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シムダンス「四次元能」

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  • from: 生成門さん

    2008年07月19日 13時41分40秒

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    道元の悟り(2)落語は悟りのカテゴリー

    引用先:http://www.d-b.ne.jp/exist/

    道元の悟り(2)落語は悟りのカテゴリー
    <補完共振>

    以下、山水庵のHPを参照、編集的に引用しました。
    http://www.eonet.ne.jp/~sansuian/index.html

    道元の悟り(1)の続きですので、こちらを参照して下さい。
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100070723845

    すでに述べましたように「悟り」はどこまでも主観であり、客観的に示すことは出来ません。その事態を敢えて言語化すれば「仏が仏を招く」であり「仏は知っており、見ている」というような拙劣な表現にしかならないのです。それではなにも伝わらないでしょう。それを伝えうるような言語表現はいかに可能なのでしょうか。座禅では瞑想をします。ただ、文字通り座っている訳ではないでしょう。脳は活発に回転するのです。眠っている暇等ないのです。脳だけではありません。身体も使うのです。全身全霊、振る回転、即ち、全機現(一体一如)なのです。私達の脳は、日常的な会話においても、社会的な活動、ビジネスの場面、科学的研究でも、活発に働いています。しかし、それは、大部分が左脳による分別論理、即ち、主語論理(である)が主です。実はこの主語論理が曲者なのです。自我の巣屈なのです。悟りは自我の解体を目指しているのですから、瞑想によって、自我の解体をするために思考するのです。その思考とは即非的思考(である、ではない)です。即非的思考によって思考するのです。これが禅問答の訳の分からない論理の展開の様式なのです。詳しくは、別稿の起死回生の思考を参照して下さい。

    起死回生の思考(1)吾輩は猫である。
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100070757046

    起死回生の思考(2)カミングアウトして救われる。
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100070758122

    起死回生の思考(3)=救世の哲学=プロセス球
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100070758550

    この訳の分からない論理の展開の様式こそが、西田幾太郎が生涯をかけて辿り着いた絶対矛盾的自己同一=絶対無の場所の哲学=救世の哲学=プロセス球=分裂親和性思考=スキゾ=色即是空・空即是色=四次元思考=即非の論理なのです。

    禅では、この即非の思考様式を瞑想することで得ようとするのですが、瞑想そのものが問題になります。つまり、主語論理、形式論理で思考=瞑想したのでは元の木阿弥なのです。よく、禅では「思考するな。非思考せよ」といいます。考えよ。しかし、考えるなといっているのです。これではさっぱり分らないでしょう。
    ですから、思考には二つのタイプ(パラノとスキゾ)があり、それが、気質と関係していることを理解しておかなければなりません。この当時は文化人類学。宇宙論もなかった時代ですから、『野生の志向』などというものさえ、存在すら知らなかったのです。まして、四次元などとい世界があるとは想像もしなかったでしょう。

    先ずは、パラノ=主語論理的思考を断ち切らなければならないのです。それには、右脳による述語論理の展開を行なわなければならないのです。道元の正法眼蔵、現成公案が、分かりにくいとされるのはここに原因があります。すべてではないが肝心のところは述語論理で書かれているのです。これをそうとは知らずに、専門家が主語論理で解釈するものだから、なお分からなくなってしまうのです。
    道元の言語様式が述語論理であると言い出したのは西田幾太郎です。西田幾太郎は禅の即非の論理を哲学にしたのです。しかし、本人の気質は分裂的親和性であったといいます。述語論理は、分裂的親和性の人の得意とする論理なのです。

    西田幾太郎は、日常において、誰からも理解されず疎外感をもち、悩み抜いて思索を続けた人です。思索の痕跡を見ると確かに、分裂的親和性=右脳タイプだと思わわれる節があるのです。シムダンスでは、西田哲学が人類を救う最後の哲学になるかも知れないと予感しています。
    それは分裂的親和性=右脳=四次元思考であるからと思っているのです。

    精神病理学者の中井久夫氏の著書「分裂病と人類」の中にも分裂的親和性=右脳であることが著されています。中井久夫氏は次のように述べています。

    狩猟民は分裂病親和的であり、かすかな兆候を敏感に察知します。農耕民は几帳面に田んぼをこまめに手入れします。ですから、狩猟民の中では分裂病者は正常ですが、農耕社会では分裂病親和者は疎外されるのです。と述べています。

    確かに、スキゾ人は自分の近い空間のことは無関心で遠い空間のことに敏感です。遊牧民が地平線に敏感なのは視野の地平に現れた敵を素早く感知することが生きる智恵だったに違いないと思います。農耕民族は自分に近いところの空間、つまり畠、田圃で何が起きているのかが最大の関心です。こういうことからも農耕民族と遊牧狩猟民族では脳の働きが違うのです。

