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シムダンス「四次元能」

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  • from: 生成門さん

    2008年06月30日 15時05分13秒

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    二人のシムダンスパートナー



    図の引用先:http://www.d-b.ne.jp/exist/ 


    二人のシムダンスパートナー

    シムダンスとは四次元能であり、共生・共振の生成の舞、有時(うじ)の能です。四次元能は「脳の中の能」であり、自己変革の能=自分能です。自分能とは自分固有の有時の体験なのです。自分能を媒介にして世界能のまで持っていくのが四次元能の狙いであり、温暖化防止、シムピープルの輩出、四次元経営革新などを目指しています。四次元能にはシム方程式という万能世界解釈のシナリオがあり、生成門がプロデュースしています。

    四次元には必ず二つの経路があり、直行し交差し、反転し閉じているのです。そこで、ここから共生・共振の生成の序の舞として二人のシテ(シムダンスパートナー)を登場させます。方や四次元を扱っている先端の宇宙論と量子論の観点のティトムであり、もう一方は、即非的思考=仏教という東洋の英知=道元です。この二つを二重螺旋のように絡ませて、共生共振させたいとおもいます。

    シムダンスパートナー1=道元

    シムダンスパートナー1は東洋の英知を代表してかつ四次元も関係している仏教の系譜=道元です。禅論理(即非)は近代的自我を解体するための強力な四次元の兵器になるでしょう。

    シムダンスパートナー2=ティトム

    もう一方のシムダンスパートナーは、先端の宇宙論と量子論を駆使して四次元イメージを示してくれる独特の<ティトム球理論>です。

    ティトムは理論の名前ですが、理論を構想したのはfatacy氏(略してf)です。f氏は自分のHP「宇宙のすべてがあなたの大脳を造りました」のブロガーです。下記を参照して下さい。今後はf氏=ティトムとして擬人化して使っていきます。

    http://momloveu.com/titom-j/index.htm

    f氏は定常宇宙論者という立場で、ティトム球理論を展開しています。ハッブル望遠鏡が伝えてくれる映像を基にして四次元的宇宙像を提示しているのです。

    さて、これより道元とティトムの共演の始まりです。先ずは道元から入って行きます。

    道元のテキストは正直言って難解です。ですから、ナビゲーターの岩田慶治氏にも登場してもらいましょう。彼の著書「道元の見た宇宙」を理解して、なんとか悟りのイメージを掴み、あわよくば四次元へ、の扉を開けられたら幸いです。まず道元の著書「正法眼蔵」を読むということから始めます。正法眼蔵は思想詩ともいわれ難解中の難物です。しかし、これを四次元的世界の表現であると仮説すれば、理解でできるかも知れないでしょう。四次元的世界の表現とは右脳優位の述語論理です。当然、三段論法的ではありません。ですから、時間空間についての常識は通じないのです。この当時は天文学も、素粒子論もなかった時代ですから、道元の見た宇宙といっても、そのメタファーは地球的規模のものでしかありません。だからどうしても読む側が自分の狭い領域で関係づけてしまい、形式論理、主語論理で読んでしまうのです。ですからますます分けが分からなくなるのです。

    禅では生死について悟ることが人生最大の課題としています。生死一如=(生=死)ですから四次元のクラインの壷の喩えが効くのです。クラインの壷は表と裏が反転して境がありません。ですから、生死一如なのです。それを禅問答に置換したり、「薪が燃えても灰にならない」という喩えを使って説明するのですが、どうも理解が出来ません。何か物足りない気がします。もっと良い言い方がないのでしょうか。例えば、生きている時は生の時であり、死は生の裏に隠れている。細胞は生と共に死んでいる。つまり新陳代謝がある。人類も栄枯盛衰を繰返してきた。だから、生の後に死はこない。と言ったところで、どこが四次元なのか理解できないでしょう。

    それよりは人は死ぬことが宿命であるが、当人は死を体験出来ない。死につつ有る時も生である。死んではいない。体験できるのは生のみであり、死ではない。体験できるのは死ぬかも知れないという死に対する恐れである。心配である。要するに苦とは死の予想である。これが道元の言いたいことなのでしょうか。だから、「生の死とはいわない」し、「春の夏とはいわない」のでしょうか。これを一時の位、有時といいます。

