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シムダンス「四次元能」

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  • from: 生成門さん

    2008年07月19日 10時20分29秒

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    起死回生の思考(1)吾輩は猫である

    起死回生の思考(1)吾輩は猫である
    <シムダンス=補完共振>

    温暖化がこれだけ深刻になってくると、人間の愚かさばかりが目に付くようになります。その根底には人間の性ともいうべき精神構造=欲望にあります。そして、欲望を過剰に生産する文明という装置が私達を拘束しています。温暖化のランナウェー(暴走)の歯止めかける起死回生の方法はないのでしょうか。「起死回生の思考はないのでしょうか」については下記を参照して下さい。
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100069732166

    ただ温暖化については嘘だという主張もあります。「環境問題の嘘の嘘」を参照下さい。http://www.yasuienv.net/TellALie.htm

    四次元能では温暖化の危機は人間の性=左脳優位=主語論理=パラノ=自我拡大=自然支配=文明化=グローバル化=過剰欲望=温暖化=ランナウェーという図式によるものと考えていきます。そこで、『起死回生の思考はないのでしょうか』では次ぎのように述べました。

    この閉塞状況から逃れるためにはポストモダン(浅田彰氏は資本主義をクラインの壷と喩えた)が「外へ逃げろ」といったのですが、資本主義がブラックホールであるとするならば、中にはいったら二度と外にはでられないアリ地獄です。クラインの壷に外はないのです。私達に逃げる空間・場所はないのです。それでは、諦めるしかないのでしょうか。四次元能は諦めません。更に、資本主義は本当に分裂症を作り出したのでしょうか、と問うて見ましょう。モンゴロイドはアフリカの奥地から世界各地に何万年もかけてゆっくりと移動して散らばっていきました。彼らは資本主義が生まれてくる前から存在していたのです。分ったことは、スキゾという気質は遺伝的であるということです。それならば前からスキゾはいたことになります。資本主義によって分裂症になったわけではないのです。もともとからスキゾだったのです。ところが資本主義という怪物が現れて世界を侵食したのです。スキゾも巻き込まれてしまったのです。この資本主義というのは西洋のパラノの叡智です。西洋人といったって、もともとは、アフリカの奥地から出たモンゴロイドと同じ原生人という先祖をもつ人類です。それが今、地球規模で再会しただけのことです。出発した時はパラノスキゾだったと思うのですが、パラノとスキゾに別れで再会したということです。ですから、スキゾは生み出されたのではなく、本来の気質が露出しただけなのです。
    ---
    ブラックホールに呑み込まれた以上、この閉息した状況から逃れる術はないのでしょうか。逃げることはできないのでしょうか。しかし、それでは解決しません。諦めてしまえば人類は絶滅します。それを座して待つしかないのです。何かうまい起死回生の方法、思考はないのでしょうか。お金がすべての資本主義というブラックホール、クラインの壷の閉じた世界、この閉息した状況から逃れる術はないのでしょうか。私達は生まれながらにしてクラインの壷の世界にいるのなら、逃げることはできないのでしょう。しかし、それでは解決しないのです。諦めてしまえば人類は絶滅します。それを座して待つしかないのです。何かうまい起死回生の方法、思考はないのでしょうか。四次元能では、きっとあるはずだと信じて、宇宙精神のトレジャーハンティング、シムダンスを始めたのです。

    量子論が見つけた答は、宇宙は対称性であり、対生成、対消滅を繰返しているということです。私達の世界も色即是空から空即是色というリサイクルしています。パラノとスキゾは対称です。左脳と右脳も対称です。ティトムとの共振でも宇宙はサイクルしているといいます。こういうことから推測すると、パラノとスキゾは、いずれ融合=消滅するのではないでしょうか。もともと人類の故郷であるアフリカでは、生まれたままのパラノスキゾの融合、つまり、対消滅した状態でした。それがパラノとスキゾに対生成して別れたのです。しかし、資本主義のお陰で再会しました。ここにパラノスキゾの融合のチャンスがあります。今は未だ、融合ではなく、衝突状態でしょう。衝突した後は、融合するしかないでしょう。宇宙の天体は衝突から融合するからです。パラノとスキゾの融合とは、西洋(左脳)と東洋(右脳)の融合のことです。しかし、左脳優位ではありません。右脳優位です。

