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シムダンス「四次元能」

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  • from: 生成門さん

    2013年11月19日 20時47分55秒

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    含意を知っている人は意図して使っているかも。気をつけよう。

    含意を知っている人は意図して使っているかも。気をつけよう。
    <神の数学との共振:直感を論理する>
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200509044

    直感論理とは含意=仮定法であり、理性であるというところまできました。ただ、仮定法A→Bが含意¬A∨Bであるということが論学を知らない人にとっては理解不可能ですよね。当の四次元能も同じです。そこで円周率の例でもう少し詳しく見て行きましょう。

    直観主義論理
    http://www.ne.jp/asahi/village/good/logic-intuitionistic.htm

    含意(ベン図)
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%96%E7%90%86%E5%8C%85%E5%90%AB


    A→BはA=「円周率πの中に、7が20回連続して現れる」ならB=「円周率πの中に、7が19回連続して現れる」という事実?の表現です。本当に事実かどうかは疑わしいのですが当面はそれで行きます。

    簡単に表現すると「20回が起きるなら19回も起きる」となります。こう表現すると事実だと思えますよね。ここまでは常識の範囲です。これを¬A∨Bで表現するとどうなるのでしょうか。

    「20回以外か或いは19回が起きる」という表現になります。何ことかさっぱりですね。でも論理としてはこれで正しいらしいのです。今、連続して15回(20回以下)現れたとするとAの¬とBの¬という事実が生起したことを意味します。これはAとBの外側の赤の部分に相当します。もし19回ならBの内側の赤の部分に相当します。20回ならAとBの内側の重なった赤の部分に相当します。

    問題は白い部分です。Aの内側ですから20回が起きたことを意味します。しかし、Bの外側でもありますから19回は起きていません。これは何を意味するのでしょうか。「20回は起きたが19回は起きていない」ということです。最初の文を見て下さい。A=「円周率πの中に、7が20回連続して現れる」ならB=「円周率πの中に、7が19回連続して現れる」とあります。「連続して」がありますね。つまり、20回が起きたなら19回も起きるということですね。これが「AならBである」ということの直感的なイメージ(AとBが重なった赤い部分)です。言い換えと、20回が起きたなら19回以外は起きないということです。ということは白い部分は絶対起きない不可能な組み合わせだということです。

    如何でしょうか。二つの起きることの組み合わせを文章にしただけでは見えなかったものが見えてきました。含意というのは暗に含んでいると捉えても良いのではないでしょうか。これを日常会話では殆ど無視しているのですね。逆に言えば含意を知っている人は意図して使っているかもしれませんね。気をつけましょう。

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  • from: 生成門さん

    2013年11月19日 20時04分53秒

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    直感を論理する

    直感を論理する
    <神の数学との共振:自業自得が理業理得のことであり、リ・インカーネーション(輪廻)の数学(再帰理論)である>
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200507876

    カントの理性は思考を拡大することだと言いました。それは論理的に考えるということなのでしょうか。論理と言うと論ずる理ですので知的な臭いが強いですね。弁論や議論とはまさにその典型です。しかし、知性だけでは生物らしくありません。人間は生き物ですね。ですから感覚があり直感を大事にしています。知性と感性が現実認識を生成し、それを肥やしにして理性は育つとカントは言いますし、その現実を超越するとも言います。その極限が空や神という概念です。どうも論理は知性のみの思考を理性の代表にしているように思えます。それでは不満ですね。最近では直感論理と言う論理があります。十分使える代物なのでしょうか。筋道を基本に考える知性に筋道を考えない直観が混じった論理と言うのはそれ自体矛盾していると思うのですがうまく成り立つのでしょうかね。

    ファジー論理というのはその応用例ですが、確かに勘を数値化すればある程度は論理化出来そうですね。しかし、閃きと言うのは論理で説明できるものでものないですよね。もっとも理性が現実を超越するものなら現実的認識をバネにして飛躍するのが直観論理(理性)と言えなくもありません。果たしてそこまでの論理として熟成しているのでしょうか。人工勘能とは言わないで人工知能と言っているのは全然その域には達していないということでしょうね。勘の働くロボットが存在していないのはその証拠なのでしょう。

    仮にそうであっても直観論理というのはとても気になります。東洋でしか通じない「気」について語るためにも直観+論理という組み合わせは意味がありそうですね。とりあえずは直観論理というものがどんなものかを下記を参考にして見ておきましょう。

