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シムダンス「四次元能」

シムダンス「四次元能」>掲示板

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ここは自己生成の門ーーー宇宙の原理「動的作用反作用」を使って精神革命の臨床実験中!

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  • from: 生成門さん

    2013年07月31日 18時42分24秒

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    ボーアモデル廃棄の真実

    ボーアモデル廃棄の真実
    <森のように深いとの共振:https://twitter.com/fractaleman68>

    ボーアモデルが廃棄されたのは、加速された電子は光を発するからエネルギーを失って核に落ちるという説がまかり通ったからです。

    アリの一穴・ハチの一刺し「単一電子」http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200354585

    水素の電子は一個です。もし、核に吸収されてしまうなら水素の電子は存在できないのです。しかし、水素の電子は存在します。この説明がボーアモデルはできなかったのです。

    ところが電磁気学の最初の出て来る方程式はクーロンの法則で、F=kq1q2/r^2です。q1とq2です。二つの相互作用からスタートするのです。物理の素人にとってこの式の意味を考えることなんてほとんどありません。ただ受け入れるだけです。しかし、量子論を解体してみるとそうは言っていられなくなりました。

    最初から二つあることを前提にしているのですから、水素の場合は適用できないのですね。適用できなければ水素の電子が核に落ちるとは言えないのです。この基本的なところ見過ごしてしまったばかりに、実在しない、リアリティのない量子論(確率の波・二兎は追えない)を正当な学としてしまったのですね。量子論の解体言語ゲームは始まったばかりですが、ここでは少し、嗜好を変えて先端物理の量子論が実は、実在しない仮想のモデルをベースとして成り立っているので、下手をすると美人局(偽者)である可能性があるということを、モナドの視点で探求してみましょう。

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  • from: 生成門さん

    2013年07月31日 13時28分44秒

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    ハイゼンベルグは三人称(ドブロイ波長)を一人称(不確定性の原理)に変換した?

    ハイゼンベルグは三人称(ドブロイ波長)を一人称(不確定性の原理)に変換した?
    <PS理論との共振:ダランベールの原理は三人称認識を一人称認識に変換したものである(続き)>
    http://blog.kaisetsu.org/?eid=813909

    海舌氏の三人称⇒一人称の構造と方向性で重要なポイントは、三人称の対象が原理だということです。つまり、高度で客観的な知だということです。しかも、それを引用するのではなく、変換するということです。違うのは人称の視点だけなのです。ガンジーの理念をガンジーになったつもりで、意味を付加しないで翻訳するのです。禅論理やプラトンのイデアやアリストテレスを引用するのではなく、本質を変えないで一人称に変換できたら三人称⇒一人称の認識に変換したと言えるでしょう。

    数式の世界を映画化したものがあります。数式は大概三人称ですから、それを一人称に変換するとどうなるのでしょうか?

    博士の愛した数式http://hakase-movie.com/main.html

    この映画は交通事故による脳の損傷で記憶が80分しか持続しなくなってしまった元数学者「博士」と博士の新しい家政婦である「私」とその息子「ルート」の心のふれあいを美しい数式と共に描いた作品です。

    鑑賞してみると「なーんだ」ですね。数式が題材となっていますが、情の三人称ドラマであって、三人称(オイラーの式)を一人称化したドラマではありません。
    やはり、ダンベールの原理が一人称の数式だと看破した海舌氏の慧眼はすごいですね。

    四次元能はかねてより、唯識や陰陽論をはじめする心の全般、特に、意識の不変量(変易の中の不易)の数学的構造を探求したいと思っているのですが、まさか、数学に一人称の数式があるということは思いも及ばなかったです。これがきっかけとなって意識の不変量を求めることができるでしょうか?

    当然、数学のプロでも三人称⇒一人称をやるとトンデモになってしまう可能性があることが分かってきました。つまり、美人局をやるかもしれません。まして、素人がやったら、もっとひどいことになるでしょう。

    それを見抜く力が欲しいですね。

    ハイゼンベルグはドブロイ波長を不確定性の原理と名称変換したらしいのですが、言い換えると、三人称(ドブロイ波長)を一人称(不確定性の原理)に変換したのではないでしょうか?

