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シムダンス「四次元能」

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  • from: 生成門さん

    2013年08月28日 17時05分36秒

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    労力を最小にする式

    労力を最小にする式
    <PS理論との共振:最小作用とは労力が最小になる仕方である>の続き
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200411243

    ニュートンの方法でわかったことは微分と積分は逆の関係、例えば v=dx/dt⇔x=∫vdt のようにどっちかが分かれば他方を求めることができました。ニュートンの場合は先に微分形式の式(運動方程式)が分かっていたので部分(微分)から全体(答)は積分すればよかったのですが、未開人は運動方程式が分かっていないのです。分かっているのは二点間の位置と速度だけです。

    答を求めるには微分形式の「何か」を積分すればよいのですから微分(部分)を想定して進める手があるでしょう。強引ですがその「何か」を積分する部分対象=ラグラジアンLはL(q,q',t)としてみましょう。その答え=積分した結果(値)をS(労力)としましょう。x=∫vdtにならってS=∫Ldtとできるでしょうか? x=∫vdtではvが分かっていたのですがS=∫LdtではLは未知だということです。

    ともかく、労力を最小にする式は

    S=∫L(q,q',t)dt(積分範囲はt1からt2)

    となるはずです。ただしLは未知の「何か」ですが位置と速度と時間の関数になっているということは間違いありません。この式は未知の何か(L)があって、それは微分形式で与えられると想定して、それを時間で積分すると答えとしてSが得られるというものです。このSが労力であり、これを最小にすることが真の答であり、真の作用、つまり、作用が積分だということになるでしょう。部分部分(微分)で消費した労力源Lの作用の結果としての労力Sが最小になるのはどんな場合かという問題に置き換えたことになります。

    S=∫L(q,q',t)dtとしたもののLは未知の力(労力源)であり、想像したのですから仮想の力です。それがt1,t2の微小な区間dtで働いているということですので、それを作用すれば(積分)答え(無数の走り方の中から実現した走り方=本当の運動)が出るということになります。

    想像できるあらゆる経路(運動)と、その中から実現した本当の経路(運動)は、どうして区別できるのでしょうか? また、本当の経路はどのように実現するのでしょうか?

    そこで、L(q,q',t)を労力源と考えて見ましょう。二区間を運転しているのですから体力が消耗します。その最も無駄な労力Sを使わないという運転経路(走り方)が本当の経路(運動)だと考えるのです。そうすると最小値の労力が「答え」となるでしょう。最小値とは0ですから

    S(積分値=労力)=∫L(q,q',t)dt=∫労力源dt>0

    となるでしょう。最小値(実現するだろう運動)=0はL(q,q',t)=0としてp'=0(速度の変化がない)のときが最小ということになります。p'=0なら初速度のまま一定の速度ですので加速度は0です。労力を使わないということは加速しないということなのですね、確かに自転車を漕がなければ楽ですよね。このように楽あれば幸福というのが実現したいことです。実際の人生は楽あれば苦ありですから、急がば回れということのなるのですが、「楽」の意味がどこかで変質するかも知れませんが、今は、この解釈で行きましょう。

    数学的には積分値Sが最小の時に実現する運動(直線運動)が最小作用の答えです。しかし、二点間の間には無数の経路があり、いくらでも想像することができますが、この最小作用の原理によれば定速で動く場合がもっとも労力の少ない経路であり、実現する経路だということになります。どうして無限の中から一つだけが実現するのでしょうか? そのカラクリを見つけましょう。

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  • from: 生成門さん

    2013年08月28日 15時38分28秒

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    最小作用とは労力が最小になる仕方である

    最小作用とは労力が最小になる仕方である
    <PS理論との共振:「あたかも自然が何か意図を持っているかのような原理(最小作用)」の続き>
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200405310

    「あたかも自然が何か意図を持っているかのような原理」(最小作用)が一人称だとすると、一人称は未来に対して非決定(予言できない)できないのに何故神のように振る舞えるのか?という大きな謎が湧きました。その答えは数学的な構造と方向にあるかもしれません。簡単ではなさそうですが早速探求に行きましょう。

    ここから先は安江氏の「一般化座標・最小作用の原理」
    http://www.sp.u-tokai.ac.jp/~yasue/ffn/rikigaku2-1.pdf

    を参考にします。

    既に、ラグランジュ方程式とは何か?http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200397167

    で、未開人は運転席にいて距離計と速度計によっていつでも位置x、速度vを知ることができるとしました。このデータをx(q1,q2,q3),v(q'1,q'2,q'3) として、

    qi:位置を一般化した座標(一般座標)
    q'i:速度を一般化した速度(一般速度)

    と呼ぶことにしました。簡単にするために位置をq,速度をq'(ドットのつもり)としていきます。また、q'=dq/dtでもあります。

    最小作用の原理を数学的に解明するということは、加速度を一般化座標の位置と速度で表わすことです。未開人にとっては二点間の時刻の位置と速度だけが手がかりです。つまり、時刻t1の位置と速度と時刻t2の位置と速度の情報が与えられるのです。これを元に「仮想的な力を想定してその力が最小になることを考えなさい」と言うことです。言い換えると、作用を労力の節約する働きと考えると労力が節約される方法(運転の仕方・経路)を見つけることが神技となるでしょう。つまり、作用(労力)が最小になるような数学的な根拠を求めることが謎を解く鍵(神技)です。