    直観主義論理
    http://www.ne.jp/asahi/village/good/logic-intuitionistic.htm

    円周率πについて考えます。A=「πの中に7が20回連続して現れる」という場合、B=「πの中に7が19回連続して現れる」場合があります。これを記号で表現するとA⊃Bになります。これは集合のA⊃B は「AはBを含む」となります。しかし、これは論理なので「AならばBである」という意味になります。似ているのですが似て非なるものです。そこでA ➝Bと表現します。因果関係はこのような表現になります。「犯罪には動機がある」というのは常識的な表現ですが、これをA ➝Bで表現すると「もし彼が殺害したのなら動機がある」という表現になるでしょう。これは条件分であり仮定法と言われるものですね。仮定とは現実を超越しています。つまり、理性的です。従って、理性とは何かを考える上でこの直観主義論理は役に立ちそうですね。

    さて、円周率πの中に繰り返し現れるA=「7が20回」とB=「7が19回」をA⊃B (AがBを含む)と解釈すると単純に理解できるのですが、直観論理では、これをA➝B(AならばBである)、つまり、{A=「7が20回」ならばB=「7が19回」である}と読みます。透かし分かり難いですが、もし7が20回現れるならば7が19回も現れるとなり、なーんだ!当たり前だとなりますね。これのどこが直感なのでしょうね。分かり難いですね。

    面白いのはここからです。A➝Bを変形すると¬A∨Bとなります。そこで「AならBである」を¬A∨Bで表現してみましょう。この変換についてはこちらを参考にしてください。直感論理とは包含だというのですね。包含は意味を含むという意味です。ますます分からなくなってきました。

    含意(ベン図)
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%96%E7%90%86%E5%8C%85%E5%90%AB


    ベン図を見た方が分かるかもしれません。〇と●は二つ重なっています。左〇がA、右●がBです。これがA→Bが¬A∨Bなのですね。図を見ると赤い部分が正しいことを言っているという意味であり、それが¬A∨Bのですね。¬は否定、∨は「或いは」と読みますから、Aでないか或いはBならばそれは正しいということです。白い部分は成り立たない論理だということです。こんなことがA→B(AならBである)という仮定法の文章から読み取れる人がいるでしょうか。

    私達は日常の会話で「もし~なら、そうするよ」なんて簡単に約束しますが、実はもっと多くの意味を含んでいるのです。それを無視して生きているのではないでしょうか。無視というより気がついていないと言った方が良いのかもしれません。だから、言った・言わないというトラブルが生じてしまい裁判沙汰や喧嘩になるのはないでしょうか。日本人は書面にする習慣がないので「書面にしろ」などと言うと「俺を信じられないのか」など白眼視しされ感情論になってしまいます。それはそれで人間関係をギクシャクさせないで滑らかにするという良い面もあるですが、それで済まないことをこの含意は示しているのですね。

    含意が直観論理だということに関しては後で論じますがベン図を見るとこの論理が単純ではないことが直感的にわかりますね。「Aである」ではなく「Aではない」という視点で見るということがポイントですね。そして付け加えると〇と●の重なり具合です。図では〇と●の重なりは一通りだけですが、全く重なっていない場合、完全に重なっている場合と言うのがあります。これをたった一言「もし~なら、そうするよ」という安易な直観で約束するから守れないことが起きて信用を失ってしまうのですね。契約書を作成したことがある人は分かると思いますが「もし~なら~する」という本文が来ましね。仮定に基づく契約なのですね。ですから後に必ず「ただし」という文が来ます。「もし~なら~する」「もしそうでないなら~する」という条件が付帯しているのですね。日常会話ではここが曖昧で契約書はここを明確にしているのですね。含意の論理は日常でも直感を補完する上で立つでしょう。

    如何に直感があやふやかということですね。ですから直感を補完する論理=直感論理なのではないでしょうか。でも直感論理が含意となって仮定法に繋がってきました。仮定は現実を超越する方法ですから理性の一面ですね。理性を探求しているこの段階では大きな成果と言えるでしょう。その直感論理がどのように現実を超越するのかを仮定法=含意(A→B≡¬A∨B)を経由してその凄さをお見せすることにします。

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  • from: 生成門さん

    2013年11月18日 18時02分34秒

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    自業自得が理業理得のことであり、リ・インカーネーション(輪廻)の数学(再帰理論)である

    自業自得が理業理得のことであり、リ・インカーネーション(輪廻)の数学(再帰理論)である
    <神の数学との共振:純粋な理性がある>
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200507870