    これらは死に対する苦から解放されるための方便です。死の予想をしないということです。予想とは因果です。三段論法です。時間が直線的に進むことを前提にした常識的な推理です。この推理はどこも間違っていません。しかし、これが苦をもたらすのです。ですから因果を断ち切れというのです。そのために瞑想をするのです。

    時間の習俗となっている凡人に因果を断てといっても、それが常識なのですから捨てられないのです。再三いうように、道元は口を酸っぱくして「捨てろ」というのです。悟りを得たいのなら捨てなければならないのです。しかし、この程度のことならば道元でなくても現代人は誰でも言います。スポーツの世界でも、結果を恐れるなといいます。結果を考えてしまうと力を発揮出来なくなるからです。ですから原因と結果を結びつけない、因果を断てというのです。

    この程度のことならば何も道元を持ってくることはないでしょう。まして、捨てるといっても捨てたままでは生きていけないでしょう。捨てたままでは俗世間では生活出来なくなってしまい、廃人になってしまいます。それじゃ困るのです。

    道元のテキストもすべて形式論理、主語論理を捨てているかというそうではないのです。要するに混在しているのです。ですから尚更、こんがらかってしまうのです。道元の言わんとすることは、もっと奥が深いのでしょう。悟りには段階があるのでしょう。そう期待していきましょう。それが期待外れに終わったとしても臨床だからやりなおせるでしょう。道元がいまの時代に生きていてハッブル望遠鏡や宇宙探査船が伝える映像を見たら、もっと分かりやすいイメージで迫力のある悟りの内容を伝えてくれたかも知れないと思うのです。

    確かにハッブル望遠鏡が伝えてくれる素晴らしい映像には、その見えない裏側には四次元的世界があると思わせるものがあります。見えないものの裏には、何かが隠されていると思いたくなります。見えないものを見ようとしたのは仏教の独断場です。それは無意識の発見に端的に現れていると思います。独断場とは言いすぎでした。プラトンもそうでした。

    釈迦にせよプラトンにせよ、残念ながら、当時はまだ宇宙のイメージは太陽を中心とした程度のものだったでしょうから、クエーサーのようなジェットを吹き出す様子など想像もつかなかったでしょう。それでも、さすがに先人の仏達には想像力のある人がいたようです。曼陀羅のような入れ子の構造の世界を想像したのですから大変なものです。これは現在の宇宙像に相似しているのです。しかし、如何に想像力が逞しかったとしても、限られた情報で想像しようとすると虚構に虚構を重ねることになり、無理をするとオカルト的にならざるを得なくなるという限界やリスクもあったのでしょう。従って、仏教界の想像はそこでとどまっているのは、その証拠だと思います。道元は自力で宇宙観を拡大したのですが、それも言葉の限界でとどまってしまった感があります。やはり瞑想には四次元のイメージが必要なのです。四次元のイメージで重要なのは『クラインの壷』です。これから度々出てくるでしょう。このクラインの壷を使えば、道元の「春は夏にならない」という意味が簡単に分ります。春は夏になるのは主語論理=因果です。春が過ぎれば夏になると言う時間の経過があります。三次元の世界では春と夏は同時には存在できません。春と春、夏は夏なのです。これが自己同一性です。一方、春は夏にならないというのは四次元世界のことです。四次元世界では裏と表が繋がっています。裏は表なのです。春は夏なのです。春=夏なのですから、「春は夏にならない」のです。これは三次元の経過する時間とは違うのです。有る時=有時です。つまり、表と裏は共に固有の有時という時間回廊で繋がっているのです。共に在る有時=春の固有の時間=夏の固有の時間なのです。共に在る有時=時間が述語なのです。述語の共通性をもって同一視するのです。これが述語論理です。春と夏は共に存在するのですから、春=夏であり、「春は夏にならない」のです。クラインの壷は直線ではないのです。確かに直線部分はありますが、その周りを回転する渦で巻かれています。木に絡みつく蔓です。木と蔓が交差しながら反転するダンスをしているのです。

