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シムダンス「四次元能」

シムダンス「四次元能」>掲示板

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ここは自己生成の門ーーー宇宙の原理「動的作用反作用」を使って精神革命の臨床実験中!

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  • from: 生成門さん

    2012年01月31日 11時29分07秒

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    視覚による認識と超身体による光の認識

    視覚による認識と超身体による光の認識
    <四次元能版:新世紀エヴァンゲリオン: GPS:Gaussian plane Positioning System)>

    そろそろ第2象限の認識に移りたいのですが、海舌氏が虚数濃度(精神濃度)の概念http://blog.kaisetsu.org/?eid=813406
    を提示されましたので、四次元能では強度と言ってきましたが、今後は「濃度」を使っていきます。

    第2象限の認識では光の認識はどのようにGPSに位置づけされるのでしょうか?



    第1象限との違いは、実軸が+1から-1に変わるだけで、虚軸は凸i(陽の光)変わりがありませんから、-1とは何かをしっかりと理解しなければなりません。

    -1は海舌氏の人間認識図では超越的存在となっていますが、超越的存在とはどういうことを意味しているのでしょうか。

    +1が身体性であり、物質的、日常的、生活世界ですから、それと反対の世界、つまり、反身体的、反物質的、反日常的、反生活世界ということになるでしょう。

    反とか非をつければ分かったような気分になりますが、そうは問屋が卸しません。

    そこで、第1象限の認識から初めて第2象限に移っていく過程を探求することにしましょう。

    外界の出来事を見るということは、光が頼りです。葉っぱを見ることを想像してください。新緑の季節になると青い葉が一面を埋め尽くします。これは日常の現実的感覚です。

    しかし、何故、葉っぱは青いのかと考えてみると、おかしな現実が浮かび上がってきます。

    もちろん、秋になると紅葉してきますが、それは置いておいて、今は青い葉に着目していきましょう。

    太陽光(自然光)は偏光した光ではなく色々な光が混じっています。葉っぱはその大部分を内部に取り込みますが、特殊な光は反射してしまいます。

    葉という身体はこのとき超身体となって、全身で光を受け止め、選択的に光を選んでいるのです。つまり、選択は生きる営みであり、葉っぱの生き様なのです。具体的に言うなら、葉は内部で光合成を行うために必要な光を吸収するのです。しかし、青い光は使わないのです。

    (青いは間違いです。緑が正しいです。以下同様)

    これを超越的身体と呼んでも良いでしょうか?

    この葉っぱを外から見ると、色々な光を取り込んでいるのは見えませんが、青い光が反射されていることが類推できます。

    何故なら、光が来ないと暗くなるからであり、光が来ると良く見えるからです。

    ということは青く見えるということは青い光を反射しているということです。それが私達の目に入ってきて、脳のスクリーンに青い葉っぱを映し出すのですね。

    その結果、私達は「青い葉っぱ」と認識して、「葉っぱは青い」という言説を外に向かって口に出して言うのです。

    ここから言えることは、葉っぱ自体が青いのではなく、光の反射によって青く見えているということなのですね。

    ということは、光の認識は仮想の現実(それはあたかも現実だと見えてしまうが現実ではない)だということになります。

    そうであるなら本当の現実はどこにあるのでしょうか?

    それを第1象限の認識では知りようがないということです。これが第1象限の認識の限界なのです。

    さて、人間は葉っぱと同じ精神的身体です。「私」という身体はこのとき超身体となって、全身で光を受け止め、選択的に光を選んでいるのです。これが-1からの光の受け入れです。

    -1は目のような特殊器官がないのですから光の受け入れは出来ないと思うのですが、どのようにして光を受け入れるのでしょうか。

    +1の受け入れは、身体の特殊化された目があり、これを表の玄関とすると、-1は裏口です。-1からの光の受け入れは裏口入学みたいな感じなのでしょうか。

    光と闇という対称性が虚軸の精神性:凸i,凹iですが、+1と-1の対称性を明るい光と暗い光としても良いかも知れません。

    実際、+1を物質(光が反射する)とし、-1を暗黒物質(光を吸収する)として説明することも可能ですから、反射を明として、吸収を暗とすることは意味がありそうです。

    これは明らかに、光と闇とは意味が異なることです。光と闇とは内部の光であり、明と暗というのは外の光を指しているからです。

    -1からの光の受け入れを暗い光の入り口(裏口)とすると、+1のように特殊化された身体ではないので、超身体となります。つまり、身体として実体がないのです。

    実体のない身体ですから超越的存在です。この超身体には全ての光が入ってくるのです。陽の光を浴びると気持ちが爽快になりますが、これは自然光が混在した光であり、それが内部の精神と共振するからではないでしょうか。

