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シムダンス「四次元能」

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ここは自己生成の門ーーー宇宙の原理「動的作用反作用」を使って精神革命の臨床実験中!

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  • from: 生成門さん

    2017年04月24日 12時35分01秒

    icon

    時は存在するが時間は存在しないことへの反論

    2017年04月22日(土)43 tweets
    source

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    アカデミズムに対抗する科学。それはS科学と記憶科学である。説明力ではS科学である。記憶科学は未来の科学である。
    posted at 22:12:35

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    アカデミズムに逆らうまともな科学は今のところS科学と記憶科学である。
    posted at 22:08:00

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    S科学は怪しいと考えるかも知れないが、それは佐野氏の科学的以外の言動に原因がある。佐野氏は科学ではプロでも日常のことには素人である。だから誤解が生まれる。更に、S科学はアカデミズムを破壊する。だから非情な力が働く。
    posted at 22:04:52

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    オカルト・インスピレーション・直観・霊感・タイムスリップ・タイムマシン・テレポートが確率論によって説明できてたまるかということである。しかし、一方でS科学はそれを説明する。問題はその説明力である。
    posted at 20:47:46

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    オカルト・インスピレーション・直観・霊感・タイムスリップ・タイムマシン・テレポートなどは非科学的な概念であり、現代科学では当然否定される。しかし、量子論の登場によって、その理論がそれらに正当性を与える根拠に使われ出した。その根拠は妥当なのだろうか。もちろんノーである。
    posted at 19:11:55

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    岡潔の論理は自らの定義によって自ら破綻した。時(間)は存在する。そしてt=x/cとして時間を決めた相対論は循環論だから破綻しているという弧理論も破たんした。時は主観で時間は客観というのも言語論から破たんした。
    posted at 15:19:52

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    岡潔は時は存在するという。風呂の時は確かに存在する。風呂に入る時、数えるかどうか別として時の経過がある。記憶の流れがある。数えれば時を顕現することができる。ここで初めて時をtとする理由が出てきた。だからN=tとする。
    x=LNはx=Ltとなる。
    x/t=Lはvである。
    posted at 15:11:32

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    風呂の時が存在するなら記憶も存在し、運動も存在する。風呂の人は移動していないが、数を数えるという行為はしている。だから運動はしている。道元は有時と言った。有は存在である。だから存在は時である。風呂の時は存在であり記憶であるということになる。
    posted at 14:56:25

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    風呂に入っている時は数を数えている状態が持続している。風呂の時が持続しているのである。岡潔は時は存在するといった。運動は過去の記憶であり、時であると言う。移動はしていないが風呂の時も運動の形態である。
    この考察から風呂に入って数を数える行為は時である。従って時は記憶である。
    posted at 14:51:38

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    時間を他の何にも依存しないで定義できるかどうかの思考実験をしている。今、取り出したのは数である。数を数えることで距離と速さを決めることができる。
    風呂に入っているときに数を数えるということは移動していないから距離は出てこない。では何が出てくるのだろうか。
    posted at 14:44:26

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    距離は速さと数、速さは距離と数で決まる。しかし、まだ、時間は出て来ない。
    風呂に入って数えることが時間だと言ってしまえば話は簡単なのであるが、時間は存在しないという主張を論破するためには、時間を持ってこないで時間を定義しなければならないので厄介なのである。
    posted at 14:25:14

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    少し混乱してきた。纏めると、物体が移動の速い遅いは、ある数える間にどれだ移動したかである。風呂に入っている間の数えるのとは関係ない。その数の間にどれだけ動いたかを決めるのは、物体の速さと風呂に入っている数だということである。
    どっちにしても距離は速さと数、速さは距離と数で決まる。
    posted at 14:22:04

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    空間距離と風呂の数える長さが等しいとは
    風呂に入っている間に数えた数と走った距離が同じだと言うことである。
    しかし、動く物は風呂とは関係ないから一般には
    x=LN
    である。
    物体の速さを
    L=x1/N1
    とすると
    x=(x1/N1))N
    となる。
    posted at 14:10:46

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    さて、空間距離の長さと数を数える長さを空間距離を使って示してみよう。空間距離の数えることはできる。
    空間距離(数=x)
    風呂で数(N)を数える
    L=x/Nだから、x=LN
    となる。L=1とするとx=Nとなる。空間距離と風呂の数える長さが等しいとはどういうことだろうか。
    posted at 13:58:10

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    空間距離の長い短いはここからあそこと言って示すことができるが、風呂に入っている間の長い、短いを具体的に示すことはできない。体感するだけである。長ければ数が多くなるだけである。
    posted at 13:45:06

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    数を数える
    123,,,,N
    これは風呂の上りを決める式である。
    風呂に入っている長さを決めるのはNである。数えることが遅い早いを決めたり、長い短いを決めるということである。長い短いは距離であるが、空間距離の距離とは違う。では一体どんな距離なのだろうか。
    posted at 13:39:15

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    数を数えることで早い遅いを決める式を
    L=x/N
    とした。時間は出てこない。
    速度はv=x/tだから数Nは時間であると言いたいところであるが、それはまだ早い。そこで子供に風呂から上がる時に数を数えさせることの意味を考えて見よう。これは暗黙の時間である。しかし子供には時間はない。
    posted at 13:30:59

