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  • from: 生成門さん

    2010年09月25日 17時44分17秒

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    ファインマンの量子化という奥義

    ファインマンの量子化という奥義
    <PSとの共振>

    ファインマンの経路積分は述語的な思考であるが、経路積分という数学は中性であるという結論が出ました。

    それはそれで一段落なのですが、「必勝恋愛方程式」では、量子化とは、恋愛遺伝子(ハミルトニアン)を人工的に作る遺伝子のようなものであるとか、ファインマンの経路積分は華厳構造を反映しており、帝釈天のインドラネット=仮想インターネットの無限定P2Pの仕組みであるなどと言いましたので、シムハンターの皆さんは量子化について混乱しているかもしれません。実は私も混乱しているのです。そこで、量子化の意味について考えてみたいと思います。

    経路積分の特徴は、インターネットのようにルーティング(バケツリレーで受け渡すこと)していることです。このルーティングのイメージを説明しておきます。

    私達のPCはブロードバンドルータに繋がっており、その先はADSL網を経由して再び別のルータへとつながっているでしょう。

    更に、幾つかのルータを経て、Webサーバなどへと接続されているのです。インターネットにおいては、バケツリレーの際に複数の「経路」が存在します。つまり、経由する経路の組み合わせが複数あるということです。

    つまり、どこの経路を使っていくかはそのときの回線の状況によって変わってきます。ここは経路積分と違うところです。経路積分ではすべての経路について足し込みがされます。

    いずれにしても、発信側Sの一つのルータから無数のルータを経由して、受信側Cのあなたのルータにバケツリレーしてくれるのです。

    インターネットではデジタル情報をパケット化《バケツ》して送っているのです。

    当然、途中のルータがパケット毎に受け取るとしても、自身のルータから送り出すタイミングがありますから、送り出す前に次から次に情報がきてしまうと困りますので、同期を取るためにバッファメモリーが必要です。

    要するに、先入れ先出しを守らなければ、情報の正しい伝送はできないのです。バッファするというのが積分のイメージと思えば良いでしょう。

    インターネットの例を持ち出したのは、パケット化すること、ルータを使ってルーティング(バケツリレー)すること、バッファすることが、経路積分の式のイメージに近いからです。

    ただし、パケット化というのは量子化という点では問題があります。送る対象である情報そのものを量子化しているからです。経路積分では、パケット化とは異なる方法で量子化することになるでしょう。

    ルータを使ってのルーティングは、時間を細切れにして繋いでいく方法ですから、経路を細切れにしたと同じ効果・意味があります。つまり、パケット化をしなくても、経路を小さく分けことで量子化ができるのです。これがファインマンの経路積分の特徴でもあるのです。

    経路を量子化しただけでは情報は送れません。バケツリレーしていかなければならないのです。バッファもしなければならないのです。バケツリレー(経路)+バッファリング(積分)が経路積分なのです。経路の量子化は経路積分の条件なのです。

    視点を変えてみましょう。

    積分とは、簡単に言ってしまうと、面積を求めることです。例えば、プールのような立体の面積を求めるときは縦×横×高さで求めることができます。しかし、池のような曲がった空間の面積を求めるときはそうは行きません。

    そこで、小さな立体を考えて計算して、それを足し込むということになります。池の周辺や底は曲がっていますから、求めた答えは近似的となります。しかし、どこまでも、小さく立体化すればその誤差は小さくすることができるでしょう。

    要するに、量子化とは連続しているものを小さ小分け(不連続化)することで、計算しやすくするわけです。言ってみれば、アナログをデジタル化するわけです。

    量子化とは、連続している状態のものを不連続にする手法です。光という連続している波を不連続な粒にして、その粒を光量子と名付けたのはアインシュタインでした。

    量子力学の生みの親は量子のエネルギーの単位を見つけたプランクだとされていますが、光量子と名づけたアインシュタインこそが量子力学の真の親かもしれません。その親が子(量子力学)を「神はサイコロを振らない」といって否定しているのですからおかしなものです。

    何故、アインシュタインが量子力学を否定したのでしょうか。それを解明すれば量子力学の矛盾と言いますか、混迷している理由も分かってくるのではないでしょうか。

    この問題は、アインシュタインや量子力学学者だけの問題ではないのです。「実在とは何か」という哲学の問題であり、私達の人生に於ける生き方の問題なのです。

    四次元能の課題である気候変動の元凶である主語的な思考と、それに対抗する述語的な思考の葛藤に繋がる問題であり、自我とは何かの問題の本質に関わるものなのです。

    自我に偏った人間とは主語を重視する傾向にあり、実体であり、実在であり、粒子であり、量子化された、デジタル化された人間のことなのです。

    私達人間は、運命論者と自由論者のどちらかに分かれると思います。分かりやすく言えば、運命論者とは、未来はすべて決まっていると考える人のことです。

    運命論者が未来はすべて決まっていると考える根拠は、量子化することで、すべてが計算できると考えるからであり、それに対して、自由論者とは、無限の可能性(カオス)の中から自らの意思によって選択していくのが本来の人間の姿であると考えるからです。

    ですから、自由論者とは、場所的人間=述語的志向の人間のことなのです。

    量子化ということを、もっとよく理解するためには、デジタルとアナログの比喩を使うことがよいかもしれません。

    よく耳にすることなのですが、感性の鋭いプロはアナログの音を好むと言います。現代はデジタル化が主流ですが、それによって、人は感性が鈍っているのではと思います。つまり、デジタルな音を良い音と思っているのです。ですから、ますます感性が鈍くなるのです。

    確かに、デジタル化すると劣化が防げたりして便利なのですが、もともと連続した波を小分けして数値化しているのです。

    デジタル化した音というのは、余計なところを切り捨てた擬音なのです。デジタル化した音はアナログの音の近似でしかないのです。真の音はアナログなのです。「デジタルな音」を参照してください。
    http://www.asahi-net.or.jp/~YY8A-IMI/20040913/gijutu/digital.htm

    以下、編集して引用しました。

    PCのデジタル音は良いからオーディオセットなど必要がないなどと平気で言う人がいます。これは非常に恐いことです。

    なぜなら、あんなちゃちな物で満足するほど感性が劣化している人間が増えているということを意味するからです。

    これは、マクドナルドをおいしいと言ったりすることと同じで、非常に愚かしいことです。これは自分自身の性能を落としめる自虐行為なのです。

    こういう人間が増えることは、それだけ人間の質が落ちていると言えるでしょう。感性が落ちた人間は容易に企業の思惑に嵌ってしまうのです。

    企業にとっては、適当な物を安く作っても買ってくれる人間の方が、都合が良いのです。

    PCでのCD再生やデジタルカメラは便利です。ちょっと使うには良いでしょう。しかし、所詮それらは一時利用するべきものであって、感性を磨くものではありません。デジタルだけでは感性は磨けないのです。

    デジタルとアナログの違いを知り、双方の特徴を活かしてそれをうまく利用するべきなのです。人間はアナログであることを知り、微妙さを認識出来るように感性を磨くこと、それが重要なのです。
    ―――
    人間は本来、波=アナログだとすると、アナログ人間は述語的人間であり、場所的人間だということになります。

    一方、量子化するとはデジタル化することですから、感性が劣化した人間は、つまり自我人間だということになります。

    つまり、量子化という方法には問題が初めから潜んでいるということになります。

    では、本当に量子化とデジタル化は同じ意味なのでしょうか。

    デジタル化とは波を小分けするという方法であり、アナログの波を近似=擬化ということです。アナログをデジタルに変換するイメージを見てください。下の図は、
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%83%AD%E3%82%B0-%E3%83%87%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AB%E5%A4%89%E6%8F%9B%E5%9B%9E%E8%B7%AFから引用しました。



    上が連続量でアナログ信号です。下が離散化されたデジタル信号です。
    ―――
    図を見ても分かるとように、アナログ信号をデジタル信号に変換するときは、ある間隔でサンプリング(標本化)して数値に置き換えます。これを離散化、つまり、量子化と言います。

    デジタル信号は便利ですが、それが感性を劣化させるとなると大問題です。もし、そのようなことが量子化の本質なら、量子力学にも致命的な欠陥があるのではないでしょうか。

    ここでアナログ=連続、デジタル=不連続と言いましたが、PS理論でいうところの不連続的差異と連続的差異という概念とは異なることを注意して下さい。

    PS理論の不連続と連続とは次元の違いであり、オイラーの式で示されるe^iθ+isinθ⇒cosθ即ち、虚次元⇒実次元、つまり、虚次元と実次元の間には連続化できない壁があり、それを=ではなく⇒で示しているのです。

    しかし、e^iθ+isinθ⇒cosθの左辺も右辺も波の式ですから、連続ではないかという反論があると思います。

    これを理解するには、式をz=a+ib(= e^iθ)とした方が分かり易いでしょう。aとibの間には避け難い不連続性がありますが、z もaもbも共に連続した波です。

    つまり、ガウス平面は連続した複素数の波の世界なのです。そこから不連続な量子の世界+1が出てくるのです。それは決して、連続な波を量子化して出てきたものではありません。MP《メディアポイント》という次元変換の作用素がしていることなのです。

    +1を実在と考えるのは、連続した世界(i)を不連続化(量子化)することで、虚次元を不連続化したと思ってしまうからなのです。

    これは錯覚でしかないのであり、その証拠に誰も幽霊(複素数の波)を見ていないのです。ファインマンの言うとおり、それは幻想に過ぎないのです。虚次元⇒実次元は克服できていないのです。

    しかし、ガウス平面ではzが1になるのはa=1,b=0のときであるのは明らかです。即ち、+1=実軸が確実に、物質の世界、不連続な世界として立ち現れるのです。そして、この不連続な世界は連続しているかのように見えます。

    ですから、+1の世界では、連続しているように見える対象を不連続化する手法(微分積分)が役に立つのです。これを見えない複素数の世界に応用したのが、量子力学における量子化という方法なのです。

    しかし、連続に見える不連続な世界(+1)に量子化(1)を持ち込むのと、本来、連続である虚次元の世界に量子化(2)を持ち込むのとでは大きな違いがあります。

    量子化(1)の場合は、それが近似であるという認識があり、実用的にも便利であり、感性的劣化という問題がありますが、生活上も技術上にも何も困ることはないのです。

    しかし、量子化(2)の場合は、事情が違ってきます。対象は見えない連続した波であり、それを量子化すると波でもあり、粒子であるということのために、不確定という事態になってしまうのです。

    つまり、連続(波)でもあり不連続(粒子)でもあるということを、どう解釈するかという問題が出てきてしまい、その解釈をめぐって混乱しているのが現状なのです。

    その混乱の象徴が、波の消滅(粒子の生成)と呼ばれている現象です。連続な波が不連続な粒子に瞬時にして変化するという不可思議なことが起きてくるのです。本当にそのようなことが起きているのでしょうか。