    とにかく、色々な光が入ってくるのですから、色々な色の認識が可能となります。ある人は赤を認識するかもしれませんし、橙を認識するかもしれません。「赤い葉っぱ」を認識した人は「葉っぱは赤い」と表現するのです。

    こうした裏の暗の世界を説明するには、印象派や浮世絵が適当でしょう。

    絵画をGPSで位置付けることは別途にやりますが、今は簡単に済ませます。

    写実的な絵は明らかに現実の再現性が高い認識と表現ですから、+1から選択された光の認識そのままです。写真ほどではないにしても、光の濃度は低く、つまり、精神の濃度が低く、しかし、自己表出の濃度が高い認識でしょう。

    写実派の絵は第1象限(0.8,0.3)位に位置するとしておきます。

    一方、印象派の絵は、-1からの光の認識そのままです。彼らの絵は、写実性(再現性)に乏しく、しかし、光の動き、変化の質感に重きを置いています。それは自分が感じた光の印象を表現しているのです。

    印象派の絵は、写実性に乏しいとは言うものの、抽象画と違って、何が描いてあるか分からないほどではない(抽象画は明らかに非現実的なので第2象限)ので、光の濃度はそれほど低くはなく、つまり、精神の濃度が程々あり、しかも自己表出の濃度も高いので、中間的な位置、第2象限(-0.5,0.5)位に位置するとしておきます。抽象画は(-0.8,0.2)位に位置するでしょうか。

    いずれにしても、-1からかの認識だということは視覚からの明の認識ではないということがポイントで、非現実な世界(暗の認識)になるでしょう。

    浮世絵はゴッホなど印象派に影響を与えたといわれていますが、その「浮世」という言葉が第2象限の特徴を表現していると思います。

    「浮世絵」や「浮世話」のように名詞の上に付いて「当世の」「現代風の」「好色な」といった意味も表すようになったのですが、浮世はこの世を「無常のもの」「仮の世」と考えるようになり、「うき世」も「はかない世の中」の意味になっていったようです。

    この世、つまり、第1象限の世界は仮の現実だから、第2象限の世界に行こうよ!というのが、浮世絵が出てきた背景なのでないでしょうか。

    江戸時代では「はかない世の中であれば浮かれて暮らそう」という、現世(+1)を否定した享楽的世間観が生まれ、男女の恋情や遊里で遊ぶことの意味となったのですが、結局は、現実逃避であり、非現実的ですので、第2象限の認識です。

    第2象限の認識には、このような逃避的な側面もありますが、現実は錯覚だということ再認識させ、新しい視点で第1象限を切り開く面もあるのです。
    続く

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  • from: 生成門さん

    2012年01月31日 08時55分31秒

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    記憶も光の認識

    記憶も光の認識
    <四次元能版:新世紀エヴァンゲリオン: GPS:Gaussian plane Positioning System)>



    私達は外からの光を取り込んでそれをスクリーンに映し出して見ます。見たものが認識されたものであり、現実の出来事だと思っています。しかし、外の現実の全て見ている訳ではありません。届いた光だけが現実なのです。しかも、それは+1(目)の特殊化された身体、つまり、目という点に集約されますので、外界の物は全て同一視(時間・距離を無視して認識する)されます。

    ですから、スクリーンに映し出された認識は同時なのです。

    現実に起きていないことでも予測されたものは、仮想の現実として認識されます。起こりそうにもないことも認識できます。それは想定外として扱われることがあります。

    現実にないことを認識できるのは、過去の記憶があるからであり、それを想起することで、曖昧な光の認識でも、補う事で鮮明に認識できます。これは記憶が光の認識であることを意味しています。
    続く。

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  • from: 生成門さん

    2012年01月29日 17時08分29秒

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    自己表出とは自我表出である

    自己表出とは自我表出である
    <四次元能版:新世紀エヴァンゲリオン:ガウス平面上の認識位置特定システム(GPS:Gaussian plane Positioning System)>

    どのような私的言説であっても、その断片的な言説だけでは意味が分からないことが多いでしょう。ドラマを見ていても途中では、その会話の意味が理解できないですから、面白さも半減するでしょう。スポーツのような瞬間のゲームでも、その背景や文脈があるのです。