    シムダンスはクラインの壷のような二つの経路を持つ四次元ダンスなのです。ですからシムダンスは道元の宇宙を縦糸としてティトム球理論を横糸として、織り込んでみるのです。縦糸と横糸は平面ではありません。遺伝子のように二つの糸を螺旋的に絡みあうのです。

    シムダンスは脳の中の能=序破急成就の四次元能です。脳の中の能とは脳を宇宙と見立てる脳大転換工事であり、四次元を捜し求めて精神の旅をするトレジャーハンティングでもあります。能であれば序破急成就=脳大転換工事成功するための「秘すれば花」、つまり、成功の奥義=風姿花伝がなければならないでしょう。この成功の奥義=風姿花伝が「シムダイアグラム」なのです。シムダイアグラムとは瞑想のことです。瞑想といっても所謂単なるヨーガ的瞑想ではありません。四次元瞑想です。四次元ですから二つの瞑想が絡みます。それは道元禅の瞑想とインターネット禅の瞑想です。詳しくはいずれ明らかにします。

    シムダンスは、道元とティトムの二つのテキストに沿って、独自の解釈を加えつつ、二つの瞑想を織り交ぜながら進んでいきます。クラインの壷ですので、一つのテキストだけの解釈をしないのです。その中でもシムダイアグラムは、四次元脳への転換成功の奥義=風姿花伝であり、四次元能を成功させるための生成瞑想の手法です。シムダイアグラムは、述語的思考の瞑想のツールであり、揺らぎによる自己生成でもあります。想像的創造=瞑想です。自我を解体するために瞑想が応用されるのです。

    四次元脳の転換するシムダイアグラムを最大に利用していきますので、読み手は注意しなければなりません。この四次元能はティトム球理論を紹介することを目的としてはいないのです。あくまでも生成です。単純な引用ではないのです。ティトムのテキストに沿って展開はしていますが、そっくりそのままではありません。当方の独自の考え方に基づいて編集をしているのです。従って、ティトムの考え方と齟齬が生じたらその責任は当方にあります。又、ティトムのオリジナルテキストを引用している場合も、それを引用しているテキストに対して「 」をつけることなどをしていません。ときどきは「ティトムではこういっている」と引用を明確にしている時もありますが、それなしでそのまま引用している場合もあります。ですから、シムダンス風の語りとティトムないしfatacy氏の文脈が混同しているので、読者は主語がどっちか分からなくなってしまうでしょう。主語のない文章であるといってもいいでしょう。主語がないということは自己の同一がないということでもあります。つまり、このブログを投稿するということその行為がシムダイアグラムなのです。自我の解体という臨床的なのです。そういうことなので、ことわりをしておきます。副題として「ティトム球理論との共振シリーズ」としたテキスト全体は氏からの引用と編集です。従って、間に挿入される生成門の解釈を区別していません。もし、ティトム球理論を正確に知りたい人は、fatacy氏のHPを参考にして下さい。

    このシムダンスでは生成門が何を言わんとしているのかという問いを発することを無意味にしているのです。主語を問うことは石油文明が辿ってしまった自我同一化の傾向と同じ轍を踏むことになるのです。シムダイアグラムをすることです。シムダイアグラム的読み方とは、ここで述べていることを主語的に解釈するのではなく、仮説を立ててこちらに引き寄せるのです。述語的に解釈するのです。述語的に解釈するというのは、自分が考えていることとここに述べていることの共通項を設定して、それを探り出すのです。例えば、悟りとは四次元である。宇宙とは四次元である。よって宇宙は悟りである。このように設定すれば、道元とティトム球理論が四次元で述語的等価となるのです。これにより四次元が理解できれば、悟りが得られるかもしれないし、ティトム球理論によってシムダイアグラムの方法論を進化させることができるかもしれないのです。それが目標であり、期待です。

    次からは精神の宝探しのつもりで、オデッセイ1から25までを地図として、ヒントとして、順番に追掛けていきます。
    それでは宇宙精神のトレジャーハンティングの冒険、シムダンスの舞い始まり四次元能の実質的開演です。

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