    というのは不確定性の原理(二兎を追えない)は、名前は原理ですが、ドブロイの式(二兎を追える)λ=h/pをハイゼンベルグが人為的にΔxΔp≧hとしたのです。三人称の知「二兎を追える」から一人称「二兎を追えない」と変換したのですね。確かに、ドブロイは地球(陽子)と月(電子)の関係から水素というミクロの内部は観測できないが、軌道モデルを客観的に提示することはできるとしたのです。しかし、ハイゼンベルグは内部観測者として内部に入ってみたら(思考実験的に)そこでは二兎を追えなかった。だから電子は確率の波と思うしかないと考えたのです。電子を外から見るのではなく、電子になったつもりで内部から見たのです。そうやって、ドブロイの式を不確定性の関係式に変更してしまったのです。これはまさに、三人称⇒一人称への変換です。その結果、外部の観測者が現れたときに、波束を収縮するので電子を観測できるという多世界解釈が生まれてきたのです。ここから超「ひも」理論まではもうすぐですが、問題は、変換は何時も正しく行われるという保証はありません。美人局(間違う)の可能性だってあるのです。その疑いが今、ハイゼンベルグにはあるのです。これについては別途探求しています。もし、ハイゼンベルグがこけたら先端物理(量子論・相対性理論・超「ひも」)は全て扱けるのではないでしょうか?

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  • from: 生成門さん

    2013年07月31日 13時11分21秒

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    三人称⇒一人称を見つけ出すのは難しい

    三人称⇒一人称を見つけ出すのは難しい
    <PS理論との共振:ダランベールの原理は三人称認識を一人称認識に変換したものである(続き)>
    http://blog.kaisetsu.org/?eid=813909

    海舌氏は「三人称を一人称に変換した」と言っていますが、普通では、「一人称を三人称に変換する」ことがほとんどであり、「三人称を一人称に変換する」ことはありません。例えば、ニュートンの運動方程式と言っても最初はニュートンの主観仮説であり、一人称の命題です。それが多くの科学者の間で共有され、共同主観となって、学会などで認められ主観が取れ、客観的な原理や法則として格上げされるのですね。ですから一人称⇒三人称という方向性があるのですね。

    ですから、三人称⇒一人称という構造と方向性を認識することは簡単にはできないのですね。

    日常に於いて、そのような構造と方向性は存在しないのでしょうか? 四次元能ではかなり前ですが、一人称と三人称についてドラマを対象にして取り上げたことがあります。

    何事も始まりは一人称から
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100110807005

    ドラマは三人称がほとんどですが、一人称小説というのはあります。一人称の小説を実際に描かなくても、三人称ドラマを作るときは誰かの体験をドラマ化するのですから、一人称のコンテンツが存在していると言ってよいでしょう。その方向性は一人称⇒三人称です。ですから、その逆の三人称⇒一人称という方向のドラマは存在しないのですね。しかし、日常体験で、三人称⇒一人称という方向の体験(認識)は全く存在しないのでしょうか?

    三人称ドラマは一人称の視点と区別することが難しい
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100110735717

    ここで言っているに様に、現実には、三人称ドラマでは三人称と一人称の視点と区別することが難しいのですね。三人称を「理」として一人称「情」とすると、理と情を完全に分離することは難しいでしょう。しかし、敢えて言うと、よくある体験ですが、例えば、会議などで非情(感情的にならずに抑えて)、冷静になって理(筋を通す)ことはできます。その逆はやっぱり見当たらないのですね。「理を情で訴える」というのはあるのでしょうか?

    無理に探してみましょう。

    例えば、選挙です。選挙は一人一人の思いを一票に託し、それがエージェント(政治家)を選択します。この段階でも、政治家はまだ、選挙民の思いを背負っているのですから情の人です。さて、舞台は国会に移ります。国会での答弁や質疑はすべて理で行われます。ここまではすべてではありませんが、概ね「情⇒理」です。

    国会のやり取は紛糾します。その時は極めて感情をむき出しにします。情中心なのですね。政治家も人間ですから、一人称になるのですね。ただ、それだけでは情⇒(理)⇒情であって、理が情になるわけでなく、単なる選挙民と同じ位置に立ったに過ぎません。決して、高度な政治理念を淡々と述べるのではなく、情で訴えるわけでもないのです。

    政治家には政治理念というのがあります。例えば、ガンジー主義を理念としている場合、それを国会で情に訴えることはできるのではないでしょうか? その場合は三人称(理念)を一人称(政治信条)としたのですから、この場合は、三人称⇒一人称という方向性持っていると言えるのでしょうか?