    ダルビッシュが日ハムからMLBレンジャーズに移籍しましが、彼の試合を見たり、試合後の会見での談話を聞いたりする場合、彼の生き様や実績、離婚騒動など、彼の文脈や背景を知って臨むのと、知らないで臨むのでは、理解や興味の点で大きな違いがでてくるでしょう。

    すべての言説には必ず文脈や背景があり、それを前提として私達は認識しているのです。ですから、曖昧な言説でも理解できるのです。

    第1象限の認識は、必ず、一人称としての「私」の自己表出(自我表出)するのです。

    自己表出とは、自己の内面(認識)が言語によって外部に表出することです。その表出が一人称としての「私」の言語表現、つまり、テキスト、言説、発話、意見、主張、談話として外に出てくるのです。

    その表出したテキストなりを、今度は、自己の中に取り込んで、自分なりの解釈をして位置づけるのです。これが自己の認識なのです。

    自己の中への取り込みは光を媒介にしているので光の認識なのですが、第1象限に位置づけされた言説(テキスト)は、曖昧な現実的事象(ノンフィクション)、現象の認識であり、私的であり、自我的独善なのです。

    自我表出は光の強度と逆比例するとも言いました。

    従って、言説による表現は、写真のように現実を忠実に再現するような内容と無言語の原始状態の間にある曖昧なノンフィクションとして多様に分かれるでしょう。

    多くの言説は、完全な+1(身体性)とも言えない、完全な凸i(精神性)とも言えない中間に位置を占めるのです。

    これは言語の性質から言って当然でしょう。

    記念写真の例で述べたように、自己の写真は中間より右に位置し、子供の写真は中間より左に位置しました。

    それは対象に対する入れ込み、つまり、光の強度と関係すると言いました。

    言説も同様であり、それは対象に対する入れ込み、つまり、光の強度と関係するでしょう。単なる事故報告と予算決定に関する陳述では、光の強度は大きく違ってくるでしょう。つまり、言説には「色」がついているということです。

    「虹は七色」というように、言説は多様なのです。

    無機質な軍隊は単に事実を伝えることが本来の役割です。しかし、それでも、過去の第一次世界大戦の起きた原因を見る限り、また、政変が頻繁に起きた韓国の王朝のドラマを見る限り、その言説(報告)には私欲、情が絡むことが当たり前なのです。

    ですから、事実を伝える第1象限の言説は、「虹は七色」の様なスペクトル、つまり、(凸i・・・中間・・・+1)のように並んでいるということです。

    こうした言説(テキスト)を位置づけるのは、曖昧さが決め手になることは既に述べたところです。

    第1象限の認識はそろそろ切り上げなければなりませんが、あと少し、「想定外」という認識を取り上げておきます。

    続く

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  • from: 生成門さん

    2012年01月29日 16時55分01秒

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    トリックのようなレトリックを見抜く

    トリックのようなレトリックを見抜く
    <四次元能版:新世紀エヴァンゲリオン:ガウス平面上の認識位置特定システム(GPS:Gaussian plane Positioning System)>

    自己表出を自我表出としても良いことになりました。

    犯人逮捕の例は、ホームランを打ったような個性発揮の素晴らしい現象で自己表出の良いイメージですが、自己表出は良いことばかりではありません。自我表出となると自己中心の表出であり、身勝手さの表出ともなります。

    その例を示してみましょう。

    例えば、今回の原発事故で「原発は安全だ!」という主張(言説)が、如何に自我的(身勝手)かを私達は知ったのではないでしょうか。

    実は、この言説に裏があり、個人的な自我表出(第1象限)を公的言説(第4象限)で、カモフラージュ(自我偽装)されているということです。

    四次元能は4次元脳を再生するステンガーミサイル(1)http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100107831810

    原発推進者は政治家の「私欲」を隠蔽し原発反対を封じ込めるために、安全神話という陰謀を企てたのです。

    どうしたのかと言うと、光の意図を闇の意図に反転させたのです。

    具体的に言うと、「私=自我」の表出である「原発は安全」という私的言説を、御用学者を使って公的言説に摩り替えたのです。その結果として現れたのがこの発言になったのです。

