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シムダンス「四次元能」

シムダンス「四次元能」>掲示板

公開 メンバー数:58人

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ここは自己生成の門ーーー宇宙の原理「動的作用反作用」を使って精神革命の臨床実験中!

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  • from: 生成門さん

    2012年09月30日 19時01分24秒

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    どんな三人称小説でも内部観測的になる

    どんな三人称小説でも内部観測的になる
    四次元能版エヴァンゲリオン:内部観測と三角錐>

    内部観測とは全人称が同時に存在している認識
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100111592324
    の続きです。

    内部観測は三角錐であると言いましたので、ここに内部観測のすべてが含まれているのです。要素に解体できない、還元できなない全人称的行為というのがそれを表現しているのです。

    内部観測の三人称だけを取り出したのが外部観測です。ですから、全人称の内部観測と三人称の外部測を同じレベルで対比させて論ずるのは論理的な混同なのです。全体を部分と同じと言っているようなものなのです。意図して混同するならそれは意味があるでしょうが、そうでないなら混乱するだけです。この区別をしっかりしておきましょう。

    これで外部観測を取り込んだ内部観測が全人称的行為であることを明らかにしましたので、その方法を明らかにする準備ができました。

    内部観測で問題となるのはミクロレベルの実践です。マクロレベルなら人間という主体があって、それが認識の主体となるのですが、ミクロでは内部潜入という方法が出来ないのです。

    内部を観測するために内部を破壊してしまったのでは観測も探求もあったものではありません。内部を観測で重要なことは内部と相互作用することであって、破壊してはならないのです。例えば、粒子レベルになると加速器という観測機器が登場してきますが、これはもろに粒子で粒子を衝突させるやり方です。とても相互作用などという優しいものではありません。加速器による観測は外部観測であって内部観測ではありませんし、外部による内部破壊なのです。

    マクロでの外部観測は決して、内部を破壊しませんが、ミクロやメソスコピック(中間領域)になると対象を破壊してしまうのです。何故、破壊してしまうのでしょうか?

    それは対象が小さいということがあるでしょうし、構造が複雑なので部分を取り出すということもあるでしょう。部分が全体ということはあり得ませんから、加速器による観測では実態(全体)を把握できないのです。

    超大型粒子加速器でブラックホール製造実験
    http://www.youtube.com/watch?v=LJGDwICwOtw

    このような観測が何故大きな予算がついて公の研究課題となれるのでしょうか?

    超大型粒子加速器の研究は目的が宇宙の始まりを知ることです。必ずしも内部状態をそのままで観測しなくても良いのであって、それによって内部を間接的に把握できるなら破壊しても良いのです。

    言い換えると、内部を破壊しても、そこから仮説が生まれ、内部状態を類推できるならそれでもよいのです。

    「神の粒子」の発見?
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100110489943

    こうした外部観測を契機として、知の水準を上げていくのが内部観測であり、脱構築の知のダイナミズムとして示した方法です。

    知の脱構築のダイナミズム(運動)
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100111504689

    知の脱構築のダイナミズムとは、テロの撲滅の作戦で内部組織を外部から破壊してしまうようなやり方です。テロ分子は逃げてしまうのですが、その足取りが掴めれば、その先で捕まえることができるというなら由とするようなものです。

    足取りが掴むというのは徹底した心理的な内部観測者の存在の様式(普遍・一般・個別)があります。そこから認識の様式に変換して、逃走経路を仮説し、類推するのです。

    加速器を使った粒子の振舞い方の研究もこれと似ているのです。実際に加速器を使った実験では粒子が消滅してしまうのですが、その行き先は異次元ではないかという仮説がされていますから、それによって粒子の足取りが掴めることになります。つまり、科学者は内部観測の前提として存在の様式(普遍・一般・個別)を持っているのです。そこから認識の様式に変換して、内部観測者として粒子の異次元説(仮説)を提示したのです。