    ようやく神のような力の謎を解く手がかりがつかめましたが、ここで留意しておくことがあります。二点の情報は与えられましたが、時刻t1と時刻t2以外の「中間の位置と速度」はわかっていないということです。これを忘れないようにしておきましょう。

    スタート地点t1   エンド地点t2
    〇➝➝➝➝➝➝➝➝➝➝➝〇(経路は無数・途中の位置と時間は不明)

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  • from: 生成門さん

    2013年08月28日 10時41分43秒

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    完全な三人称の知(神)を実現するという果てしない欲望は幻想である

    完全な三人称の知(神)を実現するという果てしない欲望は幻想である
    <PS理論との共振:非決定の不安を補うために予定調和させる神が必要となる>の続き
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200411007

    完全な三人称の知(神)を実現するという果てしない欲望は幻想であるということを探求してみたいと思います。

    何故、人間は三人称の知(科学)の完全さを求めるという、尽きるとことを知らない欲望を持つのでしょうか? その根源は一神教にあると思います。キリスト教は無限を有限に錯覚させるというトリックがあるのですね。それは非線形という現象を線形化する仕掛けであり、巧妙に宗教の中に隠されているのです。そのことを指数曲線と対数化という数学を使って説明してみます。

    無限を有限に錯覚させるというトリックは欲求を湧出させエントロピーを増大させ文明を破綻させます。知の欲求は情報量を増加させるでしょう。それは右肩上がりで増加する指数曲線となります。その先にあるのは無限大です。この指数曲線を対数化すると右肩上がりの直線になります。そこで完全さの逆数を縦軸に取って横軸を時間として対数化すると、右肩下がりの直線になるでしょう。

    つまり、人類の歴史を原生人からスタートするとその知の不完全さが最大となり、そこから文明が進展してきて知が増加するので不完全さが減少してきます。このグラフを現在で見ると、その先に無限大が特異点として現れます。この変換は曲線を直線にしたものですが、この特異点を全知全能の神として看做します。そうするとキリスト教の神の位置が見えてきます。現在よりちょっと先に現れる特異点が神なのですから完全な三人称の知=神とすると対数化したことであたかも神が近未来(仮に一年後としてみます)にあるという錯覚が生まれます。しかし、本当に神はそこにいるのでしょうか? それはそこにはいないのです。というのは、特異点は未来ですので仮想の点です。現実は現在の点でしかありませんので、そこには大きなギャップがあります。実際にそのことが分かるのは、一人年後にもう一度、線を引きなおしてみることです。一年後という未来が現在になったとき、それはもう特異点ではありません。一年後を見てください。不思議なことにそこに新たな特異点があるではありませんか。そうです。特異点は逃げていくのです。これは何時まで経っても同じです。

    これは何を意味するのでしょうか?

    人間が神の位置を目指しても永遠に到達できないということです。つまり、三人称の知は完全にはならないということです。人間は完全にならないとしても矛盾を繰り越して生きて行ける存在すので、それはそれでよいのですが、この思考が厄介なのは文明がグローバル化してきたということにあります。文明がグローバル化はエントロピーを増大させます。矛盾を繰り越しだけなら問題はないのですが、エントロピーを増大は環境を破壊するのです。数学は無限を好みますが、自然は有限なのですね。キリスト教の問題は指数的現象を線形化することで、あたかも神の位置に辿り着けるという信念を起こして「信じれば救われる」という錯覚を正当化することです。言い換えると努力させるエネルギー(欲望)を沸き起こすのです。

    欲望は情報の増加ですがキリスト教的な予定調和(矛盾解消術)はエントロピーを増大というツケを支払わなければならないのですね。それはグローバル化していない時は問題なかったのですがグローバル化したことで問題が露呈してきたと言えるのです。非線形な指数曲線を対数という線形グラフに変換したところで本質は変わっていないのですから、無限大が特異点になったところで、それが実現しない点だということは自明です。その自明なことが数学的には明らかなのですが、それを宗教という形で表現すると幻想が信念になるのですね。キリスト教的な予定調和の思考が科学の思考に変換されて、取り込まれグローバル化してきたことで人類を苦しめていることに早く気が付かなければならないと思います。

    仏教ではこのような問題は起きないのでしょうか?