    仏教には自分にしたことが自分に跳ね返ってくることを自業自得と言いますが、これは悪いことをすると悪い結果になるから良いことをせよと言う因果応報とも連動した悪行を諌める言葉です。

    これに習えば理性の作用は自分の意思で選択することが可能ですから自分の理性の使い方が自分に戻ってくるという再帰性をもっています。つまり、リ・インカーネーション(輪廻)です。リ・インカーネーションは自己言及のパラドックス(矛盾)=因果応報=自業自得となることが予想されるということです。リ・インカーネーションは現代数学風に言えば再帰理論です。自業自得はその意味で再帰の理論として数学で復活してきたのですね。自業自得の自は自己ですから、理性の文脈に変換すると自分の理性のことです。従って、自分の理性を短縮して理とすると自業自得=
    理業理得となります。これが悪性のリンパ、いや、「悪性の理性」となり、因果応報とも連動した悪行を諌める言葉ともリンクすることになるでしょう。

    以前、再帰の理論を使った投機家であり数学者でもあるジョージ・ソロスの話をしました。これを改めて読み返すと理業理得=自業自得の警告と読み取れることが分かります。

    安全神話の崩壊は完全なものは不完全ということの証明だった
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200493700

    彼は資本主義には魂(良性の理性)がないと言いました。そして自らの業(悪性の理性=不完全さ)で必ず破綻するとも言いました。更に、彼は金融が崩壊することを予言したのです。しかし、誰も耳を傾けないので、その逆手をとって投機で大儲けして証明して見せたのです。その結果、大英銀行が倒産したのでしたね。

    どこで、良性の理性が悪性の理性になるのでしょうか。それを解明しておかないとカントの先に行けませんね。この先には矛盾の大家であるヘーゲルや龍樹が待っているのですからね。早くそこまで行かないと話が先(開かずの間)の探検に行けません。

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  • from: 生成門さん

    2013年11月18日 18時00分45秒

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    純粋な理性がある

    純粋な理性がある
    <神の数学との共振:純粋な理性としての「空」は黙して語らず>
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200506435

    純粋な理性と言うのがあるというのがカント路線です。ここから探求を続けます。脳の中で何が起きているのかを説明するのが四次元能の言語ゲームですが、その最大の課題は「空」を説明することです。しかし、空を説明するのは難題です。何もないものを説明するというのは矛盾だからです。幽霊を説明するようなものです。言葉があるのですが対象がないのです。どうしてこのようなことが起きるのでしょうか。それは理性の働きがあるからです。

    空は純粋な理性が生みだした概念です。純粋とは知性と感性と言う現実認識から超越しているという意味です。カントは知性と感性に依存しなくても概念は生成できるということですが、それがどのようにして可能なのかの説明は不明です。経験によらない認識が理性だというのですから現実を超越するしかありません。概念があるのに説明できないのです。「である」の論理が使えないですね。論理と言うのは論の理です。論とは説明です。説明の理くつがないのですね。困ってしまいます。如何に私達は「である」の理に嵌っているかを思い知らされています。カントは「である」の論理を破壊したのですね。破壊しておいてその先を示していないのです。ここから先は前人未到です。精々座礁しないように心掛けて行きましょう。

    純粋理性の正体を暴くことはイデアの正体を暴くことになります。何故ならすべての現象はイデア由来だからです。理性をイデアと言ってしまっても良いのですが、それはまだ早いでしょう。理性はイデアのエージェントという言い方で止めておきます。そうすれば「黙して語らず」で止まってしまう必要がないからです。前進あるのみです。

    認識は脳の中で作られます。理性は脳の働きです。その理性はイデアのエージェントだということなら、更にその働きをミクロに見て行くことができます。そこで、既に視床はテレビの電波塔と言いました。これが理性の正体を解明する手がかりです。

    テレビ局から見ると電波塔からの電波を受信して画像を見ている人達の世界があります。この視聴者がいる世界を外部と言うことにします。脳の中とは内部と外部は反転しているのですね。視覚から見ると視聴者は脳の中にいるからですね。

    こうした内部と外部の区別は仮のものです。脳の場合も外の景色を内部と見なすこともできますから、内部外部と言うのはあくまで恣意的、相対的な表現でしかありません。脳内は頭蓋骨に囲まれているので内部というだけでそれ以上の意味はありません。情報の方向だけに注目すればよいでしょう。

    テレビの場合>
    発信者(テレビ局という内部)⇒視聴者(外部)

    脳の場合>
    発信者(認識対象になる景色などの外部)⇒視聴者(内部)