    しかし、異次元説ではテロの場合とは同じようには行きませんね。異次元の行ったというのではまたまた観測(追跡)が出来ないからです。このあたりの話になるとSFっぽくなるのですが、SFというには三人称小説でもない、一人称小説でもない、三人称小説でもあり、一人称小説でもあるという、実に内部観測小説とでも言えるスタイルを持った小説なのです。どんな三人称小説でも、その作家の内部を想像して理解すれば内部観測的になるのです。

    四次元能では異次元=四次元空間=クラインの壷を使ったティトムモデル(宇宙生成サイクル)を提示していますので参考にしてください。

    時間は保存される(1)
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100075948828
    宇宙サイクル

    ―――

    四次元は隠れている
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100068780299

    ―――

    電子の不可思議な軌道や彗星がリターンする不可思議、銀河の回転問題(外側でも速度が落ちない)不可思議を説明しています。

    電子は二回転しないと元に戻らない
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100093885881

    銀河の回転は周縁でも落ちない(2)
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100092127372

    続く

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  • from: 生成門さん

    2012年09月30日 18時19分20秒

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    内部観測とは全人称が同時に存在している認識

    内部観測とは全人称が同時に存在している認識
    四次元能版エヴァンゲリオン:内部観測と三角錐>

    ミクロの世界の外部観測の限界
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100111590020
    の続きです。

    外部観測には限界があり、ジレンマがあるということを確認しましたが、外部観測の限界を超える方法があるのでしょうか?

    それがこれまで探求してきた内部観測ということになるのでしょうか?

    もちろん、そうであることを期待して内部観測と三角錐を結びつけたり、存在の様式から認識の様式に変換したり、一人称を三人称に変換したり、知のダイナミズムを構成したりしてきたのです。

    三角錐は三つの認識の混合体
    https://www.c-player.com/ad00178/thread/1100111140745
    普遍と一般と個別の三角形
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100111504159
    存在の様式としての契機モデル
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100111504288
    契機モデルを三角錐にする
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100111504367
    知の脱構築のダイナミズム(運動)
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100111504689

    ただ、内部観測という言葉は誤解を生む言葉です。内部観測と外部観測というのですから、どうしても対立概念で理解してしまうでしょう。これが混乱の元になっているのです。外部観測というと言うと顕微鏡で覗くというイメージが強いので、それに対して内部観測は内部に潜入するというところだけが強調されてしまいます。ミクロの決死隊のイメージです。確かにそのイメージは正しいのですが、それは喩えであって、実際にミクロの決死隊になって観測することなどできるはずがありません。潜入捜査は内部観測の例として素晴らしいモデルなのですが、ミクロの世界ではそれは逆に誤解されてしまうのです。

    ミクロの世界の内部観測とは一体どのようなことなのでしょうか?

    先ず、抑えておくべきことは内部観測には外部観測が取り込まれているということです。内部観測者は内部にいて、そこから出てこないのではありません。内部に潜ったままなら、それは観測とは言わない内部状態です。麻薬捜査員が潜入捜査で内部の潜っていくのですが、そのまま出てこないのならミイラ取りがミイラになったようなものです。捜査員が麻薬売人になるということですから、観測されない内部状態です。

    ですから、内部観測という用語に惑わされてはならないのです。内部観測とは対象を認識する行為であって、探求、探検,研究であり、現在進行形の行為とその行為を完了して表現するという行為とが対となっている行為なのです。言い換え変えると当事者と反省者、一人称と二人称と三人称という全人称が同時に存在している認識であり、外部でもあり、外部でありながら内部であるというアクロバット的な振る舞いを求められる方法を内部観測と言うのです。

    続く

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  • from: 生成門さん

    2012年09月30日 14時13分11秒

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    ミクロの世界の外部観測の限界

    ミクロの世界の外部観測の限界
    四次元能版エヴァンゲリオン:内部観測と三角錐>

    外部観測の過信は思い込みによって生まれる
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100111589960
    の続きです。

    外部観測の方法では現実(実在)、内実、感触を掴む事はできないのです。内実を把握するためには潜入するしかないのですが、外部観測とは、手を汚さないで掴もうとする方法なのですから、決して、内実を掴むことは出来ないのです。

    もう、外部観測で内実を掴めるという幻想は捨てなければならないのです。戦争の最中にある危険地域に行かないで、どうしてその真実の写真を取ることができるでしょうか?