    何故、観測すると、波が瞬時に消滅して粒子が生成されるのでしょうか。これは未解決の問題なのです。言い換えれば、不連続な粒子に重点を置く量子力学的な視点では、この現象を巧く説明できていないのです。

    連続的な波(複素数の波)の世界と不連続な粒子の世界は絶対的な不連続な関係であり、連続的な波を無理に量子化すると近似的な誤差ではすまない致命的な矛盾が出るということです。

    ファインマンはこの問題に対してどう対処したのでしょうか。既に、ファインマンは、この矛盾をスマートに解決したことを示しました。

    もう少し、ファインマン的思考を覗いて見ましょう。

    ファインマンは経路積分するために、経路を時間で分割するという方法で量子化を行ったのです。

    「波でもあり粒子でもある」などと変なことは考えずに、しかも、不連続な粒子に重点を置くのではなく、素直に、すべては連続な波であるというところに基点を置き、経路を細切れにして計算することにしたのです。

    つまり、時間で区切ったのです。量子化したのは、波ではなく経路だったのです。デジタル化はすべて、波を細切れにしています。デジタル化もサンプリングしているので、一見すると時間で区切っているように見えますが、この方法では「ざる」で水を掬うようなものです。この場合は、水という対象を量子化したのですが、同様に、サンプリングは波という対象を量子化しているのです。

    波そのものを量子化(パケット化)しないで、ルータでルーティングしてバケツリレーするように、経路を小道にして、受け渡すときに一滴も漏らさず受け渡しすれば情報が抜け落ちることはありません。

    この方法では、波でもあり粒でもあると考えないので、波が何時、瞬時に粒子になるのかという問題に悩まされることがありません。

    経路を細切れにしてしまうので、波のままバケツリレーされることになり、それがすべての経路について足し込まれるのですから、そのときに足しこまれる波も波なのです。

    しかし、そのときに劇的な変化が起きるのです。つまり、波が収束するのです。これが、波が収束した姿を+1にいる観測者の人間が、「粒子が出現した」と錯覚するのです。

    案外UFOなども、このようなことかも知れません。

    この様子を示したのが下の図です。この図はhttp://www.geocities.jp/antigraviton132000/index1.mhtから引用しました。



    図のように周波数の似たような波を重ね合わせると波の団子、つまり、波束(波群)となります。
    ―――
    ファインマン経路積分のすごいところは、同心球面状に広がっていく波を、波の束に変えてしまったことです。ここのところは式で説明しないと理解できないところです。

    式の中にデルタ関数というのがあって、これが波を収縮させているのです。このデルタ関数の説明は
    http://homepage2.nifty.com/eman/electromag/delta.htmlから引用しました。


    デルタ関数というのは、一点だけで無限大で、積分すると 1 になる関数ですが、
    xが 0 から 1 までは値が 1 で、それ以外は 0 となるような関数のことです。 

    これを積分すれば値は 1 になります。 なぜなら、積分は関数が作る面積だからです。

    この関数の出っ張った部分の面積を一定にしたまま幅を狭くして、幅を極限まで 0 に近づけたものがデルタ関数だと考えればよいでしょう。

    ―――

    沢山の波が集まって、一瞬にして収縮することをイメージするには、この説明では良く分からないと思いますので、卑近な例を出します。

    お祭りや縁日でよく見かける綿飴を作りところを想像してみましょう。

    お椀型の容器があり、中央に砂糖を入れるところがありますが、容器を熱しながら回転させると、砂糖が糸状なってでてきます。

    それを割り箸で救い上げると綿飴ができます。この簡単な作業を高速でやると想像しましょう。

    ここで容器が場です。中央の砂糖が入っているところが発信源(S)です。糸状の砂糖が波です。砂糖が糸状なってでて来るという仕組みが運び屋による伝達とします。

    割り箸で救い上げるという作業がデルタ関数の役目です。つまり、連続した波を団子(一個の波束)にするという作業です。

    これが連続的に行われると、次々に団子が出来上がります。出来上がった綿飴をあなた(受け取り側C)がもらうと終わりです。実際には、一個ではなく、複数の綿飴をもらうことになるでしょう。この複数の綿飴が複数の波束(波群)のイメージです。

    連続した波を団子(一個の波束)にするという作業のイメージが波の収束の式として経路積分に出でてくるのです。

    つまり、「波束」の収縮こそが粒子として姿を現した瞬間の出来事なのです。

    このようにして、ファインマンは波の性質だけで、光の粒子性を引き出したのであり、これが経路積分の本質なのです。

    ファインマンは、粒子を重要する量子力学とは全く反対の立場をとり、光はあくまでも「波」であり、「粒子」は「波束」であることを、波の持っている連続性から導き出したのです。

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  • from: 生成門さん

    2010年09月25日 16時45分21秒

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    華厳構造を数式化する

    華厳構造を数式化する
    <PS理論と共振>

    下の図は私達の世界のイメージです。
    http://www6.ocn.ne.jp/%7Ekishi123/page053.htmlから引用しました。
    以下、編集して引用しました。


    華厳経では、帝釈天の世界には帝網(たいもう=インドラネット)が、はりめぐらされていると言います。

    私達はお互いに、蜘蛛の巣の糸のように見えない糸で結ばれていて、その結び目はすべてを照らして互いに映しあう水晶の宝珠でできているというのです。

    ひとつの宝珠が鈴のように鳴り響くと、それに応えるかのように結び合う帝網が共鳴し、鈴の音が次々と鳴り響き、宇宙の妙なる交響曲を奏ではじめるのだそうです。
    ―――

    場の量子力学に求められている数学は中性の数学ではなく、初めから述語的な特性を持った数学ではないのかという疑念が湧いてきたので、それらしき数学を取り上げて見ようということになって、「現代物理と仏教を考えるページ」を主催している岸氏の「ファインマンの経理積分」
    http://www6.ocn.ne.jp/~kishi123/page010.htmlから編集して引用しています。

    以下、編集して引用しました。

    ファインマンの経路積分という言葉をここでは無限定P2Pとしました。その理由は、経路積分には「包み込み」という概念が使われており、無限定P2Pにも同様の仕組みがあるからです。

    積分というのは極論を言えば、「足し込む」ということです。「包み込み」を「包み込む」「畳み込む」という表現は皆同じ意味と考えていきます。

    そうすると、インターネットもインドラネットも「足し込む」という仕組みがあります。言い換えれば、「包み込みの場」であるということになります。

    ファインマンの経路積分が場の理論と言われるのは、「包み込みの場」であるからです。そこで、場の仲間を代表して「無限定P2P」という用語をメタファーとして使用し経路積分を説明していきます。

    無限定P2Pとは、情報の伝達ルートが無線のインターネットであると想像して下さい。無線のインターネットは実際には存在しませんが無線LANがそのイメージに近いでしょう。

    つまり、この場には受け側(C)=クライアントと送り側(S)=サーバーの一対一(ピアツーピア)の関係があります。

    伝達されるものはインターネットでは、情報ですが、経路積分ではエネルギーです。

    インターネットもインドラネットの図から場のイメージを掴みやすいと思いますが、数学の道具であるファインマンの経路積分には、クモの巣のような物理的な網がないので、分かりにくいかもしれません。そこで無線というインターネットというものを想定したのですが、無線LAN、又は、テレビの電波網の方がイメージしやすいかもしれません。

    テレビネットの場合、有線のネットはないのですが、放送局と受信するテレビのアンテナがあり、確かに、その間を電波が走っているのです。つまり、そこには電磁場という場があるのです。

    このような見えない場があるということを頭において、場のエネルギーを計算する仕組みが経路積分であるということです。

    経路積分が「華厳構造を数式化した」ものであるということを示すわけですが、単に式を示すだけが目的ではありません。経路積分が述語的であるということを示したいのです。そうすれば、数学にも述語的数学があるということになるからです。それには、先ず、華厳構造が述語構造になっているということを示さなければならないでしょう。

    その場合にはじめて、数学にも対称性とその破れがあり、述語的に傾斜した数学や主語的に傾斜した数学があるということになるということになります。果して、華厳構造は述語的なのでしょうか。

    先ず、華厳構造とは何か、そして、その華厳構造を数式化したというファインマンの経路積分(無限定P2P)のとはどういうものかを見ておきましょう。

    ところが、そうはいってみたものの、式は下の通りですが、この式を理解するのは大変なことです。

    1/8π∫(E^2+H^2)d^3r
    =1/8π∬d^3r"dt"θ(t-t")J"(r",t")δ/δt"∬d^3r'dt' θ(t-t')1/4π|r"-r'|δ(t"-t-|r"-r'|/c)J'(r',t')

    1/8π∫(E^2+H^2)d^3r:電磁場の全てのエネルギーを求めよ
    ∬d^3r"dt":受け取り側に於ける全ての経路について積分する
    J"(r",t"):受け取り側の電流
    ∬d^3r'dt':全ての途中の経路について積分する
    1/4π|r"-r'|δ(t"-t-|r"-r'|/c):球面波として伝達するグリーン関数
    J'(r',t'):送り側の電流
    (r",t"):受け側の場
    (r',t'):送り側の場
    1/4π|r"-r'|δ(t"-t-|r"-r'|/c):伝達関数


    これを見ていると頭が痛くなるので詳しい説明は止めときます。

    私にはこの説明する能力はありません。ですから、式のことは忘れてください。式の意味だけを簡単に説明します。

    ただし、インターネットの無限定P2Pの仕組みで説明しますのでエネルギーを情報に置き換えます。

    経路積分モデル:無限定P2Pの仕組みを図化すると、次のようになります。
          
    ルート(無線=経路)
    サーバー側S・・・・・・・Cクライアント側
    情報の発信側S(r’,t’)  情報の受信側C(r”,t”)

    ・ ・・は経路を示していますが、ここに無数のルートがあると想像してください。

    「ファインマンの経路積分」の図を見てください。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E8%B7%AF%E7%A9%8D%E5%88%86

    以下、引用しました。



    ---


    1> サーバーS(図ではA)から情報が発信されます。
    2> 情報が無数の経路をもつ球状ネットによって運ばれていきます。その様子が式で示されています。

    3> クライアントC(図ではB)に、すべてのルートからの情報が運ばれてきます。

    4> 運ばれてきた情報は、そのたびにCの情報と相互作用(編集)をします。つまり、情報を渡します。

    5> これがすべてのルートについて行われ、足し込まれます。

    つまり、SからCに受け渡され情報の総量は、全ルートについて足し合わせたものだということです。

    6> これがクライアント側Cのパソコンに映像となって表現されます。しかし、まだ、この時点では静止画像です。これを動画にしなければなりません。そのためには、時間を動かさなければなりません。そうすれば動画となるでしょう。これで全ての動画情報が受け渡されたことになります。


    ここまでは、経路積分をインターネットの仕組みである無限定P2Pというメタファーを使って説明したのですが、実際には、情報を運ぶには運び屋(ルータ)がいなければならないでしょう。

