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  • from: 生成門さん

    2008年07月18日 15時25分11秒

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    道元の悟り(1)

    引用先:http://www.d-b.ne.jp/exist/

    道元の悟り(1)
    <補完共振>

    補完共振とは、道元とティトムの四次元能を補足するためのシムダンスです。以下、山水庵のHPを参照、編集的引用をしていきます。

    http://www.eonet.ne.jp/~sansuian/index.html

    悟りには、二つの概念あります。インド的「悟り」と中国的「悟り」です。インドの悟りはブッダの悟りであり、「菩提」です。この菩提とは、体験(苦行による特種体験、臨死体験等)ではなく、状態(身体に現れ出る、眼は口程に物をいう等)です。菩提は涅槃や解脱とほぼ同義です。涅槃とは煩惱や自我の火が消えることであり、欲や貪りを除き去ることが、不滅の涅槃の境地であり、なにか特殊な体験を指し示しているのではありません。解脱も悪循環からの脱出、生老病死からの解放であって、これも状態です。

    一方、中国的「悟り」は、成仏という特殊な体験を指します。禅では、これを継承し、かつての仏の悟りを、悟る体験として解釈しました。しかし、禅ではこれらとは異なった意味で悟りという概念を使っているようです。その一つが、言葉を媒介にした悟り、自覚の悟り、A悟です。その二つは、修行や知的会話に触発されて起こる心理的体験です。このような体験としての悟り(B悟)といいます。

    それでは、道元の場合、悟りとはどのような内容なのでしょうか。

    道元は「座禅」をすれば「身心脱落」するという方法論を示しました。ところが、これがあたかも特殊体験(B悟)であると誤解されてしまったのです。道元は、「何時」身心脱落したかなどを重要視してはいなかったのです。それよりも「如何に」身心脱落するかを問題にしたのです。その「如何に」して身心脱落するのかという命題を解決する方法を「座禅」であるとしたのです。『座禅』は方法なのであり、結果としての悟りの内容が『身心脱落』なのです。

    だから、当然『身心脱落』という悟りの内容が重要になってきます。ただ、座禅しても身心脱落はしないのです。自覚しなければならないのです。自覚するには、悟りが何であるかを理解していなければならなりません。たえず『悟りとは何か』を探究する心構えがなければ、たちまち、元の木阿弥になってしまうのです。
    自己中心的な物欲の亡者に戻ってしまうのです。だから、一過性の悟りではなく、自省的に古い自我を解体した身心脱落でなければならず、そのための座禅なのです。これは状態としてのインドの悟りと同じであり、これをC悟といいます。

    道元は、C悟のありようを《現成公案》という悟りの内容を思想詩(思想でもあり、詩でもあるような文章)として表現しました。繰返しますが、悟りの状態である身心脱落は座禅による結果ですが、決して、悟りを得らんがための苦行の体験ではないことを注意する必要があります。

    座禅している姿が、人間を透脱して円月相(丸い形)となって体現しているのです。円相とは、姿が消えたのではなく、座禅の姿そのものです。円月相とは、月のように丸い形を悟りのイメージであるとしたのです。これが道元の「悟り」のイメージであり、具体的には現成公案を紐解くしかないのです。ここに書かれていることは、A悟でも、B悟でもない。C悟なのです。 道元の「悟り」とは、何かに成ることでも何かを得ることでもないのです。それはたえず実践し、検証し、続けなければならない一つの状態なのです。それはただ行い、証明するだけでなく、発心・修行・菩提・涅槃の同時の円循環として示されなければならないのです。

    いつ悟りがくるのか、などという問は、ナンセンスなのです。大事なことは、悟っているかどうかではなく、悟りを「自覚」しているかどうか、そして、「体現」すなわち実感しているかどうかなのです。座禅すれば、直ちに、心身脱落は体現(C悟)しています。しかし、それは一過性の悟りであり、悟りを得るためのウォーミングアップです。ウォーミングアップを悟りと錯覚してはならなりません。それは持続性に欠けているのであり、体現したことはまだ自覚できていないのです。自分が意識の内部で、根本的な自覚(A悟)ができていないです。仏に成るというより、悟りを自分の身体で実感したことを言葉で表現できて、始めて悟りの自覚です。それにはA悟が前提なのです。しかし、身心脱落=苦行体験という錯誤は、だれもが陥る間違いですから注意が必要です。