    マクロレベルでは命を失う危険を冒さないで真実を掴むことができないのですが、もちろん、すべてがそうであるわけではないので、外部観測がまったく意味がないということではないのです。

    外部観測の有効性を認めた上で、その限界を知ることが必要だと言っているのです。遠くの宇宙の姿を見る場合、内部観測をしようにも出来ませんし、深海だって行きたくても行けないところがあります。また、進化の様子を探求するにしても何十億年も昔に行くことはできません。ですから、外部観測は必要のです。ただ、外部観測の限界を知って置くべきだということです。間違っても、それが真実を知る唯一つの方法だと錯覚しないことです。

    マクロレベルに外部観測という方法を適用するときの限界は上に述べた通りですが、ミクロレベルではどうでしょうか?

    ミクロレベルではマクロのそれとは別の難しさがあります。それは観測技術とかの問題ではない不確定の問題です。これは不定とも異なるミクロの世界の特有の障害です。

    ミクロの世界を観測しようとしましょう。すると当然、顕微鏡とかの助けを借りることになります。この当たりだとまだ対象に影響を与えないでしょうから外部観測の範疇です。実際は観測した時点で、そのターゲットを破壊していますから外部観測だからと言って対象に干渉しないとは言えないのです。

    外科手術は対象をもろに傷つけますが、作用はしても相互作用はしませんから外部観測と看做せるでしょう。量子の世界とかになるとどうでしょう。高いエネルギーによる粒子加速器になりますが、これももろに内部干渉です。一見内部観測に見えますが相互作用する訳ではないので外部観測でしょう。

    超大型粒子加速器でブラックホール製造実験
    http://www.youtube.com/watch?v=LJGDwICwOtw

    観測の対象(粒子)に粒子を使って衝突させるのですから、対象の粒子はどこかに消えてしまいます。その結果は予想も付きませんし、元も状態がどうだったのかを知ることができません。結局、知ろうとする物を知ることができないというというジレンマが生じてしまうのです。まあ、破壊するのですから当然ですね。

    科学の方法は対象と接触しないことが本来的なのですが、ミクロの世界では対象と接触しないで外部観測することができないのです。やむなく作用する(破壊)するのですが、そのことによって知ることができないというジレンマに陥ってしまうのです。ここがミクロの世界の難しいところです。

    続く

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  • from: 生成門さん

    2012年09月30日 14時06分19秒

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    外部観測の過信は思い込みによって生まれる

    外部観測の過信は思い込みによって生まれる
    四次元能版エヴァンゲリオン:内部観測と三角錐>

    外部観測は自我の認識である
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100111589915
    の続きです。

    建前というのは本来、外部観測の力を発揮する認識方法でした。だからこそ、理想、仮説となって文明を発展させたのです。しかし、今や建前と言う言葉には良いイメージはありません。「建前ばかり言う」人間は表面的で形式的な薄っぺらな人間というイメージです。

    日常世界では建前人間・建前主義などと揶揄されてしまうように、私達は色褪せてきているのは本能的に外部観測の限界を感じ取っているのかもしれません。

    しかし、シムハンターの皆さんはそれを本能的な感じ取りで満足することはできないでしょう。外部観測の限界について更に明証してみましょう。

    もし、貴方が王様だとして現場(民の心)を無視して、ありもしない臣下の偽装報告を鵜呑みにするでしょうか?