    実際に過去ばれるのは、S(A)からC(B)に一気に運ばれるのではなくルータからルータであり、小刻みに運ばれます。その都度畳み込まれていくのです。これをルーチング(バケツリレー=受け渡し)と言います。これについては別途触れます。

    伝達される情報をエネルギーとすれば、伝達される全エネルギーは、全ルートの全空間、さらに全時間について足し合わせたものと言い換えることができるでしょう。これが無限定P2Pに仕組み、即ち、経路積分の意味なのです。
    ―――
    この無限定P2Pを使ったインターネットという「場」のモデルが正しいとすれば、あなたがYouTubeで動画を見ているということは、全ての過去、全ての世界(宇宙)の影響を包み込んだ形の映像を見ているということになるのです。

    もちろん、それはメタファー的な言い方ですから、インターネットをあなた自身と置き換えればよいのです。あなた見ている映像はあなたの意識なのです。つまり、あなたは脳の中の能を見ているのです。

    これまで言ってきたことを要約すると、ファインマンの無限定P2Pの仕組みとは、相互作用を重視した数学であり、場の量子論を支える数学であり、エネルギーを全時空について畳み込む方法なのです。

    言い換えると、ファインマンの無限定P2Pの仕組みは、場のモデルであり、包み込みという述語的な数学を使っているのです。

    経路積分というのは、「畳み込む」や「包み込む」を特徴とした無限定P2Pの仕組みであり、これが場のモデルなのです。

    やっと、経路積分が述語的であることは検証できました。しかし、場のモデルだから述語的であるというのは、余りにも天下り的な言い方すぎます。

    むしろ、ファインマンが述語的人間であり、数学という道具を使って経路積分を述語的にする方法を発見したというのが正しいであって、積分そのものが述語的であるとは言えないということです。

    何故なら、積分は古典物理にでも、どこにでも出てくる数学的方法であり、もし、
    積分が述語的なら、すべての科学は述語的となってしまいます。

    よって、数学は中性であるとします。

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  • from: 生成門さん

    2010年09月19日 19時49分44秒

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    ファインマンと華厳構造

    ファインマンと華厳構造
    <PSとの共振>

    古典科学を支える数学と新しい科学を支える数学という区別はあるでしょうが、それが主語論理と述語論理による傾斜は受けないということを言いました。

    これが海舌氏の「イデア界にイデアはない」http://blog.kaisetsu.org/?eid=811666
    ということどう関係するのでしょうか。

    海舌氏の主張を私なりに解釈すると、現象ごとのイデアはイデア界にはないが、イデア界にあるイデアはキングオブイデア(陰陽イデア=凸i凹i)があり、個別のイデアはMPにあるということになるのではないでしょうか。

    個別のイデアとはイメージやビジョンであり、それが数学的思考を支配しているというわけですから、すべてはMPの支配下にあるということになります。

    これでは、キングオブイデアからイデア切り離して鞍替えしただけですから、これまでの話には影響してきません。

    つまり、述語や主語論理思考がイデア由来ではなく、MP由来としても、数学がいつも非在の-1で中立であるということの担保はできないことです。やはり、数学にも傾斜が起きるのではないのかという疑念がどうしても出てきてしまいます。

    今、私は心の中(-1)で揺らい(凸iや凹i)でいるのです。それを投稿という形(+1)で表現したのが、前回の「数学はイデアを必要としない」+1(凸i)であり、今回は「ファインマンと華厳構造」-1(凹i)となって現れています。

    今回の「ファインマンと華厳構造」を-1(凹i)としたのは、まだ投稿していないからであり、私自身がこれを頭の中でどうするかを思案しているからです。

    でも、このラインを過ぎたら、もう、+1に位置づけるべきでしょう。何故なら、私自身によって、もう確定し、決心し、認識されたのですから。


    このように、心の中(-1)で揺らいでいるというのは、はっきりと-1(凸i)や-1(凹i)に振動している場合もあれば、+1の出てきたと思ったら、又引っ込むときもあったりして、心の中では、複雑な動きをしているでしょう。

    -1と+1、-1の凸iと凹iの間で、小さく振動しているのです。その振動は私自身さえ自覚できていないとこともあるでしょう。

    振動しているのですから、どっちが正しいかという問題ではないのです。振動(揺らぎ)していることが重要なことなのです。

    これを数学に当てはめてみると、数学的思考も振動しているのはないかということです。

    数学がただの道具なら、+1では中立に位置しており、それを使う人が現れたときに主語論理に取り込まれた数学と述語論理に取り込まれた数学のどちらかになるということが前回の主張でした。

    つまり、数学的思考はいつも非在の-1では中立であり、+1でも中立な道具として位置していて、それを使う人が現れると、主語論理に取り込まれた数学と述語論理に取り込まれた数学になるということを主張したのです。

    それが今度は、その反対のことを言おうとしているのです。

    何故、私が揺らいでいるのかと言いますと、場の量子力学では普通の科学が考えてきたのとはかなり違った状況が生まれてきているからなのです。ですから、そこで使われる数学も違ったものになるのではないかという疑念が生じてしまったのです。

    求められる道具が違うなら、数学的要件も違ってくるでしょう。再度、数学は本当に対称性が破れていないのかを確認したいと思うのです。言い換えれば、場の量子力学に求められている数学は中性の数学ではなく、初めから述語的な特性を持った数学ではないのかという疑念が湧いてきたのです。

    そこで、それらしき数学を取り上げてみたいと思うのです。検討するのは、「現代物理と仏教を考えるページ」を主催している岸氏の「ファインマンの経路積分」です。
    http://www6.ocn.ne.jp/~kishi123/page010.html
    以下、編集して引用しました。

    のっけから難しい「ファインマンの経路積分」の勉強からです。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E8%B7%AF%E7%A9%8D%E5%88%86

    以下、編集して引用しました。



    上の図は、帝釈天の世界には帝網(たいもう=インドラネット)をイメージしてファインマンの経路積分を説明するために、新しいインターネットの仕組みを仮想するために引用します。

    このインターネットでは、P2P、即ち、ピアツーピア(一対一)という方法で、サーバーAからクライアントBに情報を送る方式です。

    旧来のインターネットでは、送るルートはいくつもがありますが、一旦接続が決まると固定されます。また、途中で接続ができなくなると迂回したりしますが、一度に送る情報は一つの回線でしか伝わりません。映像と音声を別々のルートで送るということはないということです。

    しかし、この新しいインターネットでは、一つの情報を分割して、多くの回線(ルート)を使ってクライアントに届くようになっています。しかし、多くの回線(ルート)を使うからといって、同時に送り出した情報は、同時に到着しなければなりません。そうしないと画像が乱れてしまい醜くなるどころか、形を成さなくなるでしょう。

    このインターネットでは、同じ時刻に到着するために、最短で届くルートが選択されます。しかも、到着しても、まだ、他の情報が来ていなければバッファされて待機します。つまり、自動的に同期が計られるのです。

    これなら全ての情報は同時に着くことができ、しかも、送る前の情報と同じ状態でクライアントに届くでしょう。当然、他のクライアントとの間で混線がおきないように識別されてコントロールされているのです。

    これが私達の未来のインターネットの仕組みです。

    さて、これと同じことをミクロな量子の世界でもできるでしょうか。

    量子の世界では、電線がありませんから、電線を伝わる電子のようにお行儀が良い粒子は一つとしていません。皆、空間を自由に飛び回るのです。ですから、あらかじめルートを決めることができません。

    そこで、量子の世界ではインターネットの世界とは異なる方法で伝送するルールを定めることにします。それが無限定P2Pという方法です。

    無限定とは、電線がないのですから、つまり、無線ですから始点Aと終点Bを結ぶどのルートを走ってもよいことにします。つまり、ルートは無数にあるということになります。これが無限定の意味です。

    それら無数のルートの内、粒子がそれぞれ走った結果、同時に付くことだけが条件とします。

    ファインマンは、この方法を具体的にできる方法を見つけたのです。

    ファインマンの場合は、情報伝達ではなく、エネルギーの伝達方法です。それを数学的に計算する方法を示したのです

    つまり、どういうことかと良いますと、無数のルートを無数の粒子がエネルギーを運ぶとして、その全エネルギーを求める式を発明したのです。

    インターネットの例でいうなら、情報をエネルギーとすれば、同じモデルとなるでしょう。つまり、無限定P2Pで、クラアントのパソコンに完全な画像を再現できたということは、エネルギーが完全に伝達したことを意味するということです。

    このような計算方法をファインマンは経路積分といったのですが、ここではインターネットモデルを使って無限定P2Pとしていきます。

    この経路積分=無限定P2Pには「包み込み」という概念が使われており、これがファインマンの経路積分が場の理論と言われる由来です。

    何故、これが場の理論と言われるのでしょうか。

    ファインマンの経路積分は述語的数学と言えるのでしょうか。

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  • from: 生成門さん

    2010年09月18日 15時49分04秒

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    恋愛必勝方程式:ハミルトニアン

    恋愛必勝方程式:ハミルトニアン
    <PSとの共振>

    現象から遡ってイデアを発見することは、砂漠で砂金を探すようなものだと言いましたが、renshi氏はスピノールというイデアを探し当てたようです。

    それならと私も探してみましょう。その候補はハミルトニアンです。

    場の量子力学の現場では、変わった概念装置を多く作り出しています。ちょっと覗いてみましょう。

    量子化というのがそれです。量子化というのが概念ではなく、概念を生む装置のようなものです。これが実⇒虚の方向を持っているのです。

    例えば、私達の世界のエネルギーを量子力学ではハミルトニアンと言います。単に言い換えたようにしか見えませんが、そうではないのです。意味も違っています。

    私達がガソリンを買う場合、リッターいくらを気にして買います。

    この具体的なガソリンという物質を抽象して、作用する要素を加えてハミルトニアンとしたのです。つまり、ガソリン⇒ハミルトニアン、つまり、実⇒(虚?)としたのです。(虚?)としたのは、まだ虚とは言えないからです。実⇒概念という方が正しいでしょう。

    実際、ハミルトニアンHは演算子と言われています。演算子というのは、何かに作用する概念のことです。数学でいう掛け算(×)や割り算(÷)などの演算する記号は演算子なのです。Hはそれらと同じ意味を持っています。

    しかし、Hはそのような演算子とも違うようです。

    Hという演算子をまじめに説明するのは出来ませんので、あまり良い例ではありませんが、「恋愛遺伝子」を演算子に喩えて説明してみます。

    彼女が貴方を「愛している」状態を「I」とします。「愛していない」状態を「N」とします。恋愛遺伝子はIかNの状態に変化させるものとします。

    このように状態を変化させるものを演算子(作用素)というのです。

    ただし、恋愛遺伝子は変化させるだけで、実際に遺伝子そのものは見ることは出来ません。貴方が見ることができるのは変化した彼女の状態だけなのです。つまり、彼女が貴方を「愛している」のか「愛していない」のかだけの状態を態度でしか知ることが出来ないのです。