    さて、そうなると、どのようなことになるのでしょうか。「主役の交代」「シムパラダイム」で示したように、これからは日本人の隠れスキゾが鍵を握っているのでしょうか。
    「主役の交代」については下記を参照して下さい。
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100068833227

    シムパラダイムの世界観については下記を参照して下さい。
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100068822496

    その隠れスキゾの代表は、東洋の叡智を受け継いだ、しかも、仏教の、その中の、道元が最有力候補でしょう。何故道元なのでしょうか。道元は、色即是空という仏教の本質を言語によって示したのです。しかも、主語論理ではなく、述語論理の言語で、悟りを表現したのです。シムダンスでは、悟りとは自我の解体した状態と考えていますが、それは同時に宇宙精神=四次元脳であると解釈します。道元は、悟りという状態を言語で表現したのですが、どのように思考すれば、その状態になるのかは、明確には言語で表現していないのです。ただ、座禅あるのみというだけなのです。それではシムダンスとしては困ってしまうのです。何とかしなければなりません。

    この解決策として期待できるのはトランスポストモダンです。これは不連続的共振的差異のモデル(即非の論理)で、資本主義の限界を解決しようと提案しています。そしてポストモダンを乗り越えようとしているのです。詳しくは下記プラトニックシナジー理論を参照して下さい。
    http://sophio.blog19.fc2.com/

    ただ、具体的にどうしたらいいのかは、不明です。哲学ですから実践論はできないのでしょう。自我がどうして良くないのかを克明に解説してくれています。しかし、なぜ、その思考がでてしまうのでしょうか。気質との関係はどうなっているのでしょうか。それらについては明らかにしていないのです。どのように自我の解体をすればいいのかということが不明なのです。パラノの多い世界、パラノの支配する世界、パラノのとの対決、それをどうやるのでしょうか。ただ、分ったとしても方法が示されなければ、とても不可能に思えてしまうのです。しかも、誰も自分がパラノだと自覚していないと思います。スキゾも自分がスキゾだとは自覚していないでしょう。それは性格だろうというだけです。これでは政治が悪い、誰が悪いというメディアと同じように現実を批判するだけに終ってしまいます。それではどうにもならないのです。シムダンスは、犬の遠吠えはしたくはないのです。

    人間をパラノとスキゾとに二分したのですが、実際は誰でもパラノスキゾです。多重人格です。パラノとスキゾの混合程度が違うのです。誰にでも右の脳はあるし、左の脳もあります。ですからパラノスキゾなのです。ただ、どちらかに偏っているのです。その偏りが遺伝子によるものなのか、教育や環境なのかは分からりません。シムダンスでは遺伝的であると思っています。熱さに強い魚と寒さに強い魚がいます。ちょっとした気候の変動で生態領域が変化します。この勢力関係は環境と相関です。つまり、魚の特性は遺伝的です。どちらが環境に適応するかで生き延びられるかが決まるのです。

    原生人はパラノスキゾからアフリカを出立して、パラノとスキゾになり、やがて、混血によってパラノスキゾが混在している民族もいます。どちらにしても、民族としてはスキゾとパラノの混合体なのです。どちらかの割合の多い方をそれぞれスキゾ民族、パラノ民族と呼んでいるだけなのです。ところが現代になって突如として、全人類がパラノとスキゾのまま出会ってしまったのです。どちらも適応して生き延びてきたのですが、欲望のままに、これからも生き延びるのが難しくなってきたことを本能的に感じたのでしょうか。これからも生き伸びるためには本来の自分に戻るしかないという力が働いて、再会したのかも知れないのです。