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  • from: 生成門さん

    2013年08月28日 08時57分27秒

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    非決定の不安を補うために予定調和させる神が必要となる

    非決定の不安を補うために予定調和させる神が必要となる
    <PS理論との共振:悟りとは仏(三人称)を一人称に折り畳むこと>の続き
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200410941

    人間は半導体のように半人称であり、生きるために一人称、よりよく生きるために三人称として切り替えているのですね。ただ、一人称には非決定性(未来を予測できない)という限界、三人称は不完全な予言性という弱点があります。人間はそれを知ったうえで利用して生きているのですね。不完全ながら限界に挑戦するという矛盾を引き受けているのですね。コンピュータなら無限ループかフリーズですが、人間は矛盾しても生きて行けるのですね。それは矛盾を繰り越しできるからですね。その繰越し方ですが、未来が予測できないとしても、確率的にサイコロを振ったりしないで、直前の状態で未来を決定してしまうのですね。非決定を決定にするのですね。この行為は人間だからできることですね。その方法とは目的・目標を決めることですね。目標を決めるということは未来を決定することです。未来は一人称では非決定なのですが、それを三人称で予測して、それを一人称に折り畳むのです。意図するというのは意思を決定することです。非決定な未来を決定するのですね。これはモナドで言うと予定調和させるということです。予定調和とは非決定を決定するモナドのテクノロジー(矛盾繰越術)なのですね。矛盾繰越術に問題はないのでしょうか?

    「多い」にあります。それは予定調和に失敗するということです。予定調和とは未来の失敗を防ぐ、ある意味でエントロピーの増大を防ぐ方法なのですが、失敗はエントロピーを増大させてしまうことです。何故失敗するのでしょうか? それは未来が非線形カオス(予測できない)だからであり、目標を決める段階で線形化するからです。線形化とは近似であり、実際に複雑なカオスではその通りにならないことが多いのですね。非線形カオスに対して人類の知はまだ不完全だということですね。だからこそ、その不完全を補うために神が必要なのですね。意思決定しても本質的に非決定なのですから不安ですよね。そこを補うのが予定調和させる神が必要なのですね。しかし、それはあくまでも、不完全さを補う心理的な補償でしかなく、裏切られることを覚悟した決定なのですね。そうして矛盾が露呈するのですね。人間のすごいところはそれでも生きて行けるというところですね。さて、そうなると、どのように三人称の不完全さを補うのかということですね。それを仏教とキリスト教を題材にして探求してみましょう。

    結論を先に言ってしまいますと、仏教は空の概念を持ち込んで非線形カオスのまま決定し反エントロピーを実現する方向に、キリスト教は非線形カオスを線形化することによって解決しようとするということが言えるでしょう。軍配はどちらに上がるのでしょうか?

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  • from: 生成門さん

    2013年08月28日 08時03分28秒

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    悟りとは仏(三人称)を一人称に折り畳むこと

    悟りとは仏(三人称)を一人称に折り畳むこと
    <PS理論との共振:一神教(三人称)と多神教(一人称)>の続き
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200410861

    仏教を多神教にするというのは誤解が生まれるかもしれません。仏をイデアとして考えると「一つ」だからです。しかし、一神教が存在する「もの」とは関係なく神は「一つ」なのに対して、仏は万物に宿ると言うように仏は姿を変えて多くの神になるというイメージで捉えると多神教で良いかと思います。実際、仏には多くの仏(菩薩など)がいます。

    仏がイデアだとすると釈迦や観音様はそのエージェント(媒介者)だと考えればよいでしょう。そうだとすると仏教も一神(仏)教であり、媒介者レベルで考えると仏教は多神(仏)教になります。しかし、それは便法であって、やはり、「仏は万物に宿る」というところに注目すべきであって、キリスト教と大きく違うところでしょう。

    イデア(神)⇒媒介者(キリスト)⇒キリスト教(信者には神は内在しない=信じる者だけが救われる)
    イデア(仏)⇒媒介者(釈迦・菩薩・曼荼羅)⇒仏教(信者には仏は内在する=即人成仏

    宗教というのは本来一人称(信じる)現象ですが、信じるという心理過程で、三人称(神や仏)を一人称に変換することだと思うのですね。ただ、その変換が完全に行われないのだとだと思うのですね。神の場合は外に存在するのですから初めから分裂を予定しているのですね。

    多くの宗教は「信じれば救われる」と言いますが、実際はそうではないこととが多いのですからね。どう折り合いをつけるかですね。神の場合は一人称として内在しないで外にいるのですから、祈りで一人称になっても、どこかに知が働いているのでしょうね。懺悔などというのは神との対話ですからね。どこかで見られているという意識が働くのは仕方がないでしょう管理社会(監視カメラなど)と同じ構造ですよね。

    これでは外部観測状態になりますので、信じる行為と信じる対象が分離された中途半端にならざるを得ないでしょう。神を意識している時は三人称、祈っている時は一人称なのですから半分だけ一人称、半分だけ三人称、つまり、半人称ということになりますね。仏の場合でも後利益を求めようとする信者は、仏に外に置いた外部観測状態になってしまいます。この場合も半人称でしょうね。真に悟りを求める人だけが内部観測状態(瞑想=心身脱落)となり、一人称になると言えるでしょう。

    いずれにしても半人称的な状態は即非状態と言えるでしょう。即非状態から中途半端な半人称的な曖昧状態、即非状態から選択的に一人称ないし三人称の明確な現れの二つのケースがあると思います。悟りの状態とは悩める人が即非状態から信じることで悟りの一人称になることですが、それがなかなかうまくいかないのが現実ですね。一神教では始めから悟りなどという状態を想定していないのですね。神が加護するだけなのですね。