    情報の発信領域を拡大するとテレビの場合も脳と同じ構造になります。例えばテレビの情報源はライブなどまさに外ですね。それを撮影してテレビ局で放送するのですからここまでを外部と看做すことができます。そして視聴者がいる内部に向かって発信するのですね。劇場と考えると脳と同じ構造になります。

    拡大したテレビの場合>
    ライブで撮影(外部)⇒発信者(テレビ局=外部)⇒視聴者(劇場=内部)

    こうした内部と外部の反転構造はメービウスの帯構造と言いますが、後々反エントロピー宇宙論(佐野博士の仮説)では重要な且つ中心的な概念になってきますので銘記しておいてください。四次元能はクラインの壺という四次元空間構造を使って宇宙から脳までを説明しようと臨床していますので、こちらも参照してください。

    虚実の世界は繋がっている(1)
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100078148085

    同心球面対=四次元球=複素化された球=クラインの壷
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100104849765

    テレビと脳が同じ認識トポロジー(構造)になっていることを示そうとしています。脳の中には現実を超越する理性という働きがあるのですが、その理性の微細構造を明らかにしたいのです。脳では情報が外部から内部に向かって発信する、編集するという過程があるのですね。テレビの世界とは内部と外部が真逆になっていますが、これは余り気にしなくても良いと言いました。視床から見るとテレビを見る観客は内部にいるのですね。日常の世界も視聴者が劇場にいると思えば内部になりますからね。

    注目したいのは認識を構成する上で視床は単に素材を提供するだけであり、テレビ放送の例えで言うと、目がテレビカメラだとすると視床は中継車と言った方がいいかもしれません。テレビの発信塔はまだ後の方になりますね。微細構造を探求していくと間を引き延ばす作業になりますので、玉ねぎの皮を剥くように同じミクロな構造が繰り返し同じ構造が現れてくるのですね。

    従って、視床では受け取った情報は生のままですのでまだ原料にさえなっていないのです。正確に言えば、この段階では単に電気信号でしかありません。単なる電気信号が意識に変換されるのですから不思議と言えば不思議ですが、これを探求すると光とか水場の量子言語ゲームの領域の話になり理性とは程遠い話しなりますのでここで打ち切ります。この二つはどこかで交錯してくるのですが、それまでお待ちください。

    ここではカント路線で行きますのでマクロな言語ゲームとなります。いずれにしても外部から来た情報は視床で内部に向かうわけですが、そこでは知性と感性による長い編集工程があります。その行程から出来てくるのが現実認識という原料です。その原料は更に加工されて製品になりますが、当然長い編集工程があります。その工程というのが理念の作用する場であり、現実を超越する編集なのです。

    この超越の微細構造を見て行くと原料を受信、加工して発信する編集工程の連鎖と見て取れます。この微細構造を皿のミクロの見て憂きためには量子言語を使わなければできません。従って、この探求は残念ですがここで打ち切らなければならないのです。それは別途の物語となるからですね。

    しかし、マクロの理性の物語(言語ゲーム)とミクロの量子言語ゲームはシンクロしていくでしょうから、どこかで必ず交錯してきます。それがどこでどうなるのかは予定調和するのですが、言語ゲーム演じている当人(四次元能の探検者=シムハンター)は知ることができません。

    いずれにしても、理性は現実認識を原料にして超越的認識を生成するということです。その作用に悪性と良性があるという話を優先したいのですね。

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  • from: 生成門さん

    2013年11月17日 10時44分46秒

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    純粋な理性としての「空」は黙して語らず

    純粋な理性としての「空」は黙して語らず
    <神の数学との共振:理性には二面性がある>
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200504142

    カントの理性の働きを纏めてみました。

    1> 知性・感性による現実(認識)を原料として現実を超越する
    2> 矛盾を生成する
    3> 思考を拡大する
    4> 理性とは述語〈想像・仮想・仮説など〉である
    5> 理性には二面性(良性・悪性)がある

    ここからは理性には二面性(良性・悪性)があるということについての詳細をカントに沿って探求していきます。ただしカントを正しく理解しているかどうかは保証の限りではありません。理性の良性の側面は既に述べたように思考を拡大させ現実を超越することです。「もし~なら」と考えさせるのは理性の働きです。確かにこれができるのは人間だけですよね。サルが「もし私が人間だったら」なんていったとしたらどうしますか。