    そんな王なら民の不満が爆発してクーデターが起きるでしょう。こういうのはドラマの中でだけ起きることと馬鹿にしてはならないのです。私達は意外と思い込みで行動することが多いのです。もっというと、すべての認識は思い込みであるとも言えるのです。

    これを式{解釈:対象→記号}で表現するともっとはっきりします。対象=記号でなく対象→記号であることに注意して下さい。解釈とは媒介するものであり、対象から記号に変換、対応づけするものです。対象を記号で代表(表象・表現)させることも言えるでしょう。私達はこれを認識したと言うのです。

    しかし、決して、対象=記号ではないのですから、表現されたものを対象とは全く別物です。しかし、それを同じものとして錯覚・混同してしまうのです。もちろん、この思い込みは生きるためには何も支障が起きませんし、支障が起きないどころか、むしろ有益です。

    例えば、リンゴを認識する記号過程には、目の前にあるリンゴ(対象)→リンゴの記号という思い込みの記号過程があるのです。

    これが「リンゴをください」というと「リンゴが食べられる」のですから思い込みが有益なのは自明です。この認識が思い込みだと知ったとしてもそれを捨てる人はいないでしょう。

    すべての認識は記号過程であり、思い込みであり、それが進むと形式的となって、壮大な仮説が構成されます。そうなると、もはや現実からはかなり離散してしまいますから、その基づく判断と言うのは怪しげなことになってきます。

    怪しげな建前(仮説)を持って政治をしても、現実に適合しなければクーデター(政変)となりますし、現代では科学的方法が発達しているから自閉的な王様のような間違いは起きないと言うかもしれませんが、ベルリンの壁が予想もしなかったように外部観測的な妄想はそれを現実と思わせる力があるのです。

    革命では血が流れることが多いのですが、それは体制を維持する側が、自分達の妄想が現実だという認識に囚われていることを認識できないから起きるとなのです。これは権力の座につくと必ず嵌る構図なのです。従って、権力者は現代でも裸の王様であることには変わりはないのです。

    企業に於いても起業家は起業時では現場感覚を重要視しますが、成功すると次第に官僚的となって形式的となっていきます。形式と現実の乖離が起きるのです。形式的判断とは外部観測による妄想(認識)なのです。それを支える、マーケティングやシミュレーションがどんなに高度な手法であっても、外部観測である以上、思い込みであることには変わらないのです。

    続く

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  • from: 生成門さん

    2012年09月30日 14時00分11秒

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    外部観測は自我の認識である

    外部観測は自我の認識である
    四次元能版エヴァンゲリオン:内部観測と三角錐>

    外部観測の限界は未来を完了させる能力の過信にある
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100111589771
    の続きです。

    「文明とは現実から離散すること」だと言いましたが、この言明は重要な意味を持っています。その意味が、人類が文明によって自然から離れたということなら何の新しい価値はありません。しかし、四次元能では文明は自我優位の認識結果であり、人類を絶滅種にしたのは自我であるとして自我の解体を最終目的に掲げてきましたので、その文明を後押ししているのが外部観測なら全く異なる解釈が可能となります。

    外部観測が自我の認識方法ということになるからです。つまり、外部観測が自我の正体になるのです。これにはとんでもなく大きな意味があります。

    これまでに理解したこと自我と結び付けて解釈すると、自我とは仮説であり形式であり建前であり完了であり、単独三人称の認識と言うことになります。

    要するに、自我の解体は外部観測の解体を意味することになるのです。もっと言えば、自我を解体して新たな自己を生成するためには、内部観測、三角錐を構成することになるのです。

    果してそんなことが言えるでしょうか?

    言えたとしても、新たな齟齬が出てきそうです。自我は自己の変容ですから一人称です。自我が三人称という結論とは矛盾するからです。これはどうしたことでしょう。その答えは既に述べてあります。自我とは三人称によって乗っ取られたという考えです。

    これについては、
    第4象限はウィルスが活躍するグラウンド
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100108516663
    を参照してください。

    ここでは自我については深入りしません。自我が外部観測に由来があるという事が分かっただけでも収穫です。そうであるなら、尚更、外部観測の限界を知っておかなければならないのでしょう。