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    数を数えることで100m走でどっちが早いか決めることができる。もちろん数が少ない方が早いということになる。ここには時間はない。早い遅いとは何を意味するのだろうか。a=100/j,b=100/kとしたが、一般化すると、数をN距離をxとして、その比をLとするとL=x/Nとなる。
    posted at 13:20:21

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    100m走でストップウオッチなしで、脈拍でどっちが早いかを決めることができた。脈拍でなくてもよい。数を数えことにしても同じである。ただし、精度は別問題である。
    posted at 13:11:56

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    100m走で脈拍を基準にどっちが早いかを決めた。
    a=100/100=1m/拍、b=100/10=10m/拍となり、明らかにbの方が早いということになった。脈拍数が数が少ない方が早いということは、bは10を数えたとき、aは100を数えたときゴールしたということである。
    posted at 12:03:24

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    100mを走る。その時、二人は別々にスタートするが脈拍を取る。その結果をa=100/j<100/k=bとする。
    a=100/j<100/k=b
    1/j<1/k
    j>k
    j=100,k=10とすると
    a=1m/拍、b=10m/拍となり、明らかにbの方か早い。
    posted at 11:56:34

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    100m競争で二人が別々に走った場合、どうやってどっちが早いかを決められるだろうか。ストップウオッチは使えない。そこで脈拍を使うことにしよう。人によって多少の違いはあるが思考実験だから同じとする。これなら同時に走る必要はない。場所も関係ない。走る距離が同じだけという条件である。
    posted at 11:21:59

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    100m競争で着順を決めるのは簡単である。ゴールに待ちかまえ、着順に番号札を渡す方法である。今でも運動会ではそうしている。ここに時間はない。早いか遅いかである。さて、いよいよ思考実験に入る。もし、100m競争を別々には走ったらどうなるかである。もちろんストップウオッチは使えない。
    posted at 11:15:33

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    時間とは虚構であり観念であるを論破してみよう。逆に言えば時間は何かを定義するということである。精神革命の臨床として有効な方法は思考実験である。思考実験で100m走から時間を定義してみる。ストップウオッチは使えない。どっちが早いか遅いかを決めなければならない。さてどうするか。
    posted at 11:08:26

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    時は存在するが時間は存在しないと言っても困ってしまう。しかし、それを本気で考え、弧理論というものを作り上げてしまったのだから恐れ入る。しかし、時間のないエネルギーと言ってもピンとこない。
    posted at 10:31:02

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    時間を光速度cを用いて定義するには、その前に時間が分かっていなければならない。なぜならcとは距離/時間で求められるからである。アインシュタイは光速度cを用いて時間を定義するという決定的論理ミスをやったとなる。この主張は本当の正しいのだろうか。
    posted at 10:24:30

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    確かに、相対論に於いては光速度は一定だから、これほど客観的な物差しはない。だから、t=x/cとすると、任意の距離を光が移動する時間は計算できる。つまり、時間が決まる。一秒は光が30万キロ進む時間ということになる。何か騙されたような気もするが、これが弧理論はインチキだという。
    posted at 10:20:18

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    弧理論が相対論を循環論だとする根拠を相対論の決定的な誤りに依拠している。
    http://www5b.biglobe.ne.jp/~sugi_m/page254.htm...
    速度=距離/時間
    である。
    時間=距離/速度=距離(時間/距離)=時間
    時間は時間である。これがおかしいというのである。
    確かにそう思える。本当だろうか。
    posted at 10:09:35

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    E=mc^2に於いてc=x/tである。t=x/cだから次元だけでいうと[T]=[M/M/T]=[T]である。つまり、時間を時間で決めていることになる。だから相対論は循環論である。これが岡潔の主張である。確かに理がありそうである。本当だろうか。
    posted at 10:00:21

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    岡潔を受け継ぐ弧理論のΦ(nsw495kpr8)氏は、時間が存在しない根拠を相対性理論に求める。E=mc^2の次元は
    EはML^2T^(-2)
    cは光速度LT^(-1)
    である。式の両辺に時間[T]が入っている。これが問題だという。
    posted at 09:46:34

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    岡潔は運動/時間の比率は、未だ決定されたことはないと言う。運動は位置の移動だろうからΔxとすると、時間の変化をΔtとするのと、その比は
    Δx/Δtとなり、所謂、速度vである。
    v=Δx/Δt
    が決定されたことがないというのはどういうことを言っているのだろうか。
    posted at 09:28:13

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    時間意識という精神革命の臨床を続けよう。
    時間は存在するのか存在しないのかである。
    岡潔は存在しないという。その根拠が運動は時間から求め、時間は運動から求めているという循環論理があるからだという。卵が先か鶏が先かである。
    posted at 09:19:32

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    精神革命の臨床の二人称モデルは、他者の記憶(言説)を利用して類推を重ねて意識を変容させる離散融合更新循環である。
    意識n+1=意識n
    記憶n:類推n⇒意識n
    nは自己同一
    ⇒は循環
    :は媒介項
    =は離散
    n+1は更新
    である。
    posted at 09:16:09

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    これは精神の臨床である。頭の中で何がどう変化するかのテストである。他者の言説は記号である。他者が自己になる。二人称の関係である。その記号は記憶をハンドリングしている。意識=記憶+類推である。記憶:類推⇒意識(精神)の三項が、精神革命の臨床の二人称モデルである。
    posted at 09:07:21