    人間なら「私がもし明日死ぬなら」というように考える事ができます。それに備えることができるのです。島倉千代子は死ぬ直前にメッセージを残していますよね。これは時間の概念があるからできることです。理性は決して学習して身に着けたものではなく先天的な能力であることは他の動物と比較すれば分かります。学習する理性と純粋な理性があるということであり、ここで問題とするのは純粋な理性のことです。

    赤ん坊でも三才になる直前に「待っててね」にという意味を理解できるようになります。その前まではちょっとでも母親がいなくなると直ぐ泣くだけだったのですが、外へ僅かの時間、出るときに家の中で「待っててね」と言うと「うん」と言うのですね。僅かと長い時間の判断はできていないでしょうが、待つことの意味が理解できているのですね。このメカニズムはホルモンによる感情による遅延回路によって「逃げない」と判断している構造と同じだと思います。従って、学習し身に着けた能力ではないことは明らかです。三才になる直前と言うのが鍵でしょうね。潜在していた能力が系統発生によって出て来る感じですね。

    時間の概念が先天的に持っているということではなく時間の概念を生成する能力が先天的だということです。だから時間の概念が生成してくるのですね。何はともあれ時間は今から未来に向かって過ぎて行くという概念です。それを知性と感性が時間として認識できるのですね。つまり「未が来る」と体験から理解するのです。体験による認識が現実認識です。そしてその体験から抜け出すのが純粋な理性の働きです。理性は現実(認識)をベース(原料)にして仮想現実を編集するのですね。そう、理性とは編集能力なのですね。しかし、原料がなくても理性は働くのでしょうか。

    原料がなければ製品はできないように知性と感性がなくても理性は働くのかという問題です。感じることがない、知ることもできないとする五感をもぎ取られたロボットのようなものです。理性だけで認識を生成できるのでしょうか。悟りとか神と言うのは理性が生み出したものではないのではないでしょうか。空というのは色ではない状態ですが、その色は五感の作用に知が加わって生み出したものですから理性と言えるでしょうが純粋ではありません。むしろ空こそが純粋な理性です。空という概念を生みだしたのは色(現実体験)をすべて剥ぎ取って生みだしたものです。ですから空とは何かと説明をしようとすると、知識や感性で経験したことの説明になり、堂々巡りになってしまうのですね。それでは純粋な理性ではない言うことになってしまうのです。空=純粋な理性は「黙して語らず」なのですね。禅では「黙すこと雷のごとし」と言います。しかし、それでは先に進めません。何とかしなければなりません。禅では禅語と言い、その理性を即非と言って独特の論理を使って説明しようとします。もし、禅の数学があるとするともっと明晰に語れるのかもしれません。もし、禅=神とすると禅の数学=空の数学=即非の数学=陰陽の数学=神の数学なのかもしれませんね。これらは皆、同じ構造を持っているようですね。

    そのように考えるとワクワクしてきます。早く神の数学の暗号解読に行きたいのですが、カントの路線で理性の正体を早く片付けてしまいましょう。そうすると空の数学が見えてくるかもしれません。

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  • from: 生成門さん

    2013年11月15日 12時35分51秒

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    理性には二面性がある

    理性には二面性がある
    <神の数学との共振:初音ミクは理性が生み出した矛盾した存在である>
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200504117

    「初音ミクは理性が生み出した矛盾した存在である」と言う言い方ができるのはカントだから言えることです。常識的には「初音ミクはインターネットが生み出した仮想的な存在である」と言うぐらいでしょうね。これでは説明したことになりませんが、理性が生み出したとなると「なんだそれ」となりますよね。

    そこで理性とは何かということになるのですね。ここまでの探求で、理性は感性と知性が生成した認識を原料にして思考を拡大する、矛盾を生成するという特性があることが分かりました。

    仮想の認識が現実を超越する理性の働きなら仮想だけが理性とは言えません。仮想と似た述語に仮定、想定、想像があります。これらはすべて現実に存在しないものを仮想する力があります。分かり易い言葉で表現するなら、それらはすべて「もし、~なら」という形の思考になっています。文法的には仮定法のことです。「もしお金を持っていれば、私はそれを買うことができるのに」 と言うのがその良い例ですね。これは現在の逆、または願望を表しています。現実はお金のない貧乏人なのですね。現実にはお金がないのに、お金があるという矛盾した状態を頭の中で同時に作り出しているのですね。

    もう一つ例を出しましょう。

    遺言というのは「もし、私が死んだら、こうしてくれ」という内容を記したものです。死んでいないに死んだときのことを想定しているのです。未來を完了するのです。これは明らかに現在と未来を同時に存在した状態を表現しているですから矛盾です。

