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シムダンス「四次元能」

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ここは自己生成の門ーーー宇宙の原理「動的作用反作用」を使って精神革命の臨床実験中!

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  • from: 生成門さん

    2017年04月24日 12時35分01秒

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    時は存在するが時間は存在しないことへの反論

    2017年04月22日(土)43 tweets
    source

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    アカデミズムに対抗する科学。それはS科学と記憶科学である。説明力ではS科学である。記憶科学は未来の科学である。
    posted at 22:12:35

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    アカデミズムに逆らうまともな科学は今のところS科学と記憶科学である。
    posted at 22:08:00

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    S科学は怪しいと考えるかも知れないが、それは佐野氏の科学的以外の言動に原因がある。佐野氏は科学ではプロでも日常のことには素人である。だから誤解が生まれる。更に、S科学はアカデミズムを破壊する。だから非情な力が働く。
    posted at 22:04:52

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    オカルト・インスピレーション・直観・霊感・タイムスリップ・タイムマシン・テレポートが確率論によって説明できてたまるかということである。しかし、一方でS科学はそれを説明する。問題はその説明力である。
    posted at 20:47:46

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    オカルト・インスピレーション・直観・霊感・タイムスリップ・タイムマシン・テレポートなどは非科学的な概念であり、現代科学では当然否定される。しかし、量子論の登場によって、その理論がそれらに正当性を与える根拠に使われ出した。その根拠は妥当なのだろうか。もちろんノーである。
    posted at 19:11:55

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    岡潔の論理は自らの定義によって自ら破綻した。時(間)は存在する。そしてt=x/cとして時間を決めた相対論は循環論だから破綻しているという弧理論も破たんした。時は主観で時間は客観というのも言語論から破たんした。
    posted at 15:19:52

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    岡潔は時は存在するという。風呂の時は確かに存在する。風呂に入る時、数えるかどうか別として時の経過がある。記憶の流れがある。数えれば時を顕現することができる。ここで初めて時をtとする理由が出てきた。だからN=tとする。
    x=LNはx=Ltとなる。
    x/t=Lはvである。
    posted at 15:11:32

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    風呂の時が存在するなら記憶も存在し、運動も存在する。風呂の人は移動していないが、数を数えるという行為はしている。だから運動はしている。道元は有時と言った。有は存在である。だから存在は時である。風呂の時は存在であり記憶であるということになる。
    posted at 14:56:25

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    風呂に入っている時は数を数えている状態が持続している。風呂の時が持続しているのである。岡潔は時は存在するといった。運動は過去の記憶であり、時であると言う。移動はしていないが風呂の時も運動の形態である。
    この考察から風呂に入って数を数える行為は時である。従って時は記憶である。
    posted at 14:51:38

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    時間を他の何にも依存しないで定義できるかどうかの思考実験をしている。今、取り出したのは数である。数を数えることで距離と速さを決めることができる。
    風呂に入っているときに数を数えるということは移動していないから距離は出てこない。では何が出てくるのだろうか。
    posted at 14:44:26

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    距離は速さと数、速さは距離と数で決まる。しかし、まだ、時間は出て来ない。
    風呂に入って数えることが時間だと言ってしまえば話は簡単なのであるが、時間は存在しないという主張を論破するためには、時間を持ってこないで時間を定義しなければならないので厄介なのである。
    posted at 14:25:14

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    少し混乱してきた。纏めると、物体が移動の速い遅いは、ある数える間にどれだ移動したかである。風呂に入っている間の数えるのとは関係ない。その数の間にどれだけ動いたかを決めるのは、物体の速さと風呂に入っている数だということである。
    どっちにしても距離は速さと数、速さは距離と数で決まる。
    posted at 14:22:04

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    空間距離と風呂の数える長さが等しいとは
    風呂に入っている間に数えた数と走った距離が同じだと言うことである。
    しかし、動く物は風呂とは関係ないから一般には
    x=LN
    である。
    物体の速さを
    L=x1/N1
    とすると
    x=(x1/N1))N
    となる。
    posted at 14:10:46

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    さて、空間距離の長さと数を数える長さを空間距離を使って示してみよう。空間距離の数えることはできる。
    空間距離(数=x)
    風呂で数(N)を数える
    L=x/Nだから、x=LN
    となる。L=1とするとx=Nとなる。空間距離と風呂の数える長さが等しいとはどういうことだろうか。
    posted at 13:58:10

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    空間距離の長い短いはここからあそこと言って示すことができるが、風呂に入っている間の長い、短いを具体的に示すことはできない。体感するだけである。長ければ数が多くなるだけである。
    posted at 13:45:06