    半人称というのは難しい概念ですが、単純に即非(どちらも可能性がある状態)からどちらかを機械的に選択する仕組みならうまく説明することができます。それは「半導体」です。半人称を考える上で役に立つかもしれません。

    半導体というのは半分導体、半分不導体であり、電圧をかけると導体になったり不導体になったりするので半導体というのです。電圧をかける前は即非の状態にあり電圧(順方向か逆方向)を掛けると必ずどちらかが現象するという仕組みです。宗教の場合は必ずどちらかが現れるということにはなりません。そこが機械と人間の違いというところでしょう。

    人間では一人称と三人称とが混在した即非状態にあり、心構えによって一人称や三人称として現れるのですね。半導体のように電圧の掛け方によって必ずどちらかが現象(導体・不導体)として現れますが、人間では、情では一人称、知では三人称となってしまうのですね。心が分裂するのですね。半導体は電圧の掛け方によって不導体とは導体が同時に現れることはありません。そんなことになったら半導体として機能しません。

    しかし、本当に人間では情では一人称、知では三人称が同時に現れるのですかね? よくよく見れば情が優勢になったり知が優勢になったりして切り替えているのではないでしょうか? 外から見ているだけでは分かりませんので、同時に現れていると見えるのでしょうね。ですから半人称と言えるでしょうね。しかし、信じるものが求めるのは一人称の悟りなのですね。細かく一人称と三人称が切り変わるのは半導体としては優秀ですが、人間としては悩みの種でしかなりません。

    半導体:電圧を掛ける>>>導体⇒不導体⇒導体⇒...[スイッチング機能]
    理想的人間=半人称(即非状態):信じる行為>>>三人称⇒一人称(悟り)

    現実の人間=半人称(即非状態):信じる行為>>>三人称⇒一人称⇒三人賞⇒一人称⇒・・・[分裂・混乱]===満足できない

    一神教の現実の人間=半人称(即非状態):信じる行為>>>三人称(神を意識する)⇒一人称(祈る)⇒三人賞⇒一人称⇒・・・[分裂・神の加護(愛)を知で考える]===満足?

    仏教の場合は、分裂することを戒めて一人称(即身成仏・心身脱落)になることが目標なのですが、なかなか難しいようです。元の木阿弥(分裂)になってしまうのですね。一神教の場合は、神はあくまでお外にいるのですから信じるしかありません。それで祈って満足なのですからどうもよくわかりません。

    まるで監視体制にある囚人の有り様ですよね。監視されていると安心なのかも知れませんね。確かに、泥棒を避けるために鍵を掛けたり、監視カメラを配置するというのは安心ですから、それを神が代行してくれるという意味ではこういう仕組みにも価値があるのかもしれませんね。しかし、そのような心の機制が管理社会を強めていくのかもしれません。

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  • from: 生成門さん

    2013年08月28日 05時49分45秒

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    一神教(三人称)と多神教(一人称)

    一神教(三人称)と多神教(一人称)
    <PS理論との共振>

    プラトンはイデアを現象する背景にあるものとして位置づけたのですが媒介する者(働き)を示さなかったと言われています。ところが、キリスト教はプラトンのイデアを神に置き換え、媒介者をキリストにしたのですね。

    プラトンとロシアの関係
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200402912

    キリスト教:神⇒キリスト(媒介者)⇒世界

    さて、科学や絵画には三人称から一人称への流れがあることを見てきたのですが、それは単純な変化ではなく、三人称の認識を一人称の認識で表現するという変化です。この視点で宗教を見ることはできるでしょうか?

    宗教にもいろいろあり、その内容も異なり、そのすべてを正しく理解することは難しいでしょうが、人称の視点で見るともっと分かり易くなるのではないでしょうか?

    そこで、宗教をざっくり一神教と多神教に二分してみましょう。そうして見ると一神教は三人称で、多神教は一人称になるでしょう。そうならば、一神教はデカルト座標で、多神教は一般化座標であり、一神教の代表のキリスト教はニュートンの運動方程式で、多神教の代表である仏教はダランベールの原理であることになります。そんな対比が出来そうです。本当にそんなことが言えるのでしょうか? 検証してみましょう。

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  • from: 生成門さん

    2013年08月24日 09時08分46秒

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    ピカソの絵を見ても分からない人は独裁者である

    ピカソの絵を見ても分からない人は独裁者である
    <PS理論との共振>

    「人称問題は奥が深い」というか、これまで見えなかったものを簡単に、そして、より本質的な理解を深めるためのフレームを与えてくれるようです。早速、応用してみましょう。以下は、海舌氏の考察を参考にしています。

    「アビニヨンの娘たち」と観念的同時
    http://blog.kaisetsu.org/?eid=813931

    海舌氏はダランベールの原理(F-ma⇒0)を拡張してΣ{F(i) -a(i)*m(i)}⇒0(MP)としています。ポイントは視点をシグマ化するということにありますが、単純にシグマ化すると三人称のままですね。そこで、一人称に折り畳む必要があります。それの具体的な手法が絵画や科学の分野で行われていることを見てきました。

    ポロックからデ・クーニングへ
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200403157

    女を見たかったら波動方程式を解け
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200403254

    一つ一つの視点を合計すれば全体となりますから三人称になります。会議でも意見を出し合って纏めるということをしますが、「集めて総合する」ことは「三人称化=共有化=集合知」することなのですね。しかし、問題も多いですよね。纏まらずに紛糾してしまい、結局、多数決で採択して、それを皆の合意として妥協します。

    会議など面倒だという人は独裁者になるしかありません。ワンマン経営者とはそのような人でしょう。通常ではそんな人はいないので会議という場で結論を出して物事を進めます。しかし、人間は本能的に独裁者になりたい願望を持っているのではないでしょうか?