    複素化すると、甘い光の意図(最初に光の虜にしておいて、次第に、強度を下げ、自我を表出すること)を見抜けるのです。

    確かに、光の認識は甘い蜜なのです。光は外(+1:目)からってやってきます。その光に囚われたら、誰も逃れることはできません。陶酔して(凸i)しまうのです。

    これが+1から凸iへの水平-垂直変換(実軸→虚軸)です。

    「感動のご来光」http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100108213600

    しかし、光の陰謀はここでお仕舞いではありません。むしろ始まりなのです。それが凸iから+1への垂直-水平変換(虚軸→実軸)なのです。

    これが禁断の実(言語)を食べてしまったアダムとイブの悲しい旅路の始まりだったのです。原生人が如何にして言語を獲得したのか、その旅を思い出して下さい。

    「トラが現れた」http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100108131206

    光の陰謀(認識)とは、光という甘い汁を与え、言語を獲得させ、自己表出(自我)させるという深遠な意図でもあったのです。

    そして光の陰謀(認識)が現実となったのが、自我が表出した事件:原発事故だったのです。

    自我が表出した言説は私的言説です。私的言説とは「原発は安全だ!」という政治的言説のことです。それが偽装された公的発言であることを原発反対の人が見抜けないわけがありません。

    しかし、彼らはそれが見抜かれることは承知なのです。見抜かれても論理的に辻褄が合っていれば、反論のしようがないことも分かっているからです。

    経営者が企業の資産を個人的に流用することを私物化すると言いますが、公的言説(他者の言説)を私的流用(盗作)することがあるでしょう。

    権威のある人が言ったことをあたかも自分が言ったかのように装うのが言語の偽装です。

    それとは逆に、私的言説を公的言説にしたのが今回の出来事(安全神話)です。

    資産家が個人の資産を社会に寄付することを公益化すると言いますが、個人の言説を公的化するというのは、個人の主観的な仮説を普遍化するということに相当するでしょう。

    「原発は安全だ」という私的言説を公的言説に摩り替えた例は、個人の主観を普遍化したのですから、上で述べた主観的な仮説の普遍化と同じ構造になっています。

    このような摩り替えのレトリック(説明)は私達素人が見分けることはなかなか難しいでしょう。レトリック(説明)というよりトリック(手品)だからです。

    このようなトリックのようなレトリックを見抜くためにもGPSを使うことは有効であることを示したいと思います。

    そのためには、四つの象限の認識をフル活用しなければなりません。特に、公的言説と私的言説のすり替えは、第4象限とも関係します。第1象限を早く切り上げて、第4象限の認識に移ることにしましょう。
    続く

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  • from: 生成門さん

    2012年01月29日 10時54分42秒

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    自己表出と対象の再現性は比例する

    自己表出と対象の再現性は比例する
    <四次元能版:新世紀エヴァンゲリオン:ガウス平面上の認識位置特定システム(GPS:Gaussian plane Positioning System)>

    認識には、不確定なことを探求する場合と確定していることを認識する場合があり、そこにはいつも曖昧さが介入することが分かりました。

    曖昧さは対象をどう表現(再現)するかということと関係するのですが、言語を使って再現しようとすると、どうしても曖昧さが出てきてしまいます。

    その意味の曖昧さが入るということは中間に位置するいうことになりました。

    そこで、真の中間、つまり、強度(0.7,0.7)の認識を、この曖昧さを使って探求していきましょう。

    強度(0.7,0.7)は、対象への視線強度が下がって、その分、自己表出が上がってきてバランスしているということです。

    この地点を右に移動すると自己表出が強くなって行きます。この自己表出を後で自我と呼ぶことになるでしょう。

    自己表出が上がると対象の再現性が上がるので曖昧さがなくなります。

    自己表出と対象の再現性が比例するというのは矛盾するように聞こえるかもしれませんが、それは犯人を追いかける刑事になったつもりになれば理解できるでしょう。

    刑事は対象(事件)を再現しようとします。つまり、犯人を事件の全容を明らかにして、犯人を特定しようとします。身体を使って、つまり、足を使って、靴底を減らして現場検証し、証拠を集めます。

    一方で、刑事は、事件は不確定という曖昧なフィクション状態、不安な精神的常置に置かれていますから、精神的身体の強度(0.7,0.7)です。

    証拠、動機、アリバイが完成すれば、一気に犯人逮捕できます。そこときの強度は(1,0)であり、不安ゼロです。これが犯人に身体的拘束、物質化、つまり、事件解決、対象の完全再現:+1です。

    この刑事は表彰されるでしょう。

    刑事は曖昧さを除去して、強度(0.7,0.7)から、対象を完全再現して(1,0)へと移動したのです。おまけに表彰されたのですから「私」のプライドが上がったことでしょう。