    厳密に言うと、一人称の政治家が自己の主張を正当化するためにガンジー主義という理念を利用していると言えます。このような構造は科学者の論文の他者の文献を引用する場合にも見られます。論文に限らず、ブログの投稿する客観的な記事は殆ど引用があります。引用主義は三人称のテキストを利用して自己を主張するのですから、一見、三人称を一人称に変換しているように見えなすが、決してそうではありません。三人称のテキスト+自己主張ですから、意味が付加されているのです。三人称<一人称なのです。単なる変換ではないのですね。ですから、海舌氏の三人称⇒一人称とは同じ構造ではないのですね。三人称⇒一人称は本質的には三人称=一人称なのですからね。

    三人称の誰かのテキストを引用した一人称のテキストは、三人称に支援された一人称ということができます。ですから、三人称⇒一人称と区別して一人称(三人称)と表現しましょう。三人称⇒一人称は引用ではなく意訳のようなイメージですかね。

    三人称⇒一人称は、文献をドラマにするようなものです。一人称(三人称)は文献を論文(仮説)にするようなものです。その違いは意味(視点)が変わることはあっても、三人称⇒一人称の本質は三人称=一人称でなければならず、一人称(三人称)は一人称>三人称でなければなりません。文献の翻訳の場合は一人称≒三人称ですが、どらかというと一人称(三人称)でしょうね。

    論文は翻訳や引用することはできますが、一人称のドラマにするなんてできませんよね。ガンジーが自分の生きざまを語るというようなものですからね。生きていればともかくですが、いないのですからね。自叙伝というのは、どうでしょうか? やはりこれも三人称⇒一人称という構造にはなりません。自分が自分を語るというのは、自分を客観視してそれを一人称で語るのですから、一見、三人称⇒一人称のように見えます。しかし、やはり、新たな意味(美化)が付加されてしまうのです。

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  • from: 生成門さん

    2013年07月31日 12時58分58秒

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    運転者は力のつり合いを感じて運転している

    運転者は力のつり合いを感じて運転している
    <PS理論との共振:ダランベールの原理は三人称認識を一人称認識に変換したものである(続き)>

    海舌氏によればダランベールの原理はニュートン運動方程式F=amを「F - am = 0 」と変形したものだそうです。式を変形しただけで「三人称認識を一人称認識に変換できるのですね。これは驚きですね。

    ダランベールの原理は三人称認識を一人称認識に変換したものである。
    http://blog.kaisetsu.org/?eid=813909

    あなたが車を運転しているとして、その車が動くためにはアクセルを踏み込まなければなりません。それが車を動かす力(加速)となります。あなたは車が動く従って後ろに押される感じになるでしょう。これも力です。その力を前進するF に対し、後へ向かう力-am なる力が働くと感じるでしょう。これは外から見ても分かりません。当然、運転中のあなたは運転席に座っていますから、後ろの押されたとしても座席カバーでストップされるので車と共に移動することになります。時間を止めて見ると全体が力のつり合った(平衡した)状態であると看做せるでしょう。実際に写真を撮ってみるとそうなっていますね。

    内部観測者であり、運転者であるあなたはその力のバランスを感じているはずです。電車に乗って吊革につかまっていないと加速中の時は後ろへ体を持っていかれますね。この一人称の体験によって後ろ向きの力の実在を感じるでしょう。この一人称の体験を数式で表現したのが、「F-am=0」だというのですね。もし、海舌氏の指摘がなければ、物理の素人の私達にはF=amとF-am=0違いが全く見えて来ないでしょう。単なる、式の変形にしか見えないでしょう。

    数学は数の学ではなく構造と方向の学であると言います。その視点から見ていくと、F=amは「原因⇒結果」の構造と看做せます。更に、車にエンジンからの力が加わった結果、前進方向に加速されたと解釈するべきなのですね。従って、ニュートンの運動方程式は構造と方向で表現するなら、

    F⇒ma

    ということになるでしょう。

    一方、ダランベールの式「F-am=0」は、一人称の視点で感じたのですから原因⇒結果⇒平衡という関係になるでしょう。つまり、外からの力(エンジン)が加わって車が加速して走り出す。同時に、後ろ向きに力が加わり運転者を押して、力としてプラスマイナスゼロとなると解釈すべきでしょう。これをこの解釈を式で表現すると、

    F-am⇒0

    となるでしょう。

    纏めると、外部から見た運動F⇒maは、単に表面的であり、力が車を動かしただけの現象にしか見えて来ません。しかし、内部の視点で見るとF-am⇒0 は、外からの観察ではなく、内部観測者=運転者であり、質点(車)の立場で(感じる視点)力のつり合い(平衡)という構造があると解釈(ダランベールの原理)したのです。

    ダランベールの原理はダランベールの解釈であり、主観的な解釈です。この解釈は原因がないところから作用と反作用とはバランスしたというような「0⇒F-am」解釈ではないのです。数式では、0=F-amもF-ma=0も等価ですが構造と方向を考えると全く意味が違ってくるのです。0⇒F-amは止まっていた車が突然に動いてF–amとなったと解釈できます。しかし、そんなことが現実にはあり得ません。ですから、数式と現象の間には大きな解離があると考えなければならないのですね。ダランベールはそうではないでしょうが、多くの美人局(トンデモ)が現れる要因が潜んでいます。

    それはともかくとして、一人称の数学というのがあることを、実際の式の構造で指摘できたことは、大きな意識の転換になるのではないでしょうか?