    ここまで分かると、後は、貴方が恋愛遺伝子を作用させるだけです。作用させるとは、恋愛遺伝子のスイッチを入れることです。

    そして、貴方にできることは会話をすることです。口説きの文句を並べることです。

    果して巧くいくでしょうか。神のみぞ知ることでは心もとありません。

    そこで、なんとか恋愛必勝方程式を作って見ましょう。

    心の状態(Ψ)を知る方程式は
    HΨ=EΨ
    と表わされます。Hはハミルトニアン、Eはエネルギーです。

    HΨ=EΨを書き換えると
    恋愛遺伝子・彼女の心=態度・彼女の心
    となります。

    この式は、恋愛遺伝子にスイッチが入ると、彼女の心が態度に表れ、貴方がそれを観察するということ意味を示しています。

    これを見ても分かるように、貴方が出来ることは、恋愛遺伝子にスイッチをいれること彼女の心が反映した態度を観察することしかできないと言うことです。

    さて、こうなると、恋愛遺伝子というのは、既に与えられており、私達はどうすることもできないのですが、もし、恋愛遺伝子が作れるとしたら、どうすればよいでしょうか。

    そこで式をじっと見てください。

    HΨ=EΨのHは演算子ですから、普通の計算式のようにH=Eとはならないのです。

    この式を解釈すると、何か分からないもの(Ψ)に、何か(H)を作用させると、何か分からないもの(Ψ)のからEが現れるというようなことになります。

    これでは手に負えませんので、

    恋愛遺伝子・彼女の心1=態度・彼女の心2としてみます。彼女の心1が彼女の心2になるということですが、もし、恋愛遺伝子が巧くいけば、彼女の心1と彼女の心2を一致させる恋愛遺伝子があるということです。それが態度で分かるということです。

    これは、彼女の心1=I(誰か愛している)として、恋愛遺伝子が働いた後で彼女の心2=I(貴方を愛している)となれば、恋愛遺伝子が態度を変えたと言えるでしょう。

    これは、いろいろな思いを持っている彼女の心から、一つが確定されて、貴方に対して愛しているという態度になったということですから、恋愛遺伝子が態度となったというように解釈でいます。

    つまり、恋愛遺伝子→心→態度ですが、心は見えないので省くと、恋愛遺伝子→態度と関連付けができます。この関連付けを忘れなければ、恋愛遺伝子=態度と看做してもよいということです。

    さて、それなら恋愛遺伝子→態度を反転させて、つまり、態度→恋愛遺伝子として、態度から恋愛遺伝子を作ることを考えて見ましょう。

    彼女のさまざまな態度を見ていれば、特徴が分かって来るでしょう。これを彼女が好みを示す選好データとしてデータベース化しておきます。これにちょっと手を加えて数学的な処理(量子化)をします。これで人工恋愛遺伝子の出来上がりです。

    これを使えば、必ず「愛している」という態度が現れる仕掛けです。

    これが量子化の本質です。

    重要なことは、具体的な生のデータをハミルトニアンとしたことです。このハミルトニアンには、男性のある口説きの文句を聞いたら、必ず、好きという態度を選好せよという命令が繰り込まれたのです。ハミルトニアンの表面は単なるデータの配列ですが、その配列が作用という意味を持っているのです。

    これで、態度⇒ハミルトニアン(選好データ+命令)として、ハミルトニアン⇒態度とすれば、恋愛必勝方程式の完成です。

    ハミルトニアン⇒態度を言い換えれば、
    恋愛遺伝子・彼女の心=態度・彼女の心
    としたのですから、元に戻してHΨ=EΨとなります。

    これをPS理論で解釈すると、

    H:ハミルトニアン=恋愛遺伝子
    Ψ:彼女の心
    E:態度

    MP2:彼女の心(凸i*凹i)⇒はっきりとした言動などの態度(+1)
    MP1:彼女の心(凸i♯凹i)⇒非言語的な態度(-1)

    ここから、ハミルトニアンHはMP2⇒とするのが相当でしょう。

    ハミルトニアンを原イデアにまで格上げはできませんでしたが、個別イデアの位置、つまり、MPに位置づけたことは、それなりに実はあったと思いますが如何でしょうか。


    でも、量子力学の現場では、本当にこんなことをしているのでしょうか。

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  • from: 生成門さん

    2010年09月18日 15時34分36秒

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    現象からイデアを見つける

    現象からイデアを見つける
    <PSとの共振>

    Renshi氏のHPから「スピノールは原イデアである」というくだりを見つけました。「現記(うつつのき):縁起とスピノール」http://ameblo.jp/renshi/entry-10016733870.html
    これは私にとって興味深い発見です。

    というのは、私達が生きている世界は、背景にある何かから生まれてきていると考えているのですが、その背景の世界は直接見ることができないので、想像するしかないのですが、そのためには考える道具立てが必要なわけです。

    見ることができない典型が人の心です。私達は人の心を覗くことができません。ですからあれこれと、小細工をして知ろうとするわけです。そのための道具が言葉です。

    つまり、会話をして、その反応を見て、知ろうとするわけです。しかし、どんなに苦心しても、心は掴めないという現実があり、その壁を破ることができないので葛藤が生じて来るのですが、それはそれで妥協しながら生きているわけです。

    ところで、これと同じ状況にあるのが、量子力学の世界なのです。量子力学はとても小さな世界を相手にしているので、直接見ることができない世界です。

    そこで、物理科学者も、その世界を知るための道具(概念)を考えているのです。どのような道具(概念)を使うかで、それに見合う世界観が導き出されてくるのです。

    今、問題にしたいのは、どのような道具(概念)かということではなく、概念を作り出す行為とは何かということです。

    これは、虚(イデア)⇒実(物質)と違う方向を持っているということです。この方向は、私達の日常の世界が虚の世界から凸iと凹iの共振によって、形成されるということを意味しており、これまでも繰り返して述べてきたことです。

    しかし、反対の方向の実(物質)⇒虚(イデア)については、余り触れてきませんでした。

    人間で言えば、心の裏を探るとかの意味になるのですが、それでも、大概は、実(物質)⇒虚(イデア)ではなく、実(物質)⇒実(物質)の範囲に留まっているのです。

    つまり物質的な因果関係を明らかにする行為でしかないのです。分かり易くいえば、刑事が犯人を捕まえるために、手掛かりを探すという行為は、物質的な因果関係をつけようとしているということです。科学者も、実験して結論を導くというような行為もまた物質的な因果関係をつけようとしているのです。

    ですから、見えないものを相手にするときは、まず、概念(モデル)を作り出してから、始めなければなければならないのです。これは、明らかに、実⇒実ではなく、実(物質)⇒虚であり、方向が逆なのです。モデルがイデアかどうかの吟味は今はしばらく保留しておきます。

    では、実(物質)⇒虚(イデア)とはどのような場面に現れるのでしょうか。

    それは、既にRenshi氏が「スピノールは原イデアである」と表現したことに現れているのです。スピノールとは回転する螺旋のことです。

    これまでの文脈でいうと、「光が世界を作った」といってきましたし、実際に、虚軸に光と闇を配置しましたが、この言明は、それより、もっと根源的なイデア、つまり、スピノールがあるということを言っているのです。つまり、スピノール⇒物質世界と言っているのです。

    更にいえば、この世界は回転が作ったともいえるのです。端的に言えば、回転⇒世界と言っていることになります。

    ここでは、スピノールのことを説明することはしません。もっと、重要なことをここでは言いたいからです。

    何故、⇒イデアという「方向」でイデアを発想するのかということを吟味したいのです。

    つまり、なぜ、現実の因果の世界に留まらないで、因果を超えて、超越して、虚のイデアの世界に飛び込むのかということを問題にしたいのです。

    そうすることで、何が見えてくるのかと言うことです。もし、スピノール=イデアが正しければ、スピノール⇒物質世界という論理が成立するのからです。そうなるとと光と闇の虚軸との関係はどうなるのかも問題となるでしょう。

    ただ、今は、スピノール⇒物質世界が正しいかどうかは問題にしません。今は、この発想の方向性を重要視したいと思います。

    これと似た方向の発想は日常ではないのでしょうか。実はそれがあるのです。つまり、仮説を立てると言うやり方です。

    仮説とは、「もしかしたらこうではないか」と言うように考えることです。なーーんだ、それなら誰でもやっていることではないかと思うでしょう。

    そうです。それなのです。誰でもやっていることなのです。刑事だって、現場のデータから犯人を想定します。科学者なら、現実の現象から法則の種=つまり仮説を立てます。

    それを現象⇒仮説というなら、物質世界⇒イデアとどう違うのでしょうか。

    冒頭で述べたように、問題にしたいのは、どのような道具(概念)かということではなく、概念を作り出す行為とは何かということです。

    概念と仮説とイデアという三つ巴となりましたので問題を明確にしておきます。

    先ず、現象⇒イデアという方向についてです。次に、概念と仮説とイデアがどう違うのかということです。

    対象が見えない場合で、観測できない場合は、いつもこのような現象⇒という方向に意識が働くことは確実でしょう。

    そうなると、概念と仮説とイデアとが同じなのか違うものなのかということに絞られます。概念とはモデルですから、現実を抽象したものであるでしょう。りんごの概念とは、りんごという記号のことです。仮説とは、「もしこうだったら」という、「もし」がつきます。つまり、現実にはないが、もしあるとするとこうであるというモデルであると言えるでしょう。しかし、モデルですから、やはり概念とそう違わないということです。

    つまり、概念も仮説も心で思ったことですから、非在だということです。非在、つまりー1に位置づけられるものです。

    では、りんごのイデアと言った場合はどうでしょうか。この場合は、りんごの概念や実在としてのりんごのイメージを生むという意味があります。つまり、生むという述語的な意味があるということです。

    非在としての概念や仮説を生成するのがイデアであり、実在する実体として形成する作用するがあるということです。これをMP作用とします。

    纏めると、
    MP2作用:イデア⇒物質現象(実在+1)
    MP1作用:イデア⇒非物質現象(非在-1)・・・概念・仮説

    対象が見えない場合で、観測できない場合の代表は量子力学の現場です。そこでも、現象⇒イデアという方向に意識が働く様なことが起きているのでしょうか。

    そうです。おきているのです。

    ですから、心の内部を探求するためには、量子力学の現場で何が起きているのかを知らなければならないのです。

    量子力学は、見ることができない内部を見ようとして四苦八苦しているのです。何故なのかを知らなければならないのです。そこには、私達が心を見ようとすることの間に何かしらの相似があるからです。

    心を見る科学や宗教が停滞しているのは何故なのかを知る手掛かりもそこにあるのです。

    renshi氏が概念にすぎないスピノールをイデアに格上げしたのも、そのような背景があるからでしょう。砂漠(概念)で砂金(イデア)を探すようなことかもしれませんが、ときには、そういう幸運があるかもしれないのです。