    続く

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  • from: 生成門さん

    2012年09月30日 13時41分46秒

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    外部観測の限界は未来を完了させる能力の過信にある

    外部観測の限界は未来を完了させる能力の過信にある
    四次元能版エヴァンゲリオン:内部観測と三角錐>

    建前は本音の三人称化=未来完了=形式化
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100111589608
    の続きです。

    建前とは本音の三人称化=形式化であり、未来完了であり、予測や予想であるということになりました。これを敷衍してみましょう。

    建前を「前もって建てる」と解釈すると仮説とか仮設、仮想、仮構ということになってきて理念・理想とも近くなります。

    翻って、常識的な建前は「非現実的で上辺だけの良いこと」を言うような意味があります。しかし、良いこと=理念という解釈もできますから、それは理想のことです。それがどうして悪いイメージを意味することになったのでしょうか?

    人間は現実だけに生きるのではなく建前(仮説・予測)に生きることによって、その認識の能力(未来完了)を飛躍させたと言えるのにどうして建前が悪いイメージなったのかです。そこに外部観測の限界がありそうです。

    建前の力が発揮するのは未来だけとは限りません。過去や空間に於いてもその力は発揮されます。建前を仮説と置き換えてみれば、それは科学の領域であることがよく分かるでしょう。科学とは外部観測して仮説を立て、それを検証することによって、その存在(力)を示します。

    問題はその科学が検証できない世界にまで、その力を過信(神話化)して侵略していることです。そうした過信(神話化)は科学の世界だけではありません。日常の世界においてもそのような傾向が見られるのです。

    日常の世界(常識)が建前優先になってきたのは偶然でないのです。文明が科学に依存してきたことからも容易に想像が出来るでしょう。建前とは形式(仮説)であり、理想であり、現実から離散する方法でもあるのです。言い換えると、文明とは現実から離散する方法だったのです。それを後押ししたのが、科学的方法であり、その裏で行脚していたのが、外部観測という認識だったのです。

    続く

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  • from: 生成門さん

    2012年09月30日 13時20分26秒

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    建前は本音の三人称化=未来完了=形式化

    建前は本音の三人称化=未来完了=形式化
    四次元能版エヴァンゲリオン:内部観測と三角錐>

    天に唾・自業自得
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100111589276
    の続きです。

    現実的個別の事象を一般化して三人称の認識を構成するのが真っ当なやりかたです。しかし、軽視・無視すれば天に唾・自業自得になるでしょう。

    しかし、無視したくなくても無視しなければならないことだってあるのではないでしょうか?

    「こうある」現実を観測できない場合があるのでしょうか?

    そういう場面に遭遇することはよくあるでしょう。そうです。それはあなた自身の人生です。人生とは一寸先が闇です。未来は現実ではありませんから、「こうある」現実を観測できないのは当然です。しかし、人間誰しも「こうなって欲しい」という夢や願望があり、それが誰かによって共感が得られれば二人称となり、更に集団的な目標となれば、「こうなるべきだ」という共有されたビジョンに変容するでしょう。

    夢や願望は一人称の認識ですが、予想し皆と計画して共有すれば未来を完了させたことになります。皆で未来を完了させたということは三人称の認識であり、形式的に表現されたということです。こうして、私達は一寸先が闇であっても、未来(対象)を観測できなくても、それを完了させることで認識することが出来る能力を持っているのです。

    この能力は人間だけが持つ能力です。それが建前を持つことの本来的な意味なのです。建前は本音の三人称化=完了なのですが、完了とは形式化であるとも言いましたので、予測や予想が建前だということになります。

    続く

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  • from: 生成門さん

    2012年09月30日 12時40分36秒

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    天に唾・自業自得

    天に唾・自業自得
    四次元能版エヴァンゲリオン:内部観測と三角錐>

    建前と本音
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100111589130
    の続きです。