    海舌氏は、ダランベールは内部観測者(一人称)であり、ニュートンは外部観察者(三人称)であると言います。そして、ダランベールはニュートンが三人称の立場で表現した運動方程式を、内部観察者(一人称)の立場で表現したものであると言います。つまり、三人称認識を一人称認識に変換したものであるということです。

    言い換えると、走行する車(質点)の運転席に観察者(運転者)がいる場合、慣性抵抗(車の場合:後ろ向きに力)によって、観察者(運転者)は運転席と共にある静止状態を一人称認識として認識するだということですね。

    この原理は、多数の車が道路を走っている場合も成り立ちます。多くに車(質点系)が高速道路を同じ方向には敷いている場合、ほとんど止まっているように感じます。これは多数の一人称認識の総和が「⇒ 0」となっていると解釈(みんなが止まっている)すればよいでしょう。実際に、運転している時はそう感じるはずですね。地球はものすごい速度で自転と公転していますよね。しかし、私達は全く静止していると思っています。宇宙船から見たら動いていることが分かるのですが、これが無数の一人称(均衡・平衡状態)の総和を「ゼロ」と想定する認識なのですね。

    ここで、四次元能らしく少し補足しておきます。

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  • from: 生成門さん

    2013年07月31日 12時42分06秒

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    ダランベールの原理は三人称認識を一人称認識に変換したものである

    ダランベールの原理は三人称認識を一人称認識に変換したものである
    <PS理論との共振>

    PS理論の海舌氏がダランベールの原理は三人称認識を一人称認識に変換したものである。
    http://blog.kaisetsu.org/?eid=813909
    とオイラー=ラグランジュ方程式は、三人称認識(ニュートン力学における運動方程式)を一人称認識に変換したものである。
    http://blog.kaisetsu.org/?eid=813911
    を投稿しました。

    興味深い考察です。早速、賞味してみましょう。

    唯物=物理ですが、同時に物理ほど客観的な世界(言語ゲーム)はないでしょう。客観的とは第三者に勝手な解釈を許さないというぐらい三人称の視点に立った厳しいルールです。当然、原理と名がつくものはその頂点に立つでしょう。ところが、その原理の中には一人称の原理があるというのです。これには驚きです。仮説ならまだしも原理に主観的原理があると言っているようなものです。そんなことがどうして言えるのでしょうか?

    先ずは、「ダランベールの原理」を理解することから始めましょう。意識を覚醒させるために、「ダランベールの主観原理」と言い換えてみます。普通なら、これは意訳どころか誤訳です。何故なら、原理とは原初・原点の理であり、物理現象を説明する前提(命題)だからです。超高層ビル(物理)の土台に当たるものです。これが揺らいでしまったのでは話になりませんから原理というのでしょう。

    海舌氏は「ダランベールの原理」が一人称の原理であることを説明する為に、まず、ニュートンの運動方程式を導入します。これは、F=am で表現さるもので、力(F)は加速度(a)に質量(m)を掛けたものであるというお馴染みの式です。

    このF=amは、例えば、車に乗ってアクセルをふかせばどんどん加速していき、速度が100km(任意)に一気に達しますが、その過程を外部の観察者の視点で表現したものです。ここで重要なことは運転者の視点では「ない」ということですね。運転者は運転に意識が集中していますから観察どころではないですよね。外の景色や前方には注意を向けているでしょうが。

    外の視点とは、その観察の対象=車という存在に注意を向けることです。これが外部観測の条件であり、それを抽象的に表現したのが方程式なのですね。観察の対象は車ですが、これを抽象化すると点となります。ただし、質量がある点ですので、その振る舞いは「一質点の運動」ということになります。車の属性(型式や価格や人)はすべて無視します。これが外部の観察、第三者=客観的視点で観察した時の表現です。F=amは更に、あらゆる質点(物体)に一般化され、自転車、ボール、地球などで検証され厳しいテストでもおなじ結果となり、普遍的に正しいことが実証されたので客観性(真実)を保証する原理(運動方程式)として格上げされたのでしょうね。今ではこの方程式にイチャモンをつける人はいないでしょう。

    さて、次は、ダランベールの原理です。ニュートン運動方程式は誰でも知っていると思いますが、ダランベールの原理はそれほどではないと思いますので、海舌氏に沿って簡単説明します。