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    時と時間の記号論
    SA(主観の時)⇒SE(時のイメージ)
    SA(客観の時間)⇒SE(時間のイメージ)
    主観=客観だから
    SA(時=時間)⇒SE(時=時間のイメージ)
    時とか時間は人間の都合で言い換えたに過ぎない。どう言い換えてもその意味するモノ(イメージ)は彼岸にある。
    posted at 08:52:49

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    言葉は差異を表現する。
    SA(シニフィアン=言葉で表現されたもの)⇒SE(その表現されたものの対象)
    SAとSEはセットとなる。当然SA1/SA2/SA3/,,,///となり差異化される。
    虹の色は差異である。この論理を時間に当て嵌めてみる。
    時間はSAであり,時もSAである。
    posted at 08:43:59

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    時間と時の話に戻る。客観が主観でしかないなら、岡潔の言う時は主観的感覚で時間は客観的観念であるは、おかしなことになる。時間も主観(共同主観)ということになる。従って、時が存在するなら時間も存在する。これによって岡潔の論理は破綻した。岡潔は記号論を知らなかったということである。
    posted at 08:36:16

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    虹が相対的客観なら相対的差異でしかない。差異は感覚で認知して認識となるのだから主観(五官)をベースとする。その主観が共同体の中で客観視されるのである。だから客観は共同主観である。共同幻想と言った人もいる。
    posted at 08:30:43

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    記号論で言う差異から時間と時を吟味してみる。虹が七色というのは現代に於いては客観的事実である。しかし、国によっては五色、三色だったりする。その国の人にとっては客観的事実である。これは何を意味するのだろうか。国によって違うのだから絶対的客観とは言えない。だから相対的客観である。
    posted at 08:26:40

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    五官としての時と観念としての時間はどう違うのだろうか。言い換えると主観の時と客観の時間だということだろう。もし、そうなら主観は存在するが客観は存在しないしないということになって、唯心論と唯物論の議論になる。しかし、今は深入りしないでおく。
    posted at 08:19:57

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    岡潔は時は存在するが時間は存在ないしないという。時は過ぎゆく運動の記憶だから、時の記憶は存在するが時間の記憶は存在しないと言ことになる。
    時は感覚できる過ぎゆく運動だという。時間は観念であるという。これを理解できる人はいるだろうか。
    posted at 08:16:21

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    岡潔の主張
    *運動は時間から求め、時間は運動から求めている。
    *運動/時間の比率は、未だ決定されたことはない。
    *時は存在するが時間は存在しない。
    *時間は観念であり、実際に存在するのは運動(時)だけ。
    *科学は間違っている。
    *時間とは過ぎ行く運動の記憶である。
    posted at 08:11:23

    4月22日

    森のように深い@fractaleman74
    時間は存在しないという岡潔を受け継ぎ時間を含まないエネルギーをベースとする弧理論を展開しているブログがある。
    http://www.kodenjiki.com/time.html
    本当にそんなことが言えるのかどうかを吟味してみる。
    記憶科学も時間の虚構性を主張しているので被るところがある。
    posted at 08:05:03

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  • from: 生成門さん

    2017年04月24日 11時59分47秒

    icon

    有時を数学する

    久しぶりに大発見をした気分です。

    数学者の岡潔が主観的な時は存在するが、客観的な時間は存在しないと言ったことに疑問を感じたので、ここずっと時間を探求していました。
    www5b.biglobe.ne.jp/~sugi_m/page254.htm...

    その閃きが来たのです。

    幼児に風呂から上がる時に数を数えさせることがあり、それが時間の本質ではないかと直感したのです。

    風呂の時に数える時こそが、道元の言う有時ではにかと気がついたのです。数えるでなく、歌うでもよいの良いのですが、その時とその場の関係が有時なのです。

    現代では数えることは時計がやってくれますが、古代では日時計で数えていたのです。数えることは太陽がやってくれましたから、それを写せばよかったのです。

    数えることが時であると大発見したと大見得を切ったのですが、大嘘かも知れません。そこで、これが嘘ではないことを、超難解と言われる道元の有時を簡単に説明することで証明してみたいと思います。

    道元を理解する良い機会でもあり、頭の体操と思ってやってみます。頭の体操とは精神革命の臨床でもあるのですから。

    道元の言ったことを意訳すると次のようになります。

    ある時には富士山の頂上に立ち、ある時はサーフィンをして、ある時はバッターボックスに立ち、、ある時は英雄となり、ある時はトロを食べる。ある時は太郎となり、ある時は雷となる。

    この有る時が○○であるという文章を、時間は存在であり、存在は時間であると訳すと時間=存在となり、t=xとなり、1=cとなり、vが一定なのは光cだけですから、有時とは光だけとなります。

    しかし、道元はすべての存在が時であると言っているのですからこの解釈は間違いです。

    有と時はセパレートできる関係ではなく、相互に浸透していると考えます。ですから有*時です。

     
    時  ⇔  有(存在)
    ーーーーーーーーーー
    ある時*富士山の頂上
    ある時*サーフィン
    ある時*英雄
    ある時*バッターボックス
    ある時*トロ
    ある時*太郎
    ある時*雷