    そんな人が面倒な会議という形式をとるとき、その時の一人称はどうなっているのでしょうか? 自分の意見が通らなかった人は不満でしょうが仕方がありません。民主主義とは「妥協の産物」とはよく言われることですが、不満を発生・消滅させる仕組みと理解した方が正しいかもしれませんね。本当は独裁者になりたいのに紳士らしくして、みんなの顔色を伺うしかないのですから、ずいぶん欲求不満が溜まるでしょうね。

    狡猾な人は根回しをして結論を誘導するでしょう。独裁者は調整者という仮面をかぶるわけですね。そんな具合に調整され結論が出るのですが、そのような方法と人称問題とはどのような関係になるでしょうか?

    先ず会議とは視点の合計する場だということです。意見を集めることが視点を合計することなのですね。意見を集約すれば全体の意見となりますが、それだけでは全体の意思にはなりません。意見を集約するには討論が必要になるでしょう。そして合意に達することが必要でしょう。

    従って、会議における視点の合計とは合意に達したということです。民主主義の場合、それは選挙を意味するのでしょう。選挙は視点を合計した結果なのですから合意です。皆が参加した件ですから三人称の意思です。しかし、合意に達したもののそれは不完全ですね。会議は時間の制約があり、十分な論議は尽くせません。どれだけ議論を尽くしても結論を出せないこともあるでしょう。時間をかければよいという訳ではないのですね。選挙だって、それで視点を合計するのですから土台無理な話ですよね。投票用紙一枚で「私」を代行させるのですからね。

    確かに理論的に言うだけなら視点の合計=全体ですから無限にやれば成り立つことになりますが、それは絶対的視点=神=独裁者になるということであり、一者の視点で集約することです。しかし、それは絶対に実現することにない視点であり、徒労に終わるものです。現実は理想を求めても実現しない中で進行していく言語ゲームなのですね。

    そこで、このようなシグマ化(独裁者の方法)を早々に諦めたのがピカソやポロックだったのですね。ピカソは多数者の視点をシグマ化したのですが、それを三人称としてではなく一人称に折り返したのです。それを一枚のキャンバスに収納したのですね。

    三人称のΣ化と一人称のΣ化にはどんな違いがあるのでしょうか?

    会議では三人称で決議され、それを一人一人が受け入れるのですから、三人称を一人称として持ち帰ることになります。つまり、三人称を一人称に変換するのですね。それは選挙でも同じです。そして、再び会議で新たな議題について意見を述べ合うのですが、その内容は前回とは異なってきます。次の会議では三人称化された一人称としての意見であり、それはある意味、認識の進歩、学習された認識です。

    ここには認識のリサイクル(一人称⇒三人称⇒一人称⇒)があります。人間が生きていくということは、このリサイクルをすることなのですね。これを言語ゲームと言っているのですが、何故、当たり前の事が、今、人称問題としてとり上げているのでしょうか?

    それは認識のリサイクルは人間の生き様として当たり前であっても、科学や絵画では当たり前ではなかったということですね。一人称⇒三人称で切断されてしまったとも言えるでしょう。科学は三人称の知を極限化すると神に近づくと信じているのですね。会議なら時間の制約がありますからあきらめますが、科学は諦めることを止めないのですね。芸術もしかりです。しかし、現代の絵画はその事の矛盾を露呈させたのですね。ピカソが言いたかったのは「人間の生き様に従え」だったのではないでしょうか?

    人間の生き様から外れた絵画を、本来の姿に元に戻すために認識の循環を絵画という表現方法に取り込んだのではないでしょうか? 古典の絵画は視点を三人称の立場に置いて、固定して、始点⇒対象という形で分離して、対象を正確に再現するという客観的な視点で表現しました。この方法には視点をシグマ化するという手法が内在しているのですね。それを一つの視点で代表させたのですね。すべての人はこう見えるだろうというという視点なのですね。確かに、それを見た鑑賞者は、確かに、そう見えるし、それが現実だと思うでしょう。違和感がありません。むしろ壮言さを感じるかも知れません。これは会議の決議を受け入れた時の状況です。その絵を受け入れたくない人もいるでしょうが、それはそれであり、その絵は三人称としてそこにあるのですね。後は、一人称(鑑賞者)の感性で、「この絵は好きだ。嫌いだ」として鑑賞するしかないのです。しかし、「この絵は真実ではない」として立ち上ったのがピカソだったのですね。