    結論的にはダランベールの原理はニュートン運動方程式F=amを「F - am = 0 」と変形したものを言います。たったこれだけです。このように式を変形しただけで海舌氏は「三人称認識を一人称認識に変換したものである。」と看破したのです。これはすごいことですね。ただ、本当にそうなのかというところがまだよく分かりませんね。

    詳しくはこちらを参照してください。http://blog.kaisetsu.org/?eid=813909

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  • from: 生成門さん

    2013年07月27日 10時45分28秒

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    美人局が現れる原初的な風景(数学的なトリック)

    美人局が現れる原初的な風景(数学的なトリック)
    <森のように深いhttps://twitter.com/fractaleman68」と連動する量子論を解体する量子言語ゲーム>

    100年前の科学者(ハイゼンベルグやシュレデンガー)は、何故、量子論はボーアモデル(太陽系モデル)を捨ててしまったのでしょうか?

    当時はコンピュータがなかったので、ボーアモデルは水素ではうまくいったのですが、ヘリウムは多体問題だったので解けなかったのですね。それに対して、実験結果は電子が確率的に現れ、そして波の様の干渉縞が観測されたのですから、これのつじつまを合わせるしかなかったのでしょう。そこで考えたのは逆転の発想(トリック)ですね。

    数学では良くやる手ですが、答えが分かっている時、それを導く方法として、逆算していくのですね。その例を電磁気学の中に見つけました。美人局が現れる原初的な風景と思ってみると面白いかもしれません。

    電荷に働く電場の大きさは、二つの電荷に働く力から求めることができます。そのときにトリックが使われているのです。

    2つの電荷に働く力は次の式で表されます。

    F=1/4πεq1q2/r^2。

    ここで、1/4πεというのは定数ですが、これがいきなり出て来るのですが、何故、これが出て来るのでしょうか?

    EMANさんの「電荷の間に働く力」
    http://homepage2.nifty.com/eman/electromag/charge.html
    では次のように説明しています。

    その電場に入った電荷q1 は電場からF=q2Eの力を受ける力を受けます。

    q1➝q2(その反対もある):F=q2E

    ここでF=1/4πεq1q2/r^2から、

    F=1/4πεq1q2/r^2= q2(1/4πεq1/r^2)

    従って、

    E =1/4πεq2/r^2=1/4πεr^2×q2

    となります。

    これは電荷 (q2)の半径 r の球を⦿とすると、一個の電荷の受ける力(電場の大きさ)E=(1/4πεr^2)qを示しています。周りから受けるすべての電場の大きさは、半径rの球殻の全表面積と半径 の地点での電場の大きさを掛けてやれば求まります。

    ∫E・n ds=│E│S

    となります。この式の意味は nは電荷を取り囲んだ面に垂直な単位ベクトル(長さが1)です。電場Eはベクトルなので、垂直な成分を取り出すにはベクトルとベクトルの内積はスカラーとなるというルールを用いることで、球面に対して垂直方向の電場を測かることができます。これに電荷を取り囲んだ面の微小な部分の表面積 を掛け合わせたものを全表面積について足し合わせてやれば電場の総力になります。積分というのは小さなものを足すという操作なのですね。

    では答を求めてみましょう。

    E・n=│E│=(1/4πεr^2)q

    (スカラー=電場の大きさ)であり、表面積Sは4πr^2なので、

    ∫E・n ds=│E│S
    =(1/4πεr^2)q×4πr^2=q/ε

    おお、何とすっきりした形になりましたね。半径が消えてしまいました。この答は何を意味するのでしょうか?

    半径が消えたということは、電荷を囲んだ球面の大きさによらずに電場の大きさは一定の値になるということです。あまりにもすっきりした答えですが、これは偶然なのでしょうか?偶然ではありません。EMANさんは「騙されてはいけない」と言っています。

    これはよくある美人局の手口なのです。

    数学には自然の神秘(例:黄金律)のように感じるイデア由来のものと、人為的な美人局があるのです。こういうテクニック(トリック)を見境なく受け入れると、実際に存在しないものを存在すると信じてしまうことになるのです。

    ∫E・n ds =q/εはこうなるように仕組んだ人間の小細工の結果なのですから、騙されてはならないというわけですね。数学的表現には要注意ですね。

    最初に2つの電荷に働く力を F=1/4πεq1q2/r^2 としましたが、ここで1/4πεと置いたのですが、何故、こんな係数を持ってきたのでしょうか? 結局、比例定数に 1/4π を入れたのは答えをすっきりさせるためだったのですね。

    この場合は美人局というほどひどいものでありませんし実害もないでしょう。 単なる、トリックにすぎません。しかし、結果から、逆に前提を想定するというところまで行くと、もはや、トリックでは済まなくなります。量子論は結果(確率)から原因(確率の波)を想定したのですから、もっと大がかりです。しかし、それが今、疑惑に渦中にいるのです。1/4πεはその初期段階のトリックに過ぎないのです。

    もっと進んだトリックはどんなものでしょうか? 