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    数を数える
    123,,,,N
    これは風呂の上りを決める式である。
    風呂に入っている長さを決めるのはNである。数えることが遅い早いを決めたり、長い短いを決めるということである。長い短いは距離であるが、空間距離の距離とは違う。では一体どんな距離なのだろうか。
    posted at 13:39:15

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    数を数えることで早い遅いを決める式を
    L=x/N
    とした。時間は出てこない。
    速度はv=x/tだから数Nは時間であると言いたいところであるが、それはまだ早い。そこで子供に風呂から上がる時に数を数えさせることの意味を考えて見よう。これは暗黙の時間である。しかし子供には時間はない。
    posted at 13:30:59

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    数を数えることで100m走でどっちが早いか決めることができる。もちろん数が少ない方が早いということになる。ここには時間はない。早い遅いとは何を意味するのだろうか。a=100/j,b=100/kとしたが、一般化すると、数をN距離をxとして、その比をLとするとL=x/Nとなる。
    posted at 13:20:21

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    100m走でストップウオッチなしで、脈拍でどっちが早いかを決めることができた。脈拍でなくてもよい。数を数えことにしても同じである。ただし、精度は別問題である。
    posted at 13:11:56

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    100m走で脈拍を基準にどっちが早いかを決めた。
    a=100/100=1m/拍、b=100/10=10m/拍となり、明らかにbの方が早いということになった。脈拍数が数が少ない方が早いということは、bは10を数えたとき、aは100を数えたときゴールしたということである。
    posted at 12:03:24

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    100mを走る。その時、二人は別々にスタートするが脈拍を取る。その結果をa=100/j<100/k=bとする。
    a=100/j<100/k=b
    1/j<1/k
    j>k
    j=100,k=10とすると
    a=1m/拍、b=10m/拍となり、明らかにbの方か早い。
    posted at 11:56:34

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    100m競争で二人が別々に走った場合、どうやってどっちが早いかを決められるだろうか。ストップウオッチは使えない。そこで脈拍を使うことにしよう。人によって多少の違いはあるが思考実験だから同じとする。これなら同時に走る必要はない。場所も関係ない。走る距離が同じだけという条件である。
    posted at 11:21:59

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    100m競争で着順を決めるのは簡単である。ゴールに待ちかまえ、着順に番号札を渡す方法である。今でも運動会ではそうしている。ここに時間はない。早いか遅いかである。さて、いよいよ思考実験に入る。もし、100m競争を別々には走ったらどうなるかである。もちろんストップウオッチは使えない。
    posted at 11:15:33

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    時間とは虚構であり観念であるを論破してみよう。逆に言えば時間は何かを定義するということである。精神革命の臨床として有効な方法は思考実験である。思考実験で100m走から時間を定義してみる。ストップウオッチは使えない。どっちが早いか遅いかを決めなければならない。さてどうするか。
    posted at 11:08:26

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    時は存在するが時間は存在しないと言っても困ってしまう。しかし、それを本気で考え、弧理論というものを作り上げてしまったのだから恐れ入る。しかし、時間のないエネルギーと言ってもピンとこない。
    posted at 10:31:02

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    時間を光速度cを用いて定義するには、その前に時間が分かっていなければならない。なぜならcとは距離/時間で求められるからである。アインシュタイは光速度cを用いて時間を定義するという決定的論理ミスをやったとなる。この主張は本当の正しいのだろうか。
    posted at 10:24:30

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    確かに、相対論に於いては光速度は一定だから、これほど客観的な物差しはない。だから、t=x/cとすると、任意の距離を光が移動する時間は計算できる。つまり、時間が決まる。一秒は光が30万キロ進む時間ということになる。何か騙されたような気もするが、これが弧理論はインチキだという。
    posted at 10:20:18

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    弧理論が相対論を循環論だとする根拠を相対論の決定的な誤りに依拠している。
    http://www5b.biglobe.ne.jp/~sugi_m/page254.htm...
    速度=距離/時間
    である。
    時間=距離/速度=距離(時間/距離)=時間
    時間は時間である。これがおかしいというのである。
    確かにそう思える。本当だろうか。
    posted at 10:09:35

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    E=mc^2に於いてc=x/tである。t=x/cだから次元だけでいうと[T]=[M/M/T]=[T]である。つまり、時間を時間で決めていることになる。だから相対論は循環論である。これが岡潔の主張である。確かに理がありそうである。本当だろうか。
    posted at 10:00:21