    ピカソは視点のΣ化をして一つの視点で代行させるのでなく視点を並置させたのですね。固定して対象を表現しないで多数の視点をシグマ化して、それを一人称として同時に表現したのですね。後は、鑑賞者に「好きなように鑑賞せよ」と言ったのですね。鑑賞者を鑑賞者としてではなく探求者になって「真実を見よ」というメッセージを投げかけたのですね。

    鑑賞者がピカソの描いた絵の前に立ち止まった時、どう見るのでしょうか? そこには何を書いているのかという対象が存在しないのですね。視点が沢山あるのですから、まるで結論が出ていない会議の前のような状態ですね。写実派の絵の場合は会議に後のようなもの(結論が出た)ですね。鑑賞者はピカソの絵を見たら自分の視点で見るしかなくなります。自分の視点を入れて三人称の視点を構成するしかなくなります。しかし、それは絶対化することはできません。何故ならピカソは絶対という視点はないというメッセージをその絵から発しているからですね。

    これは会議で結論は出すけれども最終の結論ではないという場合に様なものでしょう。仮の結論をしておいて物事を進める方法です。鑑賞者は自問自答するしかないのですね。結論を出すこともできない、先送り先延ばし状態に置かれたのです。もっともそれは本来の自分に戻っただけなのですけどね。それに気が付けばピカソの狙いは成功したと言えるでしょう。ピカソの絵を見ても何の絵かわからないという人は絶対的視点=独裁者の視点で見たい人であり、それが絵にはないのですから見てもわからないのですね。

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  • from: 生成門さん

    2013年08月23日 07時54分20秒

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    あたかも自然が何か意図を持っているかのような原理(最小作用)

    あたかも自然が何か意図を持っているかのような原理(最小作用)
    <PS理論との共振:「神になるには予言者ではなく探求者になれ」の続き>
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200405299

    光の場合は最短距離ではなく、時間が最小ということでしたから、労力を使わない経路を選択するということです。効率を最大にすると解釈することもできます。
    あたかも光が自分の到着先が分かっているかのように最短時間で進むのですから神の様です。ここから神は節約家と呼ばれることになったのですね。光がモナドなら予定調和(急がば回れ)ということになるでしょう。

    有賀さんの「最小作用の原理」
    http://ariga-kagakushi.info/study/PLA.html

    有賀さんは「あたかも自然が何か意図を持っているかのような原理である」と言っています。また、EMANさんも「まるで全能の神のように光が自分の行き先を知り、その行程が最短になるように進路を定めている」と言っています。しかし、物理家たちが物理の指導原理=神の原理というのですから物理=唯物論という構図はどこに行ってしまったのでしょうかね。もともと物理=唯物というのは美人局だったのでしょうかね。怪しくなってきましたね。唯識論なら「客観とは客観という主観である」と言うでしょうが、これを言い換えると、「唯物などというものはなく、唯物という唯識論がある」となりますね。これはまた三人称などというのは幻想であり、「三人称という名の一人称である」とも言えることになりますね。専門家はどう考えるのでしょうかね。

    最小作用の原理が一人称だとすると、一人称は未来に対して非決定(予言できない)なので、どうしてそれが神のように振る舞えるのか?というのが大きな謎ですね。その答えは簡単ではなさそうですが、最小作用の原理を数学的に理解しないと解明できないようですね。

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  • from: 生成門さん

    2013年08月23日 07時37分42秒

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    神になるには予言者ではなく探求者になれ

    神になるには予言者ではなく探求者になれ
    <PS理論との共振:「作用を最小にする力とは労力を使わない方法」の続き>
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200403983

    ニュートンは始点の情報と既知の力から終点を予言しましたが、ラグランジュは二点間の情報から未知の力を探求するという問題設定でした。未知の力を一人称で発見する方法だというのですから未開人を馬鹿にはできないですね。ラグランジュ方程式はこの最小作用の原理を使って導いたらしいのですが、どんな発想をしたのでしょうかね。

    無知な未開人が車に乗っているのですが、何故動くのかが分からないのですから当然一人称のはずですよね。しかし、あたかも行程が分かっているかのように最小の経路で行くなんてどうしてできるのでしょうか? 「私の人生は宿命(予め決まっている)だった」と言っているようなものです。予め何もかも決まっているなら三人称の知であり、神の位置にいるラプラスの悪魔ですが、一人称では未来は非決定なので、三人称だとしてもそれは不完全にならざるを得ないですよね。ですから、最小作用の原理はラプラスの悪魔ではないのですね。それでも、あたかも神のようにすべてを知っているかようなストリーになるのはどうしてなのでしょうか?