    電場というのが出てきましたが、電場は本当に実際に存在するのでしょうか? こっちがそれに該当するかも知れませんね。場から力を受けるというのですからね。場って何ということになりますよね。場は実際に存在するのでしょうか?

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  • from: 生成門さん

    2013年07月27日 10時32分22秒

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    Natureのボーアモデル誕生100年目特集の暗号を解読する

    Natureのボーアモデル誕生100年目特集の暗号を解読する
    <森のように深いhttps://twitter.com/fractaleman68」と連動する量子論を解体する量子言語ゲーム>

    Nature 誌 のボーア模型。
    http://www7b.biglobe.ne.jp/~kcy05t/ninature.html


    現在の先端と言われるミクロの科学は量子力学、場の量子論、量子電磁力学、量子化学など量子の付く量子論のパラダイムですが、それがリアリティのない数学モデルだということになると大変なことになりますね。影響力のある科学メデアであるNatureがそういっているわけではありませんが、どうも、そう言っているように感じるのは、fzytuabcさんだけではないようです。

    fzytuabcさんはNatureが "実在的な"科学の発展を本当は願っている」と言います。Nature 誌の ボーア模型に関する表紙と特集を見た感想
    http://www7b.biglobe.ne.jp/~kcy05t/ninature.html

    Natureはその表現には慎重にならざるを得ないでしょうが、この特集の背景にある隠された狙いをfzytuabcさんにはビンビンと感じているようですね。四次元能は素人ですからあまり感じませんが、fzytuabcさんにナビゲートしてもらって感じられるところまで探検してみましょう。

    しかし、何故、Natureはこの2013年にこのようなコメント

    "なじみ深い 太陽系様の原子構造は 深い根拠に根ざしたものである、理論化や実験家にとって 長年 役に立ってきた。"

    を発信したのでしょうか?

    単なる記念特集なのでしょうか? 冒頭の図でも分かるようにボーアモデルとは太陽系のモデルです。これをNatureが取り上げたのには何か意味があると思うのは、fzytuabcさんだけではないでしょう?

    既に、正統派と言われる現代量子物理学派の内部から、その確率論的物理学の根幹を完全に覆す実験結果と問題提起が成されているのです。
    不確定性原理に於る謀反により「正統派」現代量子物理学は間もなく内部崩壊する!Dr佐野千遥
    http://ameblo.jp/allahakbar231/entry-11506419200.html

    佐野博士は物理学全体に対して解体しているのですが、その言語ゲームについては別途取り上げるとして、ここでは、不確定性の原理は確定性原理となるべきだという言説に注目します。その言説の裏にあるのは、日本の名古屋大学の小沢正直氏[ウィーン工科大学原子核研究所の長谷川祐司准教授]とドイツ人物理学者Von Rainer Scharfの実験にあります。ハイゼンベルクの不確定性原理を破った! 小澤の不等式を実験実証
    http://www.nikkei-science.com/?p=16686

    佐野博士によると、「エネルギーを測定しようとすると時間に撹乱が起こり、時間を測定しようとするとエネルギーに撹乱が起こる」というのは嘘で、実際にはエネルギーと時刻を同時にクリアカットなどんぴしゃりの正確な値で測定可能である事を実験で実証したと言っています。

    Natureが表紙に使った図は実に暗示的です。ボーアモデル=太陽系は原子の廻り電子が惑星のようにクリアカットな軌道で回っているとことを暗黙に示しているのですね。量子論はその反対で、渦巻き銀河のように全体がボヤッとしているモデルなのですね。しかも、軌道を回っているのではなく確率的に存在するというなんとも言えないぼやけたモデルなのですね。

    Natureが暗黙に言わんとしているのは「太陽系か渦巻銀河か」、「クリアカットかぼやけた姿か」「ボーアか不確定か」を「選択せよ、決着せよ」と科学者に迫っているのですね?

    しかし、正統派と言われるのはボーアを100年前に捨てて今は波動関数(確率の波)を選択して、猛烈な勢いで突っ走っているブレーキに効かない機関車のようなものですからもう一度100年前に戻れと言われてもできない相談でしょう。

    ですから、Natureもボーアモデルが正しいとあからさまに言うことは非常に難しいことは知った上の特集なのでしょう。だからこそ注意深く言葉を選んでいるのでしょうね。

    それにしても、100年前の科学者(ハイゼンベルグやシュレデンガー)は、何故、量子論はボーアモデル(太陽系モデル)を捨ててしまったのでしょうか?