    矛盾は排除されなければなりませんが人間は平気なのですね。だからこそ矛盾は論理として受け入れなければならないのですが。しかし、古典論理はそれを排除しているのですね。これが思考の妨げとなっているのです。しかし、カントはそれを破ってしまいました。
    カントが理性には現実を超越する力があるといったのですが、その狙いは同一律に束縛された思考を破ることにあったのですね。

    仮想が理性だということにピンと来ないという人がいるでしょう。そこで理性の代表だと目される仮説を取上げてみましょう。科学は仮説から始まります。仮説を抜きにしては語れないのが科学です。この仮説こそが理性の力であるということを示してみましょう。もちろんそういうのはカントです。

    仮説とは仮の説です。仮なのですから現実ではありません。現実ではないことを前置きするのです。これは未知の現象があって、従来の知では説明できないから、従来の知を否定した説を仮置きしてみるのですね。もちろんその正しいという保証はありません。実験して検証した結果について否定した説が出ても反証できて初めて正しいとされるのですね。

    こうしたやり方は科学の常道です。仮説は現実を超越したのですから思考を拡大したとも言えるのですね。カントはこの仮想する・仮説する力を理性と呼んだのです。つまり科学は仮説という理念を使って常に現実を超越してきたのですね。ニュートンの現実を破ったアインシュタインしかり、プランクしかりです。

    もちろん、理性は人間の三性の一つですからカントは知性と感性も無視しません。ただ、理性は特別扱いなのですね。理性は異なる次元の能力だとしたのです。異なる次元とは超越する力と言う意味であり、何を超越するのかと言うと、それは言う迄もなく現実です。この辺は仏教でいうところの彼岸と此岸という構図と似ていますね。

    いずれにしても三性は単なる三つの並列構造

    知性・感性・理性

    ではないということであり、

    (知性・感性)⇒理性

    だということです。立体的に示すなら

    理性
    ↗   ↖
    知性 ⇔ 感性

    な感じです。

    このように表現すると理性は人間を素晴らしい存在に仕立てる神様からの贈り物のように思えますね。しかし、決してそうではないということが次なるポイントです。この世界が混沌、抑圧、偽善、裏切り、闘争、隠蔽、偽装、事件で満ち溢れているからも想像できますよね。理性は理想の性という感じで想いたいのですが、そうではないのです。とても神の仕業とは思えないですよね。カントはそれもまた理性のなせる業だというのですから悲観的になりますね。

    しかし、これは考えようによっては神の仕業とも言えないことはありません。神は理性に二面性(矛盾)を与え、そのどちらが出て来るのかは人間次第であり、それを持って人間を苦しめ、結果として進化するというシナリオを与えたとも言えます。つまり、矛盾は解決すべき課題だという訳です。そう考えることにしましょう。

    理性の働きには二面性(矛盾)があるということですが、その二つの働きを詳細に見て行くことにしましょう。この辺が波動の収束で終わらせる量子論とは違うところです。

    ここで纏めておきましょう。

    カントの理性の働き

    1> 知性・感性による現実(認識)を原料として現実を超越する
    2> 矛盾を生成する
    3> 思考を拡大する
    4> 理性とは述語〈想像・仮想・仮説など〉である
    5> 理性には二面性がある

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  • from: 生成門さん

    2013年11月15日 12時02分45秒

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    初音ミクは理性が生み出した矛盾した存在である

    初音ミクは理性が生み出した矛盾した存在である
    <神の数学との共振:カントの理性は現実を超越する力である>
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200504108

    大分カントに対する理解が進みました。間違っているかも知れませんが、何とかGoogleを頼りに突き進んでいます。

    最近はインターネットのお蔭でカントの理性を説明するネタが沢山あります。カントは知性や感性による認識は理性を働かせる原料だと看做しているのですね。そこで理性とは何かを理解するために仮想現実を取り上げてみましょう。

    仮想現実というのは感性や知性が生成した認識をベース(原料)にして作り出した理性的な概念(製品)です。例えば、初音ミクはボーカロイドと言う電子的な歌姫=仮想歌手=仮想現実の製品です。つまり、現実には存在しない歌手です。現実には存在しないのですが、現実に存在しているという矛盾した概念なのですね。知性や感性が生み出した現実の歌手という認識を土台にして仮想歌手という概念を作り出してしまったのです。この精神の作用が理性だというのです。この説明はまだ十分ではありませんが、無限速度の波束の収縮よりはまだましです。まだ、先の説明が可能だからです。