    この謎が解けたら私達はラグランジュと同じ思考を獲得したことになります。悟りを得たと言っても良いかもしれません。そう期待して先を急ぎましょう。まず、基本は一人称であるためには内部観測状態になければならないということです。一人称であるためには未来が非決定(決まっていない)であるということです。未来を決定論的に予言するのであれば、それは三人称ということになり、デカルト座標を持ち込んだ運動方程式となります。

    従って、ラグランジュと同じ位置に立つには一般化座標を持ち込むことと内部観測状態になることです。そして、予言者ではなく探求者になることです。探求者は未来を予言するような態度ではなく、現象の背後のある何かを発見する態度でなければならないのです。

    今、未開人=探求者のなったつもりで車に乗って二点という時間の位置と速度は観測されたのですから、それは既に過去の事実です。過去を振り返るというのは一人称から三人称になることですが、車に乗っているのですから、まだ、一人称です。観測された過去の情報であってもそれは行為中の認識であって対象を自分と分離していないのですね。ですから、それは現在進行形の(車の乗っている)中での出来事なので内部観測状態なのですね。つまり、対象の未分離状態での認識という点では一人称なのですね。

    対象と観測者を分離したときは外部観測=三人称となりますが、内部観測状態では、対象(車)と私(未開人)は一体ですので分離してはいないのです。しかも、一般化座標ですので自己認識という視点も一人称です。

    それではラグランジュが使ったという最小作用の原理の解明に入りましょう。「最小作用」は文字通りの何か最小にする作用という意味なのでしょうか? 作用を最小にするのでしょうか? どっちなのでしょうね。作用とは何をするのでしょうかね?

    EMANさんの「最小作用の原理」
    http://homepage2.nifty.com/eman/analytic/action.html

    これによれば、一般には必ずしも最小になるわけではなくて、 極大だったり、傾きが 0 の変曲点だったりするような問題もあるので、 「ハミルトンの原理」 あるいは「変分原理」と呼んでおくのがいいのかも知れないと言っています。やはり難しいですね

    有賀さんの「最小作用の原理」
    http://ariga-kagakushi.info/study/PLA.html

    有賀さんは電車の乗り換えルートの選択を例にとって説明してくれています。乗り換えは一番早く着くか一番安く行けるルートを選ぶでしょう。つまり、「最短時間」ルートか「最安価格」ルートの選択が最小作用だという訳です。物体が運動するとき、必ず「ある量」が最小になるような経路が選ばれており、あたかも自然が何か意図を持っているかのような原理であるとも言っています。少し、分かってきましたね。でもまだ作用の意味がはっきりしません。

    その点で未確認飛行さんhttp://ufcpp.net/study/dynamics/action.htmlの「最小作用の原理」は分かり易さナンバーワンです。ズバリ、作用とは労力の事だというのですね。最小作用の原理とは労力を最小にする原理なのですね。これを手がかりに探求していきましょう。

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  • from: 生成門さん

    2013年08月22日 07時23分14秒

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    作用を最小にする力とは労力を使わない方法

    作用を最小にする力とは労力を使わない方法
    <PS理論との共振:「光は急がば回れ(モナドの予定調和)の原理で進む
    」の続き>
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200397450

    光は光源をスタートしてから何億光年もの旅をして網膜に辿り着きます。太陽からは500秒、月からは1.28秒ですが、どの光も網膜に達した時にはよれよれなのですね。あちこちに反射したり屈折したりしてきたのですからね。しかし、どの光もそれはそれで、まるで私の網膜に入ることが予定されていたかのように最短距離ではなく最短時間で飛び込んできたのですね。これは実に不思議ですね。意思を持っていない光が意思を持っているかのように振る舞っているのですからね。今回はその謎に迫ってみます。

    物理の指導原理といわれている最小作用の原理というものがあります。これがその光の謎を解き明かしてくれるのですね。力学の現象はすべてこの原理が働いて、最小の経路を選択するようになるという代物なのですね。「何が」最小なのかについては、光の場合は時間だったのですが、もっと一般化して明らかにします。最小にさせる力(作用)が働いていることは確かなようですが、その力が「何」であるかが分かっていないのですね。ですから、その力を突き止めることが只今の探求する課題なのですね。

    それにしてもこの原理が指導原理というのは解せませんね。何故なら、物理というのは三人称の代表であり、一人称など縁がないのが常識なのですからね。それが、まるで「目的」をもって経路を選択するというのですからね。その上これが物理の指導原理というではありませんか? いつから物理は心の科学になったのでしょうかね?

    既に一般化座標とデカルト座標の違いやラグランジュ方程式とニュートンの運動方程式の違いを見てきました。更に、ラグランジュ方程式を探求していけばその原理がどのような意味で、どんように使われているのか? また、どうして三人称が一人称に変換されるのか? その思考過程が見えて来るでしょう。

    四次元能の探求にとって重要なことは、その原理の導き方(三人称の知識)ではありません。一人称としてのラグランジュの思考過程なのです。ですから、探求者としての私達もラグランジュになったつもりで探求するのです。

    万歩計とナビは一般化座標とデカルト座標の違い」の続き>
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200397249

    敵(ニュートン)を知り、己(ラグランジュになったつもりの無知の未開人)を知れば未知を知る
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200397321

    ラグランジュ方程式とは何か?
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200397167

    一旦、光から離れて車に乗り込みましょう。ラグランジュになったつもりの未開人になって、その未知の力を探るのです。既に、車には距離と速度を測る計器がついていてナビはついていないと設定しました。これだけから未知の力を求めるのですね。

    既に、二点の位置を一般化座標で表現しました。二点が分かるということで、ニュートンの運動方程式とは違う状況にあるということですね。ニュートンの場合は、一点(現在)が与えられて、二点(未来)を予言するという設定だったからですね。