    混血は進化論的には生き延びる可能性を高めるのですが、こうも突然に出会ってしまうとは、進化論もびっくりです。
    しかし、今は進化的にどうなるのかではなく、遺伝的宿命を超えてなんとか生き延びなければならない時なのです。それにはパラノ(スキゾ)から、スキゾ(パラノ)への変身、スキゾパワーの積極的利用が必要なのです。右脳の活性化、開発というような類の問題のではないのです。やるべきことは現代的禅問答、即ち、述語論理の習得です。金谷武洋氏の日本語に主語はいらないという著書があります。賛否両論です。賛成する人は、スキゾ、反対はパラノであると思うのです。どうしてそういうことがいえるのでしょうか。

    レストランで食事を注文する時に「俺はカレーだ」といったとします。それは横柄な言い方です。日本では通じます。インドでも、たぶん通用するでしょう。しかし、西洋に旅行した時は保証出来ません。スキゾはスキゾを理解するのですが、スキゾが極端に少ないフランスではどうでしょうか。英語では「私はカレーを注文する」という言い方しかありません。「私はカレーである」といったら病院行きです。「俺はカレーだ」は、常識的な論理ではありません。しかし、これが場所の論理です。場の雰囲気を理解しなければ理解はできないのです。それが出来るのはスキゾの世界か、スキゾパラノの混合世界です。

    夏目漱石の「我が輩は猫である」という著書があります。この作品に対する評価は好き好きです、といってしまうと話しになりません。何故こんなタイトルつけたのでしょうか。シムダンスはこう解釈します。夏目漱石を評価するのはスキゾであり、パラノは評価しないと思います。しかし、評価された後は、スキゾは「ふーん」といい、パラノは評価するでしょう。夏目漱石が「我が輩は猫である」というタイトルにしたのは、彼自身がスキゾだからです。これほど思考と気質の関係を露出した小説は他にないでしょう。他に沢山のスキゾ作品はあるのでしょうが生成門が知らないだけなのでしょう。

    夏目漱石がスキゾであるという解釈に対してはパラノからは反論があるだろうと思います。「猫の目線で物事を捉えたのだ」と。その解釈は常識通りです。模範的答です。ビジネスでも顧客の立場に立つというのは当たり前のことです。マーケティングの基本です。最近はそれが忘れられて、食べ残しの使いまわし、産地偽装、毒入餃子などの事件が相次いでいます。相手の立場に立つという視点は、日常の会話的にビジネス的に論ずるのならば、それでもいいでしょう。今は、悟りがかかっているのです。それで分かりましたで済ますわけにはいかないのです。夏目漱石がスキゾであると仮説すると、全然違った、しかも、面白いことになるのです。

    「我が輩は猫である」というのは、どこかの誰かが「我は天皇である」というのと同じです。これと似たようなことをいうのが分裂症親和性の人です。ある人種では「私は鹿である」と日常の会話で頻繁にいいます。人類学ではこういう思考を「野生の思考」と呼んでいます。このように述語の同一視、共通性を中心に思考するのを述語論理といいます。我が輩は天皇であると日本でいえば、一笑されるか気狂いにされてしまうのですが、これも述語思考なのです。夏目漱石はこれと同じ思考で、我輩は猫であると表現したのです。

    夏目漱石は気狂いではありません。れっきとした文芸人です。大事なことは「私は鹿である」と「俺はカレーだ」は、共に述語論理であるということです。何故「私は鹿である」となるのでしょうか。何故「俺はカレーだ」となるのでしょうか。分裂症親和タイプのスキゾと野生の思考(未開人)は、こう思考するのです。

    「私は早く走る」「鹿は早く走る」だから「私は鹿である」と。

    これは三段論法とは違います。「早く走る」いう述語が共通です。ここから「私は鹿である」となるのです。これが述語思考、述語論理なのです。三段論法、主語論理では「私は早く走れる」「鹿は早く走る」で、それから先には論理が展開しないのです。してはならないのです。