    と解釈します。

    一般化すると

    有時=x1*t1=x2*t2=,,,=xn*tn
    です。

    xn*tn=有事=1とすると
    xn*tn=1

    ですが、任意の場合でも成り立つので

    x*t=1
    t=1/x

    となり

    x(1/x)=1

    となります。

    なんと有時はメビウス変換の事を言っていたのです。

    この式を応用して、道元の難しいテキストを理解してみましょう。簡単に理解できれば、大発見を証明したことになります。


    有時とは至ることは到ることに覆い尽くされ、到らないことには覆い尽くされない。到らないことは到らないことに覆い尽くされ、到ることには覆い尽くされない。

    かなり難しい文章ですが、ここには仏道の基本的概念が含まれています。そこで、意訳すると、

    目的達成と未達は互いに邪魔することなく、常に両立すると解釈できます。ですから

    達成=達成
    未達=未達

    であり、両辺を掛けると

    達成*未達=達成*未達

    なので

    達成*未達=1
    未達=1/達成
    x(1/x)=1

    となります。

    更に、道元は言います。

    心は心を覆い尽くし、心の他のなにものでもない。

    心=心
    心にないもの=心にないもの

    従って

    心(心でないもの)=1
    x(1/x)=1

    更に道元は言います。

    言葉は言葉を覆い尽くし、言葉のほかの何者でもない。

    言葉(言葉でないもの)=1
    x/(1/x)=1


    更に道元は言います。

    我が人に会い、人が人に会い、我が我に会い、出ることが出ることに会うことと同じである。これらのことがすべて時でないでないならば、そのようなことは起らない。

    我(人)=人(他の人)=我(我の中の他人)=出る(出ない)=有時=1

    x(1/x)=1
    xt=1
    x=1/t

    超難解と言われる道元のテキストを数学することで、簡単に理解できるようになったと思いますが、皆さんは如何ですか。

    重要なことは

    x=1/t

    のような式は自然言語でいくら考えても出てこないということです。

    道元はどのようにこのような発想を得たのでしょうか。それは仏教の神髄である

    色即是空・空即是色

    にヒントがあります。道元はこの逆説的表現に着目して、二つに分解したのです。

    色=空
    空=色

    です。

    しかし、常識的な発想では、色は色である、ないもの(空)はない(空)ですから、

    色=色(ある)
    空=空(ない)

    です。普通ではここから先には進めないのですが、

    二つを掛けて

    色空=空色=1

    として

    色即是空・空即是色

    に再構成したのです。

    つまり、仏教の神髄とは逆説=メビウス構造だということですね。

    又、仏教では悟りとは「今・ここ」の心(平常心)ですので、

    ここにもメビウスが隠れていることを、道元は発見したのです。

    今・ここ=平常心=悟り=1
    今=1/ここ

    であり、今は時、ここは存在するものがある場所ですので、有です。

    今ここ=有時=1

    です。

    一方で、色空=1ですから、空=1/色として

    1/色は存在の否定ですから存在しないということですが、今ここの刹那に於いて存在しているということが言えます。

    従って、

    ここに存在するモノ*刹那の時=1(悟り)
    色*空=1

    色=存在=有
    空=時(刹那の時)

    ということになります。

    平常心の悟り

    ここ今=1

    と、色即是空の逆説から

    色空=1

    の両方から、ここに存在するモノは有であり、刹那の時(今)は空であり、

    有時=1

    と結論付けたのだと思います。

    道元は数学者ではなかったのですが、瞑想によって、メビウス的逆説的構造に気が付き、そこから数学的な構造を自然言語で何とか表現したので、訳の分からない超難解テキストになってしまったのだと思います。

    多くの道元の解説は堂々巡りばかりで、何を言っているのかが分からないのはメビウス構造が隠れていることに解説者が気がつかないからだと思います。

    それに気が付けば、こんなに単純な式で表現できるのです。


    道元が数学的素養がないにもかかわらず、メビウス構造を自然言語で表現できたことは驚くべきことです。それは道元の脳が宇宙の数学的なメビウス構造と共振し、テキストとして反映したということです。このテキストがその証拠になるでしょう。

    以下、精神革命の臨床をご賞味ください。


    2017年04月23日(日)9 tweets
    source

    9時間前

    森のように深い@fractaleman74
    道元の有時がメビウス変換なら、
    xt=1
    t=1/x
    から
    今(t=0)はここ(x=∞)となる。
    つまり悟りとはテレポートである。
    これは重大な発見である。
    posted at 23:35:41

    10時間前

    森のように深い@fractaleman74
    道元の有時はメビウス変換である。
    有時=今ここ=一定である。
    xt=1
    x=1/t
    x(1/x)=1だから自己同一性である。
    posted at 22:46:55

    10時間前

    森のように深い@fractaleman74
    今ここ⁼平常心を数学するとどうなるだろうか。平常心とは揺らがないということである。つまり一定である。だから、今ここ=一定である。それをxt=1としてみる。x=1/tとなる。なんとメビウス変換である。x(1/x)=1だから自己同一性である。
    posted at 22:43:24

    10時間前

    森のように深い@fractaleman74
    今の延長に未来があるから不安がうまれる。それを避けたいのが仏教である。だとすると「今=ここ」の解釈は間違いである。「今ここ」は有時であり苦を取り除くロジックである。だとするとx=tでは駄目である。今ここが悟りでなければならない。悟りとは平常心である。今ここ⁼平常心である。
    posted at 22:38:38

    10時間前

    森のように深い@fractaleman74
    「今ここ」を数学してみよう。今=t、ここ=xである。「今=ここ」と解釈するなら、x=tである。風呂に入っている時は今ここである。そんなことを道元は有時といったのだろうか。x=atとすると、x/t=a=vとなり物理と同じことになる。これはおかしい。
    posted at 22:33:27