    ニュートンの問題:力が既知(現在➝未来)⇒未来を予言すること
    ラグランジュの問題:二点が既知(スタート⇒エンド)⇒作用を最小にする力を探求すること

    ラグランジュに課された問題は二点の位置、速度が既知であり、スタート⇒エンドの間の経路を実現させた背景にある作用を最小にする力を探求することです。これを解くためにラグランジュがどのように思考をしたのかが私達の関心の的なのです。

    二点の間の情報は与えられたのですが、その間には無数に存在する走り方があります。未開人は自分が車に乗ったのですから、どの道を通ったかは分かっているはずですが記録がないので、全くわからないのと同じなのですね。目隠しされて連れてこられたようなものですね。確かに現実には二点間の可能な道筋は道路があるところしか走れないですから有限でしょう。しかし、もしサファリだったらどうでしょうか? 車でなくてヘリだったらどうでしょうか? その経路は無限にあるでしょう。それでも実現するのはたった一つなのですね。

    ですから、問題はその経路(走り方)がどうして実現したのかということです? 人生に置き換えてみればもっとはっきりするでしょう。どうして私の人生はこんな人生だったのかです。もっと、あそこで、別の人と結婚していれば、もし、違う企業を選択していれば、もし、もし、ですよね。

    チュモンには見えない力が働いていた
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200397447

    それでも実現した人生は一つなのですね。一期一会の出会いなのですね。そこに何が働いていたのか?です。光は「急がば廻れ」の原理で進みました。あなたのここまでの人生はどうだったでしょうか? 日本の戦後の姿は「それいけどんどん」でしたが、最近は「走っても、走っても進めない泥沼」ですね。それでも一回限りなのですね。歴史の事実は一つしかないにもかかわらず、ドラマ化されると沢山あるかのように見えますね。脚色されるかですね。これは想像(捏造)された話(フィクション)であって、観測された事実でないのですね。

    このことがラグランジュにも当てはまります。未開人を載せた車は二点しか観測できないのですから、その中間は想像するしかありません。事実はたった一つなのに無数の偽の経路が出てきてしまうのですね。歴史ドラマは、それはそれでお楽しみですが真実は何かということについては、分からないまま放置されるだけです。ラグランジュはそこで放置しなかったのですね。

    ここからが真実と事実を探る入口です。ラグランジュになったつもりで、いや、未開人になったつもりで行きましょう。あなたは未開人なのですから無知(エンジンという力を知らない)なのです。それではどう考えるでしょうか? 車が動くのは自動車であり、「自ら動く」ですから車に何かしら「能力」があると考えるでしょう。それを「神の力」と呼んでも構いません。しかし、ラグランジュは「神」ではなく「未知の力」を想定しました。あなたもそうするでしょう。

    オイラー=ラグランジュ方程式
    http://hooktail.sub.jp/analytic/equationOfLagrange/

    d/dt(ӘL/Әx')- ӘL/Әx=0 (正しくはxドット)

    Lはラクランジアンで、L=運動エネルギ-位置エネルギ

    光でさえあたかも自分が目的地を知っていて、そこに最も早く行くためには屈折すると言います。「急がば回れ」の予定調和の原理に従っているのですね。「急がば回れ」を一般化すると最短距離ではなく最小時間で行く経路を選択すること言うことはすでに述べました。このことを抽象化して言うと予定調和ということになるのですが、それだと良くわからなくなってしまいますので、その中間ぐらいでまとめてみましょう。

    山の裏側に出る方法で考えたように、最短距離で行くよりはぐるっと回る方が早く行けるということでしたが、それは言ってみれば「労力」を使わないということでもあるでしょう。まっすぐ行くと岩や木が邪魔をして汗が出ますね。だから時間もかかるのですね。光も水中では真っ直ぐに行くと抵抗があって速度が落ちるのですね。速度が落ちると時間がかかりますよね。だから急ぐなら廻れなのですね。

    「急がば回れ」は諺ですが、これを原理というのはお粗末ですので、もっとスマートに言えないでしょうか? 実はそれがあるのです。それはモーペルテュイという人が考えた最小作用の原理です。テキストではモーペルテュイの原理と人名では言わないで、「最小作用の原理」と言っているのですが、それほど基礎的で物理の最大の指導原理の一つだからであり、とても重要だからということでしょう。しかし、繰り返しますが、物理が目的を取り入れたかのような原理なのです。物理は三人称の権化=客観科学の象徴=事実表象のエージェントだと思っている人は、これはどうしても受け入れらいないでしょう。でもどうして、それが物理の最大の指導原理とされているのでしょうか?

    もし、物理を客観科学の象徴の地位を維持したいのであれば、最小作用の原理には「目的は入っていない」ことを立証するしかないのでないでしょうか?

    「自然がそうなっているとしか言いようがない」などと言ったとしてもそれは目的を自然に置換しただけであって何も立証してはいません。一番手っ取り早いのはプラトンを受け入れることです。これについて始めると長くなるのでここでやめます。ラグランジュに戻りましょう。

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