    「私は日本人である」「日本人はアジア人である」よって「日本人はアジア人である。」

    このように主語が述語に含まれる関係にならないと、三段論法、主語論理では推論が進まないのです。しかし、パラノはこう反論するでしょう。「私は鹿のように早く走れる」が「私は鹿のようである」となり「私は鹿である」と隠喩的に省略された喩えに過ぎないというでしょう。そのとおりです。隠喩的表現とは述語的思考なのです。しかし、それでも、パラノ自身は「私は鹿である」とはいわないでしょう。パラノは、換喩的な表現(自我同一性を保つ)は良く使いますが、隠喩的表現は余り得意ではないでしょう。英語の世界を知っているなら、それは明白です。彼らは「I am a pen」とは絶対にいわないのです。スキゾの本人は、本当に心から「私は鹿である」といっているのかも知れないのです。単に省略しているとは思えないのです。

    「私と鹿は同じなのだ」=隠喩・暗喩
    「私と鹿はようなのだ」=直喩・明喩

    これらを述語論理として隠喩を代表させていきます。一方、主語論理とは、
    「赤いシャツ」というようなあだ名=TV宣伝でのクローズアップの手法=換喩=近接性のもので喩える=主語の同一性を失わないようにする思考・論理ということになります。

    このように隠喩に代表される述語論理が場所の論理、共生の論理という哲学に発展するのです。理屈の共生ではなく、共振的共生なのです。そういう視点で見ると、夏目漱石は、ただの思いつきで「我が輩は猫である」というタイトルをつけたのではないということが理解できたでしょうか。文豪として評価されたのですから、気狂いではないことは確かです。夏目漱石はスキゾなのです。具体的にその証拠を示してみましょう。

    小説の内容は詳しく読んでいないのですが、大略次のようであると思います。

    ・迷い込んできた猫に同情しました。
    ・猫が鼠も取れずに苦労しています。
    ・台所は、猫にとって餌の取れない場所です。
    ・豪邸の台所は、更に、猫にとって餌の取れない場所です。
    ・猫の失敗を笑っています。
    ・猫と自分は似たもの同士であると思っています。同病相哀れむです。
    ・自分を笑っています。
    ・豪邸の有り様の文明開化を批判しています。
    ・自分にはへりくだって富みを得るようなことはできないという被害妄想があります。
    ・自分は猫のようなものという感情が根底にあります。
    ・一方で、猫のように気侭に生きたいという願望もあります。

    この小説の最後は、猫が残りビールを飲んで酔っぱらい、水かめに落ちて溺れ死ぬとなっています。これぞ、分かりやすいスギゾ人間の顛末です。夏目漱石は、当時の西洋風が巾をきかせて世の中が荒れている事態を批判的に思っていました。「この風潮はどうも良くないぞ」という心境にあったのだろうと思います。うまく立ち回れば、いい思いもできるかも知れない。しかし、自分には迎合はできない。そんなやっかみもあったのではないかと思います。そこに猫がやってきたのです。猫も人間から被害を受けた生き物であると感じたのでしょう。同情したのかも知れません。こんなことから、猫を通じて被害妄想的に日常を風刺してみようという気になったのかもしれません。

    過去の人の内面だから、推測するしかないのですが、他の著書にもいじめがテーマになっているものがあります。こんなことから推測すると、夏目漱石は被害妄想者だったのではないでしょうか。スキゾがパラノの世界に入るとそうなるのです。夏目漱石は巻き込まれたのです。夏目漱石がモンゴルに生まれたならば、被害者意識ではなく、魚が水を得たような天真爛漫な気質を出していたでしょう。スギゾがパラノ世界に生まれると、

    我輩は被害者である。
    猫は被害者である。
    だから、「我輩は猫である」となるのです。これが述語思考・論理です。

    考え過ぎでしょうか。知に働けば角が立ち、情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくこの世は住みにくい。
    草枕の冒頭の言葉です。ここに、夏目漱石の分裂症親和的気質が現れているのです。
    続く。


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