    道元のA悟を理解するには、人の気質と思考の関係を捉えておかなければならないのです。どの宗教においてもこのところが曖昧です。すべての人が同じ思考をすると考えており、分裂的思考は異常であると決めつけているのです。文化人類学という視点で思考と気質の関係が明らかにされなければならない時がきているのですが、残念ながらこの方面の知見はまだまだのようです。

    「東洋と西洋の知の比較」を参照して下さい。
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100068727834

    「右脳と左脳の機能的意味」を参照して下さい。
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100068721706

    東洋と西洋の知の比較が教えてくれるのは、西田幾太郎も道元も釈迦も分裂的親和性の人であったと推測されます。インド人は分裂的親和性の人が多いと推測されます。更に言えば、モンゴロイド系の人は分裂的親和性の人が多いと推測できるのです。分裂的親和性の人は述語論理を駆使します。述語論理を駆使した道元は当然「悟り」を即非的に思考せよというわけです。

    即非的に思考するにはどうすればよいのでしょうか。

    客観的ではない「悟り」を言語表現するにはどうすればよいのでしょうか。

    座禅での瞑想は、空(有り無し)であり、それは普通の形式論理、主語論理(有り有り)とは違う述語論理的=即非的思考ですから、禅問答のようになるしかありません。それでは進歩がありません。こういうところこそがシムダンスの得意とするところです。即非的思考は、スキゾ思考であると仮説を立てました。更にスキゾ思考は述語論理=右脳優位=四次元思考であるとしました。

    四次元思考とは何でしょうか。これをここで説明するのは、まだ早いのです。ティトムの進行がそこまでいっていないからです。シムダンスはオカルトやSFではないので、四次元のイメージを余りなんでもありの世界にしたくはないと思っているのです。ですからティトムが四次元のイメージを明示してからにします。それまでは、主語的思考=三次元の思考を解体する準備をしておきましょう。

    座禅の瞑想では、まったく主語的思考や自我意識がないわけではないのですが、それはやがて無となっていくべきものなのです。けっして何かを分析的に考え、意識してはならないのです。このように主語論理とは異なる、別の思考のスタイルがあるということです。道元はそれを述語的思考とは言わなかったのです。その当時は文化人類学や言語学が発達していなかったから、仕方がないのですが、それは間違いなく述語的な論理です。

    例えば座禅で瞑想をしているということは、自我がない、無の状態です。無だからといって何もないわけではありません。自我と本来の自分が溶け合って対消滅(空)したのです。これが西田幾太郎の場所の論であり、量子論でいう場の概念です。
    音楽を聴いていることを想像しましょう。「自分が」何かの「曲」を聞いているとします。しばらくするとその曲に没頭するでしょう。「自分が」何かの「曲」を聞いているという自分の意識はなくなっているでしょう。だからといって「自分が」何も聞いていないという意識がない状態ではないでしょう。「自分が」聴覚を媒介して、外界にただ開かれているという状態でしょう。この時の自分が時分であり、有事=有時=空です。自我が消えている無意識の状態です。実際に、「自分が」聴覚を媒介してというテキストの「自分が」なくても意味は通じます。意味が通じるということは、単なる文法上のことではないのです。実際に、その場所にいれば、理解可能なことです。回りは当然、本人の意識からも自我は消えているのです。この自分の意識がない状態=自我がないが聞いている意識はあるという状態が心身脱落なのです。

    もし、座禅中に何を聞きましたか、といわれて答えられたら、それは「聞いていた」のであって、座禅していたのではないでしょう。逆に座禅中なにも「聞こえなかったら」、居眠りかなにかをしていたのであり、座禅していたわけではないでしょう。聞いてはいけないのであり、聞こえなくてもいけないのです。このような悟りの状態を作り出すにはどうすればよいのでしょうか。

    ここが、悟りが得られるか得られないかの分水嶺なのです。救急車のサイレンの音が聞こえてきたとしよう。どこの誰が、何事だろうと思うでしょう。すぐに昨日のニュースのことを思い出すでしょう。「タライ回しにされるのかな」なとど気を回すでしょう。これは自我が前面にでている証拠です。心身脱落していないのです。かといって、サイレンの音を気にしないといっても、聞こえてくるでしょう。聞こえない振りをしても意味ないのです。「救急車が人を運んでいる」ここで思考がきれれば良いのです。しかし、「救急車はたらい回しされる」だから「人はタライ回しされる」ここまでは仕方がありません。誰でも思考するでしょうから。

    問題は次にあります。「魚もタライ回しにされる」だから「人は魚である」となればしめたものなのです。これが分裂症親和性の思考です。これにより思考は発散していくでしょう。この思考が病的な思考でないことを示しておかなければならないでしょう。