    では、量子力学は、どのような概念装置を作り出しているのでしょう。ちょっと覗いてみましょう。


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  • from: 生成門さん

    2010年09月17日 19時28分47秒

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    数学はイデアを必要としない

    数学はイデアを必要としない
    <PSとの共振>

    ここまでの主語論理と述語論理と、それぞれの対称性の対応について、纏めておきます。

    1:非在も実在も対称性を持っている。
    2:そして、その対称性が破れる。
    3:MP1とMP2の交錯がある。
    4:MP2で自我優位なら、MP1からの反転したもの、凸i優位(例えば質点量子力学)が受け入れられる。
    5:人間の場合は、MP作用は複雑である。
    6:MP1⇒-1を経由しないMP1⇒+1もありうる。
    7:MP2では自我優位の反動がおきることがある。その場合、MP1からの反転したもの、凹i優位(例えば場の量子力学)が受け入れられる。
    8:大概、7:のケースは破綻する。

    ここまでは、非在と実在の対称性の対応と交錯などは比較的容易に整理できましたが、これと同じように数学にも展開できるのでしょうか。

    数学というのは曲者なのです。

    分極による二つの世界と対称性と対称性の破れによる三つの世界、合わせて、六つの世界が生成形成されると言いましたので、ここから始めます。

    -1(凸i)            +1(凸i)
    -1・・・・・・・・・・・・・・・・・・+1
    -1(凹i)            +1(凹i)


    以下、非在{-1(凸i)・-1・-1(凸i)、実在{+1(凸i)・+1・+(凸i)}を{ }とします。
     
    -1・・・・・・・・・・+1
    想像世界{ }・・・記号世界{ }

    -1で思考されたものは想像したものであり、非言語的なイメージや直観の位置です。それを言語や記号で表現した物や観測された物であり、表現された物は+1、記号の世界であり、+1の位置です。

    これを数学に適用すると、


    -1 ・・・ +1
    数学的思考の世界{ }・・・数学の世界{ }

    数学的思考とは思考されたものであり、非言語的イメージや直観のことです。それを言語や記号で表現した物が数学の世界です。

    更に、{ }の中を吟味して見ましょう。

    凸i優位:主語論理による数学(ユークリッド幾何学、微分積分?)
    中間状態:曖昧論理による中間数学
    凹i優位:述語論理による数学(非ユークリッド幾何学、経路積分?)

    うーん、これには無理がありそうです。何故でしょうか。

    数学的な思考というのは傾斜を受けないのではないでしょうか。量子力学に使われる数学は光子の反光子が光子であるように、その区別がつかないのではないでしょうか。中性として+1に出てくるのではにでしょうか。

    言い換えれば、数学的な思考は、凸iと凹iの中間態として、つまり、対称性が破れないまま-1に現れるのではないでしょうか。しかし、+1に反転するときに自我との交錯作用によって、対称性が破れてしまうのではないでしょうか。

    それは、+1に現れた数学が道具化しているということと関係すると思うのです。「数学は非在でありながら実在を支える」
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100097185234でも述べましたが、
    ですから、数学というのは思考の媒体(道具)であり、思考そのものではないと思うのです。又、科学そのものではないと思うのです。

    しかし、数学は科学の厳密性を保証するのはなくてならないものです。科学的に思考するためには数学的に思考しなければならないのです。数学的に思考するためには、数学という道具が必要なのです。

    道具とは物ですから+1の実在であり、記号です。数学的思考とは-1の非在であり、他の思考と同じ位置にあります。

    数学は、他の思考と同じように対称性があるわけですから、凸i優位の数学的思考、凹i優位の数学的思考があってもよいのですが、どういうわけか傾斜が見られないのです。

    ですから、ユークリッド幾何学を凸i優位として、非ユークリッド幾何学を凹i優位とするのは無理があると思うのです。

    数学には果して傾斜があるのかないのかをもう少し別の観点から吟味してみましょう。

    数学は、極論すると演算と演算対象(実体)と等号・不等号などからできていると看做せます。

    3+1=4というのは、3という実体と1という実体を加える(演算)して、それを4という実体と同一視するという意味を持っています。この同一視は主語の同一視とも解釈できますし、述語の同一視とも解釈できるからです。

    述語の同一視と解釈してみましょう。左辺の実体の数と右辺の実体の数を、実体の属性を述語と看做せば、数が同じということで、左辺と右辺を=で結び付けているのです。これなら立派な述語論理です。

    一方、右辺の4は3と1から構成されていると解釈すれば、4という実体があり、それが3と1であるという思考ですから、主語が先に来るわけです。これなら立派な主語論理です。

    言いたいとは、解釈者によって数学の意味が変わるということです。これは数学が道具と解釈したことからも言えることであり、道具自体に意味があるわけではありません。

    喩えはよくありませんが、馬鹿も鋏も使いようというように、一般に道具は中性なのです。ですから、絵の具は西洋的な絵画にも東洋的な絵画にも使われるように、絵の具自体に東洋的な思考をもっているとか、西洋的な思考を持った道具とは言えないのです。

    そうすると、数学は初めから、つまり、-1に於いても中間(中性)ということになるのでしょう。

    これによって修正すると、

    凸i優位:なし
    中間状態:思考的に中間にある純粋の数学
    凹i優位:なし

    となるのではないでしょうか。

    つまり、古典科学を支える数学と新しい科学を支える数学という区別はあるでしょうが、それが主語論理と述語論理によって、傾斜を受けないということです。

    これはどういうことなのでしょうか。数学は、イデアの支配を受けないということなのでしょうか。数学はイデアを必要としていないということなのでしょうか。

    ここまで来たところで、大変に刺激的な海舌氏の投稿がありました。「イデア界にイデアはない」というのです。
    http://blog.kaisetsu.org/?eid=811666
    私も思っていたことですが、これですっきりしたように思います。

    つまり、あらゆる現象の背景に個別のイデアが付きまとっていたら、イデアの世界は混乱するのではないかと思っていたからです。なんでもイデアでは困ってしまうからです。

    結局のところ、イデアの世界にはキングオブイデアだけがあれば良いと思うのです。

    そこから、派生してMPにイデアの子供や孫があればよいのではないかと思うのです。

    では、キングオブイデアとは何かということですが、それが対称性というものです。つまり、凸i凹i(陰陽のイデア)です。

    この海舌氏の発想はもう少し検討してみたいと思います。

    いずれにしても、イデアの支配を受けないのが数学であるなら、数学はいつも非在の-1では中立であるということで理解しやすくなります。

    +1でも中立な道具として位置していますが、それを使う人が現れると、主語論理に取り込まれた数学と述語論理に取り込まれた数学になるということです。

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    2010年09月17日 14時50分25秒

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    量子力学をガウス平面に配置する

    量子力学をガウス平面に配置する
    <PSとの共振>

    「主語論理と述語論理をPS理論で解明する」の続きです。

    分極による二つの世界と対称性と対称性の破れによる三つの世界、合わせて、六つの世界が生成・形成されるとしました。

    -1(凸i)            +1(凸i)
    -1・・・・・・・・・・・・・・・・・・+1
    -1(凹i)            +1(凹i)

    非在{-1(凸i)・-1(凹i)・・・実在{+1(凸i)・+1(凹i)}

    更に、非在も実在も対称性を持っているが、それが破れて生成・形成されると言うことです。

    哲学や芸術、宗教や倫理にも、これが当てはまると言うことです。具体的どう当てはまるのでしょうか。
    非在(-1)・・・実在(+1)
    芸術的思考の世界{ }・・・芸術の世界{ }
    哲学的思考の世界{ }・・・哲学の世界{ }
    宗教的思考の世界{ }・・・宗教の世界{ }
    倫理的思考の世界{ }・・・倫理の世界{ }

    としましたが、{ }は、非在{-1(凸i)・-1・-1(凹i)と実在{-1(凸i)・-1・-1(凹i)}という対応があります。これを個々に吟味していきましょう。

    ガウス平面を認識の場と解釈すれば、分極による実在と非在の六つの場{+1(凸i)・+1・+1(凹i)}{-1(凸i)・-1・-1(凹i)・-1)、それに認識の発生する無の場、即ち、共立の場(MP1)と共役の場(MP2)、根源としての凸i、凹iを加えて10の場があることになります。

    それでは科学について吟味します。

    凸i優位:主語論理によるニュートン物理=古典科学
    中間状態:曖昧論理による中間物理(これが、トンデモ科学か、それともイデアの科学か?)
    凹i優位:述語論理による量子力学=新しい科学

    量子力学については、この図式は正確とはいえません。どういうことかというと、量子力学には二つの立場、つまり、「質点の量子力学」と「場の量子力学」があるからです。詳しくは南堂氏の「量子論の根源問題」を参照してください。
    http://openblog.meblog.biz/article/1362060.html
    以下、編集して引用しました。
    -1で生成される思考には、主語論理の基づく古典物理を拡張した実体重視の古典的量子力学と述語的な思考の産物である「場の量子論」があるということです。

    ところが、MPプロセスで示したように自我が+1に待ち構えており、-1(凸i)の古典的量子力学が選好されるのが普通なのですが、自我が否定すべき相手である-1(凹i)の「場の量子力学」の方を選ぶというようなことが起きてしまったのです。

    初めは、粒子を優先する古典的量子力学を選択していたのですが、粒子とは波でもあり粒子ということになってから不都合なことが起きてきたのです。これは、質点というが概念を基盤とするために起きることなのですが、いろいろと不都合なことが起きてしまったのです。そのことを示すのがシュレデンガーの猫http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/physics/catwja.htmと言われるパラドックスです。

    以下、編集して引用しました。

    この有名なパラドックスは、量子力学の根源と関わるものです。それは「粒子と波」という問題です。量子を「粒子と波の双方の性質をもつもの」というふうに、あいまいな文学的解釈で理解したことから、この問題が生じたのです。

    あいまいな文学的解釈を捨てて、科学的な解釈を取ることにより、パラドックスを回避することができます。
    ―――
    ともかく、その不都合を解消するために呉越同舟という作戦に出たわけです。つまり、自我は主語優位でありながら、このときは、述語優位の場の量子論を選択したのです。そうするとどうなるのでしょうか。

    これを、PS理論的にいうと、自我を否定して、他と一体(同一化)となるということです。通常は、自我を肯定して、他と一体(同一化)となるので、自我が主体なのですが、これは他が主体となる反動という現象です。

    日本が戦争に負けたときと同じ自我状態です。すべての過去の日本的価値観を捨てて、アメリカナイズに走ったのが戦後の私達だったのです。

    これと同じことが、量子力学の世界でも起きたということです。しかし、呉越同舟の作戦は、いいことはありません。長く辛い関係の始まりなのです。

    しかし、自我を否定すると言っても、なくなったわけではありませんから、密かに、自我を取り戻そうと虎視眈々と狙っているわけです。

    そうすると又おかしいことというか、悲しいことが起きてしまうのです。日本の場合で言えば日米同盟の矛盾です。

    質点の量子力学の場合は、場の量子力学を取り入れたことで、場から粒子がいくらでも取り出すことができるので、なんとか、プライドを捨てなくて済んだのです。つまり、質点=粒子という実体=自我を捨てなくてよくなったのです。