    10時間前

    森のように深い@fractaleman74
    有時を数学できるだろうか。仏教では今ここが重要である。未来に思いを馳せると不安が生まれ、過去は後悔ばかりである。だから、それから解放されるためには「今ここ」に心を停留すべきということになる。これは微分思考である。
    posted at 22:22:38

    10時間前

    森のように深い@fractaleman74
    道元の有時を岡潔は運動は過ぎゆく記憶は時であると言った。ここまでは素晴らしい。しかし数学者である岡潔がこれを数学できなかった。岡潔は仏教を重要視していたのだから有時を数学するべきだったのである。しかし、そうしなかった。その大きな原因は岡潔にトポロジー的発想がなかったからである。
    posted at 22:18:06

    11時間前

    森のように深い@fractaleman74
    何かをする何かが存在する。この何かを存在とすると存在する時である。風呂に入る時は私が風呂に入る時である。だから私は時である。存在とは有限の存在である。だから存在は有である。だから有時である。このような論理を組み立てたのが道元である。
    posted at 22:09:37

    11時間前

    森のように深い@fractaleman74
    時間とは何か。これほど定義するのが難しいものはない。なんとなくは分かるが見るこことができないから説明が難しかしい。しかし、風呂に入る時に数を数えることが時間だというなら合点が行く。風呂に入る時は風呂の時である。風呂を一般化すると、何かをする時である。当然何かをする何かが存在する。


    尚、時は存在するが時間は存在ないことへの反論はこちら
    http://twilog.org/fractaleman74/date-170422

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  • from: 生成門さん

    2017年04月08日 20時32分23秒

    icon

    神の存在証明

    ツイッターに反応があるとこっちが疎かになりますね。
    それもまた精神の為せる技です。それが神との関係になってきました。

    https://twitter.com/fractaleman74
    http://twilog.org/fractaleman74

    2017年04月08日(土)16 tweets
    source

    9時間前

    森のように深い@fractaleman74
    何故、不確定が確定になるのだろうか。裁判なら有罪が無罪になるようなものである。それほどショッキングな事件なのにこのことに気が付いている人はいない。アカデミズムは無視を決め込んでいる。それはこれを認めることは屋台骨が揺らぐどころか崩壊するからである。
    posted at 11:14:47

    9時間前

    森のように深い@fractaleman74
    次に神が存在するとことを証明したのが確定性原理である。もちろん最初はこれが神の存在を証明する原理だとは誰も思ってはいない。むしろ神が存在しないことを証明したようなものである。何故なら、公式には確定性原理は不確定性原理と言われているからである。不確定を確定にしたのがS科学である。
    posted at 11:11:23

    9時間前

    森のように深い@fractaleman74
    神の全知性は至るところに現れている。そしてその恩嘉を受けている。そのもっとも身近な存在が光である。光はどこに行くとしても最小時間で行く。決して無駄な時間を過ごすことはない。これを物理ではフェルマーの原理という。物理は知らず知らずに神を利用しているのである。だから神は存在している。
    posted at 11:06:48

    9時間前

    森のように深い@fractaleman74
    それに対してS科学は既存の科学に対して反旗を翻す。神は全知であるが全能なんかではない。だから全知の神を科学が取り込めば、奇跡なんかに頼らなくても悪(正のエントロピー)に立ち向かえるのであるとS科学は主張する。
    posted at 11:00:20

    9時間前

    森のように深い@fractaleman74
    神が全能でないということの理由は、悪が蔓延っているからである。悪とは人間の悪行のことではない。自然の悪である。科学はこれを無秩序化の方向性への流れ、つまり、エントロピーの増大則という。神が全能ならこんな法則はあってはならない。だから科学は神を冒涜してきたのである。
    posted at 10:53:53

    9時間前

    森のように深い@fractaleman74
    神から全能性を取り上げてしまうとどうなるかである。そうなると科学の軍門に下るということである。従来の科学は神とは一線を引いてきたがS科学はその垣根を取り払って科学によって神の存在を証明してしまった。
    posted at 10:40:47

    9時間前

    森のように深い@fractaleman74
    キリストサイトは神の存在をこれまで証明できなかった。卑怯な背理法によってしかできていない。ところがS科学は神の存在を正面から証明してくれた。その点有り難いことだろう。しかし、だからと言ってキリストサイトは安心してはいけない。全能性を切り捨てたからだ。これは神の冒涜だろう。
    posted at 10:37:08

    9時間前

    森のように深い@fractaleman74
    神は全知であって全能ではないということをキリストサイトは受け入れられるのだろうか。神のエージェントたちが裏切ったのだと言っても言い訳にしか聞こえない。神の復活を願う気持ちはわかるが全能ならそんなことはすでに起きていなければならないし、十字架自体が全能でないことを証明したのである。
    posted at 10:33:01

    10時間前

    森のように深い@fractaleman74
    ケージの無の音楽は離散的カオスを音楽にしたのかも知れませんし、記憶(エーテル)を視覚化したとも言えます。禅の悟り表現したという解釈もできます。とにかく何でもありです。4分33秒=273秒からこの作品を絶対零度=無の音楽だという解釈も出てくる始末です。当たっているかも。 https://twitter.com/zerozeromugen/status/850358347983233025...
    posted at 10:18:32