    連歌・連詩というのは主語的思考を積極的に行う換喩を主体とする芸術です。重なりとずらしです。前の人が謳った歌・詩に続くのです。その場合に、前の歌・詩に関連がなければならないのです。主題、背景、季節、事件なんでもいいのですが、とにかく関連づけるのです。全く同じでも、全く離れていてもダメなのです。連歌・連詩には主語的思考から逸脱しようとする生成の遊びがあります。しかし、所詮、連歌・連詩とは連なりの辞です。主語的思考=自我同一性=連続性から逃れることは出来ないようです。

    そこにいくと、不連続性な芸術があります。落語に目を転じて見よう。落語には必ず落ちがあります。話はテーマに沿って進んでいくのですが、突然脇道に逸れます。連歌の逸脱とは比になりません。何事かと聞く方は注意を向けるようです。そして、最後にテーマと結びついて落着します。そして、その意外性に笑いがうまれるのです。これが落ちです。意外性=脇道=不連続性が述語的水平な逸脱なのです。この落ちも反復して聞きいてしまうと飽き飽きしてくるのですが。

    落語漫才のような脇道に逸れる思考は分裂症親和性思考=隠喩的思考です。常識的な会話の中でもよくあることです。しかし、ビジネスや緊迫した真面目な場では、これが許されないのです。そうした場面でも分裂症親和性の高い人は、ちょっと油断をすると、「人は魚である」類の関係のない話をしてしまうのです。本人は関係していると思っているのであるが場が白けてしまうのです。場が緊迫していますから、結びつく迄の時間を待ってくれないのです。このタイプの人はこのような気まずい思いをする経験を何度もして、やがて社交性が失われていくはめになるのです。

    このような脇道に逸れたがる傾向は、あきらかに分裂症親和性です。脇道に逸れる=寄り道をする=脇見運転は同じなのです。脇見運転は事故につながるのでやめなければなりませんが、よそ見をするのは子供の得意とするところです。ここには常識的な分別思考とは違った、しかし、れっきとした共通の論理があるのです。

    このような逸脱思考は、現実の緊迫した雰囲気をほぐす効果とか、バッファ的役割があるのです。もっといえば、社会の潤滑油であり、創造性のエネルギー源であり、さまざまなことの気付きが生まれる発想の媒体なのです。しかし、競争優位の戦略を掲げ、最少コスト最大利益追求を最大目標として、ムリムダムラをなくして、あくせく、いらいら、せかせかとした行動を強制するマネジメントスタイルの企業経営では不要の長物です。排除される思考なのです。

    さて、非日常的述語思考が意外なところで道元の「悟り」を得るための瞑想術と関係してきたということは驚くべきことです。そればかりか、このような思考と精神と言語、自我、社会、分裂症との関係をポストモダンが資本主義という物質文明の仕組みの特徴として明らかにしたことも驚くべきことです。人類にとって不幸中の幸いであるというしかないでしょう。

    四次元能はそこで満足していてはならないのです。道元を受け継ぎ、西田幾太郎を受け継いで、その先に向わなければならないのです。温暖化は待ってくれないのです。座禅もいいのですが、それでは人類は救われないことがはっきりしているのです。ただ人類は救われるためのヒントが道元のテキストに隠されています。それを読み取ることが必要なのです。人類が救われるといいましたが、正確な表現ではないでしょう。現代人は滅んでも仕方がないのです。自業自得なのですから。現代人の後をしっかりと受け継ぐ子孫がいればいいのです。その新しい人類とはシムピープル=玄生人です。玄とは玄関の玄であり、初めという意味です。

    日本は農耕文化であり、左脳優位の文化です。しかし、欧米ほどではないでしょう。混合文化です。やや、左脳優位といったところです。だから右脳の分裂症親和性もいるのです。隠れ行灯が必ずいるのです。組織が危機に直面するとこれまで昼行灯していた人が突然に前面に出てくるのです。明治維新の時がそうであったように、閉塞的状況を打開するのです。境界、障壁、国境の壁を乗り越えるのです。これはモンゴロイドの血を持った遊牧民の気質です。

    現代はインターネットの時代であり、明治維新の時のような閉鎖的な状況ではないので様相が大分違っているでしょう。共振的ダンス、行動、振舞い、仕組みが創出される可能性が高いのです。後は揺らぎが必要なだけです。小さな揺らが生まれればいいのです。それが共振して、大きくなればいいのです。

    揺らぎの発生源の1つとしてシムダンスがなればいいと思っているのです。そのためにも行動と思考と言語との関わりを詰めておかなければなりません。その最大の武器になるのが現成公案です。

    現成公案に含まれている謎解が必要なのです。謎解には、シムピープル(ナビゲーター)が必要です。シムピープルは玄生人です。道元、西田幾太郎は玄生人の先祖の先祖なのです。
    続く。

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