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シムダンス「四次元能」

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  • from: 生成門さん

    2021年02月23日 09時37分18秒

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    キアスム則(四つの象限の相互作用)

    これは過去の記事:複素平面の認識のレビュー。

    第一と第二象限の認識の共通点ーーi優位、自己が中心

    意識が自己から対象に向っている。

    第三と第四象限の認識に共通点ーー-i優位、他者が中心

    意識が他者から対象に向っている。

    他者とは自分の中の他者。

    i優位の認識は自分で切り取った世界の認識で、自己が含まれていない。

    認識の主体としての自己は世界の外にいる。

    単位円の中にいる。単位円の外が世界。

    自己=内と世界=外の関係

    内と外の関係が逆転している。

    世界=認識の対象=物を( )とする。

    世界の外にいるという意味で、自己( )であり、(+1)

    認識の主体としての私は世界の外にいる。

    外部の他者から見ると内部となる。

    見るものと見られるものの関係が対峙するのが第二と第一象限。
    自己→対象。

    しかし、自己が自己を見るということはある。

    これは対象に自己が含まれている。
    自分を対象としている自己言及。

    見るものと見られるものの関係が対峙しない、自己と他者が区別できない、見られるもの中に自己が含まれる場合はあるか。

    それは第一でもなく第二でもなく、第三でもなく、第四象限でもなく、自己言及でもない。

    これは、どういう場合か。

    それが絶対矛盾的自己同一であり、即非共振状態であり、MP状態。
    無我夢中で我を忘れて、その対象に没頭しているときは、自他の分岐がないのですからMP状態。

    これが超越者の立場。

    超越者と一人称の立場は根本的に違う。

    では、超越者と当事者とは違うのか。

    例えば、音楽を聴くことに没頭している人は当事者であり、一人称であり、超越者。しかし、音楽を聴きながらも自分の意識がある場合は、超越者ではなく、i優位の一人称の自己であり、没頭しているとは言えない。

    従って、当事者という場合は、その精神状態を吟味しなければならない。

    個別の認識とは。

    第一と第二象限は、私という一人称の世界観(認識)が生成されるところ。

    一人称の世界観(認識)は、i優位=自己中的。
    つまり、主体の感性によって色づけされているので、偏っている。

    その典型は芸術であり、宗教。

    芸術や宗教は一人称。三人称の芸術や宗教が存在しないのは、当然。

    宗教を科学するとか、芸術を科学するなどと言うことがないのは人称と関係する。しかし、全くないかというとそうでもない。

    私の信念は私の主観であり、それを客観化するということは在り得る。

    三人称の信念とは何か。

    それは皆が信じること。共同主観=文化は主観が客観化されたもの。

    つまり、ー1。

    文化に従って無意識に思考するのが、-i優位、第三象限で、無意識に行動するのは身体的表現、第四象限ということになる。

    科学でも最初は自己の主観的体験で直感するところから始まる。それが主観的仮説として構成されるが、そのままでは受け入れらいないので、私なりの実験を繰り返して客観的仮説として論理的に思考する。

    それが論文として表現され、公表され、認めら原理や法則と呼ばれるもの-1になります。これが主観が客観化された例。

    信念に基づいて行動するとは、第二象限の一人称の信念(それが正しいと私は思う)が、第一象限に行動として現れることを意味する。

    「犬も歩けば棒に当たる」を複素化して見る。

    「「犬も歩けば棒に当たる」と私が思っている」なら第二象限の認識。それで実際に「犬も歩けば棒に当たる」ことを体験したなら、第一象限で認識したことを意味する。

    しかし、諺に「犬も歩けば棒に当たる」とあるから正しいと思っているなら第三象限の認識であり、それを「犬も歩けば棒に当たる」と他人に口にしたら、第四象限で認識していることを意味している。


    -i優位の認識は他者の思考で数学がその代表。

    私の主観が入る余地などない。数学の世界に私(一人称)は含まれていない。ここでは、自己主張という色合いは消えてしまっている。

    数学の思考は常に一般化されており、三人称の視点、つまり、他者中心的(客観的)。主体の感性によって色づけされた数学などありえない。

    つまり、他者の思考とは、誰でもが認めるということを前提にしているので、偏っていない。その典型が数学的、哲学的思考。

    一人称の数学や哲学は存在し得ない。私だけの数学なんて聞いた事がない。

    しかし、オイラーの公式とかプラトンの哲学という言い方をする。私的な数学や哲学があるともいえる。

    オイラーが発見した当時は、確かにオイラーの個人的な思いでしかなかった。だから一人称の式と言えた。

    その後、多くの人に認められたことで、公式として格上げされたことで、第三象限の位置を獲得したと言える。

    ただし、オイラーの式を数学的に頭の中で思考することは第三象限、それを表現した式は第四象限。

    一般に数学的に思考することは第三象限であり、それを身体的に表現すると第四象限になる。

    プラトンの哲学についても、同様のことが言える。誰でも「私は何者か?」と問うだけで哲学はすることができる。それはまだ第二象限における「生きるべきか?死ぬべきか?」と悩むことであり、その姿は第一象限の私。

    一人称の主観的思いは哲学(第三象限)とは呼べない哲学的問い(第二象限)。

    プラトンの哲学で思考することは第三象限。
    プラトン自身が思考していた時は第二象限の認識だった。

    第三と第二象限の鬩ぎあいがあって、流動的に揺らいでいるということであり、その境界をはっきりとさせることはできない。

    複素平面で考えるためには、常に、第一と第四象限、第二と第三象限の同時性と自他の鬩ぎ合い、第一と第二、第三と第四象限の鏡像関係を考慮しなければならない。

    複素化することは四つ象限のキアスム構造(鏡像分岐・交叉反転)を認識することであり、キアスムは常にMPを介して行われる。

    四つ象限のキアスム構造(鏡像分岐・交叉反転)の内、第一と第二、第一と第四、第二と第三、第三と第四の関係は比較的分かりやすいが、交叉の関係、つまり、第三と第一、第四と第二の関係は分かりにくい。

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