    ところが、そうは問屋が卸しませんでした。質点の量子力学に場の量子力学を取り入れると、無限大という事態が生じてしまうのです。

    例えば、力は距離の自乗に反比例するとします。つまり、距離が分母に来るわけです。質点というのは点ですから、体積がゼロだということです。

    つまり、距離を自分に無限に近づけることができます。そうなるとゼロで割るといことになってしまい、無限大になってしまいます。これを発散すると言います。発散したのでは理論そのものが破綻してしまいます。

    古典力学では、発散はおきません。何故なら、質点には体積があるからです。つまり、距離がゼロになることはないからです。しかし、量子の世界は余りに小さいし、自己が自己に作用するというようなことがあるのです。

    この発散を避けるための方法(繰り込み)は見つかっていて、何とか急場を凌いでいるのですが、このような対処療法は、言って見れば、日本がアメリカンに対して外交的に原子力空母の立ち寄りを認めておきながら、国民には、そのようなことはないと否定し続けてきたようなものです。

    このような小手先の繕いは、いつかはもっと大きな破綻を招くことになるのでしょう。結局、原子力空母立ち寄りに関する外交機密文書は発覚してしまいました。

    資本主義は、このやり方で現段階は生き延びているようです。すべて、異端な出来事、流行などを記号化(商品化)して消費してしまうからです。この循環で欲望を肥大させているのです。しかし、その結果は、文明のグローバル化、そして、気候変動、そして温暖化という破綻のシナリオが待っているのです。

    質点優位の量子力学は大丈夫なのでしょうか。

    このことを踏まえて、量子力学を位置づけし直ししましょう。

    凸i優位:主語論理による質点の量子力学
    中間状態:曖昧論理による中間物理(これが、トンデモ科学か、それともイデアの科学か?)
    凹i優位:述語論理による場の量子力学=新しい科学

    同じように、芸術も吟味しておきます。

    凸i優位:主語論理による芸術(写実絵画、クラッシック音楽など)
    中間状態:曖昧論理による中間芸術(印象絵画など)
    凹i優位:述語論理による芸術(抽象絵画、バロック音楽、ジャズなど)

    となるでしょう。

    MP1とMP2の交錯については、哲学で示したメカニズムと同じなので、省略します。

    芸術に関する主語論理と述語論理と、それぞれの対称性の対応が、正しいかどうかは自信がありませんが、正確性については今後の検討とします。

    ここで、主語論理と述語論理と、それぞれの対称性の対応について、纏めておきます。

    1:非在も実在も対称性を持っている2:そして、その対称性が破れる。
    3:MP1とMP2の交錯がある。
    4:MP2で自我優位なら、MP1からの反転したもの、凸i優位(例えば質点量子力学)が受け入れられる。
    5:人間の場合は、MP作用は複雑である。
    6:MP1⇒-1を経由しないMP1⇒+1もありうる。
    7:MP2では自我優位の反動がおきることがある。その場合、MP1からの反転したもの、凹i優位(例えば場の量子力学)が受け入れられる。
    8:大概、7:のケースは破綻する。


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  • from: 生成門さん

    2010年09月17日 14時36分31秒

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    哲学をガウス平面に配置する

    哲学をガウス平面に配置する
    <PSとの共振>

    「主語論理と述語論理をPS理論で解明する」の続きです。

    分極による二つの世界と対称性と対称性の破れによる三つの世界、合わせて、六つの世界が生成・形成されるとしました。

    -1(凸i)            +1(凸i)
    -1・・・・・・・・・・・・・・・・・・+1
    -1(凹i)            +1(凹i)

    非在{-1・(凸i)・-1(凹i)・・・実在{-1(凸i)・-1・(凹i)}

    更に、非在も実在も対称性を持っているが、それが破れて生成・形成されると言うことです。

    哲学や芸術、宗教や倫理にも、これが当てはまると言うことです。具体的どう当てはまるのでしょうか。
    非在(-1)・・・実在(+1)
    芸術的思考の世界{ }・・・芸術の世界{ }
    哲学的思考の世界{ }・・・哲学の世界{ }
    宗教的思考の世界{ }・・・宗教の世界{ }
    倫理的思考の世界{ }・・・倫理の世界{ }

    としましたが、{ }は、非在{-1(凸i)・-1・-1(凹i)と実在{-1(凸i)・-1・-1(凹i)}という対応があります。これを個々に吟味していきましょう。

    先ず、哲学に当てはめます。

    凸i優位:原主語論理(S)による西洋哲学的思考
    中間状態:曖昧論理による中間哲学的思考
    凹i優位:原述語論理(P)による東洋哲学的思考

    となるでしょう。主語論理と述語論理の簡単な定義はこちらを参照してください。
    http://monroe.jugem.jp/?eid=349
    以下、編集して引用しました。

    主語論理(S):主語の同一性から結論を導くロジッです。ex)太郎は陰金だ。太郎は田虫だ。だから、陰金は田虫だ。
    述語論理(P):述語の同一性から結論を導くロジックです。ex)太郎は日本人だ。次郎も日本人だ。だから、太郎は次郎だ。
    ―――
    「場所の論理」と言えば、西田幾多郎ですが、それを紹介している「主語と述語・・・判断のメカニズム」が参考になるでしょう。http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/nisida10.html

    以下、編集して引用しました。

    西田哲学の真髄は「述語的論理」が「場所の論理」であるということであり、主語は述語に依拠しているのです。

    述語が<意識の野>に映し出されて自覚というものが生じ、述語が主語を包摂して判断というものが生じるのですから、述語というものが基本的に大事です。主語(主体)より述語(客体)を重視すべきなのです。

    「われ思う、故にわれあり」ではなくて、「われ語る、故にわれありなのです。すべて何ものかとの「響き合い」です。「場所」であるのです。
    ―――
    西田幾多郎の場所論を受け継いで発展させているのが、城戸雪照氏の場所論ですが、詳しくはこちらを参照してください。http://ir.u-gakugei.ac.jp/bitstream/2309/107304/1/18804306_61_58.pdf
    http://basho.image.coocan.jp/CCP007.html

    「主語はない場所はある」も面白いでしょう。
    http://ir.u-gakugei.ac.jp/bitstream/2309/1169/1/18804314_57_08.pdf

    一々、これらを紹介する余裕はないのですが、後に、量子力学の場とも関係してくるので、又取り上げると思います。

    木戸氏は、場所論に基づいた場所の認識の枠組みを作ることを目論んでいるのですが、PS理論では既にそれをガウス平面として提供しています。

    ガウス平面を認識の場と解釈すれば、それは既に完成されているのです。

    分極による実在と非在の六つの場{+1(凸i)・+1・+1(凹i)}{-1(凸i)・-1・-1(凹i))、それに認識の発生する無の場、即ち、共立の場(MP1)と共役の場(MP2)、根源としての凸i、凹iを加えて10の場があります。

    余談ですが、場を次元とすると10次元、これは超「ひも」理論の次元数と一致します。余り関係ないですが。。。。


    さて、もろもろの認識をPS理論の場(ガウス平面)に適用しているのですが、その際、注意することがあります。

    西洋哲学的思考を原主語論理(S)優位であり-1(凸i)、中間的な思考を-1、東洋哲学的思考(西田哲学)を原述語論理(P)優位であり-1(凸i)と配置したのですが、これは、MP1:S*P⇒-1の虚軸から実軸への分岐プロセスを示したということです。

    この-1(哲学的な思考)は、非在の場の思考であり、内面の思考ですから、これが反転して、実在の場+1に出てこないと認知されないわけです。

    認知とは記号化されて初めて可能となるものです。記号化されたものとは哲学の論文や議論のことです。これらは、すべて表現され、観察されたものです。これが、私達が哲学と呼ぶものです。

    私達は日常生活に於いては、余り、というか、殆ど、非在の場と実在の場を区別していないのです。区別しなくても、何も生活には何も困らないのですが、一旦、精神的に挫折をして、その窮地から脱出しなければならならない様な状況に追い込まれると、この区別が必要になってくるのです。

    もう一つ注意することは、実在の場+1に出てくるルートが、もう一つあるということです。それはMP2:S*P⇒+1の共役プロセスであり、これによって+1に出てくる哲学もあるわけです。この哲学と反転して出てきた哲学とを区別しなければなりません。

    つまり、MP2⇒+1の哲学とMP1⇒-1から反転した哲学とが同時にあるわけです。これをどのように考えるのかという問題があるのです。

    今はこう考えておきます。

    MP2⇒+1の哲学は、既成の観念による自我で認知される哲学です。

    一方、-1から反転した+1の哲学は出来立てほやほやの哲学です。日常の生活で考えればもっと分かりやすいかもしれません。日常とは伝統的な習慣や仕来た、前例、固定観念といった常識があり、それに従っています。例えば、ドアを開けるときに、いちいち、右回りに回すか左に回すかなどを考えてはまわしていません。

    何故そうするのかを、考えなくてもちゃんとやっていけるのです。そのようにすることが、波風が立たなくて、しかも、効率的なのです。このような効率性や快適さを与える仕組みが人間には備わっているということです。それがMP2プロセスなのです。

    ところが、そのようなやり方が通用しないときがあります。そのときこそが思考の出番なのです。

    そのような時とは、旧態依然としてやり方と革新的な力とがせめぎあうことになるでしょう。これは個人の心の中の出来事です。それが集団的な鬩ぎ合いになっていくのですが、次第に政治的な闘争となり、時には喧嘩や戦争になっていくのです。

    哲学のことで言えば、個人の心の中のでも、常に、唯物論か唯心論か、実在論か非実在論かなどの鬩ぎ合いがあるでしょう。それが哲学者同士の鬩ぎ合いになって哲学的な論争となり、現在に至っているのです。

    つまり、+1では二つの哲学が絶えず鬩ぎ合っているのです。個人の場合、このような心理的な鬩ぎ合いは、どのように決着が付くのでしょうか。

    その様子を見ていきましょう。

    ガウス平面は、様々な場が関連して多重に重なっています。人間にとって基底となるのは自己のガウス平面でしょう。そして、その+1には自己が外部化した自我があるとします。

    この自我とは、MP2⇒+1のプロセス、つまり、凸i*凹i⇒+1(自己同一性:自我)で形成された自我ですから、MP2⇒+1から反転して出てきた哲学を同一視してしまいます。