    仮想現実とは現実ではないが仮想的だということです。しかし、それもまた現実なのです。こうした矛盾が出てきてしまうのですが、これは「歌手である」という同一律から生まれて来た矛盾です。しかし、現実の世界では矛盾は許されません(矛盾律)ですので、これは歌手であるかないのかという議論が生まれます。そして仮想歌手と言う矛盾した命名で辛うじて同一律を維持しているのです。矛盾であることに気が付かないと言った方が正しいでしょうね。数学の実無限(無限に有限)と同じことですね。初音ミクの場合は矛盾であっても困りませんが、量子論ではそれはナノテク分野に使われるのですから始末が悪いということです。つまり、研究予算が無駄に使われるという結果になります。音楽業界は困っているでしょうね。初音ミクの音楽著作権はどうなっているのでしょうかね。

    初音ミクは人間かどうかですが、明らかに人間ではありません。しかし、現実は人間として存在しているのです。その証拠はロンドンオリンピクックの時に開会式で歌わせたい歌手投票で一位になってしまったことに現れています。この場合、「人間の歌手であること」と言う制限がなかったためにこうなったのですが、主催者側は古いタイプの概念しか持っていなかったのでしょうね。まさか人間でない歌手がトップに来るとは夢にも想像していなかったのでしょう。しかし、投票する若者たちは新しい概念を持っていた人間達でしたね。その人間が人間でない歌手を選んだのです。どうしてこんな現象が起きたのでしょうか。これを説明することは難しいのです。ポストモダン風には「若者が動物化したからだ」という説明をしますが、どうも納得できるものではありません。

    しかし、カントに言わせれば至極当たり前のことです。仮想人間=初音ミクと言うのは矛盾した存在あり、理性は矛盾を作り出すというのです。常識は同一律と矛盾律で矛盾を排除するのですが、初音ミクはそれを超越してしまったのですね。

    先を急ぎましょう。

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  • from: 生成門さん

    2013年11月15日 11時53分06秒

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    カントの理性は現実を超越する力である

    カントの理性は現実を超越する力である
    <神の数学との共振:知性・感性・理性のハイブリッドな言語ゲーム>
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200504103

    カントも常識的に理性とは感性や知性とは異なるとしています。しかし、カントが常識的な思いと違うのは理性に対する思い遣りです。カントの理性は常識を超越する力があるのです。感性や知性は人間に現実的な認識を与えます。これは常識的な理解でも可能なことです。違うのはここからです。カントの理性は現実的な認識を肥やしにして現実的な認識を超えることなのです。それを可能にする力なのです。

    これなら常識的な理解とは異なりますね。確かに言われてみればなるほどという気もします。目の前にあるリンゴを「これはリンゴだ」と言う場合、その認識は現実的です。しかし、そのリンゴをリンゴと認識させているのは何かと問われると詰まってしまいます。単に学習能力があるからだと説明してしまうと、どうして学習するのかという問に置き換えただけなのですね。もっと根源的に問うとその本質が見えて来るでしょう。つまり、対象と記号を結びつけることを記号過程と言いますが、その記号過程はどうしてあるのかと言うことです。具体的な物がある場合は、経験と学習で説明しても納得させられますが、具体的な物がなくても想起するような記憶の働きになるともう説明ができません。カントは、それを先験的とか先天的とか超越的とか言います。決して逃げているのではありません。ここで量子論の無限速度の波束の収縮の話と比較しなければなりません。

    カントの理性:何か⇒現実的認識(⇒:理性)
    量子論:不確定⇒確定(⇒:無限速度の波束の収縮)

    ここまでは同じですね。同じなら説明できないものを理性と言っているに過ぎないことになります。量子論は無限速度の波束の収縮をこれ以上説明できないとして諦めてしまっています。カントはどうでしょうか。

    カント路線でもう少し先に行きます。

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  • from: 生成門さん

    2013年11月15日 11時40分41秒

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    知性、感性、理性のハイブリッドな言語ゲーム

    知性、感性、理性のハイブリッドな言語ゲーム
    <神の数学との共振:知性だけの自己主張ではなく雑掌魂をもった理性的主張>
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200503951

    多くの場合、知性がなければ沈黙するか、情熱だけで説得するかしかありません。一騎打ちの闘いなら体力ですが現代野球やバレーやサッカーを見ても分かるように知的になってきています。MLBでは凄いデータベースを使っているのですね。バレーでも知的でないチームは確実に負けますね。