    10時間前

    森のように深い@fractaleman74
    感覚的表現では全くいいも悪いも何も言えません。はあ、そうですかというしかありません。ただ、キノコの科学者ケージの音楽(無音の音楽4分33秒)は有名ですね。これなら多くを語れますよ。 https://twitter.com/zerozeromugen/status/850358347983233025...
    posted at 10:10:20

    10時間前

    森のように深い@fractaleman74
    不完全性定理は自滅を担保していますね。その自滅を自滅させたのがS科学ですね。面白いですね。天に唾。ブーメランです。 https://twitter.com/zerozeromugen/status/850343274439000064...
    posted at 10:04:54

    10時間前

    森のように深い@fractaleman74
    記憶科学は記憶生むためには三点が必要だと言っています。それを私はピタゴラスの定理で証明しました。S科学(佐野氏)はフェルマーの最終定理(ピタゴラスの拡張版)でエーテルの存在を証明しています。既に神の存在証明(確定性原理)は終わっていますので、これで三つとも同列に並びましてね。 https://twitter.com/zerozeromugen/status/850341613414961152...
    posted at 10:02:50

    10時間前

    森のように深い@fractaleman74
    佐野氏は仏教よりキリストの方が好きの様ですよ。キリストの主張を正当化するのに取り込んでみたら如何でしょうか。後で、どんでん返しが待っているかもしれませんが。 https://twitter.com/zerozeromugen/status/850339987153276928...
    posted at 09:57:12

    10時間前

    森のように深い@fractaleman74
    三点目は目は見えないというのですね。見えないけど存在するなら直角三角形ですね。各辺の面積は1+1=√2^2=2となり、√2は見えませんが間違いなくピタゴラスの定理として証明できます。これを記憶の定理とする第三項が必要だと言えます。面白い考察となりました。発展できるかもしれません。 https://twitter.com/NaomikiSato/status/850322878495109121...
    posted at 09:54:42

    10時間前

    森のように深い@fractaleman74
    3点目の具体的事例をお願いします。それと二人称の入れ子もです。観測できる現象としてどんなものがあるのでしょうか。観測できないとしても結構です。 https://twitter.com/NaomikiSato/status/850316584325439488...
    posted at 09:36:09

    10時間前

    森のように深い@fractaleman74
    単振動は単独では存在できないので集合します。その基本が対ですね。NSのようになれば中和の離散的カオスの状態となります。物体は単振動の集合体で固有の振動数を持ちますがその物体が二つ接近すると二人称となり共振します。記憶を刻印と喚起とするとどうしても二人称でないといけないですね。 https://twitter.com/NaomikiSato/status/850305607492136962...
    posted at 09:31:06

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  • from: 生成門さん

    2017年04月01日 00時17分25秒

    icon

    自己同一性(アイデンティティー)の数式の表現

    自己同一性を数式で表現するとどうなるでしょうか。これまでこんなことに挑戦した人はいないでしょう。

    西田幾太郎は絶対矛盾的自己同一性という呪文のようなテキストを残しましたが、内容は仏教(禅論理)の即非論理を言い換えただけです。

    絶対矛盾的自己同一性は西洋の自己同一性とは違います。違いを差異化するために、西田幾太郎は絶対矛盾的自己同一性とわざと難しく表現したのです。

    西洋の自己同一性は私は私であり、私でなければ私ではないという極めて当たり前の論理です。

    ところが東洋には私は私であり、私は私ではないという論理があるのです。それを

    よくよく考えて見ると、私は私であり、私は私ではないというのは当たり前のことです。昨日の私と今日に私は同じではありません。しかし、私は私です。このことを東洋では西洋の頑なな自己同一の論理と対峙してきたのです。

    ただ、西洋の自己同一性は論理として扱うのは簡単です。その反対に東洋の即非は表現が難しいのです。



    2017年03月30日(木)59 tweets
    source

    21時間前

    森のように深い@fractaleman74
    ただ、注意すべきことはそれが定数なら良いですが、変数の場合は危険です。文脈において、変わらないと見做せるかどうかの判断が付きまといますね。
    GMm/r^v1=-GMm/r^*v2では1/r^2v1=-1/r^2v2はいけますね。rまで消してしまうと実も蓋もありませんが。 https://twitter.com/MrDzeromugen/status/847443033268211712...
    posted at 23:47:33

    21時間前

    森のように深い@fractaleman74
    まあしかし定数なのですから3.14を1にしても大したことはないでしょう。中学ではπは3と教えるようですね。2πr=2*3*1=6,2πr=2*1*1=2となって違いが目立ちますがmv2π=hではどうでしょうか。どうせ定数なのでmv=1としたところで計算しなければ支障はないですね。 https://twitter.com/MrDzeromugen/status/847443033268211712...
    posted at 23:34:01

    22時間前

    森のように深い@fractaleman74
    プランク単位系(真単位系)では片っ端から1にしますね。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E5%8D%98%E4%BD%8D%E7%B3%BB...
    だからと言って、単位は無視できませんからどこかにしわ寄せが行きますね。E=mc^2=mって感じです。しかし、数値計算する時はちゃんと元に戻します。 https://twitter.com/MrDzeromugen/status/847443033268211712...
    posted at 23:21:54