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  • from: 生成門さん

    2013年07月27日 09時20分18秒

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    無限大に間延びしたリアリティのない量子論の電子

    無限大に間延びしたリアリティのない量子論の電子
    <森のように深いhttps://twitter.com/fractaleman68」と連動する量子論を解体する量子言語ゲーム>

    日常生活にとどまっている限りは、現実=真実=リアリティ(信念)という構図で考えても大して影響がないでしょうが、一旦、人生に於いて苦悩を感じ、自分とは一体何か、どう生きるべきかと言った難題に向き合う羽目に至ったら、現実=真実=リアリティ=信念という簡単な構図が崩れてしまうことを体験するでしょう。そこで宗教とか哲学や心理学や神秘主義など心のインナートリップをする人が出てくるのですが、それでも多くの人は答えが得られず、ただ、人生を虚しく生きるのが普通でしょう。

    たまたま、この四次元能に迷い込んだ人は幸いかも知れません。四次元能は全く異なるアプローチで精神の革命をしようとしています。それが量子言語ゲームです。ミクロの世界まで遡って意識(心)の創発する現場を見届けようとしているのです。そこで、ミクロの探検隊を結成して脳の中に潜り込んだのですが、その結果、量子論と向き合うことになったのです。そして、量子論は殆ど数学です。従って、数学という頭の痛くなるものと悪戦苦闘する羽目に陥ってしまったのです。そして、数学にも美人局が「いる」(ある)ということを知ってしまったのですね。その結果、何と、量子論そのものが間違っているかも知れないというところまで来てしまったのです。量子論どころか相対性理論や超ひも理論だって怪しいのです。

    量子論にはリアリティが乏しいのです。基本中の基本である不確定性原理(二兎を追えない)が怪しいのです。不確定性原理が言うところの一つは電子の位置と運動量は同時には確定できないというものですが、それは嘘であってクリアカット(明確に)で測定できるのです。この不確定性原理がどうして生まれたのかを探求すると「なぁーんだ」ということになるのですから、美人局としか言いようがありません。ボーアモデルではドブロイ波長というのがありますが、水素の場合、電子が一個ですから円軌道は一つで波長は一周して元に戻ります。不確定性原理はこのドブロイ波長の名前を変えたものに過ぎず、しかも確率という不合理な形になっているのですね。そのために、水素原子の電子ではボーアモデルでは円軌道(楕円もある)になるのがシュレデンガーの水素の電子軌道は無限大に間延びしたリアリティのない楕円(円軌道はとれない)になってしまうのです。楕円は間延びする線になりますが、これが確率分布だとすると、まずいことになります。というのは、確率というのはすべての場合を足したら100%でなければなりません。線だということは電子がどこにでも同等にいるということです。そんなことは絶対にありえません。その矛盾をなくすためには確率は0でなければなりません。そうするとまたおかしなことになってしまします。何処にもいないのにいるという話になるからです。正確に言うと、角運動量が0の電子が水素の電子だということになります。これはさすがに実在しない(リアリティがない)でしょう。
    量子論にはこういう実在しない電子が沢山でてくるのですね。それを実際に存在すると思えと言うのですが、さて皆さんどう思いますか?

    不確定性原理は ドブロイ波長の名前を変えたものである。
    http://www7b.biglobe.ne.jp/~kcy05t/nischsome.html
    詳しいことは後でやります。

    ここでリアリティがないと言いましたが、それは想像できるという意味があります。想像は現実的感覚があるからできるわけでよね。リアリティとは日常的な現実感がベースにあるのであり、ボーアモデルにはそのリアリティがあります。それは水素の場合は地球と月、多原子の場合は、惑星のある太陽系として表現できるからです。つまり、惑星が今、どこに、どのくらいの速さで動いているかを計算して指し示すことができるということです。しかし、量子論の波動関数はそれによって存在確率(どの辺にいそうだ)以外何も示すことができないのです。量子論の波動関数は渦巻銀河のイメージですが、それは確定できないイメージなのです。星は沢山あって何がどうなっているのか全くわかりませんが、これでもまだ正しくは波動関数を表現できていないでしょう。何しろ実体のない幽霊なのですからね。現実的感覚がないものは表現できないのですね。

    真正のボーアモデル:イデアから⇒現実的なアイデアが生まれ⇒現実になり⇒現実的実感が生まれ⇒仮説となり⇒モデルで表現される⇒このモデルから現実的実感を想像することができる