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    岡潔を受け継ぐ弧理論のΦ(nsw495kpr8)氏は、時間が存在しない根拠を相対性理論に求める。E=mc^2の次元は
    EはML^2T^(-2)
    cは光速度LT^(-1)
    である。式の両辺に時間[T]が入っている。これが問題だという。
    posted at 09:46:34

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    岡潔は運動/時間の比率は、未だ決定されたことはないと言う。運動は位置の移動だろうからΔxとすると、時間の変化をΔtとするのと、その比は
    Δx/Δtとなり、所謂、速度vである。
    v=Δx/Δt
    が決定されたことがないというのはどういうことを言っているのだろうか。
    posted at 09:28:13

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    時間意識という精神革命の臨床を続けよう。
    時間は存在するのか存在しないのかである。
    岡潔は存在しないという。その根拠が運動は時間から求め、時間は運動から求めているという循環論理があるからだという。卵が先か鶏が先かである。
    posted at 09:19:32

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    精神革命の臨床の二人称モデルは、他者の記憶(言説)を利用して類推を重ねて意識を変容させる離散融合更新循環である。
    意識n+1=意識n
    記憶n:類推n⇒意識n
    nは自己同一
    ⇒は循環
    :は媒介項
    =は離散
    n+1は更新
    である。
    posted at 09:16:09

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    これは精神の臨床である。頭の中で何がどう変化するかのテストである。他者の言説は記号である。他者が自己になる。二人称の関係である。その記号は記憶をハンドリングしている。意識=記憶+類推である。記憶:類推⇒意識(精神)の三項が、精神革命の臨床の二人称モデルである。
    posted at 09:07:21

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    時と時間の記号論
    SA(主観の時)⇒SE(時のイメージ)
    SA(客観の時間)⇒SE(時間のイメージ)
    主観=客観だから
    SA(時=時間)⇒SE(時=時間のイメージ)
    時とか時間は人間の都合で言い換えたに過ぎない。どう言い換えてもその意味するモノ(イメージ)は彼岸にある。
    posted at 08:52:49

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    言葉は差異を表現する。
    SA(シニフィアン=言葉で表現されたもの)⇒SE(その表現されたものの対象)
    SAとSEはセットとなる。当然SA1/SA2/SA3/,,,///となり差異化される。
    虹の色は差異である。この論理を時間に当て嵌めてみる。
    時間はSAであり,時もSAである。
    posted at 08:43:59

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    時間と時の話に戻る。客観が主観でしかないなら、岡潔の言う時は主観的感覚で時間は客観的観念であるは、おかしなことになる。時間も主観(共同主観)ということになる。従って、時が存在するなら時間も存在する。これによって岡潔の論理は破綻した。岡潔は記号論を知らなかったということである。
    posted at 08:36:16

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    虹が相対的客観なら相対的差異でしかない。差異は感覚で認知して認識となるのだから主観(五官)をベースとする。その主観が共同体の中で客観視されるのである。だから客観は共同主観である。共同幻想と言った人もいる。
    posted at 08:30:43

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    記号論で言う差異から時間と時を吟味してみる。虹が七色というのは現代に於いては客観的事実である。しかし、国によっては五色、三色だったりする。その国の人にとっては客観的事実である。これは何を意味するのだろうか。国によって違うのだから絶対的客観とは言えない。だから相対的客観である。
    posted at 08:26:40

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    五官としての時と観念としての時間はどう違うのだろうか。言い換えると主観の時と客観の時間だということだろう。もし、そうなら主観は存在するが客観は存在しないしないということになって、唯心論と唯物論の議論になる。しかし、今は深入りしないでおく。
    posted at 08:19:57

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    岡潔は時は存在するが時間は存在ないしないという。時は過ぎゆく運動の記憶だから、時の記憶は存在するが時間の記憶は存在しないと言ことになる。
    時は感覚できる過ぎゆく運動だという。時間は観念であるという。これを理解できる人はいるだろうか。
    posted at 08:16:21

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    岡潔の主張
    *運動は時間から求め、時間は運動から求めている。
    *運動/時間の比率は、未だ決定されたことはない。
    *時は存在するが時間は存在しない。
    *時間は観念であり、実際に存在するのは運動(時)だけ。
    *科学は間違っている。
    *時間とは過ぎ行く運動の記憶である。
    posted at 08:11:23

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    時間は存在しないという岡潔を受け継ぎ時間を含まないエネルギーをベースとする弧理論を展開しているブログがある。
    http://www.kodenjiki.com/time.html
    本当にそんなことが言えるのかどうかを吟味してみる。
    記憶科学も時間の虚構性を主張しているので被るところがある。
    posted at 08:05:03

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