    対象の再現性が上がって曖昧さがなくなり、不安もなくなり、表彰もされたのですから、自己表出が上がることの意味が理解できたのではないでしょうか。

    つまり、自己表出と対象の再現性は比例するのです。

    言い換えると、事件認識(事実再現)を通じて、刑事という「私」は自分を表出したのです。自分という存在価値を社会、職場に知らしめたのです。

    自分を表出というのは分かりにくい言葉かも知れません。自己表出とは、私との内面の認識を事実の再現という形で身体的に、外部に出した行為といえるでしょう。

    ですから、自己表出を自我表出としても、良いことが理解できるでしょう。

    犯人逮捕が自己表出なら良いイメージですが、良いことばかりではありません。自我表出となると、自己中心の表出であり、身勝手ともなります。

    その例を示してみましょう。

    続く

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    2012年01月29日 10時42分35秒

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    曖昧さが入ると中間に位置する

    曖昧さが入ると中間に位置する
    <四次元能版:新世紀エヴァンゲリオン:ガウス平面上の認識位置特定システム(GPS:Gaussian plane Positioning System)>

    GPSの中間の位置はノンフィクション(事実)であることを前提としたテキストが位置する場所です。言語に依存した認識ですから完全な再現性は望めません。

    しかし、人間は再現性の足りない部分を想像力で補います。この想像力こそが精神性であり、光の認識の源泉です。

    言語の不完全な再現性を想像力で補う例を示してみましょう。

    「つーかー」仲だねとか、阿吽の呼吸などと言います。

    これは少ない言葉でも意味を理解できることを言っています。言い換えると、意味が曖昧でも現実的な何か(対象)を暗示していて、会話が出来るということ、つまり、認識できるということなのです。

    この認識の位置は事実の認識なので「曖昧な事実」つまり、「曖昧なノンフィクション」の位置になるのです。

    「曖昧な事実」というのは分かり難いかもしれません。事実認識には、事実が不明な場合と事実が明らかな場合があるでしょう。これを分けて説明しておきましょう。

    その1>事実が不明な場合

    事実が不明ですから曖昧にしか認識できません。それを確実にしていく過程が発見、探検、探求です。

    この過程では、探求者は曖昧な認識状態に置かれます。事実があるかどうかも分からないからです。曖昧であってもそれを事実らしいとして認識することを「曖昧なノンフィクション」と言います。

    その2>事実が明らかな場合

    事実が明らかな場合とは、誰かによって既に明らかにされてはいるが、公知となっていない場合です。それを知るのは誰かによって表現されたものから事実を想像することになります。しかし、表現されたものが曖昧な場合があります。このように曖昧な表現から事実を再現する認識を「曖昧なノンフィクション」と言います。

    不明な事実と明な事実の認識には共に「曖昧なノンフィクション」がありますが、混同しますので、前者を「不明な事実の曖昧なノンフィクション」、後者を「明な事実の曖昧なノンフィクション」としておきましょう。

    不明な事実の曖昧なノンフィクションの例

    サスペンスドラマの推理は事件発生時点では、その事件が起きたという事実が存在するわけですが、刑事にとっては全く知りようがないわけで、曖昧な事態に追い込まれたところから始まるので、凸iの位置にいるでしょう。現場に行ったり、背景を掴んだりして、情報が入ってくるので、次第に、犯人像が浮かび上がってくるでしょう。

    その犯人像ですが、まだ犯人を特定できるほどの確かな証拠はないが、イメージとしてはこのような像であると認識したものです。

    犯人を特定できていないが、犯人らしいと想像した段階なので、このような判断は「不確定な事実認識」です。つまり、引っ繰り返る恐れがあるということです。

    従って、このような場合は、刑事にとって不明な事実、つまり、不確定な事実認識の曖昧なノンフィクションです。

    そこで、呼び方を変えて「不確定な曖昧なノンフィクション」としましょう。

    明な事実の曖昧なノンフィクションの例

    ところで、犯人が特定できていても、その犯人を、このような人間ですと発表できない場合があります。「暈した」表現となります。これをテレビなどで聞いた方はどんな犯人かを想像するしかなくなるのですが、この場合は、明な事実の確定された曖昧なノンフィクションです。