    悟りの専門家でも、悟り=悟り体験(B悟)であると勘違いをしてしまうのです。一般人が間違えるのも当然でしょう。その理由は、次ぎのように考えられます。まず、悟りは簡単に得られない、特殊な意識状態であるという先入観があります。だから難行苦行しなければ悟りは得られないという思い込みとなるのです。

    何の努力も無しに悟りが得られるはずかないと勝手に思ってしまうのです。もちろん努力は必要ですが、努力の方向、内容が違うのです。道元は、決して、特殊な荒行体験修行などは求めていないのです。

    悟りは荒業体験が必要という間違った考えは、一般の社員教育やスポーツの分野での精神鍛練と称して為される鬼の特訓等とも酷似しています。実際に、無理な苦行をした場合、心身を疲労困憊に追い詰めるので、異常な意識状態を誘引することもあり、それを悟りと錯誤してしまうことがあるのです。異常な状態に追い込まれると幻視幻聴などが体験される等、人間の意識はもろく、何かの拍子で異常現象を起こすのです。意改革や自覚への旅なとど称しての体験的修行が強いられるような方法論には警戒が必要です。悟りを得たいという欲望そのものが問題なのです。そのような欲が、難行苦行すれば「悟り」が得られるだろうとい甘言に乗ってしまうのです。それで異常な体験(B悟)に嵌まってしまうのです。

    臨死を含め一般的に神秘的体験は、強烈な印象を残し、人生観すら替え得るので、絶望に追い詰められた人は藁を掴む気持ちでそれらを求めてしまうのです。道元はそれを戒めているのです。ところが面倒なことがあります。道元自身の初期の著作の中には、悟りを開くことを促す表現が多くあり、これが悟りは体験であるとするグループに利用されてしまったのです。この問題は、道元の説き方の変遷という視点から抑えておかなければならないでしょう。

    客観的に認識できない「悟り」の言語化は、道元において様々に変化していくのです。最高の菩提としての「悟り」と、悟りの言語表現との関連は密接でありますので、後で述べます。座禅の悟り(C悟)とその自覚(A悟)というのは、道元にとっては補完関係にあります。当時、中国禅の主流であった本覚に目覚める(体験=B悟)とはまったく異なるのです。道元の主眼はいうまでもなくC悟ですが、それを自覚すること(A悟)は、非常に難しいのです。

    悟りとは何かということを言葉でいうことは難しいので、禅では不立文字といったのですが、それでは始まらないので、禅問答いう言葉により理解する方法論が開発されました。道元も、言葉によらない座禅を重要視したが、正法眼蔵という膨大なテキストを残したのです。その難しさは半端ではありません。そこで道元は、「自覚」ではなく「信頼」を持ち出すのです。座禅こそが悟りへの正しい一つの道であると宣言しても、なぜ正しいのか、ということについては、釈迦をはじめすべての如来と祖師が座禅によって会得しているからだということしか言っていないのです。 

    道元は「悟りを開く」という表現を、頻繁に使っているのですが、それは悟りを開くための条件ではなく、座禅への無条件の信頼、つまり、悟りを得るためには、座禅すれば、必ず達成できるということを保証したのです。この薬(座禅)を飲めば、必ず治る(悟る)というようなことを危ないこと言ったのです。たしかに先達が座禅によって悟りを開いたというのは、事実でしょう。だが、道元は座禅をすることに、それ以上の意味を持たせたのです。燒香、礼拝、念仏、修懺、看経などをしなくても、座禅して身心脱落することが、仏のすべてであるとしたのです。これは、すごいことでした。当時の専門家に対して、強烈な衝撃を与える言明だったのです。

    しかし、残念ながら、道元自身にその悟りを言語化する「能力」が熟していなかったのです。もちろん聴衆の未熟さもありました。ですから、次善の策として、信頼を全面に押し出したのです。座禅を信頼すれば、その効果として悟りが得られるだろうとしたのです。座禅は、まさに仏法の全てと信じるべきであって、経典や公案などのテキストには依存する必要がないとしたのです。このように道元は、ただ「座禅だけが必要である」と信じて座禅すること、それは、「体現(C悟)を自覚(A悟)前に得る」ことであって、自発的な疑問を抱くことや、悟りの知的探究は無用だとしたのです。

    しかし、人々が禅に期待したのは、「信」ではなかったのです。むしろ、欺瞞的な悟りではなく、自己自身による自覚的悟りを欲したのです。その期待に答えようとしたのが正法眼蔵です。ここには、もはや信頼をせよという言明は述べられていません。道元も又、信頼では仏法は伝わらないということを悟ったのです。
    続く。

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