    美人局の量子論モデル:イデアから⇒非現実なアイデアになり⇒非現実的実感が生まれ⇒仮説となり⇒モデルで表現される⇒このモデルから現実的実感を想像することができない


    追記>リアリティは実在と訳しますが、イデアの実在性とは区別されるものです。現在の量子論の基本である不確定性原理は確率の波を前提にしていますが、これらはイデアがアイデア(原理や幽霊の波)に化けて出てきたのであって、美人局(偽者)の可能性が出てきたのです。そのことを「2013年がボーアモデルの誕生の100年目」を契機として探求してみたいと思うのです。

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  • from: 生成門さん

    2013年07月27日 08時30分33秒

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    黙って受け入れ、計算せよ

    黙って受け入れ、計算せよ
    <森のように深いhttps://twitter.com/fractaleman68」と連動する量子論を解体する量子言語ゲーム>

    イデアがエージェント(美人局)によってアイデアに化けることがあるというのは本当なのでしょうか?

    誰でも美しいものにあかがれます。それは美というイデアがあり、本能として好むようになっているからです。当然、それは形として現象します。例えば、黄金律はイデアの数学的表象であり、それはオウムガイの螺旋模様=現象(形)となって現れます。

    この場合、オウムガイは正真正銘のイデアのエージェントであり美人局ではなりません。しかし、自然界には美人局のエージェント(擬態生態や毒キノコなど)が結構いるようです。ここで問題にしたいのは数学を使うエージェントです。数学を駆使するイデアのエージェントは科学者なのですが、自分がイデアのエージェントだと自覚していない場合がほとんどでしょう。

    しかし、自覚しているいないにかかわらず、エージェントである以上、仮説として自己表出することになります。その契機は夢や妄想かもしれません。その妄想が熟考されアイデアに変身して仮説として発表されるのですね。その場合、アイデアに化けた仮構(美人局)である可能性があり得るのです。まあ、多くの仮説は墓場行きになってしまいます。実際、量子論の世界は仮説の墓場と言われており、厳しいテスト(検証)を通過することができないようですね。

    一方、数は少ないですがその厳しいテスト(検証)に合格して客観性を高め権威づけされた仮説は原理とか法則に格上げされ、真実性を保証する葵の御紋になるのですね。そこで、いよいよ量子論の世界に現れる美人局です。量子論の世界は検証のできないミクロの科学です。量子論の前提が確率の波という仮構(仮定)によって成り立っているのですが、それにリアリティがあるのかどうかは誰にも分からないというのもまた現実なのですね。それが現実=真実=リアリティかと質問しても、「分からない」という答えしか返ってこないのです。おまけに、ミクロの世界はマクロの現実とは違い不思議な世界なのだから黙って受け入れなさい。後は、「計算すればよい」ということになっているのです。

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  • from: 生成門さん

    2013年07月27日 07時57分02秒

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    イデアがアイデア(美人局)に化けるとき

    イデアがアイデア(美人局)に化けるとき
    <森のように深いhttps://twitter.com/fractaleman68」と連動する量子論を解体する量子言語ゲーム>

    「イデアは実在=真実であり、現実の現象はイデアの痕跡」だと考えた場合、ある問題が起きます。それは美人局の餌食になるということです。どのように美人局は出て来るのでしょうか?

    最近はインターネットの繁栄でフィッシング詐欺がでてきていますが、問題はなかなかそれを一目でフィッシング詐欺だと認識しずらいことです。それと同じように数学の言葉を使った量子論は言語ゲームであり、それを素人では美人局と認識できないということです。

    何故、美人局が現れるのかというと、それはイデアのエージェント制にあります。イデアが現象化する場合、それがエージェント(人間の脳)を媒介して、アイデアとして発想され、それが現象(たとえば仮説とか)するからです。エージェントが科学者である場合、それを検証するのも科学者であるわけですが、多くの厳しいテストを受けて認められると権威づけされ、法則とか原理に格上げされます。そうなると、もはや、誰も解体できなくなってしまいます。

    特に量子論は数学という衣でまとわれており、実験で検証できないミクロの世界です。そんな世界ですから尚更、エージェントの思考が重要になってくるのですが、数学を駆使する科学者というエージェントは、数学的構造が実在であるという人が多いだろうと思います。ですから、初めから人を騙すフィッシング詐欺=美人局とは違うわけですね。

    自覚しないで美人局を演じている場合があり得るという点で、もっと始末が悪いとも言えるかも知れませんが、実際、量子論においてその可能性があることが素人なりに見えてきたところです。

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