    事実が確定しているにもかかわらず、表現されたものが曖昧なので、想像するしかないという認識、それが明な事実の確定された曖昧なノンフィクションなのです。

    そこで、呼び方を変えて「確定な曖昧なノンフィクション」としましょう。

    認識には、不確定なことを探求する場合と確定していることを認識する場合があり、そこにはいつも曖昧さが介入することが分かりました。

    曖昧さは対象をどう表現(再現)するかということと関係するのですが、言語を使って再現しようとすると、どうしても曖昧さが出てきてしまいます。

    その意味の曖昧さが、認識の位置を決めると言っても過言ではないでしょう。

    曖昧さが入るということは中間に位置するということです。
    続く

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  • from: 生成門さん

    2012年01月29日 10時22分31秒

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    人間は再現性の足りない部分を想像力で補う

    人間は再現性の足りない部分を想像力で補う
    <四次元能版:新世紀エヴァンゲリオン:ガウス平面上の認識位置特定システム(GPS:Gaussian plane Positioning System)>

    45度の位置の基準を示そうとしてきたのですが「乾燥したワカメは蘇る」、「外が内になる」、「絶対位置はない」という探求の結果、なんとも頼りのない「曖昧なノンフィクション」という結論になってしまいました。

    「写真の認識を位置づける」「写真は自己を表出させる」「プロの写真家の自己表出」「写真も表現された内容で位置が変わる」では、第1象限の特徴を浮き彫りにしました。

    気になるのは、「曖昧なノンフィクション」という中間の位置の問題です。もっとましな基準の示し方はないのでしょうか。

    第1象限は「私」の認識です。

    凸iの至高体験、陶酔、没入といった光の強度が高く、対象との一体感の高い位置から、次第に、言語の認識になると光の強度が弱くなって自己表出が出てきます。自己表出の最大の位置は+1であり、物質化(現象)です。

    どんな認識も固定されることはないので、凸iから+1移動したように、その逆の+1から凸iへ移動することもあるでしょう。又、他の象限に飛び火することもあるでしょう。今は第1象限を中心に探求しています。その第1象限の探求も終わりに近づいてきています。

    第1象限の探求を終わりにするためには、やはりなんと言っても中間の認識の位置を極めなければなりません。

    中間とは強度が(0.7,0.7)の位置です。

    光の強度:100%とは光による虚軸(凸i)であり、陽の精神性・関心度最高・視線強度最高・対象との完全一体感、無言語・感動と至高の無距離と無時間の4次元世界を示すバロメータでしたが、それが右にシフトして中間(0.7)になると、光の強度が下がった分、身体性の強度が上がってきて、強度が(0.7,0.7)で釣り合います。

    身体性の強度:100%とは外部世界と繋ぐ出入り口でもあり、実軸(+1)であり、対象再現性最高・自己表出度最高・対象との完全分離、言語による表現、距離と時間の3次元の現実、日常の物質世界(ノンフィクション)を示すバロメータです。

    第1象限の認識を極めるためには、凸iでもなく+1でもなくその中間を極めることが必要でしょう。その中間を象徴的に「曖昧なノンフィクション」という言い方をしたのですが、言語による表現の特徴をそう認識したものです。

    つまり、中間とは対象を把握するときに言語で認識しますが、その表現されたものは発話・言説(意見・主張・テキスト)だったりするわけですが、それはノンフィクション(事実)であることを前提としたテキストです。しかも、言語に依存している限り写真のような再現性は望めません。

    しかし、人間は再現性の足りない部分を想像力で補います。この想像力こそが精神性であり、光の認識の源泉です。想像力には闇の想像力もありますが、これは第3、4象限の認識の話になりますので、留保しておきます。

    続く

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  • from: 生成門さん

    2012年01月28日 10時48分25秒

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    写真も表現された内容で位置が変わる

    写真も表現された内容で位置が変わる
    <四次元能版:新世紀エヴァンゲリオン:ガウス平面上の認識位置特定システム(GPS:Gaussian plane Positioning System)>

    今、問題にしているのは、第1象限の認識ですが、写真は第1象限に入るとして、取り上げたのですが、それは写真の特徴として現実の再現性があるからであり、同時に自己を表出させる媒体だからです。

    写真の特徴は一般に自己の主張がなさそうに見えるので、その逆であることを検証するために、写真の芸術性を示したのでした。ところが、自己主張をなくすと第4象限に行ってしまい、自己主張を強調すると芸術性が高くなり、第2象限に行ってします。掴んだと思ったら逃げてしまうのです。まるで、掴みどころがないウナギのようです。

    結局、公的写真でもない、芸術的写真でもない、しかし、自己主張の高い第1象限の写真とはどういうものかという問いになりました。

    公的写真でもない、芸術的写真でもない、しかし、写真家の自己主張のない第1象限の写真の例はガガの写真でした。ただし、ガガの場合は、第2象限に跨っていました。

    そうなると残ったものは、マイアルバムに入る記念写真だけです。記念にとる写真だけが第1象限に入るのではないでしょうか。記念写真はもちろん公的写真ではないし、芸術的写真でもありません。しかし、写真を撮った人の自己主張(存在証明)があります。

    そこで又問題です。

    記念写真でも、私が写っている写真と他人が写っている写真では違いがあるでしょうか?