    22時間前

    森のように深い@fractaleman74
    私のそう考えたのですが、そうだと困ることがあります。正の世界では陽子と電子と観測され、負の世界ではSNなんですね。ですから(e+,e-)Fv==Fv(N,S)ですね。表では電子又は陽電子、裏ではSモノ又はNモノとなるのです。だからモノポールは発見できないというわけですね。 https://twitter.com/MrDzeromugen/status/847438057133318144...
    posted at 23:14:51

    22時間前

    森のように深い@fractaleman74
    そのことについては同感です。佐野氏はそれは意識しているようですね。断片的な言い方では正確にならないと考えているようです。だから長いテキストになるのですね。性格的なこともあると思いますが。 https://twitter.com/MrDzeromugen/status/847436306175086592...
    posted at 23:08:06

    22時間前

    森のように深い@fractaleman74
    こっちですかね。
    http://ameblo.jp/allahakbar231/entry-11282539367.html... https://twitter.com/MrDzeromugen/status/847435020373417984...
    posted at 23:05:35

    22時間前

    森のように深い@fractaleman74
    ソレノイドを使った図が一番、素粒子の構造をイメージしやすいのではないでしょうか。電子(電流)がモデルですが、ここからSの単極磁石(モノポール)の素量子(ネジ)をイメージするしかありませんね。正の世界ではe+やe-のFv、負の世界ではNやSの-Fvとなるのでは? https://twitter.com/MrDzeromugen/status/847431536328679427...
    posted at 23:03:23

    23時間前

    森のように深い@fractaleman74
    Fvがベクトルということは、Fとvの方向に垂直な方向があるということです。だから右ネジになるのですね。これを電子に当て嵌めます。電流が作る磁場ですね。先ずイメージしてください。http://wakariyasui.sakura.ne.jp/p/elec/ryuujiba/ryuujiba.html... https://twitter.com/MrDzeromugen/status/847431536328679427...
    posted at 22:28:52

    23時間前

    森のように深い@fractaleman74
    二つのベクトルの内積はスカラーですが、外積はベクトルです。Fvはベクトルなのですね。外積はゲームなどでも使われています。http://marupeke296.com/COL_Basic_No1_InnerAndOuterProduct.html... https://twitter.com/MrDzeromugen/status/847431536328679427...
    posted at 22:23:55

    23時間前

    森のように深い@fractaleman74
    動的作用反作用はFvですので、二つのベクトルの積です。ベクトルの積には二つあって内積と外積です。内積は簡単ですが外積は難しいのですが、簡単に言えばネジです。右ネジの法則ですね。ニュートン自身ネジから発想したと言っていますから、シュートンも外積を意識していたと思われます。 https://twitter.com/MrDzeromugen/status/847431536328679427...
    posted at 22:16:36

    23時間前

    森のように深い@fractaleman74
    いたるところにありますが、この辺が適当でしょう。
    http://ameblo.jp/ameba20091/entry-12232964577.html... https://twitter.com/MrDzeromugen/status/847428416953434112...
    posted at 22:01:55

    23時間前

    森のように深い@fractaleman74
    S科学は量子論のように次から次にいろんな粒子を登場させて、しまいには素粒子動物園と揶揄されるようなことはないでしょう。 https://twitter.com/MrDzeromugen/status/847428264771543041...
    posted at 22:00:53

    23時間前

    森のように深い@fractaleman74
    真空はNとSのモノポール(素量子)の対です。Nは二つのエーテルの糸(右回りと右回り)でSは左回りと右回りでできています。確定的なことは言えませんがこの糸は磁力線だと思います。S科学は磁気ファーストなのでまず間違いないでしょう。 https://twitter.com/MrDzeromugen/status/847428264771543041...
    posted at 21:59:46

    23時間前

    森のように深い@fractaleman74
    真空の揺らぎが大きくなるとプレートの地震の様に外に飛び出してきます。ですから真空のエーテルと同じです。ただ、対の状態が解けただけです。それを私達は電子と陽電子として観測しているのです。勿論磁力線は見えないけれども存在しているのです。電気と磁気の現象として観測しているわけですね。 https://twitter.com/MrDzeromugen/status/847423823976648705...
    posted at 21:46:12

    23時間前

    森のように深い@fractaleman74
    真空の中ではSとNが対を為して0磁場を形成しています。地球のプレートが釣り合っているような状態です。しかしそれは絶えず揺らいでいます。そのような真空はSNのエーテルで絡まっています。 https://twitter.com/MrDzeromugen/status/847423823976648705...
    posted at 21:43:34

    3月30日

    森のように深い@fractaleman74
    電子と陽電子の対は正の世界、つまり、人間の視点で見た真空である。本当の真空はNとSのモノポール、つまり、NとSのエーテルの対である。だから真空とはエーテルであると言える。
    posted at 21:12:21

    3月30日

    森のように深い@fractaleman74
    記憶や精神世界を語るなら、何もない所から語るべきである。宇宙の始まりは何もない真空からスータトした。そして記憶が進化して言語を操る人間を出現させた。その最初の真空とは何か。ありていに言えば電子と陽電子の対であるが、それはまだ真相の半分しか言っていない。
    posted at 20:56:02

    3月30日

    森のように深い@fractaleman74
    真空からすべてが始まる。真空とはNSの対で0地場である。正の世界ではNとSは電子と陽電子になり、物質内では双極単石になる。しかし実体はモノポールである。そしてその正体はエーテルである。
    posted at 20:49:50

