<差>・・・優位点にジェラシーを感じてしまう、受け入れられない自他の差<違い>。本とは、差ではなく、違いとして捉えないと自分の存在を愛する、愛おしく思う心が育たないと思うのですね?
    従属社会<依存関係>でなりたつ世界では、どうしても
    自分と他者との違いに優劣をつけないと気がすまない社会らしいんですね。
    又、人々の卑下の意識に我慢や怒りを持たされ、何らかの卑屈精神が、平等<EGALITE>精神に取り替えられてしまっているのではないか?とも、分析したりする。多分、自分を愛する事を忘れてしまって、自分は他者と比べる事でしか、存在性が見えなくなっているのではないか?そのような知識人が、政治家や教育者や宗教人の立場になって、国を動かそうと
    ガンバリズムに徹しているのではないか?と思うのですよね。人と違う事が当たり前なはずなのに、違う自分を愛すことが出来ず、他者を愛すことにだけ
    真の意味を見出し、犠牲的な精神を <偉い人>と判断しがちな
    モラルが価値を持ち出すのも、これも本来健康的な人間で生きなければならない人間が、バランスをうしなった歪な世界に思えます。本当に普遍性をもつのであろうか?と懐疑するんです。

    甘えと傷つく・・・・は同一人物に生じる裏表の感情なんですね。心理的に依存しているから離れられないから、愛したり満たされなかったら、憎しみを持つ事で、離れようとするらしいのですが、憎しみを持つという事自体が、対象に依存しているのですよね?
    だって、依存しないというのは、相手はどうでもいいのですよ。自分がしっかりすれば・・・愛も憎しみという感情を
    抱く事はないのでしょう?自分が離れたいのに、離れられないから、憎しみという感情がわいてしまうのだと思うのですね。それが出来ないと、自分は駄目だ・・・という
    卑屈な心情を生じさせる・・・謙遜は 度を超えると、相手に不愉快な感じを持たせると思います。自分をへりくだる事で、相手を持ち上げるという
    表現はわたしは、自分の心が、そうならないようにしたいので、使いませんが、何故なら、相手が、相手自身をへりくだって、私を持ち上げて褒めても、全く良い気分などならず、不愉快になるからです。
    自分が、嫌だと思ったら、相手にも言わない・・・ただそれだけ・・・
    これだけ、心理的、精神的な病いを総生産させる社会の質は、
    何もかも、不安定な経済機構や雇用問題に還元せず又自然天災によるトラウマを持たされた人達の心が病む問題もそうですが、、、少し、こういう時期だからこそ、真剣に人間恐怖症や希薄な人間関係になった理由を考えませんか?
    自分の肉体的、知的な弱点を相手に対して、恥ずかしいと感じない関係が、安らかな関係でしょう。そして、そのような関係においてこそ、人は、心理的に成長できると思います。

    自他の
    違いを 差と解釈させられてきた、「子供の心を、傷つける事はいけない事?」という過敏呼応を、まだ、傷つく心を育てていない時期の
    無垢な子供達の心に丸投げし、
    人と人の違いを弱点と判断という教育委員の不健康な歪世界・・・
    「そんな事、どうでもいい、一生懸命、僕は、走りた~い!」という、子供の希求運動の
    芽は、無残にむしりとるという大人の無神経な横暴さ、
    それも、「平等」という、善の倫理道徳だと
    信じ込んでやまない、知識人。
    あのね?
    善悪の判断は、
    次元の低い目的の為に、次元の高い目的である本来の途上の意識が、結び付けられてしまう事・・・・・それを、悪の行為とか悪の判断と哲学では表現するのですよね、
    善悪の本末転倒は、人間70年くらいの短いスタンス内で、呼応しあっていては、未来観がなくなりますよ。
    レ、ミゼラブルの、ジャベール警官の人生と同じでしょう?
    悪(者)と思い、何処までも、探し回る<悪を追い回す行為が生きる目的としてなりたってしまうという人生>・・・・でも最後は、生きられなくなって自殺する・・・・
    よくよく、何か信じている事一つを追う、執着する、手に入れたく<身につけたく)「ガンバル、ガンバル、ガンバル、がんばろう、日本」と呼応する。
    何か?観ルとこ、違いません?と述べたくなる自分がいるのですよね、

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