    本音とは「こうある」現実的判断)=一人称の認識であり、建前は形式であり、「こうあるべきだ」という三人称的認識です。つまり、建前で発言する人はトップダウン的な判断する傾向があります。「こうあるべきだ」は「こうある」を一般化して「こうあるはずだ」となって、「こうあるべきだ」と変容するのです。ここには個別(こうある)と一(こうあるはずだ)と普遍(こうあるべき)という存在の様式があります。当然、存在の様式を解体して、主体を登場させると認識の様式、知の脱構築、認識のリサイクルなどのフレームが出来ます。

    知の脱構築のダイナミズム(運動)
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100111504689

    「こうある」を一般化するなら認識のリサイクルになるのですが、往々にして軽視することがあります。「こうある」を軽視して「こうあるはずだ」となって、「こうあるべきだ」と変容させるとどうなるのでしょうか?

    それはまるで闇夜のカラスに向かって鉄砲を撃つようなものです。当たるはずがありません。その弾が自分に跳ね返ってくるのが天に唾、自業自得です。

    軽視する程度ならまだやり直しが効きますが、「こうある」を無視するとなると「何をか謂わんや」です。そんな例を巷でよくみかけません?

    続く

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  • from: 生成門さん

    2012年09月30日 12時20分43秒

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    建前と本音

    建前と本音
    四次元能版エヴァンゲリオン:内部観測と三角錐>

    外部観測(探偵)と内部観測(潜入捜査)の違い
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100111588979
    の続きです。

    外部観測(探偵)のように接触しないことで有効である場合があるのです。しかし、麻薬事件のような場合では、外部観測は全くとは言えませんが有効とは言えません。外部観測は万能ではないのです。だからと言って、いつも潜入(囮)捜査ばかりでは命を落としてかねません。それぞれに限界があるのであって、その違い、有効性を予め知っておき、どんな場合にどちらを使うかを選択する必要があるでしょう。

    ただ、今問題としているのは外部観測の神話性(万能性)です。これを打破することが必要になっているのです。上で例(潜入捜査)を上げたように、このようなケースでは外部観測が有効ではないことは理解できますが、一般的な問題解決に於いてはそうとも限らないのです。往々にして、内部観測をすべきときに外部観測で済ませてしまうことが多いのです。建前を外部観測、本音を内部観測と対比すると分かりやすいかも知れません。内部観測は外部観測を取り込んだ形で構成されますので、本音を内部観測とするのは誤解されるかもしれません。
    本音とは一人称の認識であり、表現されたからと言って三人称になるわけではありません。つまり本音は三角錐を構成しないということです。本音が三角錐を構成するためには、二人称で媒介され、三人称にまで達しなえればならないのです。社会で言うなら個人な本音の意見が集約されなければ、組織としての共通認識(集合知)とはならないということです。従って、本音≠(三角錐=内部観測ということです。むしろ、{集合:本音→建て前)と理解すべきでしょう。

    続く

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  • from: 生成門さん

    2012年09月30日 11時55分52秒

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    外部観測(探偵)と内部観測(潜入捜査)の違い

    外部観測(探偵)と内部観測(潜入捜査)の違い
    四次元能版エヴァンゲリオン:内部観測と三角錐>

    外部観測の特徴は過去性であるhttp://www.c-player.com/ad00178/thread/1100111588905
    の続きです。

    覗くという行為では、その覗いている対象には接していないことが重要です。現場にはいるのですが、対象から離れているが重要なのです。覗いてことがばれてはならないのです。逆に言うと、接してしまっては、内実、真実を掴む事はできないのです。

    覗いていることがばれてしまったのでは対象も真実の顔を見せないでしょうから、秘密にすることが重要なときもあります。探偵の仕事は調査していることを知られてはなりませんが、潜入捜査でも捜査していることと身分は秘密です。

    ここに外部観測(探偵)と内部観測(潜入捜査)の違いがあります。

    どちらも観測(身分)しているということは秘密です。しかし、探偵は対象と接触しない、つまり、相互作用しないのです。一方、潜入(囮)捜査は仲間の振りをして接触します。ここが大きな違いです。

    続く

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