    恋愛ゲームではまだ知的なプレーヤーが勝つとは言えない状況ですね。恋人を説くのに知性はむしろ邪魔することがあるかもしれませんね。沈黙でも情熱があれば成功することがありますからね。政略結婚の場合は知的ゲームと言えるでしょうが、それはもはや恋愛ゲームとは言えませんね。ゲームが違ってしまうのです。理性と知性と感性がどのような関係にあるのかを見てきましたが、単純に理性/知性/感性という具合に切れ目を入れて別々に考えるのは無理があるようですね。多くの場合、理性と知性と感性は重なって出て来ることになるからです。

    恋愛ゲームだって純粋な情熱だけの世界といは言えません。ロメオとジュリエットのような打算のない恋愛など現実には存在しないのではないでしょうか。同じようにすべての社会的な場面での振る舞いは知性、感性、理性のハイブリッドな言語ゲーム(ボディランゲージも含む)となって来るのですね。

    そうであるなら次に向かうべきは理性と知性と感性の三つの重なり方です。構造と方向性ですね。構造と方向性というと数学の出番ですが、それはまだ早いようですので、もうしばらくは、カント路線で行きましょう。

    特に理性と知性は似ているので要注意ですね。これについては既に述べました。そこで分かったことは理性的な態度とは言うけど知性な態度とは言わないし、理性があるとは言わないが知性があるということで区別できると言うことです。しかし、だからと言って別々に作用するものではないということです。作用するときはハイブリッドになって働くのですね。その証拠に二つを合わせて理知的な人とか理知的な態度(議論)ということに現れています。

    その一方で、理感、知感とは言わないのは不思議ですが、現実には理性的で且つ感情的、知性的で且つ感情的に振る舞うのは難しいのでしょうね。理と感、知と感はハイブリッドにならないのでしょう。理と感と知が三つになるとハイブリッドで働くのでしょうね。いずれにしてもこれらは重なってくるので、人間は複雑な動物となるということは間違いないことです。

    ここまでを纏めておきましょう。

    はっきりしたことは「理性は知性があって始めて成り立つ態度(選択)だ」ということです。理性は意思であり、知性は知識ベースだとも言えるでしょう。議論するためには筋を通すことが重要ですが、知識がなければ筋が通せなくなりますよね。あなたが経営者なら投資家に対して投資に対するリターンのシナリオをきちんと説明できなければ、投資を受けることはできません。いくら情熱があっても投資を受けることはできません。そこには理知的な説明が最低必要なのだということにことは同意するでしょう。感性=情熱は十分条件だということでしょうか。

    これは纏めですが、どうも締まらない纏めですね。これが素人のできる知性・理性・感性の常識的な解釈(纏め)の限界だということです。しかし、これでは同一律を超えたカントを超えることはできません。当然、排中律を超えた竜樹には辿り着くことはできません。そこでカントに沿ってその先にコマを進めてみましょう。

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  • from: 生成門さん

    2013年11月15日 08時43分07秒

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    知性だけの自己主張ではなく雑掌魂をもった理性的主張

    知性だけの自己主張ではなく雑掌魂をもった理性的主張
    <神の数学との共振:理性的な態度とはいうが知的な態度とは言わない>
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200503946

    現代はインターネットのツイッターを見ても分かるように自己主張する時代です。レッドソックスの上原浩治のツイッターは個性が溢れています。この個性とは理知と感性が混在している理性です。

    楽天の田中投手が日米野球で先発から中継ぎに回ったことで日本の新聞が「中継ぎ降格」と報じたことに対して、彼は中継ぎを評価しない日本のジャーナリストを批判しています。日本のジャーナリストは「先発と押さえ」しか評価しないのですね。それに対して上原は、中継ぎはすべての試合(262)に参加しているから大変な消耗する位置にいる。もっと評価してしかるべきという持論を持っているのですね。又、彼自身の中継ぎをやっていたこともあって、日本ではあまり話題にもしてくれないことに対する憤りもあったのでしょう。その事が原因で彼はツイッターを始めたと言います。確かに彼は昔からエースとして実績があり活躍してきましたが、今期の活躍は神がかっています。

    全米でも話題沸騰!「上原浩治が凄いぞ」
    新守護神、その支配力はすでに歴史的域
    http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/baseball/mlb/2013/columndtl/201309090003-spnavi

    彼のことを「雑掌魂を持った男」と評されますが、その彼が自己主張するのは知性だけの自己主張ではなく雑掌魂をもった理性的主張だと思うのですね。

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