    3月30日

    森のように深い@fractaleman74
    今の段階では磁力線です。他のエーテル論者は物質波としています。最終的には磁気波、物質波、電磁波、重力波は形を変えたエーテルだということになると思います。真空はS(e-)とN(e+)の対の0磁場になります。正の世界に出てきた陽電子N(e+)電子S(e-)の対は真空ではありません。 https://twitter.com/MrDzeromugen/status/847380898068680706...
    posted at 20:42:43

    3月30日

    森のように深い@fractaleman74
    Nモノポールは右廻りに質量エーテルの糸が巻き付いている。その周りには右回りのエーテルが巻き付いている。
    N:内右◎外右。これがNモノポールである。
    そして、正の誘電率・正の透磁率の世界では、これを陽電子という。
    posted at 20:19:44

    3月30日

    森のように深い@fractaleman74
    Sモノポールは左廻りにエーテルの糸が巻き付いている。その周りには右回りのエーテルが巻き付いている。
    S:内左◎外右。これがSモノポールである。
    そして、正の誘電率・正の透磁率の世界では、これは電子である。
    posted at 14:43:41

    3月30日

    森のように深い@fractaleman74
    モノポールは螺旋状に渦を巻いている。問題はどっちの巻きかである。螺旋には限らず回転には右と左かあり、Sモノポールは左巻きである。エーテルの糸が蜷をなしているのである。そしてそれが質量となる。
    posted at 14:27:35

    3月30日

    森のように深い@fractaleman74
    右手の法則
    http://wakariyasui.sakura.ne.jp/p/elec/ryuujiba/ryuujiba.html...
    右ネジの法則でもある。モノポールは磁気エーテルのメビウス学である。だから右手の法則を徹底して理解しておく必要がある。右廻りか左回りかで世界が反転する。これが頭を混乱させるのである。
    posted at 14:19:49

    3月30日

    森のように深い@fractaleman74
    メモとして残しておきます。
    大*(1/大)=1
    1=1
    大*小=大*0=0(間違い)
    小*(1/小)=1
    1=1
    小*大=0*大=0(間違い) https://twitter.com/MrDzeromugen/status/847304527208366080...
    posted at 14:00:38

    3月30日

    森のように深い@fractaleman74
    イメージとしてこっちも良いですね。
    http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/2607/SPR/SprlAB.htm... https://twitter.com/MrDzeromugen/status/847299008175284225...
    posted at 13:43:45

    3月30日

    森のように深い@fractaleman74
    うまくいっていますね。これが自動翻訳ですか。 https://twitter.com/MrDzeromugen/status/847298521900269570...
    posted at 13:41:59

    3月30日

    森のように深い@fractaleman74
    何ですかこれ。
    2n-1=m
    とすると
    Fmvm=Fm+1vm+1
    Fm/Fm+1=1
    vm+1/vm=1
    n=1とすると
    F1v1=F3v3
    なるほですね。奇数を取る時はこれでよいですね。 https://twitter.com/MrDzeromugen/status/847298008429379588...
    posted at 13:37:42

    3月30日

    森のように深い@fractaleman74
    そうです。
    0.0000,,,,1(1/0.0000,,,,1)=1
    1=1
    ですね。これを
    0*∞=0としたくなりますよね。

    10^100(1/10^100)=1
    1=1
    しかし、
    ∞*1/∞=∞*0=0
    としたくなりますよね。
    これはやめましょうということです。 https://twitter.com/MrDzeromugen/status/847295933247143943...
    posted at 13:26:25

    3月30日

    森のように深い@fractaleman74
    Fv=1なんですから問題ないですよね。 https://twitter.com/MrDzeromugen/status/847294174160338944...
    posted at 13:16:01

    3月30日

    森のように深い@fractaleman74
    螺旋ですね。ソレノイド風に渦巻き、更に蛇のように尻尾を追いかける感じですね。 https://twitter.com/MrDzeromugen/status/847292144041639937...
    posted at 13:02:59

    3月30日

    森のように深い@fractaleman74
    N,Sは磁石の方位です。N極(north)、S極(south)ですね。
    棒磁石は二極(双極)なので、
    N----Sですが、陽子は三極子なので
    N▽N
    S
    です。 https://twitter.com/MrDzeromugen/status/847287983803777026...
    posted at 12:57:41

    3月30日

    森のように深い@fractaleman74
    x(1/x)=1
    x→∞と1/x→0が同時ということは、心が外に向けば、内なる心は空に向かうということです。良く経験しませんか。心ここに非ざる。 https://twitter.com/MrDzeromugen/status/847277417777332225...
    posted at 12:50:42

    3月30日

    森のように深い@fractaleman74
    x(1/x)=-x(1/x)=x(1/x)=
    1⇒-1⇒1⇒
    メビウス構造(帯)を縦貫している様子がイメージできますね。
    メビウスの重要性はxと1/xが同時に置き、1⇒-1⇒は交互だということです。 https://twitter.com/MrDzeromugen/status/847277417777332225...
    posted at 12:48:12

    3月30日

    森のように深い@fractaleman74
    元の式
    F1v1=-F2v2

    1=-1
    なのですから
    -x(1/x)=1
    になります。
    F1v1=-F2v2=F3v3=
    として奇数だけでやると
    x(1/x)=1となります。
    逆に言えば、
    1=-1は正=負=正の循環を意味しているのですね。 https://twitter.com/MrDzeromugen/status/847277417777332225...
    posted at 12:41:07

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