    私が写っている写真の場合、撮ってくれた人の自己主張というよりは、私の主張を代行してくれたと考えればよいでしょうから、写っていることよりも、私の存在を証明することに重点が置かれているということで、第1象限の+1に近い基準を満たしています。

    では、他人を写す場合はどうでしょうか。例えば、子供の写真を撮ることを想像してください。私より子供の存在を証明することがよりポイントです。

    つまり、対象(子供)を重視しているのですから、自己の主張は弱いということです。ということは、第1象限ですが、光の強度が高い分、つまり、対象に入れ込んだ分、中間よりの位置づけになるでしょう。もっと入れ込めば、中間より更に上に行きますので、ガガに近づくことになるでしょう。しかし、ガガのように第2象限にまで侵入することはないでしょう。

    こしてみると、第1象限に入る写真は、記念写真であり、他者を撮る写真は中間から上、自分を取る写真は中間より下という認識位置になるという結論がでたようです。

    第1象限(e^iθ:0<θ<π/2)
    凸i(0,1)・・・・中間(0.7,0.7)・・・・+1(1,0)
    ガガの写真  子供の記念写真   自分の記念写真

    写真家は、写真を芸術として見ているので、現実を忠実に撮るというより、現実を「私」が見たいように「撮る」という意識が高いと思うのです。

    ですから、光の強度を下げるのです。その代わり、対象への関心を高めて「私」という自己の作法で対象を支配して、表現しようと苦心するのです。自己の作法とは写真技術、つまり、映し方、アングル、焦点、露出などなどです。そうすると当然、現実から離れることになりますから、必然的に第2象限に入っていくことになるでしょう。

    しかし、どう映し方を工夫したところで、美術と違って現実から離れることは出来ません。非現実的な写真などは見たことがありません。そんなカメラはもはやカメラとは言えません。それはデジタルアートです。

    そこが写真芸術の限界だと思うのです。

    写真というのは身体的(目の延長)であり、私と対象の間に距離をつくるものです。

    もっと言うなら、写真を撮る人にとって、対象なんかどうでも良いのです。写真は表現媒体に過ぎないのであって、自己主張をする代用物なのです。写真展に行って分かることは「これは私が撮った写真だ!」と主張していることです。

    鑑賞する私も写真を見るときは、そこに映っている対象への関心よりも、アングルや配置構成がどうだという身体性(技術)に関心が向いてしまうでしょう。

    これが+1に近い写真の認識位置なのです。

    同じ写真でも、自分の記念写真は+1よりは中間に位置するでしょうし、子供の写真は、中間から少し左に位置するでしょう。

    いずれにしてもプロの写真家の写真は、現実を写す媒体である以上、第2象限には行けない宿命を持っているのです。

    もし、写真を芸術にするならデジタルアート化するか、精々、凸iを中心にして第1と第2象限に跨っている写真(ガガ)のような表現スタイルを持ち込むしかないということです。

    その場合は、自己主張がなくなるわけですから、芸術の本質から離れることになります。

    ガガの写真は、誰が取ったのか、どのようにしてこれを撮ったのかという写真技術より、対象その物に関心が向いているのです。

    写真家自身の自己主張しない、視線を対象(ガガ)引付けることを狙った新しい芸術と言えるのではないでしょうか。

    写真を、GPSを使って認識位置を特定する探求をしてきたのですが、何に重点を置くかで、認識の位置が変わってくるということが分かりました。

    これまでは、凸i,凹i, +1,-1の特別な位置だけを考えて考察してきたのですが、それだと認識の本質を掴むことは出来ないことも分かりました。

    その意味で、写真は象限の特徴を掴む上で大変貢献してくれたと思います。

    続く

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  • from: 生成門さん

    2012年01月28日 10時43分58秒

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    プロの写真家の自己表出

    プロの写真家の自己表出
    <四次元能版:新世紀エヴァンゲリオン:ガウス平面上の認識位置特定システム(GPS:Gaussian plane Positioning System)>