    つまり、-1の凹iの優位の哲学的思考-1(凹i)が+1に反転してきた哲学を否定するのです。

    逆に-1から反転してきた凸i優位の哲学はMP1から出てきた既成の凸i哲学と同一視されますので、大歓迎され、むしろ、自我を強化するために利用されるのです。

    こうしてMP2の哲学が自我とともに形成され、それが、+1→MP1プロセスによってMP2に蓄積されるのです。

    これによって、何故、自我が保守的であり、革新的なものを否定・隠蔽・排除するかという一般的な心理プロセスを解明したことになるでしょう。

    凸i優位とは、どんな場合でも、主語論理ですから自我を強化します。ですから、それは自我に付くとは、固定観念に縛られるという意味であり、主語論理の特徴であるピラミッド志向による官僚思考(-1)となって、それが反転して、主語論理の言動となって、つまり、保守的な態度として+1に表れるのです。これが心理と行動の関係なのです。

    纏めると、

    1> MP2:⇒+1

    凸i優位の場合:原主語論理(S)*原述語論理(P)⇒自我の哲学(の形成)ですが、長いので省略して、S⇒自我の哲学とします。以下同様です。

    凹i優位の場合:P⇒無我の哲学

    2>MP1⇒-1

    凸i優位の場合:原主語論理による哲学的思考♯原述語論理による哲学的思考⇒西洋哲学的思考、長いので省略して、S⇒西洋哲学の思考とします。以下同様です。

    凹i優位の場合:P⇒東洋哲学の思考
    3>-1から+1への反転

    どのように反転するのかの詳しいメカニズムは分かっていません。Renshi氏のブログhttp://protophilosophy.noblog.net/blog/f/index.htmlにそのヒントがあると思います。まだ、それがどれであるのかを確認できていませんので省略します。

    いずれにしても、-1のS⇒西洋哲学の思考-1(凸i)が+1に言語化されて西洋哲学(凸i)となり、-1のP⇒東洋哲学の思考(凹i)が+1に言語化されて東洋哲学(凹i)となり、そのどちらかが自我に選好されるということです。

    -1のS⇒中間哲学の思考が+1に言語化されて中間哲学になるということがあるのかどうかはこれからの検討とします。

    先にあげた城戸氏の場所の哲学は、主語と述語論理を統合するということ言っていますので、中間哲学を目指しているのかもしれません。

    -1とは共立の形であり、対称性が破れていないということですから、中間哲学というよりは、即非の哲学とも言えるかもしれません。

    いずれにしても、それが言語化されるとどうなるのでしょうか。西田幾多郎の呪文(絶対矛盾的自己同一)のような表現になるのでしょうか。それとも禅問答のようなことになるのでしょうか。

    4>+1での交錯(鬩ぎ合い)

    MP2で凸i優位の場合:MP1由来の西洋哲学の方が受容され、東洋哲学は無視・否定・排除される。

    MP2で凹i優位の場合:MP1由来の西洋哲学が無視・否定・排除され、東洋哲学が受容される。

    この後で、他のカテゴリーについて吟味をしますが、MPプロセスは同じなので省略して共立の場合だけを示します。


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  • from: 生成門さん

    2010年09月13日 08時21分29秒

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    主語論理と述語論理をPS理論で解明する(2)

    主語論理と述語論理をPS理論で解明する(2)
    <PSとの共振>

    自我を解体するとは、主語論理を捨てるということであり、それは、即ち、階級制度、官僚制度、規律、文化、血統を捨てるということに等しいのです。私達は骨の髄までシソーラスでできているのです。

    こうした思考をPS理論で考えて見ましょう。

    思考とは非在(-1)であり、その根源はMP1にあるでしょう。MP1は共立ですから、二つの思考が対称性を持って並存しているはずです。それを主語論理と述語論理としましょう。もちろん隠喩と換喩もそれに含まれます。

    そうすると、凸i=原主語論理、凹i=原述語論理とすれば、MP1(凸i=原主語論理♯凹i=原述語論理)、MP2(凸i=原主語論理*凹i=原述語論理)となるでしょう。

    ここから、MP1(凸i=原主語論理♯凹i=原述語論理)⇒-1(主語論理・述語論理)、MP2(凸i=原主語論理*凹i=原述語論理)⇒+1(主語論理・述語論理)が出てくるでしょう。

    原をつけたのは、虚次元のイデア性を表現しています。思考の根源、思考の素と考えてください。

    つまり、非在の思考は、対称性を持ったまま主語論理・述語論理として-1に生成されるということです。更に言えば、第二象限の限りなく近いところに位置されるということです。

    しかし、正確には第二象限にはなく、凸iサイドに位置すると言うのが正しいでしょう。主語論理は凸iサイドに偏向、傾斜しているということです。

    更に、述語論理は、第三象限ではないが凸iサイドに偏向、傾斜しているということです。

    この偏向、傾斜ということがrenshi氏のいうMP1による傾斜であり、私はこれを量子力学的な表現を借りて、MP1共立の対称性の破れとしています。

    ここで、海舌氏の認識の図と比較して見ましょう。



    海舌氏は、第二象限に宗教や芸術や倫理を、第三象限に数学や哲学を配置していますが、私は何故、そのように配置するのかが理解できないでいたのですが、どちらも思考であると考れば、それらは非在であるということに気がついたのです。

    ところで、対称性=双対性という観点からすると、上に述べたように凸i凹iの鬩ぎ合いから傾斜して-1に対称性が破れたりするものの、本質は維持されて現れるのではないでしょうか。

    そこで、手前勝手ですが、海舌氏の認識を少し修正させていただきます。

    凸i凹iの鬩ぎ合いで、傾斜するときとしない場合があり、それらを区別します。傾斜しない場合を-1として、傾斜するときを-1(凸i)、ないし、-1(凹i)とします。

    このように考えると、哲学にも、宗教にも芸術にも主語的凸iと述語的な凹iがあるということになります。

    これを纏めてみると、

    主語論理による思考(換喩)の根源=原主語論理=凸i
    述語論理による思考(隠喩)の根源=原述語論理=凹i

    これらがMP1で共立すると、凸i♯凹i⇒-1となり、(主語論理による思考(換喩)の根源=凸i)*(述語論理による思考(隠喩)の根源=凹i)⇒-1となります。

    長い式なので、原主語論理(S)♯原述語論理(P)⇒-1、即ち、S*P⇒-1と簡単にします。

    ⇒には傾斜が付きますので、凸iか凹iのどちらかの優位か、中間状態の三つ思考、即ち、{-1(凸i)・-1・-1(凹i)}として現れるでしょう。

    一方、これらがMP2で共役すると、S*P⇒+1となりますが、⇒には傾斜が付きますので、凸iか凹iのどちらかの優位か、中間状態の三つ思考、即ち、{+1(凸i)・+1・+1(凹i)}として現れるでしょう。

    これで、主語論理と述語論理が、虚から実に出てくる過程、即ち、MPメカニズムを示したとことになります。

    -1は非在、+1は実在ですから、-1は思考そのもの、+1は記号化されたものという見方ができるでしょう。一方で、自*他⇒+1(日常の物質世界=自我=他者)としたのですから、ここにも、虚の根源が物質化され、記号化され、+1に形成されたと解釈します。

    光の波(光と闇)が共役して+1(電子対生成)になるというのは、量子力学の現象ですが、電子対は観察によって現象したということであり、観察によって物質化=粒子化=記号化されたということです。

    ここから類推すると、日常の物質世界も対称性(対生成)を持って現れることになるでしょう。つまり、自*他⇒+1(自我と他者)です。ところで、自我と他者は、物質化されているということは、それを実体として観察したということですから、物質化=粒子化=実体化=記号化という一連の同一化(同一視)があります。

    重要なことは、物質化=記号化という関連です。これは自我=記号化とも関連するのです。つまり、物質と呼ぶ現象+1はすべて記号なのです。これは、ラカンが言うところの象徴界に相当するでしょう。

    これまで言ってきた+1の日常の物質世界=現象界とは記号(言語)によって象徴された世界のことなのであり、私達は記号を実在として錯覚して生きているということなのです。

    ここまでを纏めると、

    ・ 主語と述語の思考の根源、つまり、対称性が虚軸にある。
    ・ MP作用によって傾斜する。(対称性が破れる)
    ・ MP1の共立によって主語と述語の思考が-1に生成される。
    ・ その現れ方は、中間と主語優位(凸i)と述語優位(凹i)の思考が{-1(凸i)・-1・-(凹i)}となる。
    ・ MP2の共役によって主語と述語の思考の表現が+1に形成される。
    ・ その現れ方は、中間と主語優位(凸i)と述語優位(凹i)の思考が{+1(凸i)・+1・+(凹i)}となる。

    こうして、虚軸の対称性(凸iと凹i)が実軸(+1と-1)に現れたということになります。

    誤解していけないことは、虚軸の対称性(凸iと凹i)が、実軸(+1と-1)となったということではありません。

    実軸の対称性<+1と-1>は、凸iと凹iと同じく根源的対称性であり、都合によって、なくなったり、現れたりするものではないということです。

    ここで言わんとしている対称性の現れとは、+1と-1のそれぞれに、傾斜つきながら、+1(凸i)と+1(凹i)、-1(凸i)と-1(凹i)と対生成、対形成されたことを言っているので、留意してください。+1ないし、-1の場合は、中間ですが、これは対称性が中性化されて、隠れていると解釈しましょう。MPの即非性と同じ状態と解釈することができるでしょう。

    これで+1と-1の区別がはっきりしたのではないでしょうか。

    -1は非在であり、思考であり、それを記号化した物が+1の実在だということです。

    従って、S*P⇒+1によって記号化された世界=実在が形成され、S*P⇒-1によって、暗黙の世界=思考の世界=超越した世界=非在が生成されるということです。

    これも纏めておきます。

    分極による二つの世界と、対称性と対称性の破れによる三つの世界、合わせて、六つの世界が生成形成される。

    -1(凸i)            +1(凸i)
    -1・・・・・・・・・・・・・・・・・・+1
    -1(凹i)            +1(凹i)

    非在{-1(凸i)・-1・-1(凹i)・・・実在{+1(凸i)・+1・+1(凹i)}

    {-1(凸i)・-1・-1(凹i)と{+1(凸i)・+1・+1(凹i)}を{ }とします。
     
    -1・・・・・・・・・・+1
    思考したもの{ }・・・観測されたもの{ } 
    想像したもの{ }・・・表現されたもの{ } 
    想像世界  { }・・・記号世界{ }

    思考されたものが想像したものであり、非言語的なイメージや直観のことです。それを言語や記号で表現した物が、観測されたものであり、表現されたものであり、記号の世界です。以下同様です。

     
    非物質世界 { }・・・物質世界{ }
    暗黙の世界 { }・・・言語の世界{ }
    暗在系の世界{ }・・・明在系の世界{ }
    超越の世界 { }・・・日常の世界{ }
    科学的思考の世界{ }・・・科学の世界{ }

    科学的思考とは思考されたものであり、非言語的イメージや直観のことです。それを言語や記号で表現した物が、科学の世界です。以下同様です。

    芸術的思考の世界{ }・・・芸術の世界{ }
    哲学的思考の世界{ }・・・哲学の世界{ }
    宗教的思考の世界{ }・・・宗教の世界{ }
    倫理的思考の世界{ }・・・倫理の世界{ }

    共役のS*P⇒+1、共立のS♯P⇒-1によって、+1と-1に分岐して、二つの世界(対称性を入れると六つの世界)ができたわけですが、この場合、共役と共立は別々に働いているかのように見えます。

    実際にそうなのでしょうか。このことを考えて見ましょう。

    つまり、S*P⇒+1によって記号化された実在とS*P⇒-1によって生成された非在とはどのような関係になるのかということです。

    ここにはMPの作用、メカニズム、ダイナムズムがあります。これを解明することがこれからの課題でもあります。

    この段階で言えることは、S*P⇒+1は、比較的単純なMP2の精神作用であり、素粒子などの衝突などはこれに相当するでしょう。

    しかし、人間の場合は、単純な作用ではありません。大概は、無意識MP1を経由するからです。従って、MP1⇒-1、MP2⇒+1と同時に、-1⇒(MP)⇒+1があるわけです。その場合に、MP2⇒+1の+1と-1⇒(MP)⇒+1の+1が重なると言いますか、交錯するわけです。

    MP2からの物質ないし、物質的な自我(他者)があり、MP1からの-1(思考)から反転した+1(実在としての物質、ないし物質的な自我)があり、それが、+1で交錯するのです。そのとき、自我はどう自覚するのでしょうか。

    他の場合も同様です。

    MP2から形成された科学や哲学があり、MP1から生成された-1(科学や哲学の思考)があり、それが反転して+1に形成された科学的、哲学的産物があり、それらが+1で交錯するのです。そのとき、自我はこれをどう自覚するのでしょうか。


    MP2からの自我が、MP1の-1から反転した記号化された物質を他者として受け止めるのでしょうか。MP2からの科学的産物が、MP1の-1から反転した科学的産物とはどう違うのでしょうか。自我はそれをどう受け止めるのでしょうか。

    これが人間の場合の複雑さであるとも言えるでしょう。原生動物には-1はないか、あっても、エネルギーレベルが低いでしょうから+1に於ける葛藤はないでしょう。

    MP1から-1に出てこないで、MP2を経由しないでダイレクトに+1に出てくるルートもあるのでしょう。条件反射などは、MP1→+1のケースだと思いますが、直感は複雑な心理過程を経てきているので、MP1:→-1を経由しないとは考えにくいところです。


    MP1ダイレクトについてはこれまで扱ってきませんでした。ただ、内部は光速度で動いているので、どのような場合でも、MP1から-1経由で、+1に反転してもおかしくはないのですが、更に検討する必要があるでしょう。
    若干、裏ポートを開けるhttp://www.c-player.com/ad00178/thread/1100093577244では、直感のケースを説明しましたので参照してください。

    これは今後の課題とします。


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  • from: 生成門さん

    2010年09月13日 08時11分37秒

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    主語論理と述語論理をPS理論で解明する(1)

    主語論理と述語論理をPS理論で解明する(1)
    <PSとの共振>

    三つの自己{+1・0・-1}の自己は固定されているのではなく、同時に起きており、その自己は回転するガウス平面そのものなのだということです。

    ガウス平面が回転するなら、-1と+1以外の途中ではどうなっているのでしょうか。-1と+1以外に出ることはできないのですから、その状態は外部からは見ることはできません。

    ただ、共役した場合には、その値が<1の実数(確率)となるので、仮想的な位置があるということは言えるでしょう。

    仮想的な位置とはどういう意味なのでしょうか。

    内部にいたままでは、自己を観ることはできないので、外部+1に出て、他のガウス平面の内部を見ることにしましょう。対象を観察する場合を想像してください。

    これは、量子力学の波を観測するとときと同じ状況です。例えば電子は内部(見るまでのこと)では、実体のない波(非在)ですから、その位置を確定することはできません。

    観測すると、そこが確定した位置であり、即ち、+1(電子)の位置です。観測しなければ、位置は不確定ですから、どこにいるかは仮想的になります。それを確率で示すことができます。それが共役した値なのです。

    このことを人間の心に当てはめてみましょう。

    他人の心を見るためには、自己が+1の位置にいなければなりません。このことは、瞑想(-1)しているときに他人と会話(+1)はできないということを想像すれば理解できるでしょう。上の空では仕事もはかどりません。

    その上で、他人の心を観測するのですが、心は内部では波ですから、その位置を確定することはできません。観測すると、そこが確定した位置であり、即ち、+1の位置です。観測しなければ、心は不確定ですから、どこにいるかは仮想的に確率で示すことしかができません。それが共役した確率という値なのです。

    仮想的な確率の位置とは、結局、想像でしかないわけです。ですから、読むことはできても、他人の心は直接には見ることはできないのです。+1に現れてきた私(見るもの)と他者(見られるもの)という二人という自己(自我)は、確定した心の現れです。そして、共に観測者(他者も、私が他者を見ている様に、私を見ているということ)として出合ったということなのです。

    その時には当然二人のガウス平面は消滅しているのでしょう。消滅するということは実際にはないのですが、意識から内部の自己が一時的に忘却されると理解すればよいでしょう。

    ですから、外界を認識するということは、自己が観測者として+1の自我の位置にあり、その自己が、他者ないし、物質を観測しているということを意味しているのです。観測された物質ないし、対象は、物質(対象)自体ではないということは申すまでもありません。観測された物質(対象)を、私と関係なく存在していると思うことは、勝手ですが、それこそが自我の作用だということです。

    ところで、外界を認識する自己は、自我としてその位置に何時までもいるわけではなく、絶えず、+1と-1の位置を行ったり来たりしています。これがガウス平面は意識から一時的に消えても、なくならないという意味です。

    つまり、ガウス平面を持つということは生きるということそのもののことであり、人間は内面の-1の非在としての科学的思考、数学的思考、日常の思考(感情も含めて)、その他の思考をすべて動員していて生きているのです。

    他者となって生きることが自我の状態と言いましたが、この場合の他者とは、内部の他者であり、上で述べた観測者として他者とは異なることに注意してください。

    観測された物質と物質自体とが異なるように観測者としての他者と観測された他者とは違うのです。観測された他者は私の内部の他者のことであり、それが自己と同一視されて、自我の位置+1に他者として現れたのです。それが自我=他者という同一性の構図なのです。

    <他者の構図>

    虚軸:凸i(原自己)・・・凹i (原他者)

    虚軸の差異の共役(共振)・・・凸i(原自己)*凹i (原他者)⇒+1(自我=凹i=他者)

    虚軸の差異の共立・・・凸i(原自己)♯凹i (原他者)⇒-1(内部の自己と他者)

    -1(内部の自己と他者)から+1への反転・・・これを解明することが今回のテーマ

    他者の構図からも分かるように、観測者としての他者など絶対に+1に実在しないのです。実在しているのは、(観測者としての)他者を観測したときなのです。観測するまでは、非在の他者として-1には現れているでしょう。

    ですから、今後、他者といったときは内部の他者(ただし、自我と同一視される+1の他者)であることを忘れないでください。

    自我人間は他者となって生きると言いましたが、言い換えれば、外界に意識が向いているということです。対象に意識が向っているということです。対象を志向する人間(対象を志向する人間)、対象を指し示す人間とも言えるでしょう。

    自我と対象という構図(自我→対象)があるのです。見るものと見られるものという構図があるのです。

    自我人間が他者となって生きているだけかというとそうでもないのです。そのような人でも、ちゃんと、別の場面では内的な自己を生きているのです。

    ただ、自我に強く支配されている人が現代人です。現代人は仕事(対象)に埋没していることを余儀なくされているので、自己が固定されてしまうことが多いのです。つまり、自己が流動的でないので、なかなか、自己を開放できないのです。休日にレジャーなどで開放感に浸るのが積の山でしょう。

    そこで、自己が自我に固定されるということの意味を考えてみたいのです。

    自我とは他(他者ないし対象物)と同一視することですが、この同一視には二つの仕方があるということです。

    一つは主語的な同一視であり、もう一つは、述語的な同一視です。主語的な同一視とは、私が対象と一体化するということです。その心理プロセスは、「私は高い位置にいる。富士山は高い。だから、私は富士山である。」というように思考します。この思考は換喩的であり、三段論法です。つまり、富士山の属性である「高さ」を代表させて、自分の位置を喩えているのです。つまり、自己を説明しているのです。

    このように主語の特徴を持って、主語を説明する考え方が換喩であり、これが、主語=私=自我を先とする思考の中心となるのです。このような論理を主語である私と富士山を同一視(私=富士山)するので主語論理と言います。主語論理の特徴は、「私は富士山である。」の「である」が強調されるのです。

    それに対して、「私は高い。富士山は高い。だから、私は富士山である。」というように思考したとします。一見、主語論理と変わらないように見えますが、この思考は隠喩的であり、水平に瞬間移動する論法なのです。

    つまり、私と富士山の述語である「高い」の共通性を持って、私を富士山に喩えているのです。つまり、私は富士山の「ようである」と自己を説明しているのです。

    このように述語の特徴を持って、主語を説明するというより、水平に瞬間移動して主語を消してしまう考え方が隠喩なのです。

    これが述語を先とする未開の思考と同じ特徴を持っているのです。生きる原点志向、生きる場の思考と言ってもよいでしょう。このような論理を「高い」という述語で、私と富士山を同一視(私=富士山)するので述語論理と言います。

    何故、ここで、主語と述語論理を持ち出してきたのかといいますと、自己が自我に固定されるということの意味を考えてみたいからです。

    主語ありきの思考とは、図書館のシソーラスの分類のようなものなのです。シソーラスは木構造のことであり、ピラミッド構造のことであり、ツリーデータベースのような管理体系です。車の部品表のことです。

    例えば、コンピュータで車のデータベースを作成するには、車という主語(実体=オブジェクト)が先になければなりません。車は車体とエンジンとその他で構成されており、更に車体は、いつくかに分類されます。

    こうして、細部に分解していくことで、部品表というツリーができます。この体系は「である」の連鎖でできています。車という同一性が失われないことが体系という意味なのです。車=部品1+部品2+・・・+部品n=Σ(部品)なのです。

    こうした考え方のすべてが、自我、科学、日常の思考にまで浸透しているのです。
    ですから、自我を解体するなどと、軽い気持ちで言っては見たものの、それはこの思考を捨てるということに等しいのです。そんなに私達の思考の基本をとなっているなら、自我の解体など本当にできるのかという疑問が湧いてきたのではないでしょか。

    自我を解体するとは、主語論理を捨てるということであり、それは、即ち、階級制度、官僚制度、規律、文化、血統を捨てるということに等しいのです。私達は骨の髄までシソーラスでできているのです。

    これを、PS理論の文脈で考えて見ましょう。


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