    写真には個性(自己表出)があることをプロの写真家は腕前(映し方)で示してくれます。

    写真家は現実を忠実に表現(再現)するという以前に、何を撮影するのかという「意図」を重視するのです。「意図」がなければ、カメラを設定して定点撮影すればよいのです。

    「意図」がなければ、盗難防止カメラと同じになってしまいます。でも、本当に盗難防止カメラには意図はないのでしょうか。そんなことはありません。「盗難防止」という立派な「意図」があります。

    意図だけでは、プロの写真家と定点撮影した写真の認識位置の区別はできません。

    何が、プロの写真家と定点撮影した写真の認識位置を区別するのでしょうか。

    誰がやっても同じ結果になる写真と私がやったからこういう写真が撮れたという場合、意図だけで個性的か、個性的ではないかを区別できるのでしょうか。

    展示されたプロの写真家の撮った写真と定点撮影した写真を比べてみましょう。何も説明がなければ、素人には区別することなどとても無理でしょう。

    芸術の分野では、既にデジタルアートがあり、コンピュータで作図したものでもが芸術だと認識されています。何が芸術かという観点が変わってしまったのです。

    デジタルアート、フラクタルアート、量子芸術などは作品そのものより、その概念、観念と言った作品を作り出す精神的なもの、つまり、意図が芸術だということになってきたのです。

    意図が芸術であると言うと、防犯カメラで撮ったものまで芸術になってしまうので、乱暴になってしまうでしょう。

    意図の内容が問題なのですね。

    意図ではなく、概念、観念が芸術だといった方がより正確でしょう。概念、観念をもっと分かり易く言うとアイデアです。

    アイデアなら個性があり、人に属するものですから、芸術とそうではないものとを区別する基準になるでしょう。

    当然、そのアイデアは自分だけのものであり、公的や他人のものではあってはなりません。他人のものなら盗作です。

    写真の場合、この基準をそのままスライドして、プロの写真家の写真と定点撮影の写真を区別できるでしょうか。

    確かにどちらにも意図はありますから、意図だけでは区別ができません。アイデアはどうでしょうか。

    もし、プロの写真家が、そのアイデアを表現するために定点撮影のカメラで撮ったとしましょう。それは芸術でしょうか。

    デジタルアートはそれをやっているのです。ですから、定点撮影のカメラで撮ったものも芸術になるのです。

    従って、防犯カメラには意図があり、アイデアもありますが、そのアイデアは公的なものです。しかし、このアイデアは、被写体を正確に取ることだけを意図とするものであり、芸術的意図はありません。

    しかし、防犯カメラ(定点監視カメラ)を使って、プロの写真家が、自分だけのアイデア、つまり、芸術的意図、例えば、露出時間を工夫するとか、パソコンと連動してアルゴリズムによって映像を作り出すとかすれば、それで立派なデジタルアート(写真芸術)となるでしょう。

    そうなると新たな問題がでてきてしまいます。
    続く

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  • from: 生成門さん

    2012年01月28日 10時35分58秒

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    自己表出させる根拠

    自己表出させる根拠
    <四次元能版:新世紀エヴァンゲリオン:ガウス平面上の認識位置特定システム(GPS:Gaussian plane Positioning System)>

    何故、写真が自己を表出させるのかを探求して見ましょう。

    記念写真は私だけに降り注いできた光による認識です。他者には私とは違った光が降り注いでいるのでしょう。ですから、私だけの写真ということになるのです。

    風景を満喫している間は自己表出などありません。風景を満喫している間は光と共にありますが、やがて、関心が薄れていきます。そうすると、光の強度は弱まって、光の認識は自己を表出する方向に動いていきます。

    カメラは目の延長ですから、カメラのファインダーを覗いているときは自己表出などありません。

    しかし、写真として表現された対象を見ている私は、風景を満喫している私ではありません。

    対象を見ている私は、私は私であり、対象としての写真の風景は風景なのです。私がその写真を見るたびに、写真は私の存在(私は私である)を表出してくれるのです。

    光の認識は写真という媒体によって、その強度を下げることで、対象の再現性を保証し、逆に自己表出を高めているのです。

    公的写真は、対象の再現性を保証してくれますが、自己表出はないのです。ここが公的写真と大きく異なる点です。
    続く

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